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マスコミかジャーナリズムか <本多勝一>

■マスコミかジャーナリズムか <本多勝一> 朝日文庫 20110326

 2月の福祉社会学の研究会で刑務所に勤める若者が「理論に飢えてるんです」と言った。タテマエとしての理論は、実はメディアの世界でこそ大事なのではないか、と、その時に思った。「あるべきメディア」の姿。ジャーナリズムのあるべき姿、他国のメディアの実践などを学ぶぶきではないのか。
 そう思って12年ぶりに再読した。
 本田靖春や筑紫哲也、安部公房との対談はおもしろい。本多勝一は生硬で言っていることはパターン化していて、逆にそれが魅力ともなっているが、本田靖春の言うことは意外性があって心臓の真ん中を射貫いてくる。「大きな壁に日本列島の地図を張って、目隠しをしてダーツみたいにパッと矢を投げて刺さったところに行って1年間住んで、その周辺をズーッと掘り下げれば、普遍性になるものが必ずあるだろうと思うんです」なんて言葉は、転勤が多い我が身に置き換えて考えてもうれしい。
 子どもの小学校にまで右翼が来て、引っ越して、子供の名前もかえた。パスポートも、養子に行ったことにして姓をかえた……。それほどタブーに挑戦してきたということだ。
 テレビとくっつくことによってタブーが増え、無難に無難になっていく。個々人の記者の動ける幅はどんどん狭まる。改めてその過程がよくわかる。

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▽上野英信「眉屋私記」
▽53 筑紫「藤原信也の東京漂流……『あなたのいる所だって書けるんです』」
▽126 編集権は経営権のごまかし用語にほかならない。
▽136 朝日新聞の東京でも、都内版だけじゃなくて、城北版とかに別れていた。それがなくなっていった。より大きな広告を求めたためになくなっていった。……地元のニュースがないから地方紙に移る。
▽181 編集委員制度は、局長室の直属機関として、局長と相談の上でやりたいテーマを何でもできた。そのうち、単なる人事の手段となる。管理職の空席待ちのようになる。そのうち、直属制度をやめて各部に配属させ、昔と同じになった。
 記事自体を出すのが難しくなり、行商する必要がおこってきた。局長に企画を出したら局長が載せる場を考えていた。それが「あいつの書く場を奪ってやろう」というふうになっていった。
▽195 「手先の仕事をする人、自分の考えを表現する人、画家や彫刻家、音楽家、政治家、文筆業の人達は生涯現役ですよ」……あくまで自分のペースで会社を利用する。

▽218 「あれを朝日でやったら大変な騒ぎになる」と局長に言われて「南京への道」は休暇を取って取材し、朝日ジャーナルに載せた。。
▽220 会社員である前に、まず新聞記者なんだと考えれば、……没にされたらほかで発表するとか、発表することが禁止されたら筆名でやるとか、友人にやってもらうとか……▽223 新聞社の名刺の有無はあまり関係がない。下からの取材だから。
▽235 市民運動を軽視する動きは89年の天皇報道あたりからできてきた。(原)

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