MENU

追悼 西川祐子先生の想い出

■ 250710
 追悼文集を読ませていただいた。
 西川さんには5,6回しか会っていないけど、彼女の著作は抜群におもしろかった。2024年6月に亡くなったとき、もう一度だけでも話すべきだったと後悔した。
 文集を読んで、文学から家庭、暮らし、米軍の占領政策にまでおよぶ西川さんの幅広い研究の原点と、亡くなる直前まで研究しつづけた膨大なエネルギーの根源がみえる気がした。
 京大で桑原武夫にフランス文学を学んだのに、女性学や人類学……としだいに研究対象がずれていった。
「偶然の出来事と数々の出会いがそうさせました。私たちはひとりひとり一度きりの人生の当事者ですが、すべてを自分から作るのではなく、偶然を材料にして必然をつくるのではないでしょうか」
 まじめにひとつの分野を研究するのも大事だけど、西川さんはたまたまの「出会い」を大切にして、偶然という「天命」に最大限向き合ってき。
 そしてなにより「表現」を大切にして、教え子たちに「表現しつづけなさい」と言いつづけた。
「介護の仕事や家族の介護で疲れ果てていた時……西川先生からの安否をたずねるメールに折り返し電話をすると、いつでも書くことを諦めないように、やさしく、厳しく、励まし、叱り……終わりには「約束よ」と……」
「書くことでしか自分の言葉は見つからない。書いて書いて書きまくりなさい」
 表現の意味を追うことで「生活綴り方」もとりあげてきた。
「(研究は)当事者が自分のことばで自分の問題を表現していいのだ、ことばを獲得しなさい」と鶴見和子は言った。西川さんは「女性である私」の立場から研究をはじめたのに、鶴見はまるで逆だと思った。
 実は、鶴見らが「(学問はかならずしも客観的ではなくても)当事者が自分のことばで自分の問題を表現してよい」と主張してきたから、西川さんら戦後の女子学生が、「自分をふくむ集団」の問題をとりあげ、女性史、女性学、ジェンダー研究の道をきりひらけたのだった。
 「偶然という天命」を最大限に受け止め、表現しつづけた西川さんの人生を見ると、オレもこのままじゃいかんなあと思わされる。「偶然」を生かせたから能登の本をつくれたけれど、鎌田東二さんやその周囲の人たちとの出会いはまだ表現に生かせていない。
 天命を実感し、自分のテーマを少しずつずらしながら、新たななにかを表現しつづけたいと思う。

======
▽祐子さんは次第に文教大に行くのが難しくなられましたが、その代わりにご自宅書庫で『月刊地域闘争』(京都ロシナンテ社)を読まれ、水俣の甘夏の記憶をたどるため……
▽「私はあなたのお母さんじゃない!おばあちゃんじゃない!」
「私は、自分が何にだまされて生きてきたのか、それを知りたいの。」
▽祐子さんの恩師である桑原武夫
▽祐子さんは京都の路地の奥の長屋を改修した住居に住んでおられて、退職を控えて書庫兼研究室をつくるために隣接した敷地を購入され、私にその設計を依頼されました。自らと夫である西川長夫氏の残りの時間を計算し、体力の衰えに対して、どのように最後まで、「接続」を保ち仕事を続けるか、それが叶う空間をつくってほしいという要望を出されました。
▽鶴見太郎 一九九六年、院生気分が抜けきらないまま、京都文教大学に助手として赴任
▽「フランス文学を志した私がしだいに専攻分野をずらし、それぞれの時期に自分のテーマをみつけた理由を説明しようとすればできるかもしれません。でも実際には、偶然の出来事と数々の出会いがそうさせました。私たちはひとりひとり一度きりの人生の当事者ですが、すべてを自分から作るのではなく、偶然を材料にして必然をつくるのではないでしょうか」
▽介護の仕事や家族の介護で疲れ果てていた時、西川先生から時おり届く便りは、いつも私を気遣うものでした。安否をたずねるメールに折り返し電話をすると、いつでも書くことを諦めないように、やさしく、厳しく、励まし、叱り、そばにいてもいなくても、いつもいろいろと質問をしながら、終わりには「約束よ」と。
書くことでしか自分の言葉は見つからない。書いて書いて書きまくりなさい」と仰いました。
わたしたちはひとりひとり一度きりの人生の当事者ですが、すべてを自分から作るのではなく、偶然を材料にして必然をつくるのではないでしょうか。
▽(一度大学をやめるはめになり)10年後にわたしはもう一度、大学教師になりました。理論が必要であることを身にしみて感じ、そのためには研究室と研究時間が必要だったからです。
「家庭」という言葉の意味をするものを調べ……その結論が、後にわたしの近代家族論に成長します。「家」家族から「家庭」家族が分離し、「家庭」家族から個人が出現するとき社会道徳の規範はどう変化してきたか、近代以後にはひ弱な個がお互いにどう集まり、どう助け合うのだろうという近代家族論……
▽鶴見和子さんが、当事者が自分のことばで自分の問題を表現していいのだ、ことばを獲得しなさい、と早くから言ってくださったからこそ、次世代のわたしたち戦後の女子学生は、「自分をふくむ集団」の問題をとりあげることが許され、女性史、女性学、ジェンダー研究の道をきりひらくことができたのだ、と気づきました。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次