■中公新書
「怨霊」の歴史を調べたくて検索していたら、ほぼ同年代で、同じ時期に同じ学部にいた筆者を見つけて入手した。
一般論からはいるから退屈な部分も多いが、怨霊がいかに世の中をうごかし、時代ととにどう変化するのかよくわかった。実は今も怨霊の力は十分に残っている、とも。
日本人は生と死の間に絶対的な断絶はなく、霊魂は生者の近くで子孫を見守っていると考えた。高野山や伊勢朝熊山上などに多くの墓がつくられ、山に霊魂が帰るという「山中他界観」「山上他界観」が一般的だった。海岸近くでは、霊魂は海のかなたにいくという「海上他界」という考え方も見られた。868年からはじまる補陀落渡海は、海のかなたを死者の霊の集まる世界とする常世信仰と仏教の観音信仰とが習合した結果だった。
怨霊の鎮撫は、死後の世界の体系があり、霊魂を得道させる方策を有する仏教が主導した。奈良時代はじめは雑密のもつ呪術力によって調伏していたが、善珠、最澄・空海を経て、さまよい苦しむ怨霊に説いて聞かせ成仏を願うという形式が確立した。
早良(さわら)親王は、桓武天皇の皇太弟になったが、藤原種継暗殺に関与したとして乙訓寺に幽閉された。淡路へ船で移送される途中、淀川で亡くなった。都へもどることを赦されず、淡路に葬られた。
菅原氏は土師氏を祖とし、781年に土師宿禰古人らが、居地の名である菅原郷(奈良市菅原町)にちなんで改姓を上表して許された。
897年、宇多天皇が退位して醍醐天皇が即位すると、宇多から全幅の信頼を受けていた菅原道真と新帝との関係は微妙になった。藤原時平が左大臣・左大将、道真が右大臣・右大将となると、道真を追い落とす動きが強まる。901年、道真は太宰権師に左遷された。藤原氏による他氏排斥の一環とみなされている。道真は2年後、59歳で亡くなった。
その後、道真と敵対した時平が39歳で、醍醐天皇の皇太子保明親王が21歳で早世する。清涼殿への落雷で死者がでて、衝撃をうけた醍醐天皇は病に伏せり46歳で亡くなる。
地震・疾病・飢饉、東大寺・崇福寺・法隆寺・延暦寺などの焼亡、藤原純友・平将門の乱、前九年の役……を起こしたのも天神によるものとされた。
945年には、民衆の熱狂的な宗教運動として有名な志多羅神入京事件がおこった。志多羅神と八面神といった諸神が東西の国々から入京するとの噂があった。承平・天慶の乱が鎮圧されてまだ4年であり、東西から神々が入京してくるとの噂は、平将門と藤原純友の怨霊の出現を想起させた。
神田明神の創建は将門の鎮魂がきっかけだった。神田明神は江戸っ子の氏神として信仰を集め、氏子は今でも将門調伏をになった成田山新勝寺には参詣してはいけないとされる。
平将門の首塚の場所には、明治になると大蔵省が置かれたが、御手洗池とよばれる蓮池と将門塚は残された。1923年の関東大震災で塚が破損し、発掘調査後、石室は壊され御手洗池も埋められて大蔵省の仮庁舎が建てられた。ところが大蔵官僚で病気となるものが続出し、大蔵大臣はじめ2年間で14人が相次いで死亡した。工事関係者にもけが人や死亡者が多く、とくにアキレス腱が切れる者が多かった。将門が足の病のために敗れたという故事に関係するのではないかと噂され、塚の上の庁舎はとりこわされ、1928年に将門鎮魂祭がおこなわれた。
東京大空襲で焦土と化し、戦後はGHQのモータープール建設用地として接収された。整地しようとしたところ、ブルドーザーが地表面に突出していた石にぶつかって横転し、日本人運転手と作業員がブルドーザーの下敷きになって1人が即死した。ほかにも労務者のけが人が絶えなかった。将門塚があった場所で、ブルがぶつかった石は、塚の石標だったことがわかった。町内会長が司令部に塚の由来を説明し、壊さないように陳情して塚は残された。
将門や純友の乱の際、朝廷から宇佐八幡宮に奉幣が行われ、八幡神は、乱を平定する軍神の役割が期待された。一方、アマテラスの系譜を引く「主流」にたいして、「傍流」「祟り神」としての側面もあり、主流を脅かす存在でもあった。道鏡を天皇にという宇佐八幡宮の神託もそのひとつだ。
崇徳天皇(1119~64)は鳥羽天皇と藤原公実の娘璋子との間に誕生した。(別書によると、祖父が璋子と密通して生まれた子)鳥羽上皇が退位を強要し、3歳の近衛天皇が即位。鳥羽院が政務を取り仕切った。
崇徳は次の天皇に自らの子である重仁をつけようとしたがかなわず、後白河が即位した。保元の乱で敗れ、崇徳院側の源為義、平忠正ら74人が処刑された。810年の薬子の変以来の死刑が復活した。久々に京都において戦いが展開されて多くの家も焼失したため、貴族たちは「武者の世」が到来したことを実感することになった。
崇徳院は讃岐へ配流となった。直島などを経て、坂出市の雄山・雌山の麓の湾入した「松山津」で亡くなったと考えられている。
実際の崇徳は極楽往生を願って亡くなったが、「保元物語」では、都の近くにおいてほしいと訴えたが拒まれたたため、舌先を食い切り、その血で経の奥に「日本国ノ大悪魔」となるとしるし、髪も整えず爪も切らず、生きながら天狗の姿になり祟りを引き起こしたとされている。
保元物語がまとめられた1230年代には後鳥羽院怨霊の問題があった。後鳥羽院は承久の乱に敗れて隠岐へ流されたが、本人が置文で「魔縁」となることを誓い、生前から生霊が噂された。後鳥羽院の鎮魂は、崇徳院怨霊の鎮魂が参考にされた。後鳥羽院の怨霊をもとに「保元物語」の崇徳院怨霊の話が創造されたと筆者は推測する。
後白河天皇周辺の人物が相次いで亡くなり、比叡山の大衆が神輿をふりかざして洛中へ乱入し、神人らが数多く射殺された。大極殿以下8省院が焼失する大火災がおき、死骸があちこちに転がる状況となった。この安元3年の火災は「方丈記」に記されている。
崇徳の霊を鎮めるため、「讃岐院」とよばれていたものを「崇徳院」にあらためた。非業の死を遂げた天皇に対して「徳」の字のつく諡号をおくるのは安徳・顕徳(後鳥羽)・順徳でもみられる。
崇徳院の力は江戸時代の直島にもおよぶ。
領主の高原氏が改易された際、つかえていた三宅氏も処罰されそうになった。三宅氏は崇徳院とともに京都からやってきて、院との間に生まれた重行を祖とする家柄であり、院によって直島の支配を認められたが、高原氏が「押領」したと主張することで、大庄屋となった。そのとき提出されたのが「崇徳院院宣」や直島における崇徳院の由緒を語る「故新伝」だった。
江戸末期には「尊皇」の流れで崇徳の神霊を京都へうつすことになり、現在の白峯神宮の地に「崇徳院御社」を1867年に建立した。。讃岐配流が武家政治への転換と関連づけられていたからには、神霊を呼びもどすことで武家政治を終焉させなければならなかったのだ。
後鳥羽院の怨霊は、鎌倉幕府を滅亡させ、後醍醐天皇を隠岐へむかえさせた。室町時代まで後鳥羽院怨霊はおそれられ、後鳥羽院の神霊がまつられる水無瀨御影堂は、足利将軍からあつい崇敬をうけた。
後醍醐天皇は死去に際し、自らの骨はたとえ吉野の苔に埋もれても、魂は常に京都の内裏を思いつづけると誓った。そのため、通常天皇陵は南面しているのに、如意輪寺内にある後醍醐の塔尾陵は北面している。
後醍醐天皇の怨霊鎮魂のため、尊氏・直義により、夢窓疎石が開山となって天龍寺が創建され、後醍醐の霊魂をまつる多宝院が建立された。
怪異現象の背後に神意の存在をかんじ、国家が神をなだめるシステムは戦国時代にはなくなっていく。対照的に、秀吉、家康といった権力者を神としてまつるようになる。戦乱では、神仏の力よりも兵力の強弱によって勝敗が決するという「合理的」な思考が優勢になり、神仏にたいする絶対的信頼心は希薄になっていたからだ。
芸能や芸術も、戦国時代以降は宗教と切りはなされて独自の発達を遂げる。たとえば絵画も、神仏やそれにともなう行事を描いていたものが、人間の姿や風景を描くようになる。西欧におけるルネサンスと似ている。
「怨親平等」の思想は、怨霊という考え方が薄くなる一方で、戦乱などで亡くなった人々の慰霊のあり方として日本人の思想として優位を占めるようになった。
高野山奥の高麗陣敵味方供養碑は、島津義弘が敵味方関わりなく供養するために建立した。この碑は、明治から大正にかけて博愛主義の表象と位置づけられ、日本の赤十字条約加入過程で重要な役割をになったとされている。
近代になると、日清・日露で、敵に敬意を表することは武士道精神でり、天皇の仁慈のもと怨親平等を発揮すべきとされた。
日中戦争でも、怨親平等思想に基づく供養がおこなわれた。慈悲の観音菩薩をもって、「興亜」の象徴とする「観音世界運動」が推進された。怨親平等が大東亜という政治的思惑にとりこまれたのだった。
怨霊は規模を小さくしながらも戦後も生きている。
津市中河原海岸の「海の守り」という女神像は、1955年7月28日、水泳教室を開いていた橋北中学校の女子生徒36人が溺死する事故後にたてられた。その10年前の1945年7月28日の津市大空襲で、海岸へのがれた人々がB29の焼夷弾攻撃により亡くなり、その成仏していない霊が、海中に生徒を引っ張り込んだと噂された。生徒のなかには海の底からたくさんの人が引っぱろうとしたという証言もあった。現在でも海岸は遊泳禁止となっている。
私が取材してきたなかにも、グアテマラの日本人殺害事件や平家の落人のたたりによる土木作業員の死亡など、いくつも「怨霊」が出現している。熊野古道の妖怪「おめき」の話もある。不安の時代には怨霊が猛威をふるう。関東大震災時の朝鮮人虐殺なども、「毒を井戸に入れた」などのデマが信じられた結果だった。現在の外国人排斥も貧富の差や生活の不安が背景にある。かつての怨霊にちかいのかもしれない。
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▽25 霊魂が煙になって空にたなびくとするのは、火葬であるからこそ考えるのであって、土葬が基本の庶民にはあまり関係がなかったとも言える。……日本では、生と死の間には絶対的な断絶があるとは考えなかった。生者は死者の世界に行ってもどってきたり、死者の霊魂が再び人間や動物の中に入りこんだりするという話がしばしば語られた。霊魂も天国とかいった遠いところにいってしまうとは考えずに、生者の近くに留まり、自分の子孫たちを見守っていると考えた。
▽31 高野山、伊勢朝熊山上などに多くの墓がつくられ、山に霊魂が帰っていくと考えられた。「山中他界観」「山上他界観」という考え方が一般的であった。
海岸近くに居住する人を中心に霊魂は海のかなたにいくという「海上他界」という考え方も広く見られる。
▽34 「熊野年代記」によると、貞観10(868)年以来、那智の海から補陀落を目指して船出する補陀落渡海が開始された。海上彼方を他界すなわり死者の霊の集まる世界とする常世信仰と仏教の観音信仰とが習合した。
▽42 怨霊の鎮撫は仏教主導で行われたが、それは、仏教には死後の世界の体系があり、成仏できずにさまよう霊魂を得道させる方策を有していたからである。
▽43 法相宗の玄眸(〜746) 唐から帰国したころから変化観音がつくられるようになり……怨霊の鎮圧を願って造立された。霊山寺十一面観音(奈良市中町)、頭部が不釣り合いに大きく異様な形相。怨霊を鎮圧するだけの威力をあらわすと同時に、怨敵を祈り殺す呪詛の像としての性格をも付与されたと評価されている。
▽45 早良(さわら)親王 桓武天皇が即位すると皇太弟に立てられた。藤原種継暗殺事件に関与したとして廃太子とされ、乙訓寺に幽閉された。淡路へ船で移送される途中、淀川で亡くなったとされる。
……善珠は早良の怨霊を調伏したのではなく、仏法を説いて聞かせることで鎮めた。怨の連鎖からの解脱を説くことによって怨霊をなだめた。
▽49 奈良時代はじめは雑密のもつ呪術力によって調伏するというやり方だったが、善珠、最澄・空海を経て、三界をさまよい苦しんでいる怨霊にたいして説いて聞かせ、成仏することを願うという形式が確立したのである。
▽58 菅原氏は土師氏を祖とし、781年に土師宿禰古人、同道長ら15人が、居地の名である菅原郷(奈良市菅原町)にちなんで改姓を上表して許された。
▽61 897年、宇多天皇が退位して醍醐天皇が即位すると、宇多から全幅の信頼を受けていた道真と新帝との関係は微妙なものに。藤原時平が左大臣・左大将、道真が右大臣・右大将となると、道真を追い落とそうとする動きが強まる。……901年正月、時平と道真がともに従二位に恕されたのちの25日、道真は太宰権師に左遷されることになった……藤原氏による他氏排斥の一環とみなされている。903年2月、59歳で亡くなった。
▽64 道真と敵対した時平が39歳で早世。醍醐天皇の皇太子保明親王が21歳で夭折。……これ以降、道真の怨霊にたいする鎮魂の方策がとられていく。右大臣に復し、1階加えて正二位を贈り……。だがその後も……清涼殿への落雷で死者がでて、衝撃をうけた醍醐天皇は病に伏せり、46歳で崩御した。
▽72 天台僧によって怨霊が鎮められたこと……北野社は江戸時代末まで比叡山曼殊院の配下となる。
【寺が力をもつ】
地震・疾病・飢饉、東大寺・崇福寺・法隆寺・延暦寺などの焼亡、藤原純友・平将門の乱、前九年の役・・・を起こしたのも天神の使者の所作であるとしている。
▽77 945年には、民衆による熱狂的な宗教運動として有名な志多羅神入京事件がおこった。志多羅神と八面神といった諸神が東西の国々から入京するとの噂があった。承平・天慶の乱が鎮圧されてまだ4年であり、東西から得たいの知れない神々が入京してくるとの噂は、平将門と藤原純友の怨霊の出現を想起させたのであろう。
【グアテマラでも悪魔教の噂】
▽87 北野社 将軍も庶民も、本殿正面で参拝したあとは背後(北面)にまわって祈願した。こうした作法があったことは、怨霊であったということに起因するものである。
▽96 将門の首塚 神田神社の旧地とされる。明治になると大蔵省が置かれたが、御手洗池とよばれる蓮池とその南の将門塚は残された。
1923年の関東大震災で塚も破損したため、発掘調査がおこなわれた。5世紀ごろの小型の円墳または前方後円墳と推測され、塚の下からは長方形の小さな石室が現れ……。調査後石室は壊され、御手洗池も埋められて、その上に大蔵省の仮庁舎が建てられたが、しばらくすると大蔵官僚のなかで病気となるものが続出。工事関係者にもけが人や死亡者が相次ぎ、早速整爾大蔵大臣はじめ2年間で14人が相次いで死亡し、けが人も多く、とくにアキレス腱が切れる者が多かったと言う。これは将門が足の病のために敗戦の憂き目を見たという故事に関係があるのではないかという噂が広がり、塚の上の庁舎はとりこわされ、1928年に将門鎮魂祭がおこなわれた。
……空襲で焦土と化し、戦後はGHQのモータープール建設用地として接収され、米軍のブルドーザーによって焼け跡の整地が行われたところ、ブルドーザーが地表面に突出していた石にぶつかって横転し、日本人運転手と作業員の2人がブルドーザーの下敷きになって1人が即死、一人がおおけがをした。また、労務者のけが人が絶えなかったもあり、施工者が調べると、将門塚があった場所で、ブルがぶつかった石は、塚の石標だったことがわかった。町内会長の遠藤政蔵氏が司令部に塚の由来を説明して、壊さないように陳情したことにより、GHQも了承して塚は残されることになった。
▽99 将門の首は京都にもたらされてさらし首にされた。さらし首は将門が史上初めてのようである。
▽101 都では「御霊」に仮託した民衆の宗教運動が巻き起こった。木できざんで男女対の神をつくり、それに冠をかぶせて丹で体を塗ったり、男女の性器をきざんだりし……
▽103 将門らの乱の際、朝廷から宇佐八幡宮に奉幣が行われており、八幡神は、乱を平定する軍神の役割が期待されていて、鎮護国家をになっていた。
その一方、アマテラス大御神の系譜を引く天皇家の「主流」にたいして「傍流」として担ぎ出され、ひとたび異が発生すると、主流を脅かすことにしばしば利用された。道鏡を天皇とするという宇佐八幡宮の神託が下ったとされた事件も。……八幡神は祟り神としての側面があり、反権力、既存の天皇制の否定の装置として機能していたことが指摘されている。
▽108 白峯陵における崇徳院 歌によって荒ぶる霊魂が鎮まったとされる
……将門の首がまつられた地に建てられたという京都神田大明神〓。
▽116 神田明神に将門を祀ったとするはなしは江戸時代になるとさまざまに改変されていく。幕府が江戸に開かれることになって、以前関東において「新皇」として君臨し、権勢をふるった将門にたいする関心が強まったことによるものであろう。
……神田明神の創建に関しては種々の説があるが、将門の鎮魂をになったということでは共通する。戦国時代になると、将門の首に関する伝説が付け加わり、将門の首が落ちたところに神社が作られて鎮魂が行われたという現在にまで伝わる話が形成されたものと思われる。
▽123 神田明神は江戸っ子の氏神として信仰を集め、氏子は今でも将門調伏をになった成田山新勝寺には参詣してはいけないとされる。
▽126 崇徳天皇(1119〜64) 鳥羽天皇と藤原公実の娘璋子との間に誕生。……鳥羽上皇が退位を強要し、3歳の近衛天皇が即位。鳥羽院が実際の政務を取り仕切るようになった。
▽132 崇徳院は次の天皇に自らの子である重仁をつけようとしたがかなわず、後白河が即位。自らが傍系に追いやられたことに不満を募らせた。……後白河天皇側に先手を取られ敗北。……崇徳院にクミした源為義、平忠正ら74人あまりが処刑され……ここに、810年の薬子の変以来の死刑が復活。……久々に京都において戦いが展開されて多くの家も焼失したため、貴族たちは「武者の世」が到来したことを実感することになった。
崇徳院は讃岐へ配流となった。
▽139 坂出市の雄山・雌山の東麓の湾入した付近「松山津」において崇徳院が亡くなった蓋然性が高い。坂出周辺には雲井御所をはじめとして多くの崇徳院に関連する伝承地があるが、ほとんどは近世に設定されていったものである。崇徳院は松山の在庁官人高遠の堂→直島→松山の御所のように移動したとするのがもっとも妥当ではないか。
半井本「保元物語」では、都の近くにおいてほしいと訴えたが、かなわなかったため舌先を食い切り、その血で経の奥に「日本国ノ大悪魔」となることをしたため、その後は髪の毛も整えず、爪も切らずに、生きながら天狗の姿になった祟りを引き起こしたと記している。
▽145 讃岐において極楽往生を願って亡くなった崇徳院がなぜ「保元物語」などでは恐ろしい姿で五部大乗経に祟る旨を記すといったような話が作られたのか。保元物語がまとめられた1230年代に大きな問題となっていた後鳥羽院怨霊の問題があったからにちがいない。
後鳥羽院は承久の乱に敗れて隠岐へ流されたが、生存中から怨霊の存在が噂され、亡くなってからはますます怨霊が意識されるようになった。後鳥羽院怨霊の鎮魂は、崇徳院怨霊の鎮魂が参考にされた。
▽148 後鳥羽院が置文で「魔縁」となることを誓い、生前から院の生霊が噂され……後鳥羽院の怨霊をもとに「保元物語」の崇徳院怨霊の「虚像」が創造されたのではないか。
▽149 後白河天皇周辺の人物や頼長と敵対した忠通に関連する人物が相次いで亡くなり、安元3年4月13日には、比叡山の大衆が神輿をふりかざして洛中へ乱入。神輿に矢がいたてられ、神人らが数多く射殺され、おめき叫ぶ声が響き渡るということがあった。4月28日の大火災では、大極殿以下8省院はすべて焼失し、京中は死骸があちこちに転がるという状況となった。「方丈記」に安元3年の火災のことがでてくる。
▽151 「讃岐院」とよばれていたものを「崇徳院」にあらため……非業の死を遂げた天皇に対して「徳」の字のつく諡号をふすことによって鎮魂が図られた。崇徳・安徳・顕徳(後鳥羽)・順徳といった怨霊と化した天皇に対して共通して施された対応である。
▽154 安徳天皇の鎮魂のために阿弥陀寺(現赤間神宮)が建立された。
▽162 直島 領主の高原氏が改易されたとき、つかえていた三宅氏も処罰されそうになったが、三宅氏は崇徳院とともに京都からやってきて、院との間に生まれた重行を祖とする「由緒正しき」家柄であり、院によって直島の支配を認められたのであって、高原氏が「押領」したのだと主張することで、大庄屋となった。そのとき提出されたのが「崇徳院院宣」や直島における崇徳院の由緒を語る「故新伝」だった。
▽164 江戸末期 尊皇のいっかんで、崇徳の神霊を京都へうつそうという動きに。現在の白峯神宮の地に「崇徳院御社」を建立(1867)。
明治6年には後鳥羽・土御門・順徳の環遷も決定。淳仁天皇も。……讃岐配流が武家政治への転換と関連づけられていたからには、神霊を呼びもどすことによって武家政治の終焉を招来せねばならなかったのである。
▽172 鎌倉幕府を滅亡させ、後醍醐天皇を隠岐へむかえたのも……後鳥羽院の怨念によるmのとする……室町時代に至るまで後鳥羽院怨霊のもつ強い力がおそれられ、後鳥羽院の神霊がまつられる水無瀨御影堂は、足利将軍からあつい崇敬をうけた。
▽174 北条高時は、北条家菩提寺の東勝寺で自害した。寺のあった地の北方には「北条高時腹切りやぐら」とよばれる場所がある。
……大塔宮護良親王(1308〜35) 尊氏とも後醍醐天皇とも反目し、謀反の疑いありとして1334年に捉えられ、鎌倉に配流された。翌年、鎌倉が北条軍の手に落ちると、親王は、北条時行に奉じられることをおそれた直義によって殺された。
▽177 太平記によれば、死去に際し後醍醐天皇は、自らの骨はたとえ吉野の苔に埋もれても、魂は常に京都の内裏を思いつづけると誓ったという。そのため、通常天皇陵は南面しているのにたいし、如意輪寺内にある後醍醐の陵墓である塔尾陵は北面している。
……後醍醐天皇怨霊鎮魂のため、尊氏・直義の発言により、夢窓疎石が開山となって天龍寺が創建され、境内に後醍醐の霊魂をまつる他方院が建立された。
▽178 能の世界では、世阿弥は「怨霊」のかわりに「幽霊」を用い、怖ろしくない「幽霊」を創作した(〓そうだったのか)。……幽霊にたいしては国家による対応はなされず、庶民の間で怖ろしいものとして江戸時代以降認識されていく。
……怪異現象が発生すると、神意を読み解くために朝廷に報告されて……神社での祈祷・奉幣などが行われた。しかし、こうした怪異のシステムも戦国時代にはなくなっていく〓。
▽179 戦国時代になると、現象の背後に神意の存在をかんじ、さらなる災異が起きないように神をなだめるという国家による神々への対応はなくなった。それと対照的に、秀吉、家康といった主導者に神号を与えて神としてまつり、以降傑出した人物が神として祀られる先鞭となった。この現象は、相対的に神の地位が下がることにより人が神となることができるようになるのとともに……。
戦乱では、神仏に祈願しても結果は変わらない。兵力の強弱……によって勝敗が決するという「合理的」な思考方法が優勢になるに従い、神仏にたいする絶対的信頼心は希薄になっていったのではないか。
芸能や芸術も、戦国時代以降は宗教と切りはなされて独自の発達を遂げていった。絵画ひとつとっても、神仏やそれにともなう行事を描いていたものが、人間の姿や風景を描くようになっていくのである。あたかも西欧におけるルネサンスのようである。〓
▽180 民衆は古くから先祖を神としてまつっていた。……遅くとも鎌倉時代には民衆は祖先を神として祀っていた。
▽186 「怨親平等」 高野山奥の高麗陣敵味方供養碑 島津義弘が敵味方関わりなく供養するために建立。この碑は、明治から大正時代にかけて博愛主義の表象として位置づけられ、日本の赤十字条約加入過程で重要な役割をになったとされている。
▽190 近代になると日清・日露と「怨親平等」が広く見られるようになる。敵に敬意を表することは武士道精神であり、敵味方関係なく供養すべきだとされた。近代においては、天皇の仁慈のもと怨親平等を発揮すべきとされたのが特徴。
▽193 日中戦争 日中戦争の死者にたいして怨親平等思想に基づく供養が一段と盛んに行われるようになった。
政治的には、同胞を殺されたことによってまきおこる中国人の怨みを鎮める手段と考えられており、戦争を正当化する論理とされた。
……東アジアに浸透している慈悲の観音菩薩をもって、「興亜」の象徴としようとし、……皇国の進運に寄与するための「観音世界運動」が推進された。
……観音菩薩による威光を敷衍して日本のさらなる拡大をめざし、思想的には怨親平等思想によって戦死者の鎮魂をおこなうことで、生者の怨念が巻き起こるのを鎮めようとした。
……松井石根は、日中両軍戦没者の供養のため、自邸のあった熱海に興亜観音を建立。……亡くなった人々の菩提を弔い、さらに東亜民族の救済を念じている。
▽196 怨親平等の思想は、怨霊鎮魂の思想と重なりあいながら意識されてきた。怨霊という考え方が次第に薄くなっていく一方で、戦乱などで亡くなった人々の慰霊のあり方として怨親思想が日本人の思想として優位を占めてきたと結論づけられる。
▽199 津市中河原海岸には「海の守り」という女神像が建てられている。1955年7月28日、水泳教室を開いていた橋北中学校の女子生徒36人が溺死する事故があった。1945年の津市大空襲と関連させた噂が語り継がれている。7月28日の空襲のとき、海岸へのばれたが、B29による焼夷弾攻撃により多くの人々が亡くなり、そのときの成仏していない霊が、海中に生徒を引っ張り込んだというのである。事故が10年後の7月28日で場所が一致していること。さらに、生徒のなかには海の底からたくさんの人が引っぱろうとしたという証言もあったことから、空襲で非業の死を遂げた人々の怨霊と結びつけられることとなった。現在でも海岸は遊泳禁止となっており、泳ぐ人がいないよう「海の守り」が見はっている。
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