宮沢賢治は「死のむこうがわ」をどうとらえ、どんな死生観をもっていたのかについての島薗進さんの講演をきいた。妹とし子の死をつづった「永訣の朝」と法華信仰とのかかわりがとくに印象にのこった。
賢治は結核で苦しみ、妹のとし子を26歳のときに失った。彼の作品には「死のむこうがわ」のテーマがあちこちにでてくる。
「春と修羅」のなかで賢治は自らを人間以下の「修羅」とみる。人間の下に修羅がいて、その下に畜生と餓鬼がいる。
すばらしい才能があるのに、父の浄土真宗の教えがうけいれられず家出する。日蓮宗、国柱会にのめりこんでいく。やりきれないほど自分で自分を苦しめる。
「よだかの星」のよだかは、いつもいじめられているけど、自分は虫を殺して食べていること、暴力の連鎖なかで生きていることに苦しむ。最後は自らを焼いて、星になる。苦しみの果てに「むこうがわ」の世界にいく。自己犠牲による救いを描く。
妹のとし子も賢治と同様、文芸や芸術に関心をもち、真宗からはなれていった。花巻女学校で先生との恋愛がさわがれて東京にでる。学校をでて花巻女学校の先生になるが、結核によって夭逝してしまう。
「永訣の朝」でとし子は、「あめゆじゅとてちてけんじゃ」と賢治にねだる。それは、「妹のためになにかしてあげられた」と賢治が思えるように、という、とし子のやさしさだった。そのことを賢治も理解していた。そういう悲しく深いやさしさがあるのだ。とし子が息をひきとるとき、賢治は南無妙法蓮華経と2度となえ、とし子はうなずいた。
とし子の人生は「人々の苦しみを苦しみとすることができるような生」だった。だれもが死や苦しみをまぬがれない。そういう無常と痛みのなかで、人智をこえたなにか(信仰)に接することで「輝き」があらわれる。「永訣の朝」は、「大いなる痛みの彼方」の輝きを表現しているのだ。
賢治は、「とし子のためだけのために祈ったのではない」という。法華経は真宗とはちがって、みずからが菩薩として生きることをもとめる。
とし子が亡くなってしばらくして賢治は農学校をやめ、羅須地人協会をつくる。仏教と芸術を背景とする農民運動を展開しようとして「農民芸術概論綱要」をしるす。
「おれたちはみな農民である。世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない……」「われらに要るものは、銀河を包む透明な意志……と熱である」「まづもろともにかがやく 宇宙の微塵となりて 無方の空にちらばらう……」
銀河系をみずからのなかで意識して生きる大切さを説いた。これは菩薩の誓願だった。
【宮沢賢治の足跡をめぐった2023年の旅の記録はこちら】
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