■柘植書房新社 202602
東日本大震災から1年間の記録。原子力災害の現場で、役所や東電の理不尽な対応とぶつかりながら試行錯誤する様子がえがかれている。
木幡ますみさんは2011年3月11日は午後から、海沿いに電話帳の配達をする予定だったが、午前中にすませた。午後に行っていたら津波で死んでいた。
岩盤がかたい自宅はタンスがひとつ倒れた程度で被害はゼロだった。
原発のほうから多くの人が制服のまま歩いてきたから「どうしたの」と聞くと、「もうだめだ」「逃げてきた」。
「なにがあった?」と聞いても「それは、言えない」。
ますみさんは息子の大学受験のため仙台に行くが、入試は中止だった。12日の夜に大熊町に帰ってきた。大熊町のオフサイトセンターの原子力センターでは、外で缶コーヒーを飲んだりジョギングしたりしている。人がいるから大丈夫なんだと思った。「みんな、どこに行ったんでしょうね」と聞いたら「わかんない」と言われた。町役場は真っ暗でだれもいなかった。
12日の夜は母子3人で自宅に泊まり、13日に夫の仁さんが帰ってきた。14日に犬と猫にえさをやって、子ども2人と田村市に脱出した。
ますみさんは12年前、原発モニターとして1から4号機をすべて見学した。のちの福島第一原発の吉田所長が対応していた。モニターたちは「電源は高い位置におくべきだ」と指摘したが放置された。東電側は「震度7まで耐えられる」「周囲の古い墓が壊れていないから、大地震がこない土地なんだ」と説明した。墓石なんか建て直したんじゃないかと、東電の説明にあきれた。
震災後、原発の下請けの人たちは、「配管が、ボーンと壊れて、上につり上がった状態になった」などと話した。津波の前に地震でこわれていたのだ。
震災後、ますみさんは新聞を発行し、避難先のホテルなどに配布した。
住民同士連絡をとりたくても役場は連絡先を教えてくれない。ますみさんは小さな旅館にいる避難者にも新聞や支援物資をもっていった。だから役場よりだれがどこにいるか把握していた。会津若松に移ってきた避難者たちとともに6月に「大熊町の明日を考える女性の会」を結成した。
補償問題で町役場は「個人の問題だからはタッチしない」という。だれかの助けなしには請求書類を書けない人もたくさんいるのにだ。
仁さんは町長選に立候補した。敗れたが、選挙をきっかけに、「原発反対」と口にできない町だったのが、「除染しても帰れないべな」とみずからの意見を言える雰囲気になってきた。各地の集会でさまざまな資料をもらって帰ると、「私にもちょうだい」と「女性の会」のメンバーがもちかえるようになった。
中間貯蔵施設の建設は「女性の会」も当初は反対した。だが女性たちは一時帰宅をして、線量がむしろ高くなっている現状を知った。
「玄関前は7μシーベルトだったのが今度は8.7」「うちの前は16か17だよ」「うちのなかが6。山の中にはいったら振り切れる」……と線量計で測ることで放射能をおそれることができた。これでは帰宅はできない。中間貯蔵施設をあそこにつくるしかないのではないか、と思うようになった。除染よりも移住のための土地や家を要求しようとなった。役場の男たちからは「裏切り」とみなされ、怒りの電話が殺到した。
女性の会は、福島県民全員に「被爆者手帳」をくばることも要求した。今後どんな健康被害がでるかわからないからだ。東電関係者で心臓発作でなくなった人が多かった。獣医のあいだでは、被災地の犬、猫が心臓が原因で死んだ例が多いといわれていた。
次々におしよせる課題や役所の理不尽さに、被災者の声を丹念にくみあげることで対応していく。
高校生の通学できるバスがない。「合格が決まった時点で集まって、話をしたほうがいいよね。入学までに2カ月あるんだから、その間になんとかしないとね」
ある支援団体は役場から「支援物資はいりません」と言われた。でも仮設の老人は支援物資をもらいにいく足がないから、部屋に絨毯もない。寒いけど年金で電気代を払うのも大変だからエアコンはつけない。服がたりずふるえていた。ますみさんが、仮設での新年会で支援物資をみてもらったら、あっという間になくなった。
補償金の申請を障がい者の兄にかわってやろうとしたら、「本人にお願いします」「そんなことできないでしょ」と言っても、「自分でやってください」。
親が無職の子が高校や大学に行く際、罹災者証明書があれば授業料が免除される。なのに町長は「津波に遭った人以外は家があるからだめ」という。役場に抗議すると「確認に行けませんから、証明書は出せません」。確認に行けない場所に住めるわけがないのに。
津波と原発事故から逃げていた中学生は勉強ができていない。大熊にいたら6時間授業があるのに5時間しかやっていない。木幡さん夫妻は、ボランティアで子どもを教えていたが、学力が落ちて理解できないから学校に行けない子がふえていた。
原発のなかで働いてきた若い人で心身を病む子が続出していた。ますみさんの塾の教え子のなかにも、生殖機能がだめとか、鼻血や血尿がでるとか……白血病と診断された子もいた。
「先生、おれはもう、だめなんだ、と言われて、なんか悲しくなってね。周りにいる私たちが、その子たちのためにも、そこは危ないんだと言わなきゃいけないよね」
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▽11 中間貯蔵施設 自分たちの土地や家のあるところは汚してほしくない、と、当初は私たちも反対しました。でもだんだん、放射線で帰ることができないと認識されてきて、あそこしか中間貯蔵施設をつくるところはないんじゃないか、作らなきゃいけないんじゃないかと。除染したものをすてるところはないし。……一刻も早く、前が見えるような、明日が見えるようなことを考えていかなければという話になっていった。(女性の会)……自分たちの明日のために、移住のための土地や家を要求しよう、反対では駄目だねという結論になった。
▽19 細野豪士との話し合い 「東電と国が一体となって放射線が出ないようにしてもらわないとけない……そのためだったら、中間貯蔵施設をつくって封じ込めるんだったら、それはそれでいいんじゃないですか」
(怒りの電話)バスで帰る途中から携帯がじゃんじゃん鳴りっぱなし。
▽20 女性の会のメンバーは、何回か一時帰宅をしていて、全然線量が減っていないことはわかっていたんです。ますます、高くなっているんです。除染している所もあるんだけど、大熊町はそれを隠している。国といっしょに除染しているのに、国はやってくれない、全然除染してくれないと町は言うんです。うそばっかし。
▽24 役場職員よりも、私たちの方が、支援物資を届けたり、いろんなことで仮設をまわっているから、住民がなにをほしいと言っているかよく知っている。
「お金もいらない、土地ももういい、住めないんだから。家族がまとまって住めればどこでもいい。そう言ってるんですよ」と言うと、「それは年寄りの嘆きだ」「それは弱気だ」と言いかえす。
▽25 農業は、900町が田んぼ、100町が梨の果樹園でした。梨の売り上げは、農協の売り上げでは3〜4億あったと思います。米関係の売り上げが10〜15億でした。
……原発に直接あるいは関連で、6割ぐらいはみてもいいと思います。大熊町の勤労人口が6000人ぐらいでしょうから、その6割として3600人ぐらいが原発関係で働いていた。
……双葉町は原発の割合はさがります。大熊町には原発4基とそれの下請けの会社が、大熊町の敷地内にごそっとあるのです。双葉町は5,6剛毅があるだけで、下請けの会社も2つ3つぐらいしかない。大熊町は20〜30ぐらいあります。だから双葉町の固定資産税は大熊町の3分の1ぐらいだったと思います。
▽29 私は本当は午後から、荷物の配達アルバイト、電話帳の配達を行う予定だった。でも、私はサボリ癖がすごいから、その配達を午前中にやっちゃって、午後からはお茶のみをやりたかった。配達は、双葉町の郡山海岸というところがあって海のそばだった。午前中に配達をすませてた。午後に行ってたら、津波で死んでいた。サボリ癖で助かった。
まじめに午後に行きますと言っていたら、配達先の人もいなくちゃいけない。そこの人たちも、午前中に私が配達したから、午後から、みんな安心して浪江の町中に買い物に行ったらしい。そこの人たちはそれで全員助かった。家は、津波でもっていかれたけど。サボリ癖が人助けになった……
午後は、友だちの喫茶店で88歳のおばあちゃんとお茶してた。ほかに3,4人いたんだけど、いきなり揺れがギシギシ始まって、屋根が飛ぶのね、窓ガラスはがしゃがしゃ壊れるし、家が崩れはじめた。ピアノが倒れてこないように押さえて、みんなでおばあさんを守って必死だったの。……家に帰る途中に元保育所の古い家があった。そこを横切ったら、その家もグシャと壊れて道路までガレキで埋まった。間一髪で救われた。
うちの家はなんの被害もなかった。野上地区は岩盤でどの家も請われていない。288号線をはさんで上の山側の家の方は何の被害もない。下の反対側はちょっと壊れている。家はなんてことない。タンスがひとつ倒れていたかな。
……200年ぐらいの家だから、教育委員会が文化財にしようかと言っている家だった。
▽33 2人であちこち見ているうちに、役場近くの道路を行くと双葉病院があって、その近くに、ファミリーマートがある。原発のほうからまっすぐ、何人も何人も制服のまま歩いてきている。地震から1時間ぐらいたった頃だったと思う。3時半ぐらいかな。原発から次から次と歩いてきた。
店に入ったら、地震で散らかっていた商品をお金も払わないでもっていく。私らは払ったけど、ほかの人たちは払っていない
「どうしたの」とその人たちに聞くと、
「もう駄目だ」「もう駄目」
「何がどう駄目なの」と聞いても
「もう駄目」「もう駄目:とくり返すだけ。
原発から出てきたというから
「残った人はいるの」と聞くと、
「まだ残っている。まだのこっている人はいっぱいいる」と言った。
……原発から2キロぐらいを連なって歩いてきている。
若い人が言うには「命令も糞もあったもんじゃない」「逃げてきた」
車は動けないし、車は置いてきた。
「お金とかもってきたのかい」と一人の男の子に聞くと「何ももってきてない」「免許証もなにももってきてない」と言っていた。仕事先からそのまま逃げてきたって。みんな企業の制服を着て、ぞろぞろぞろぞろ歩いて逃げてきた。
何があったの聞いても、答えられない。
「それは、言えない」とか言って…
▽避難の指示はなし
▽42 私は、子どもといっしょに、11日に地震のなかを仙台に行ったの。もしかしたら、大学受験があっかも知れないと。お父さんたちは「ない、ない」と言ってたんだけど、連絡は通じないから、自分で確かめようと。12日が東北大の受験日だった
仙台から大熊町に帰ってきたのが12日の夜なの。
▽44 仙台から子どもと帰ってきたんだけど、誰もいなかった。家は真っ暗だったけど、ガソリンとか食料をさがさねばと、私は車ででかけた。そうすると、大熊町のオフサイトセンターになっていた原子力センターに、人がいっぱいいた。外に出て缶コーヒーを飲んだり、その辺をジョギングしたりしている。
人がいるから大丈夫なんだなと思って、「あの、みんな、どこに行ったんでしょうね」と聞いたら「わかんない」と言われた。
役場にも行った。真っ暗でだれもいない。
▽46 ストーブには灯油が入っていたので、12日の夜は母子3人であったまっていたの。
13日に避難先にお父さんが1回帰ってきた。……14日にはコンビニからえさをいっぱいもらってきたから、犬と猫にえさをやって、子ども2人と私の3人で車で大熊町を脱出して、田村市に着いたのが、ちょうど午前11時で、三号機の原子炉建屋の爆発には間に合った。
▽48 仙台からもどると、大熊とか浪江には、車のなかにとじこめられている人がいた。車がパンクしているのね。外に出るなと言われたら、車のなかにいるしかない。6号線は、けっこう人がいたよね。
▽49 12年前原発モニターをした。1から4号機まで全部見た。
……あのとき、電源はどこにあるんだということを聞いた。なんで高いほうの陸の上に置かないんだ、と言った。そのときは第一原発のあの吉田所長が、本店の部長かなんかできていた。
電源はちゃんと地震対策はとってあるからと東電は説明するんですが、電源は上に置けとモニターは全員言ったんですよ。……地震は震度7まで耐えられると、いつものように説明していた。……周囲の古い墓はぜんぜん壊れていない、傷ついてもいない、だからこの辺は大きな地震がこない土地なんだと説明したんです。墓石なんか、建て直したものはいっぱいあるんじゃないかと私たちはその説明にあきれてしまった。
当時の吉田部長は、大丈夫です、大丈夫です、と断言した。でも大丈夫ではなかったね。電源は、あのときのままだった。
▽51 避難先のホテルで、原発の下請けの人たちといっしょになって、話を聞いた。
地震で、配管が、ボーンと壊れて、上につり上がった状態になったらしい。まずは、地震で壊れてるって、みんな言ってた。つなぎ目がもろいし、古いからね。一番先に壊れるんだってね。それが、天井に上がったり、ひどい状態だったらしい。
▽ 仁さん 12日の午後③時ごろ、田村市の避難所に着いた。船引の総合体育館。町からはなんの発表もない。テレビもない。だから1号機が爆発したということも知らなかった。13日の午後あたりからテレビが設置されたので、いろんなことがわかるようになってきた。
▽57 安定ヨウ素剤 船引、常磐、田村市はヨウ素を飲ませた。保健婦さんたちがもってきて、避難してきた人にもわけへだてなく飲ませたんだよ。
▽59 体育館に最初に避難した時には、みんな着替えるものが何もない。……一番ひどかったのは、糖尿病の薬とか、絶対飲まなきゃいけない薬がない。行く先々でなくなった人たちがいっぱいいた。体育館で、目の前で倒れて、そのまま死んだ人がいたね。寝ているのかなと思ったら、死んでた人もいた。
▽65 仁さんの入院 3月28日。仙台の社会保険病院までつれていった。
はく息から、体中から,臭いがひどかった。内臓の一部がだめになって、体が腐り始めてくると死が近づいてくさってくるんだって。あと3日遅かったら、アウトだったと言われた。
▽71 「大熊町の明日を考える女性の会」をつくる。
私は、新聞を自分で発行していた。去年の4,5、6月と。それを避難先のホテルとか旅館とかいろんな所に配っていた。そうしているうちに、私と話がしたいという人が出てきて、それじゃ女性の会を作ろうかという話になって6月15日にできた。【発信と歩く大切さ】
▽72 田村市の体育館から会津に行くことも、マスコミに教えてもらった。町長は逃げていた。私は、トイレの前に待ち伏せして、町長をつかまえて「会津若松に移ることを、みんなに説明してください」「町長なんだから、説明するのは当たり前でしょ」と言って説明させた。
私のはいったホテル、狭くて落ち着いていられなかった。それで、どんどん外に出て行って、記事を集めた。居心地のよいホテルだったら、こういうことをしていなかったかもね。
みんな、どこに誰がいったのか、横のつながりがわからなくなっていった。情報がほしい、でも役場では情報を教えてもらえない。私は飯豊山のふもとの小さな旅館にも新聞をもっていった。役場の人たちは,1回も来ない。そこで「木幡さん、会をつくんないか」と言われた。その人たちが6月に会津若松に移ってきた。それで、女性の会がはじまった。
▽79 私は、会津若松に来たときから、支援物資や自分で発行した新聞を避難先が旅館やホテルのときから仮設住宅になってからも、配り歩いていた。だから役場の人より私のほうが、だれがどこにいるかわかっていた。
▽82 仁さん町長選へ
補償問題では、個人の問題だから役場はタッチしないという立場だった。それはおかしいんじゃないか。個人の問題だからこそ役場がタッチして、請求書類を書けない人もいっぱいいるわけだから、代わりに書いて上げる人がいてもいいんじゃないか,と。
▽86 大熊町は「原発に反対」とひとことも言えない町だったのが、お父さんがでたおかげで、ああだこうだと言えるようになってきた。除染といってきたけど、除染しても帰れないべな、と言えるようになったよな。女性の会でも、私が外で集会に出て、いろんなパンフをもらって帰ってきたら、私にもちょうだいって、誰々にあげるからと、どんどんもって帰るようになったからね。選挙は負けたけど、あの選挙は正しかったね、と言ってるよね。
▽94 大熊町は、若い時に出稼ぎに行っていて、原発ができたから、出稼ぎにいかなくてすむようになった。だから、東電によって自分の生活は支えられたという人たちがいる。
▽98 被災者に被爆者手帳を。福島県民全員に配る。
▽110 自主的な組織としては、女性の会は大熊町で最大のネットワーク組織になっていると思われる。
▽124 心臓発作でなくなった人が東電関係で多いでしょ。
獣医さんたちのあいだでは、被災地の犬、猫が死んでいるのは、心臓が原因というのが多いんだって。セシウムもそうだけど、プルトニウムは猛毒だからね。
公式には、東電関係で亡くなった人は6人らしい。
▽130 玄関の前は、前は7だったのが今度は8.7なのよ。うちの前は16か17だよ。うちのなかが6。山の中にはいったら振り切れる。
【数字にすることでおそれることができる。実感はむずかしいけど】
……リオンドールの近くで、両脇にいわきナンバーの車が停まって、そこを子どもが通ったら、子どものもっている線量計がピピーと鳴ったんだって。車をはかったら、6マイクロシーベルトだったって。車は、洗ってきてちょうだいよねと言われた。
▽134 町長室は真っ暗。居留守。
▽135 保育所で子どもが言われたらしい。除染ごっこで「おまえらのおかげで、除染ができない」。ままごとでも避難ごっこ。
▽142 高校生の通学できるバスがない。「バスを走らせます」と町役場は言ってたけど、いっこうに話が進まない。……合格が決まった時点で、親たちが集まって、話をしたほうがいいよね。入学のときでは遅いから。入学までに2カ月あるんだから、その間になんとかしないとね。【必死に声をくみあげて力を生みだそうとしていた】
▽145 「役場では、支援物資はいりません」と言われたんだって。でもね、仮設をまわると、老人の服がない。着るものがないのよ。老人は自分で支援物資をもらいにいけないから、寒い思いをしている。……仮設で野上の新年会をやったときに、ためていた支援物資をみんなにみてもらったの。そしたらあっという間になくなったよ。
……ボランティアさんが言うには、具体的にこういうものが欲しいと言ってくれれば、一番いいんだって。それを、支援物資、支援物資と受け付けてもだめなんだよ。
支援物資をとりに行けなかった人は、部屋のなかに何もない。絨毯もない。部屋のなかが寒いんだよ。……電気代払うのが大変だから、ジャンパーを着こんでエアコンはつけていないんだよ。年金は生活保護より少ないんだから。
▽147 長男が大熊にいたのに住民票がないということで、住所のない人にはお支払いできませんと言っていたのに、今度見たら払ってきた。それで電話して「同じことを皆さんにやってくださいねと念押しした。
役場のなかの東電の人や、役場にも3回聞いたんだよ。住民票のない人はだめだとさんざん言ってきたのに、急に遅れて払ってきたんだよ。
……うちは兄が障がい者で、私がやりますからというと、「本人にお願いします」。そんなことできないでしょと言っても、「自分でやってください」。【とんでもない話が次々】
▽150 紛争審査会 南相馬では、審査会へ申し立てるための申立書の書き方の勉強会をやっているそうです。……申し立てをした人は弁護士をつかってやっているが、みんながそうするにはお金がかかるでしょ。だから、自分で書けて、ある程度自分でしゃべれるように。……
▽152 大熊も、もどるもどると言っても水源はどうなのかなのよ。……
▽153 親が無職の子が、高校や大学に行くときに罹災者証明書があれば、授業料が免除になる。楢葉でも罹災者証明書を出しているのに、町長は、津波に遭った人以外はだめという。……家があっても帰れないのに。
町長は、津波に遭った人だけ、あとは家があるからだめ、という一点ばり。
……役場に言いに行ったら、確認に行けませんから、証明書は出せませんと言われた……【確認に行けない場所に住めるわけがないのに〓】
▽162 4月になったら(会津から)いわきにかなり移動するよね。いわきは、2万人の失業者が出るというんだよ。職が必要なんだよ。……だんなさんが失業して、奧さんが働こうとすると、保育所がない。保育所をつくってと言うと、自分の子どもは自分でみろと言われたらしい。女が子どもを見るのは当たり前だという感じだったらしい。
▽163 昨年3月(の津波と原発事故)から逃げていたでしょ。だから、勉強ができていない。学力が落ちている。……大熊にいたら6時間やるところを、授業は5時間しかやっていないんです。毎日1時間、二百何十日分、足りないんです。
……私とお父さんは、松長でボランティアで子どもを教えているけど、かわいそうなくらい、1,2年生が学力が落ちている。わからないまんまだと、学校の授業はつまらないからね。すると、学校に行けない。
▽172 原発のなかで働いてきた若い子がどんどんだめになってきた。うちの塾で勉強していた子たちなんだよ。……みんな、体が傷ついていてる。生殖機能がだめだという子もいるし、鼻血を出している子もいるし、血尿が出つづけている子がいる。白血病だと医者に言われた子もいる。……「先生、おれはもう、だめなんだ」と言われて、なんか悲しくなってね。周りにいる私たちが、その子たちのためにも、そこは危ないんだと言わなきゃいけないよね。
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