■吉川弘文館260202
単純な「忠君愛国」の人ではない、革新的土豪、都市プランナー、土木技術者、仏教の革新に資した者としての和気清麻呂の姿を膨大な文献をもとにあきらかにする。清麻呂がこんなおもしろい人だとは思わなかった。
中世の「水鏡」などの文書では、和気清麻呂も姉の広虫も、道鏡側の人物であるか、または立場があいまいであり、危機にある宮廷をすくったのは、藤原百川ということになっている。百川は天武天皇系の称徳女帝のかわりに、天智天皇系の光仁・桓武を天皇にたてた。
清麻呂の評価は近世にはいって一変する。なかでも水戸徳川家が編纂した「大日本史」が決定的な役割をはたした。
清麻呂が身をすてて大義をつらぬいたことは、臣下のかがみであるという道徳史観であり、それが昭和の教科書にまでもちこまれた。
本当の清麻呂はどんな人だったのだろう。
和気氏は吉備の豪族だ。吉備の国ではその名のとおり吉備真備がでた吉備氏が力をもっていたが、別(わけ=和気)氏は6世紀ごろから朝廷とむすんで吉備氏を制圧する側にまわることで台頭したとみられる。
美作・備前から播磨の西部にかけては銅鉄の産地だった。和気のもとにある部民には金属の生産にしたがう渡来人が多かったと思われる。渡来系の秦氏は、播磨西部から備前・美作にかけて分布していた。
当時、藤原仲麻呂による新羅征伐計画があり、軍事が重視され、唐でまなんだ吉備真備が城を築き、軍船の建造を計画し、諸葛亮と孫子の兵法を教えた。仲麻呂が反乱をおこすと、真備はただちに内裏にもどされ、兵を動かして仲麻呂の退路をたち、あざやかに平定した。
邪魔者の仲麻呂が鎮圧されると、孝謙上皇は道鏡を大臣禅師に任命し、弟の浄人をいきなり従二位・大納言にとりたてる。上皇はふたたび即位して称徳天皇となる。
清麻呂の姉の広虫は孝謙上皇(称徳天皇)の「腹心」といわれた。広虫のひきたてによって清麻呂は登用された。
道鏡事件では当初、清麻呂が宇佐神宮に神勅を確認におもむく際、道鏡は「つごうのよい神勅をもってくれば出世させてやる」と清麻呂に耳打ちした。清麻呂の立場は、王権に直属する土豪的官僚であり、中立的であるとみなされていたからだ。
宇佐から清麻呂のもたらした神勅は道鏡をおこらせ、広虫と2人によるでっち上げだとされた。「いままで天皇につかえる臣下と思えばこそ、姓をたまい、取り立ててきたのに、いまや忽ちに穢き奴として、姓を奪い、「別部」と名のらせ、その名も「穢麻呂」「広虫売」と改める」というのが事件直後の宮廷の公式見解だった。清麻呂は大隅国に流され、出家して法均を名のっていた姉も還俗のうえ備後国に流された。
女帝が死に道鏡が失脚すると、藤原氏は皇太子白壁王(光仁天皇)をたてた。清麻呂と広虫は中央にもどった。だが清麻呂は9年6カ月間にわたって従五位下のまますえおかれた。藤原氏と結んでいなかったからだ。
清麻呂の政治活動は、781年の桓武天皇即位で復活する。和気氏は、王権に直属することによって、貴族間の政争の抑制勢力として登場する新しい土豪官僚だった。清麻呂の3人の子、広世・真綱・仲世も父の志をついだ。
和気氏は故郷でも豊前でも秦氏とふかい関係にあった。遷都先の長岡京も次の平安京も秦氏の地盤だった。渡来系の秦氏は遷都の陰の立役者だった。
長岡京遷都は、抜き打ちに方針をうちだし……わずか半年後には天皇・皇后・中宮が長岡京に移るという異常な突貫工事だった。当然反発がおきる。785年、責任者である種継は射殺された。事件の張本人の大伴継人・永主や佐伯高成らはみな皇太子早良(さわら)親王の官人で、すでに亡くなっていた大伴家持が計画をたて、皇太子(早良)をたてて実行したとされた。皇太子は淡路に流される途中で死んだ。
事件のため工事は停止され、早良親王の怨霊によって皇太子(平城)が病にかかるなど、怨霊の恐怖がうずまいた。死の影をやどし、中心人物を失った長岡京は放棄されることになった。平安遷都を立案したのも清麻呂だった。
桓武天皇の政治の特徴は「軍事と造作」、つまり蝦夷討伐と新都の造営にあった。天皇専制を可能にしたのは、藤原百川・永手・良継などが前代に世を去り、外戚に強力な藤原氏が存在しなかったためと考えられる。
蝦夷討伐を支えた坂上苅田麻呂とその子の田村麻呂も渡来系の大和高市郡の倭漢氏の一族だった。
秦氏はほかの渡来系氏族とちがって新羅系で、殖産的氏族として、鴨川や桂川にわたる氾濫平野の開拓で富をきずいた。長岡・平安両京は、秦氏の財力をかりて営まれた。桓武の側近グループのほとんどは渡来系だった。
和気清麻呂は788年、河内・摂津の境に川を掘り、堤をきずき、河内川をみちびいて西の海に通ずれば、肥沃な土地をうるおすことができると考え、23万人を動員して事業を遂行した.この工事は8世紀の土木事業としては最大のものだった。
清麻呂とその息子は仏教の改革者でもあった。
清麻呂が道鏡事件で宇佐にいたったとき、八幡神が「皇位と国家を安んずるため、仏力のたすけをかりたいので、一伽藍をたてるように」ともとめた。この神願をはたすため780年に光仁天皇に寺の建設を願い、その後、神願寺をたて、官寺に準ずる「定額寺」とみとめられた。ところが土地が低く、砂や泥がはいるので、清麻呂の死後の824年、子の真綱と仲世が上奏して高雄寺を定額寺とし「神護国祚真言寺」(神護寺)と名づけた。
おそらく799年に清麻呂が死んだとき、高雄山を墓所とし、そこを寺としたのではないか、と筆者は想像する。
最澄と空海は和気氏の庇護のもと高雄山に拠点をおいた。
はじめ最澄をひきたて、桓武に推薦したのは清麻呂であり、広世のはからいで遣唐使に参加した。帰国後、高雄山寺を拠点とし、叡山に大乗戒壇をたてたのも広世の斡旋によるものだった。
桓武と広世が死ぬと最澄は高雄山をはなれる。かわりに807年に帰朝した空海が真綱に支援されて高雄にはいる。
空海は、嵯峨天皇に接近し、816年に高野山をひらく。823年には、桓武がたてた教王護国寺を東寺としてゆずられた。
高雄山寺が定額寺とされると、空海はあらたに灌頂堂・護摩堂をたてて「神護国祚寺」、つまり神護寺と名づけた。831年、南山(高野山)にはいるまでそこに住んでいた。
このように、和気氏は2代にわたって最澄・空海をバックアップし、革新的な平安仏教の創立につくした。和気氏は歴史の推進者だった。
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▽1 和気駅と吉永駅のあいだに和気清麻呂公碑 高さ8.8メートル。
▽6 岡山県教委は「皇紀2600年」(1940)の記念事業として、高さ10メートルにおよぶ石碑をたてた。「国民精神総動員」の縮図というにふさわしい情景だったろう。
▽9 和気氏の氏寺であった藤野寺のあとといわれる実成寺(和気町)の境内に「美作備前国造清麻呂卿之塚」という古びた石碑。大庄屋をつとめた万波家の一族で、藤野村の名主役をつとめた万波南峯が1839年にたてた。碑文の内容も、郷土の土地や民衆のためにつくした土豪としての清麻呂への回想。
▽15「水鏡」によると、広虫も清麻呂も、道鏡がわの人物であるか、またはきわめて頼りない存在にすぎず、女帝も、道鏡の奉った「思いがけぬ物」を愛用したばかりに、病気になって死ぬという異常さで、危機にある宮廷をすくったのは、藤原百川ということになる。百川は天武天皇系列の称徳女帝のかわりに、天智天皇系の光仁、桓武をたてた。
……「愚管抄」でも、清麻呂は無視されている。
▽18 中世の史書は、清麻呂を、道鏡事件のたんなるバイプレイヤーとしてしかみていないし、しかも、広虫とともに道鏡がわの人物として扱うか、または立場がきわめてあいまいで、自らの行動に何らの確信ももちえなかった人間とみている。
女帝は、道鏡と愛人関係にあったから、道鏡を即位させようと考えていた。
……このような宮廷の危機を救ったのは、八幡神の験力であるが、じっさいは藤原百川の力であり、彼こそ、功臣だというのである。
▽21 ……このような見方がかわるのは、近世にはいってからであり、なかでも「大日本史」が決定的な役割をはたした。
清麻呂が身をすてて大義をつらぬいたことは、臣下のかがみであるという道徳史観であり、そのためにこそ、清麻呂は歴史の主流にひきすえられた。これが明治政府の教学につらなり、昭和の教科書にまでもちこまれた。
▽25 ……が「奈良朝史」かいたとき、道鏡と称徳天皇の関係をのべる箇所は、ひどいところでは2ページで5カ所の削除があったり……
▽30 吉備の豪族 ふるい時代に吉備一帯を代表したのは吉備氏であり、和気氏はそれよりおくれ、別系の豪族として発展してきた。
▽35 百済や任那を防衛するため、吉備や九州の豪族は海をわたった。……朝廷に叛乱をおこす。鎮圧され、吉備は分断されてしまう。
▽37 和気氏は、反乱経験のない、王権に忠実な豪族として、この地方にあらたな勢力をえたのであろう。
▽38 別(わけ=和気) 6世紀ごろから朝廷とむすんで、地方に勢力をえた新しい豪族。吉備氏を制圧する過程に、朝廷がわの足がかりとなった吉備の東部に台頭した豪族とみなしてよいだろう。
▽47 隣の播磨の佐用郡は鉄の産地として有名。この鉄を発見したのは別(わけ)部大。……別君には、画師や陰陽師もいる。
……和気のもとにある部民には、金属の生産にしたがう帰化系のものが多かったのではないか。……美作・備前から播磨の西部にかけての土地が、有名な銅鉄の生産地であった。
▽49 和気は、農民をしたがえる殖産氏族であり、新興の地方豪族。
▽50 秦氏は、播磨西部から備前・美作にかけてひろく分布していたらしい。……中央政界での和気清麻呂の活動が秦氏とふかくむすびついているのは、このような在地での両者の関係をふまえているからである。
▽53 吉備氏は、上道と下道の2豪族があったが、8世紀になっても、上通氏からは上道臣斐太都が、下道氏からは下道朝臣真備(吉備真備)がでて、中央の政界で活躍した。やがてこの2氏にかわって、和気氏から清麻呂がでて、桓武朝の政治をリードした。
▽63 真備一家は、中央官人としての同族の筆頭にあったのだろう。故郷の土豪とはもはやつよい結びつきをもたなかったようである。逆に和気氏は、本国の民とふかい交渉をもちつづけた。
▽67 仲麻呂による新羅征伐の計画があり、国防が必要になり……真備が唐で得た、築城・軍学などの知識がクローズアップされた。城を築き、軍船の建造計画をたて、諸葛亮と村史の兵法を教え……。やがて外敵の危機は去り、仲麻呂が失脚すると、このような外征計画は消え失せてしまう。
▽68 仲麻呂が反乱をおこすと、ただちに内裏にめしかえされ、兵を動かし、仲麻呂の退路をたち、平定してしまう。その手並みはまことに鮮やか。
▽71 真備は天武系の皇統をたてようとした。称徳もそのつもりだった……だが、藤原百川らがおす白壁王(光仁天皇)にとってかわられてしまう。次の山部王(桓武)とともに天智天皇系。……藤原氏は、それまで天武系によって行われてきた律令政治を不満とし、その政治をすすめてきた皇族や、大伴・佐伯らの旧族、僧侶などの勢力をおさえて、みずから政権を握ろうとするはっきりした意図をもっていた。
……真備は「土豪性」を生かすよりは、あきらかに貴族としての道を歩んだ。
……和気氏は、備前の名望家としての立場をあくまでつらぬいたし、一族の団結はきわめてかたかった。清麻呂の3人の子、広世・真綱・仲世は父の志をつぎ、一族の繁栄をもたらし、官界において独自の実力をたもった。
▽81 広虫 孝謙天皇の侍女としてつかえる。孝謙上皇の「腹心」といわれた。
上皇が仏門に入ったのは、道鏡への信頼のあらわれであり、僧としての道鏡をひきたてるための、上皇の積極的な行為であった。だから仏門にはいっても、天下の政を放棄したのではなく、かえってそれが、仲麻呂のおす淳仁天皇を退位させ、上皇みずから政権をとる画期的な事件につながった。
▽86 清麻呂が登用されたのは、姉の広虫のひきたてによるところが多かったようだ。
▽91 道鏡事件 宇佐から清麻呂のもたらした神勅は、広虫と2人ででっち上げたものだとされた。……いままで天皇につかえる臣下と思えばこそ、姓をたまい、取り立ててきたのに、いまや忽ちに穢き奴として、姓を奪い、「別部」と名のらせ、その名も「穢麻呂」「広虫売」と改めるというのである。
それまで改姓を重ねてたどりついた氏姓は一挙にうしなわれ、かれらが主家となって支配していた「別部」という、もっとも底辺にある部民の姓におとされたことになる。真人(まひと)というカバネは、皇族からでた氏に与えられた最高のカバネだったのにだ。土豪からとりたてた和気氏を、天皇のミウチとして遇していたにもかかわらず、その期待に反したという怒りを、この宣命に表現した。これは事件直後の宮廷の公式見解ともいうべきものだった。
▽94 道鏡はいかり、清麻呂の本官をとき、因幡員外介にうつし、まだ任所に赴かぬうちに詔によって除名し、大隅国に流した。法均も還俗させて備後国に流した。
▽96 孝謙上皇は仏門に入ることによって、かえって仲麻呂と淳仁天皇を排除し「国家の大事」をみずから握ることを宣言した。これは上皇が保良宮から平城京へかえった直後のことで、その保良宮で道鏡の寵幸がはじまる……この宣言の背後に道鏡がいたことはまちがいない。邪魔者の仲麻呂が反乱をおこし殺されると、ただちに道鏡を大臣禅師に任命し、弟の浄人をいきなり従二位・大納言にとりたてる。上皇はふたたび即位して称徳天皇となる。道鏡は法王に。
▽98 国家仏教のもとでは、僧侶は下層身分のものの栄達の手段だった。
▽100 清麻呂の立場は、専制王権に直属する土豪的官僚ともいうべく、僧侶や貴族の立場をこえた、ある種の中立性をもつものとみなされていた。道鏡が甘言をもって誘おうとしたのも、藤原氏一門がひそやかな期待をもって迎えたのもその故である。
▽105 道鏡失脚語の清麻呂の待遇は……桓武天皇の即位する781年まで、9年6カ月間、従五位下のままにすえおかれた。清麻呂が光仁天皇の代にまったく不遇であったのは、藤原氏と結んでいなかったからである。
清麻呂とその子らがふたたび宮廷に重要な地位を占めるのは、百川・永手・良継らが死んだあとのことで、桓武朝になってからである。
▽108 清麻呂は、宮廷貴族の一方にとりいり、政争に加担して出世をとげようとする旧タイプの土豪でなく、むしろ王権に直属することによって、貴族間の政争の抑制勢力として登場する新しい土豪官僚。
▽113 和気氏はすでにその故郷で秦氏とふかい関係にあり……
清麻呂が「野猪」にまもられたという伝説。……賀茂神社の祭りの4月中酉の日に、馬に鈴をかけ、人は猪影をかむり、駈馳して祭祀をなすという習慣があった。猪影とは「猪の頭」のことで、これをつけて仮装した人を、馬鈴をつけた飾馬のうえから騎射する風習かなにかであったのだろう。異様な習俗。その習俗もまた秦氏のものであるとすれば、野猪にまもられたという伝説もひとつの意味をもつのである
▽117 清麻呂によって、反道鏡派は急速に結成され、政情不安を生みだした。……女帝が死ぬと、藤原氏はただちに皇太子白壁王(光仁天皇)をたて、道鏡を下野薬師寺別当にうつし……いれかえに、清麻呂と広虫を、大隅・備後からよびもどした。
▽123 光仁が即位したのは63歳であり、中心となった永手・百川・良継らも老いていた。光仁朝は暫定政権のようなものだった。
▽129 清麻呂の政治生活は、781年の桓武天皇即位とともに復活する。
▽131 宇佐の神は、八幡神と比咩神。8世紀にもうけられた神宮寺もこの二神に対応して、弥勒寺と比売神宮寺にわかれていた。ふるい土豪であった宇佐公の信仰していた比咩神が、のちに豊前の北にひろく勢力をはった帰化人の秦氏のもとにある辛嶋勝(からしまのすぐり)氏らの八幡神におされ、これにあわされていったものとみる。
……6世紀なかばごろから大神・辛嶋の神職団が、宇佐氏をおさえ、主導権をにぎるようになったのであろう。
宇佐神宮は8世紀に東大寺大仏の造営により、その守護神となって脚光をあびるまでは、ほとんど世に知られることはなかった。
▽135 八幡神が銅や金の産出に大きな力をもった。完成できるかどうかわからぬほどの難工事(大仏)に、宇佐がその技術と呪験力によって協力することがもとめられた。
▽行基は民衆のオーガナイザーだった。だからはじめは政府に弾圧された。しかし大仏造立はかれらの協力なくしてはできない。政府が一転して行基を登用したのは、彼の背後にある土豪や民衆の勢力を吸収しようとしたからであり、八幡神とその神職団が登用されたのもこれとおなじく、その呪験力と背後にある帰化人集団の財力と労働力が期待されたからであろう。
……ところが大仏が完成してしまうと、在地勢力はふたたび反国家的存在として危険視され、のぞかれはじめたのであろう。
▽139 大仏造立後、大神氏が失脚。宇佐氏が宮司にかえりざき、辛嶋勝氏が禰冝となった。
……道鏡は宇佐氏とむすび、大神氏の追放をはかった。道鏡政権のもとでは、宇佐は八幡宮であるよりは比咩神の宇佐宮と化し、比咩神は八幡神の上におかれていた。おそらく、道鏡に偽の神託をもちこんだのは、この宇佐氏によって代表された神職団であろう。
だから和気清麻呂が、豊前守として現地にのりこんだとき、宇佐神職団は当然粛清されねばならず、そのためには宇佐氏の優越をおさえて、帰化系の秦・大神ラインを復活させることが必要であった。ここで大神氏がふたたび大宮司にとりたてられた。
▽144 長岡京の建設にあたった藤原種継は、百川を叔父にもちいっきに昇進する……
清麻呂は、造営の功労者の一人として、種継・紀船守・大中臣諸魚らとならんで、位を授けられた。長岡遷都の陰の立役者。帰化氏族である秦氏と長岡京は関係ふかい。
長岡の地は秦氏の勢力圏のなかにあった。長岡・平安の造営は秦氏に負うところが多かった。種継の背後に、和気氏や秦氏が存在し、この両氏は土豪的なつながりをもっていたと予想される。
▽148 ぬきうちに遷都の方針をうちだし……わずか半年をへた11月にははやくも天皇・皇后・中宮が長岡京に移るという突貫工事ぶりも異常である。
……強引なすすめ方は、反対派のあせりを誘ったのであろう。785年、種継は突如として射殺された。張本人の大伴継人・永主や佐伯高成らはみな皇太子早良親王の春宮坊の官人で、取り調べによれば、大伴家持が計画をたて、大伴・佐伯の氏人らによびかけ、皇太子(早良)をたてて、実行したという。……皇太子は淡路に流される途中で死んだ。暗殺されたのであろう。
事件のため工事は停止……そのうち早良親王の怨霊によって、皇太子(平城)が病にかかるなど、……貴族社会を怨霊恐怖の思想におとしこんだ。死の影をやどし、しかも中心人物を失った長岡京は、見捨てられることになった。
……平安京の場所も秦氏の根拠地だった。清麻呂の提唱による遷都だった。長岡京とおなじく、清麻呂がかげの立役者であり、天皇の側近として立案した。
▽154 松尾神社は、秦忌寸都理が創立し、そこにまつる六杵嶋姫命はかれが豊前の宗像神を松尾にうつしたもので……〓〓【秦氏の足跡もおもしろいか】
▽159 桓武天皇の政治の特徴は「軍事と造作なり」。蝦夷討伐と新都の造営にあった。天皇の専制を可能にしたのは、藤原百川・永手・良継などが前代に世を去り、外戚に強力な藤原氏が存在しなくなったためもあるだろう。
▽164 秦氏の氏寺として名高い広隆寺〓〓 かつては、いまの北野神社や平野神社のあたりにあったらしい。
……和氏とならび、桓武朝に、勢力をのばしたのは百済王氏。
▽168 帰化人は武力にすぐれていたが、とくに百済王は有能な武将を多くだした。
▽169 坂上氏も和氏の同族で、大和の高市郡の倭漢氏の一族である。桓武天皇のもとで活躍するのは苅田麻呂と、その子の田村麻呂である。……この帰化人も、武力によって、王権を支えた。
田村麻呂は父の地位と職務をうけつぎ、それを発展させた。桓武の二大政策のひとつである蝦夷征討は、かれが支えたといっても過言ではない。……はじめての征夷大将軍に。
▽177 秦氏 ほかとちがって新羅系で、官人としては高位にのぼらず、あくまで殖産的氏族として、在地に隠然たる力と富をたくわえていた。……この氏の人数は、古代氏族のなかでも一番多いことはまちがいない。……非官人的な土豪。
……鴨川や桂川にわたる氾濫平野の開拓の主力となり、富をきずいた。
……秦氏は、その財力と武力によって王権とむすんだといえよう。
……長岡・平安両京は、秦氏の財力をかりて営まれた
▽186 桓武の側近グループのほとんどは帰化民族である。
……和気氏も、桓武政権をささえる土豪的ブレーンの一人であった。
土豪的な新官僚グループ
▽191 清麻呂が河内にたてたという「神願寺」の原型が、和氏が若狭にたてていた「神願寺」にあるらしい。
▽196 清麻呂が山背の葛野に都をうつすことを提唱したときも、秦氏とのあいだに、了解が存在したことはたしかだ。清麻呂とふかいかかわりを生じた宇佐神職団も、秦氏を背景にもっていた。清麻呂の行動には、二重にも三重にも、秦氏が関係していた。
▽203 788年には、河内・摂津の境に川を掘り、堤をきずき、河内川をみちびいて西ノ海に通ずれば、肥沃な土地をうるおすことができると考え、23万人あまりの人夫を発し、……事業を遂行した.この工事は8世紀の土木事業としては最大のものに属する。地方官として、みずからおさめる土地の実情に通じ、それだけの才幹があったればこそ、これだけの事業ができたのである。
▽204 清麻呂のたてた神願寺、それをうけついだ高雄の神護寺を舞台として、平安仏教の創始者である最澄と空海が登場する。2人の僧は、ともに和気氏を外護者として登場。はじめ最澄をひきたて、桓武に推薦したのは清麻呂であり、唐にゆくのは広世のはからいによるもので、帰国後、高雄山寺を中心に天台の法門をひろめ、叡山に大乗戒壇をたてられたのも広世の斡旋によるものだった。空海も高雄山寺で真言の基礎をかためるが、力をつくしたのは真綱と仲世であった。
和気氏は、清麻呂とその子の広世・真綱・仲世の2代にわたって、仏教界の革新につとめた。
……清麻呂が道鏡事件で宇佐にいたったとき、八幡神が、皇位と国家を安んずるため、仏力のたすけをかりたいので、一伽藍をたてるようもとめた。この神願をはたすため、780になって、光仁天皇に神願寺をたてたいと願い、781年、桓武天皇は即位と共に、この旨を天下に詔した。延暦年中に清麻呂は寺をたて神願寺と名づけたので、桓武はこれを定額寺に加えた。
……ところが土地が低く、砂や泥が入って、寺地としてよくないので、清麻呂が死んでから、824年、子の真綱と仲世が奏して高雄寺をこれにかえて定額寺とし、「神護国祚真言寺」と名づけたというのである。
最初の神願寺はどこであったのかはわからない。
……神願寺がいとなまれているとき、高雄山寺は存在していた。……おそらく799年に清麻呂が死んだとき、高雄山に墓所をさだめ、そこを寺としたのではないか。
▽212 大宝令の僧尼令では、寺院のほかに道場をたて、衆をあつめ、罪福をとくことや、仏法の陀羅尼のじゅじによらないで、「小道巫術」によって病をなおそうとすることは、かたく禁じられていた。この政策に一大変更をもたらしたのは光仁天皇の即位の直後にだされた詔勅である。……山林仏教は公然とみとめられ、その政策は桓武天皇にひきつがれた。
▽214 梵天と帝釈天という護法神を中心とした梵釈寺=山林寺院をたてることで、天武系の天皇が奈良でいとなんだ、四天王という護国神を中心とする四天王護国之寺=都市寺院に対抗したものとみられる。また、南都の法相宗が、諸法の真相にたっするには、種姓によって先天的な差別があると考えたのをしりぞけ、天台宗では「一切衆生、悉く仏性あり」とし、衆生は生身のままで成仏できると考えたのも、双方の仏教教理のちがいを示している。
それまでの都市的な官僚貴族でなく、在地の土豪や民衆のがわからの一つの発想法がみとめられるのではないか。
▽218 高雄での最澄の法門は、桓武と広世の死によって情勢が変化する。反対に、空海が807年に帰朝。空海の時代に。広世の死によって最澄が有力な外護者をうしない、高雄をはなれる原因になったのだろう。これにかわって、空海の外護者として、真綱が登場する。
▽223 さきに最澄からはなれた勤操も、天台戒壇設立に反対して最澄を攻撃した護命も、2人とも秦氏だった。
2人がともに最澄をはなれ、空海を支援したのは、和気氏が最澄から空海へうつったことと軌を一にするようだ。
▽226 空海は、最澄とちがって、南都をもつつみこむ幅の広さをもっていた。
空海は、弘仁年間、嵯峨天皇に接近。816年、嵯峨天皇より紀伊南山を請い、高野山の四至をさだめ、823年、桓武がたてた新都の鎮護である教王護国寺を東寺とあらためて天皇より賜った。
かれはずっと高雄にあって、高野山と東寺を支配する。高雄山寺が定額寺とされると、かれらはこれを空海に付し、空海は高雄にあらたに灌頂堂・護摩堂をたてて「神護国祚寺」、つまり神護寺と名づけた。831年、弟子に神護寺と東寺をゆずり南山(高野山)にはいるまでそこに住んでいた。
このように、和気氏は2代にわたって最澄・空海の外護者となり、革新的な平安仏教の創立につくした。和気氏は歴史の推進者だった。
▽234 和気氏の経国的性格。民政においても、農民的立場にたつ施策をおこなった。私墾田を故郷の百姓をたすけるために提供し、国家財政をたすけ、みずからの俸禄を貧民にあたえ……。
▽242 清麻呂とその子の広世・真綱・仲世らは、平安京の造営、平安仏教の創造、大学寮の復興、民政の改革と、この時代の重要な事件のすべてにおいて、実現につとめた。
▽244 清麻呂は799年に67で死去。姉の広虫は1カ月前の正月に70で死んだ。
……清麻呂の墓所は高雄の神護寺にある。というよりは、清麻呂の墓所を、平安京の西北部の高雄にさだめたとき、そこが山寺となったといえるかもしれない。
▽246「護王神社誌」によると、その墓碑は、明治31年3月、清麻呂に正一位の極位をおくったとき、勅使として京都府知事が参拝したのを記念して、4月、高さ1.6メートル、幅82㎝の自然石の墓碑をたてたのである。その碑の下に、おなじ刻文の銅板墓誌が埋められてあるという。
高雄山内に清麻呂の霊社があり、これを護王善神とよぶ。明治7年、護王社を別格官幣社とさだめ、8年、勅使をつかわして、列格の奉告祭をおこなったが、明治19年、京都の護王神社に遷座の儀式をおこなった。このとき、広虫・藤原百川・路豊永の3人も合祀した。
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