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喪の途上にて 大事故遺族の悲哀の研究<野田正彰>

■岩波書店20201229

 1985年の日航ジャンボ機墜落、82年の日航羽田沖墜落、88年の第一富士丸沈没、88年の上海列車事故。それぞれの遺族と筆者は向き合ってきた。
 病気で亡くなるのもつらいけど、前触れもなく突然大切な人が消え、さらに遺体さえも肉片と化してしまった時、事故→慰霊祭→補償というプロセスのなかで、遺族は深く傷つく。その悲しみや怒りはどう変化するのか、どう支えられるべきなのか、なにを頼りに生きればよいのか……を丹念に描き出す。
 
 日常の仕事で紛らわせるのでも、合同葬儀や補償に突き進むのではなく、まずは、しっかり悲しむ。そのためには見るにたえない破片になっていたとしても、遺体をさがすことが、家族の死を確認し、徐々に死別を受け入れ、現実感を取り戻すためにも必要であるという。
 事故後の遺族の度を過ぎた気丈夫や勤勉には、自分を傷めることによって死者の苦しみを共有するという自己破壊の衝動が隠されており、不必要に気前よく自分の持ち物を与えてしまうのも自分を罰しているのだという。たしかに私も葬儀の直後はやけに動きまわったし、遺品や生活道具を徹底的に処分した。あれは自己破壊の衝動だったんだと納得がいく。
 悲しみの段階を知ることは小さな救いになる。生き残ったことへの罪悪感はみんな持つものだ、と知るだけでもちょっと気持ちが軽くなる。十分な看護をした上で死別した場合は自責感は少なく精神的安定も比較的容易だという。それでも罪悪感を感じたのだから、事故遺族のつらさは想像を絶するものなのだろう。
 若い人の悲痛は鋭いが、正常な喪の過程をたどれば、再生の力も強いという。夫を亡くした若い女性の文章はみずみずしい。「人は喪においても創造者であり得る。人間が置かれた状況のなかでつくりだす精神の美」と筆者は綴る。
 たしかに喪の状態でなければ得られない感性や書けない文章や短歌がある。それは実感としてわかる。美を創造できることを自覚することもまた小さな救いだ。
「人は十分な悲しみを背負うことが許されている。悲しみとは愛の別のことばにほかならない。愛がないところに悲しみはない。愛のあとには悲しみが来るのであり、悲しみは愛の予兆であり余韻であるともいえる」。若松英輔と同じことを言っている。悲しみは不幸ではないのだ。
 亡き人の「遺志」なる実体を想定し、遺志を継承し、何らかのかたちで社会活動に変えることによって故人の生命を永続させようという遺族が多かった。遺志が実現したとき、はじめて遺族は故人と共に生きるのをやめ、故人を死者たらしめることができるという。

 遺族が悲哀から抜け出す最良の道は、愛する人の死そのものを社会的に意味づけること。なるほど。オレが本を書いたのもまさに「遺志」を実現するためだった。本のなかで妻の存在を社会的に意味づけることで、もしかしたら「死」を受け入れているのかもしれない。

▽2 日常的業務が悲しみを紛らわすと言われるが、それは現代の欺瞞だと思う。…悲哀は、日常の流れを断ち切って、すべての時間をしばし止めてこそ深く体験される。
▽7 「過去に何度も大惨事がありながら、日本にはそうした不幸の研究がなく、なんら教訓として生かされていない」…私たちの体験を、今後のために社会的に役立ててほしい。…かけがえのない人を失った心の変化の話を聞いたことはなかった。
▽30人を超える遺族から平均して1人3時間近くの話を聞いてきた。
▽8 「2人とも未亡人ね」などと母に慰められると、殴ってやりたくなる…。
▽「完全遺体が見つかった者には、部分遺体しかもどらなかった者の気持ちはわからない」…日航機事故の遺体は、もっともひどい鉄道の轢死体の想像さえ、はるかに越えたものだった。
▽25 右手だけの夫を抱きしめて……。日赤の看護婦たちは、段ボールや三角巾で最後に遺体をつくっていた。
▽26 事故後の遺族の度を過ぎた気丈夫や勤勉には、自己破壊の衝動が隠されている。自分を傷めることによって、死者の苦しみを共有しようとし…
▽47 家族であればこそ、他人には見るにたえない身体の破片に思えても、限りなく大切なのである。それは家族の死を確認し、後日、彼らが徐々に死別を受け入れ、現実感を取り戻すためにも必要である。
▽48 一般的には、十分な看護をした上で家族と死別した場合、遺族の自責感は少なく、精神的安定も比較的容易である。反対に突然の死別は、それだけ激しく、ーー私は何をしてあげただろうかーーと遺族を責めたてる。
▽55(遺体を見なかった人)私はなぜ夫と対面しなかったのだろうか。
▽59 彼女は2年後の冬に、20年間夫と暮らした家を壊している……
▽61 遺体確認だけではないが、直接、事故に遭遇した家族を物理的にも精神的にも取り戻し、遺族の心のなかでもう一度、死の過程を歩んでいくことこそが、遺族の悲哀の癒やしとなる。
▽65 遺族は遺体をとりもどすことによって、死者をゆっくりと死なせることができる。「死者を殺す」喪の作業のひとつ。
▽70 5月5日はかつては「薬日」とも言い、薬草を摘む日だった。その薬日をひっくりかえして「日薬」というおかしな言葉が上方にはある。病を癒やすのは、結局、時間であるとの知恵。(大阪の言葉?〓)
▽72 遺族は故人が死ぬ前にしなければよかったと思われることを詮索する。自分自身の不注意を責め、わずかな手抜かりを大変な問題に考える。
…じっと座っていることができず、何かすることを求める。しかし新しいことを着手することも、まとまった活動を持続することもできない。…どれほど日常生活が個人との関係によって意味をもっていたかに気づき、今はむなしく思える。とりわけ、社交的な習慣が消えてしまったように見える。この社交の消失が、活動に誘ってくれる人やいろいろと教えてくれる人への強い依存に導く。
▽75 不必要に気前がよく、自分の持ち物を与えてしまい、馬鹿げた取り引きをしてしまう。それは罪の意識なしに、自分を罰しているのである。
▽79 カプランの喪の作業の7段階
①対象喪失を予期する
②対象を失う
③無感覚、無感動になる
④怒りの時期であり、対象を再び探し求め、対象喪失を否認するなどの試みが交錯
⑤受容。対象喪失を最終的に受容し、断念する。
⑥対象を自分から放棄
⑦新たな対象を発見、回復する
▽87 事故の夜の「意外と冷静だった」は、事故を認め、事態を効率よく乗り切る冷静ではない。事態を非現実感によって隔絶し、「行動する自分」と「感じる自分」を無理矢理切り離そうとする自分自身に強制した冷酷にほかならない。
▽100 中高年層の悲しみは、もっとも深い絶望をうちに秘めている。故人を失ってあとに、人生のやり直しはあり得ないことを知っている。
…若い人の悲痛は鋭いが、それだけ痛みを洗う血も多く、正常な喪の過程をたどれば、再生の力も強い。
▽118 親友がすばらしい聞き手に。
▽120 若い妻の思い…人はいつでも自分の喪の体験を病的な悲哀に変えてしまう危険な橋を渡りながら、なおそれを美しい悲哀に完成させる作業をしている。…人は喪においても創造者であり得る。人間が置かれた状況のなかでつくりだす精神の美。
▽よそよそしくて色をなくした外界は、つい昨日までの楽しかった緑と赤と黄色の残像を、その輪郭の影にもっている。若い彼女の生命力は、現実感を失ってただそこにとどまろうとする事物に対し、楽しかった彼との時を思い起こすことによって温かい情を吹きつけている。もし彼女に、それだけの生命力がなかったら、事物は彼女から疎隔されたまま、冷たく外に停止したであろう。
 私たちは常に事物に対して自分に親しい感情を付与して生きている。私が生き生きと生きているときは、私と同じように外界もそれぞれ固有の生気をもっている。それは、私によって外界が生かされているからである。
▽127 喪の時には…周囲の事物が機能だけになり、それに耐えられなくなると、遺族は転居したり家を建て替えたりする。機能を破壊することによって、意味喪失とのバランスを取ろうとするのである。一方、故人の着けていた遺品は、機能がゼロに近づくだけ、意味付与が大きくなってくる。止まった時計、焼けたベルト…
▽133 死を認めつつ、死者と共に生きる方法を求める。夢
▽150 直後は幻想を見て、しばらくして故人に会う夢を見る場合が一般的である。直後の白日夢には、死の否定の心理が強く表れている。
 「主人の夢を見たのは四十九日をすぎてから。それから3年間、時々夢を見た。…そういう火は、半日ほど思い出に浸る。主人と心のなかで話し合える時間となった」
▽152 覚醒時の豊かな悲しみが夢を準備すること、日中の思考以上に夜の夢は喪の作業をしていること、夢の作業は死者を忘れるためではなく、死者と共に生者も生きて行かれるようにすることにある。
▽164 子どもにとっては、配偶者ほどには奪われた「愛する対象」は大きくない。成長の過程にある子どもにとって、父と一体化している部分はそれほど多くないのである。
▽177 配偶者の怒りは十分に表出される必要がある。怒りの内向はこわばりを呼び、親と子の関係に垣をつくる。それは配偶者の喪の仕事を遅らせると共に、子どもたちの将来に別離への異常な敏感をもたらす。
▽180 3年経ったMさん 「正直言うと誰か頼れる人がほしい…その気になれば、相手を探せると思う。でも、いつも主人の影を曳いているから、比較してしまう。踏み切れない。何か用心してしまう。どこか私は歪んでしまったのかと思う」
 50代の女性「支えになったのは、やはり男の人。主治医、叔父、JALの世話役のひとり……今付きあっている人がいる。奥さんのいる人も、いない人もいる。…晩に帰ってこない主人を待つ生活はもうできない」
 人は死別を通して、喪の作業を通して、自らの人生との別離を準備している。その意味でもまた、喪は私たち—すべての生き遺されたものの課題である。
▽184 男は、事故を実務的に処理しようとしがち。「喪への実務的態度」の影に、死別の痛みから逃避しようとする心理機制が働いている。…喪への実務的態度をとれば、悲哀は凍結して持続する。女性は男性よりも悲哀を表出し、時に精神錯乱しながら、悲哀のステージを越えていく場合が多い。
▽185 人はそれぞれに十分な悲しみを背負うことが許されている。悲しみとは愛の別のことばにほかならない。愛がないところに悲しみはない。愛のあとには悲しみが来るのであり、悲しみは愛の予兆であり余韻であるともいえる。(〓悲しみの大切さ)
▽204 取り返しがつかないという怒りのうちに躍動する悲哀のエネルギーが残されている者と、生のエネルギーが乏しくなり、本当に取り返しがつかないという事態の前でたたずみつづけている者とでは、喪の質も、時間も、到達点もちがうことを知っておきたい。
▽216 羽田沖事故の遺族会への圧力。会社や役場のトップにJALから圧力。「示談したらどうか」と。
▽222 人は死別に直面して、コレまでの社会観から分離し、危機に満ちた過渡期をさまよい、ようやく新しい社会観の統合を求める。それは決して元の位置には戻れない危険な旅であり、遭遇したときの心の位置と抜けだしたときの心の位置とは異なっている。
▽228 妻47歳と娘22歳を失った小豆島の医師 思うのはただ、これで自分の人生はすべて終わった、ということばかり。
…老後が豊かであればそれでよい、と思い込んできた生き方がこんなかたちで執着に達してしまった。先立ったものへの自責は、自分の生き方への見直しへと結びつく。結果よりも過程を楽しまなければいけない、と。…過程を大事にするということは、確かな人々との結びつきを大切にすることだと気づいて、形式的なつきあいからは引き下がる。
…生活の領域を縮小し、弱くやさしい普通の人たちとだけあいさつをかわす。病気の治療にあたっているのはU先生であるが、患者から彼は生きる意味をもらっている。…診療所の発展につながる診療ではなく、病者と医師が相互に交流できる範囲での患者を診ようとした。
 安定したつきあいだけに人間関係を縮小し、そこで精神的負荷の少ないよくなれた仕事をおこなっていくことは、精神的エネルギーを回復するもっともよい方法である。
▽238 直接JALと示談に入った人よりも、ボーイング訴訟に加わった遺族の方が精神的に安定しているようだ。「陳述人にもなり、毎回、東京に行って傍聴した。裁判をしたことは、精神的にもよかったと思う」
▽246 永年の儀礼の体系をもつカソリックは、とりわけ急性の悲哀を慰める手続きが上手であるようだ。
…亡き人の「遺志」なる実体を想定し、遺志を継承し、何らかのかたちで社会活動に変えることによって、故人の生命を永続させようという心理機制を、多くの遺族に見ることができる。
…遺志が実現したとき、はじめて遺族は故人と共に生きるのをやめ、故人を死者たらしめることができる。
…生駒重一さんは長女を失い、5カ月後には妻を喪った。郷里の鹿児島に帰り、本好きだった娘を偲び、私設の児童図書館を開いた。
…多くの遺族がさまざまな方法で遺志の社会化をおこなっている。
…遺族が悲哀から抜け出す最良の道は、愛する人の死そのものを社会的に意味づけること。
▽257 日本の事故調や警察はボイスレコーダーにしろ遺体のことにしろ、生データを一切公表しない。アメリカでは正反対。「社会が求めるならすべてオープンにするのは当然」
▽263 一人ひとりの遺族が、家族の死については、その知識においても、原因を追及する遺志においても、第一人者である。
 …川北さんのように、それぞれの遺族が家族の死を社会的発言に変えて行ってくれることを望む。それは喪を抜けだして、次の生に出会う道である。
▽268 遺族から登山班と呼ばれてきた日航の年配職員。彼らは毎月12日の命日や5月の連休前後を山で過ごしてきた。スゲノ沢の手前のカラマツの林のなかに、山小屋を建てた。
▽275 航空機事故でマンツーマンの世話役制がはじまったのは、1971年7月の東亜国内航空ばんだいの墜落事故以降。27日後に全日空機が雫石町上空で自衛隊機に追突される。
 世話役は3つの役割。事故直後の「支援」と、「慰霊」と、「補償」。慰霊と補償の間には飛躍があり、世話役になった人に精神的葛藤を強いる。相反する仕事。
▽278 …12月半ば、世話役が「そろそろ」と補償の話を切り出し、次の時には1900万円という額を提示してきた。「これ以上どうこう言っても上がりませんよ」と、それまでの態度とは別人のよう。
▽286「私たち世話役の経験を会社に提案しても、まとめる人がいない。世話役の選択基準は40歳後半の中間管理職。人生経験を生かして、個々に対応しろというのが会社の方針だった……」
▽1988年の第一富士丸の近藤船長。遺族を何度もまわる。どういうふうに遺族に接していいか、ぜんぜんわからない……
 ここには健全な罪の意識がある。
▽290 多くの世話役は、はじめ難儀な仕事だと思っていたのに、いつの間にか遺族の世話にのめり込んでいった人たちだ。
▽294(世話役が)女の人には習い事を勧めている。男の人には貸し農園を借りてあげたりした。過去のことだけにとらわれる時間を少しでも少なくしてあげたい。
▽295 加害者は「忘れてほしい」「補償の成立で区切りにしたい」、そのために話を急ぐ。加害者の戦略は、自分たちも被害者だと思い込むこと、そして事故の記念と忘却である。他方、遺族は「事故によって、私たちの人生は変わってしまった。だから加害者の生き方も変わってほしい」と訴えている。故人の死を意味づけるために、一緒に考え、一緒に変わってほしいと呼びかけている。
 世話役は、「私たちの会社は、事故のあと、こんな改善をしています。あなたのかけがえのない人の死を、こんな風に生かしています」、だから「あなたもしっかり生きてください」というメッセージをもって、遺族の家を訪ねることができるなら、苦しい仕事であっても、精神的に健康である。なのに実際は……
▽315 (日航機)羽田に戻るのではなくできるだけ早い時期に着水することを主目的に、主として海上を西南方向に通常の飛行コースに似たコースを飛行することが正しい判断ではなかったのか。
▽319 非常時、するべきことはおこない、どうしていいかわからない状態ではできるだけ現状を維持し、次の知恵が湧いてくるまで待つ……それは、しばしば危機に直面する仕事に携わる者の原則である。
…日航機乗員の判断力の低下と酸素マスクを着けなかったことは関連があるのではないか……当面緊急降下に移行せず、乗務員が酸素マスクを装着しなかったことにより、乗務員の判断力及び操作能力は低酸素症によってある程度低下していたと考えられる。
▽326 大事故があると、被災者の悲しみの強調と安易な原因追及と補償問題のあおり立ては、社会的関心の3本セットになってしまっている。…補償金は遺族の再出発にどれほど役立っているのだろうか。愛する人を金に変える作業は、すさまじい葛藤を遺族の心に呼び起こす。補償問題の専門家を自任する弁護士は、それをわかっていない。金を多く取ることが職務に誠実なことと思い込んでいるようだ。
▽329 私たちが現に生きている人びとの主観的世界に近づくためには、専門家でありつづけながら、専門家である自分を否定する視点をもたねばならない。補償交渉とは金を多く取ることにほかならないと決めつけ、遺族の社会的発言の通路をつくろうとしなかった弁護士も、刑事裁判にのみ遺族を動員していった弁護士も、遺族の心情を理解するための努力もせずに、既存の法理論を整理しただけの法学者も、人間と法の動いては止まないダイナミズムに迫る、精神の柔らかさを失っている。
▽334 遺族は泣き苦しむ前に自制してしまう。…合同葬儀も終わったあとに、言い知れぬ悲しみに投げだされる。死者がまだあたたかく、家族の者であるうちに思う存分悲しむことほど大切なことはない。
 周囲の人はその死別の受容の法則を知り、しばらくそっとしておきたい。
▽344 中国列車事故 事故原因の追及という喪の基本にかかわる問題すら、学校側も補償交渉にあたった弁護士も無視してきた。…遺族は死の金額より死の意味を求めている。(学芸高の冷たい対応=居丈高な通告書)
▽350 弁護士は一度も、委任状をとった遺族に個別に会って話を聞こうとしない。逆に自分の思い入れの日中友好を遺族に押しつける。
…依頼者である遺族たちは、委任者である弁護士から和解分の全文を見せてもらっていない。拒否されたまま。
▽362 マスコミ報道「今のお気持ちはいかがですか」…すべての遺族がマスコミへの怒りを口にしていた。
▽366 事故の翌日の朝日新聞朝刊に膨大な乗客名簿を載せ、一人ひとりの欄に、住所、年齢、職業、役職、旅行目的まで書き込んだ。「日航ジャンボ機墜落 朝日新聞の24時」という本。…「その取材を軽々とできる記者は多分いない。心のなかにおびえがある」問題は、軽々とできないがための「怯え」ではない。傷ついた人の心をさらに傷つけることからくる、自らの心の傷へのおびえである。…なにが取材に抵抗を感じさせるのか、徹底した自己分析をマスコミは必要としている。
▽374 「日航の世話役に分断されている遺族をつなぐとか、私たちの気持ちを日航に伝えるとか、しようと思えばマスコミもいっぱいできるのに」
…毎日新聞による「1ヶ月後の遺族全調査」「1年後の遺族全調査」をふくめ、追悼集の出版は、遺族をつなぐ仕事であった。
▽376 個人経営の葬儀店から、会社組織の葬儀社に発展していった葬儀産業は、1970年代には寺社の葬祭会館を建設するようになり…。私たちは葬儀の主体ではすでになく、葬儀の消費者になったのである。
…合同慰霊祭に対する怒りや不満。かなりの数の遺族が参列を拒否。「JALを憎んでるのに、出席しても意味がない」という女性の見解が報道され、その後の遺族会の集まりにつながっていった。
▽380 加害者が合同慰霊祭を急ぐ心理には、遺族も我々も、ともに災厄に遭ったのだから、事故に早くひと区切りをつけ、元の日常に戻っていこうという戦術が隠されている。ここでは加害者と被害者の関係があいまいなまま中和される。そのためにも信楽の合同慰霊祭ほど露骨でないとしても、社会の序列が強調される。
 犠牲者が無念の思いを整理し、本当にこの世から去っていくには時間が必要である。その間に、遺族は十分に喪を悲しみ、新たに故人亡き後の人生を生きる意味を探さねば
ならない。…葬儀は、遺族の悲しみを共にし、残された人の心を清めるものであってほしい。加害者側は、謝罪と事故防止のための改善努力をおこない、それによって犠牲者の死の意味を付与したあとに、許される。
▽381 宗教団体が次々に接近。
▽388 いつか、文学としての批評に耐えられる遺稿集が多く出る時代を望みたい。 

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