■河出文庫251208
都では追儺や御霊会のように鬼を魔物として退治する祭りが盛んだが、地方ではなまはげのように鬼(来訪者)を歓迎する祭りが多い。
ヤマトでは、古来の神を悪鬼として追いやり(追儺)、新しい神に従うものはヤマト人とされた。従わぬ者は「まつろわぬ者(まつりに参加しない者)」として排除した。まつろわぬ者が信仰する神すなわち「鬼」は、ヤマトの国教である仏教によって、地獄の番人に落とされた。
東国には、鬼を社名にする神社が多い。能登の岩井戸神社(猿鬼の宮)もそのひとつだ。「鬼渡神社」は18社のうち15社が福島県にある。
大宮の氷川神社の摂社・門客人神社はもとはアラハバキ神社とよばれた。アラハバキはヤマトに討伐された側の神だった。氷川神社の祭神がスサノヲと確認できる文書は江戸時代までしかさかのぼれず、アラハバキこそが氷川神社の祭神だったという説もあるという。
源頼光が退治した酒呑童子は「元々われわれは先祖伝来の地である比叡の山にすんでいたのに、伝教大師という悪人がやってきて、われわれを追い払って延暦寺を建てた」と訴えた。
東国人にとっては鬼は神とほぼ同義だった。これら「まつろわぬ神」は縄文の神々であり、鬼や天狗や河童など、各地で独特の信仰や伝承を生みだした。ユネスコ無形文化遺産となった「来訪神の祭り」のナマハゲやねぶたも、本来は「来訪神」ではなく、もとからの土俗神だった。
岡山の温羅神社(吉備津彦神社末社 岡山市北区一宮)の温羅は、外国から飛来して製鉄技術をもたらした。崇陣天皇は、吉備津彦命を討伐軍の将として温羅を破った。これが「桃太郎」のモデルという説もある。温羅は、製鉄技術によって豊かさをもたらした存在であり、温羅が悪事を働いたという伝承はない。人々に親しまれていた。
鬼は、福をもたらす「かみ」だったのに、まつろわぬゆえに貶められて悪鬼とされたのだ。
一方、「怨霊」は鬼とはちがい、都を中心に跳梁跋扈する。
歴代天皇で唯一臣下に暗殺されたのが崇峻天皇で、その後、蘇我馬子の姪の推古天皇が即位し、馬子の甥の厩戸皇子が皇太子になる。崇峻の第3皇子の蜂子皇子は北に逃れ、墓は出羽三山神社神域内にある。崇峻や物部氏の怨霊を蘇我氏らはおそれた。
蘇我氏は乙巳の変まで4代110余年にわたって栄華を極め、29代欽明から34代舒明まで蘇我系の天皇だった。
蘇我一族は、645年の乙巳の変で虐殺されて怨霊と化す。
明治17年、1200年間の時を経て法隆寺夢殿の厨子がひらかれ、等身大の聖徳太子像としてつくられた救世観音像が開陳された。光背が観音像の後頭部に大きな釘で深々と打ちつけられている。梅原猛は「呪いの人形」と評し、法隆寺は蘇我氏といっしょにほろぼされた聖徳太子一族の怨霊を鎮める施設だと説いた。
法隆寺と四天王寺で奉納される舞楽「蘇莫者」の踊り狂う怪物は、四天王寺は物部守屋で、法隆寺は蘇我入鹿だという。飛鳥時代は、怨霊の祟りを怖れ、両寺において鎮魂と祟り鎮めをおこなう時代だった。平安時代になっても怨霊をおそれ、神泉苑において全国の国の数である66本の鉾を立て、池に納めて厄払いとしたのが祇園御霊会のはじまりだった。
「鬼門」や「北枕」という信仰の起源はヒミコの時代にあるという。
「ヒミコの鬼道(鬼神道)」とは、原初的な神道祭祀と道教との複合であり、当時の最先端の科学技術だったという。道教の「天円地方」(天空は丸く、大地は四角)という宇宙観をもとに、ヒミコが「前方後円墳」を発明し、以後300年つづく国家的流行の手本になった。「円=天」において神霊をうけつぎ、「方=地」において即位を宣言する。これが「天孫降臨」の儀式であると解釈する。「北枕」という風習はわが国の風習にはなかったが、道教の風習をとりいれて前方後円墳から被葬者は「北枕」になった。
東北(丑寅)の方向を「鬼門」とするのは日本、とりわけ都で強く信じられた。寺院の鬼瓦は「鬼門除け」であり、御所の東北角だけ塀が凹ますことで、鬼門を欠けさせていた。
江戸の鬼門は、神田明神と浅草神社が表鬼門の守護として設定された。神田明神は、大手門前にあった将門明神社、通称・片目明神を現地在地にうつし、守護神として祀った。江戸徳川の鬼門守護は、鬼神・将門こそ第一であった。表鬼門はさらに先に三社祭で有名な浅草神社がある(浅草寺ではない)。裏鬼門の守りは山王日枝神社だった。鬼門守護の最終施策は水戸徳川の設置だ。家康は水戸家は鬼門守護の役割があるため「将軍継嗣」から除外した。ところが最後の将軍は、水戸徳川の慶喜だった。「鬼門の将軍は、幕府の滅亡を招いた」とも言われた。
家康は、信長・秀吉の「風水断ち」を徹底し、「風水断ち」という呪術的手法によって天下を取ったがゆえに、家康はそれをおそれた。
そこで鬼門の「ダミー」をつくった。鬼門軸から30度ずれている寛永寺と増上寺があたかも鬼門軸であるかのように浸透させた。何者かが風水断ちとして寛永寺と増上寺を破壊しても、真の江戸風水は無傷であるようにした。ちなみに、東海村原子力発電所は東京の鬼門にあたるという。
桃太郎が子分に猿・雉・犬をえらんだのも鬼門に関係がある。「鬼門」は東北(丑寅)の方角で、その正反対の南西は「正」の方向に、申・酉・戌となる。鬼に立ち向かうための「正義」は、猿と雉と犬が体現する。わが国では鳥といえば雉のことだった。
鬼門の方位・丑寅は一体で「艮(うしとら)」とも称する。「ごん」とも読む。これを五行の「金」と重ね合わせて「金神」が生まれた。安倍晴明はこれを最強の祟り神とした。金神は道教にも神道にもないが、俗習として広まり、江戸期には暦の迷信の代表格になった。金神を最高神として主祭神にしたのが金光教であり、「鬼門の金神」が世の中の立て替えをおこなうとしたのは大本教だった。
人々が鬼門を信じなければ、延暦寺も神田明神もなかったかもしれない。
迷信とはいえ1000年以上信仰されることで、鬼門は日本人の心身と一体となった。
「鬼」という観念でかくされた縄文の信仰を色濃くとどめているのは熊野だ。ゴトビキ岩はその名で呼ばれるようになったのは近年のことで、以前は「天の磐盾」と称されていた。
熊野3社は本来、本宮大社=家津御子大神、速玉大社=熊野速玉大神、那智大社=熊野夫須美大神を祀るもので、3神とも記紀には登場しない。とくに本宮の家都御子大神は古い縄文神だという。
熊野の正体は、「隠(おん・おぬ)」であり、「神野(かみの)」である。それは「鬼(おぬ・かみ)」と同一だった。太古より、鬼が隠れすむとされていた。
三輪大社の祭神であるオオモノヌシは、オオクニヌシでもオオナムヂでもないと筆者は断じる。
オオモノヌシは丹塗りの矢となって流れを下り、用足し中のセヤダタラヒメの女陰を突いて懐妊させる。生まれたのが神武妃となる。上賀茂神社の神話とおなじだ。
「箸墓伝説」では、百襲姫は夫のオオモノヌシが夜しか姿を見せないのでいぶかると、小さな蛇が姿をあらわす。驚いて叫んだために、オオモノヌシは恥じて三諸山(三輪山)へのぼってしまう。姫は悔やんで箸で女陰をついて死んでしまう。このため埋葬された墓を箸墓と呼んだ。
「オオモノヌシ」は「偉大なる物部(もののふ)の主」の意味で、物部氏の氏祖であるウマシマジの伯父で後見人である長髄彦(ながすねひこ)であると筆者は主張する。三輪山の神は長髄彦であり、崇神王朝に祟りをなした「神宝」は、長髄彦の御霊代である天叢雲剣である。正体を蛇(おろち)としているのは「祟り神」としておとしめる意図があった。かつて存在した三輪王朝は長髄彦王朝であり、オオナムヂを鎮魂するために杵築(出雲)大社を建立したように、長髄彦を鎮魂するために大神神社を建立した、と筆者は推測する。
ただ、長髄彦はの主人は饒速日命であり、神武に降伏することを選んだ饒速日命に殺される。軍事部門の総大将にすぎないナガスネヒコが祭神になるのは不自然ではないだろうか。
それより村井康彦が言うように、出雲勢力が大和に進出して邪馬台国をつくり、出雲族の神として大神神社をまつったと考えたほうが説得力があるような気がする。
「あさま山」は全国にあり、富士山ももとは浅間山と呼ばれていたようだという。「あさま」とは火山の古語で、火山はすべて「あさま」であった。
この説明は納得できるが、
−−「あさま」は「あそま」から転訛したものであり、「あそま」は「阿蘇」からきている……ほかの「あさま山」は、いわばそのミニチュアであった−−
というのは、逆のような気がする。あさま、という言葉が先にあり、火を吹く阿蘇山をも「あそ」と呼んだと考えたほうが理解しやすいのではないか。鶏と卵の関係かもしれないけど。
====
▽20 将門の首のない身体は、茨城県の延命院境内(坂東市)に葬られていた。現在「将門山」と呼ばれている。江戸の地(おそらく首塚)に合祀されるまでは、将門の三女である如蔵尼が菩提を弔っていたという。のちにほど近い場所に、国王神社が創建されて、将門が祀られている。
▽21 新皇 徳川家康が利用した。京の朝廷を軽んずることによって、関東の将軍家に目を向けさせようという意図である。しかしその解釈の度がすぎて、明治維新以降は「朝敵」の汚名をこうむることになる。
……神田神社にとって、将門が主祭神であるっことは、その信仰の様子からも明らかであろう。
▽26 「桃太郎の鬼退治」も、ヤマトによる地方豪族の征討物語をシンボライズしたものと解釈しているのだが、だとするならば桃太郎は古代の天皇か征夷大将軍だろう。
……鬼と化した古き血筋の者たちはヤマトの圧政に反旗を翻したが鎮圧された。その痕跡は「鬼祭り」として伝えられた。ユネスコ無形文化遺産となった「来訪神の祭り」とはこれらの痕跡である。ナマハゲもねぶたも、実は来訪神などではなく、もとからの土俗神なのである。ヤマトこそが来訪者であって、それなのに、土着の者たちは「まつろわぬ」者とされてしまった。
▽28 歴代天皇で唯一臣下に暗殺されたのが32代・崇峻天皇。
▽32 崇峻の暗殺後1カ月で推古天皇として即位する炊屋姫と、その皇子として登場する厩戸皇子は、大きな利を得たことになる。推古は馬子の姪、厩戸皇子は甥である。
▽33 四天王寺は物部守屋についで、崇峻帝の御霊を鎮めた。四天王寺の守護社である河堀稲生神社(天王寺区大道)と堀越神社(茶臼山町)にも崇峻帝の御霊をまつり、二重に鎮魂した。〓
▽35 第3皇子の蜂子皇子は、北に逃れた。墓は、出羽三山神社神域内にあって、ここは東北地方で唯一の皇族の陵墓である(宮内庁管理)。
▽39 乙巳の変までは、蘇我氏は4代110余年にわたって栄耀栄華を極めた。飛鳥は「蘇我氏の時代」。権力の源泉は天皇家との姻戚関係を構築したこと29代の欽明天皇から34代・舒明天皇まで「蘇我系」。藤原道長の時代を凌駕するものではないか。
▽43 明治17年、アメリカ人哲学者のフェノロサは、明治政府の命令書をもって法隆寺を訪ねた。目的は、夢殿の中央にそびえ立つ大厨子を開けさせること。1200年もの間、秘仏として誰の目にも触れなかった像が納められているという。推古天皇の御代に、等身大の聖徳太子像としてつくられたと言われ、この厨子を開けるとたちまち地震がおこり、この寺は崩壊すると言い伝えられていた。……綿布で幾重にも包まれた高さ7尺余のものがあり、その重なる布をといていくと途中で白紙がはさんである。これが明治初年に雷鳴への恐怖で中断されたところであった。
……その覆っていた白布の長さは500ヤードに達したという。
これが国宝・救世観音像である。容貌は聖徳太子そのままに、姿形も等身大に、観音像として造られたというもの。
「救世観音は呪いの人形」と梅原猛。光背が、観音像の後頭部に、大きな釘で深々と打ち付けられているのだ。その手には、虐殺滅亡させられた太子の息子たちの骨が入った舎利瓶が持たされているのだとは梅原氏の説である。
法隆寺は聖徳太子の怨霊を祀り鎮めるための施設であるとの説とともに、救世観音像は呪いの人形だと梅原氏によって主張された。
▽47 高村光太郎「救世漢音像も例によって甚だしい不協和音の強引な和音で出来てゐる。顔面の不思議極まる化け物じみた物凄さ」……さながら「鬼の像」ではないだろうか。
……怨霊を鎮魂するために法隆寺と四天王寺で奉納される舞楽「蘇莫者」の踊り狂う怪物は厩戸皇子でもなければ山の神でもない.正体は鎮魂すべき怨霊である。四天王寺の蘇莫者は物部守屋であるが、法隆寺の蘇莫者は蘇我入鹿である。
……飛鳥時代とは、怨霊におののき、その祟りを怖れ、この両寺において鎮魂と祟り鎮めおこなった時代である。
▽49 関東で死後「鬼」になった人物といえば第一に将門であるが、関西では菅原道真となる。
▽58首塚大明神 西京区大枝沓掛町 酒呑童子
……源頼光らは酒呑童子の首を証拠にせんと都に帰る途中、老の坂峠(首塚大明神付近)でひと休み。道端の子安地蔵が、鬼の首のような不浄なものは天子さまのおられる都へはもっていくことはならぬと言われた……丹後の大江山からもってきた首が急に重くなり、持ち上がらなくなってしまった。もちかえることをあきらめ、首を埋めて首塚をつくった……
酒呑童子は……元々われわれは先祖伝来の地である比叡の山にすんでいたのに、伝教大師という悪人がやってきて、われわれを追い払って延暦寺を建てた、と批判した。
▽62 温羅神社(吉備津彦神社末社 岡山市北区一宮) 外国から飛来(来訪)して製鉄技術をもたらしたとされる。それによって、吉備は刀剣などの名産地となる(備前長船など) 温羅は、難攻不落の鬼ノ城を居城として吉備一帯を支配するようになった。統治権をうばわれた土着の者がちは、奪い返すべく朝廷へ訴えた。時の崇陣天皇は、四道将軍の一人であった吉備津彦命を討伐軍の将として差し向けた。
……「桃太郎の鬼退治」のモデルと言われているが、とくに根拠は見あたらない。全国各地においても、ほとんどの鬼は悪鬼とされて退治される運命にあるから、モデルというなら、すべての鬼がモデルであろう。桃太郎とは、征夷大将軍をはじめとする朝廷配下の武人たちのことであろう。「桃太郎」とは、「国家統一譚」の一種であるだろう。
〓吉備津神社(岡山市北区吉備津)が、吉備津彦の墳墓で、吉備津彦神社(北区一宮)は温羅の墳墓であろうと私は推測している。〓
▽68 鬼を社名にする神社。多くは東国。「鬼渡神社」総数18社のうち15社は福島県に鎮座。……その祭神は「阿須波神」と「波比伎神」がほとんど。年神とも土地神ともされる地方神。
(柳田の岩井戸神社(通称 猿鬼の宮)
▽79 節分行事は本来は大晦日の大祓におこなわれる行事だが、西暦にかわったときに、2月の立春の節分行事として定着した。立春のための年越し日である節分と、年越しの祓え行事としての追儺が、つごうよく融合したものが現在の節分である。
▽80 大宮の氷川神社の摂社、門客人神社 もともとの呼称はアラハバキ神社。祭神もアラハバキ神であったという。遮光器土偶そのものであったという説や、平将門に先んじて挙兵した反乱軍の首領であったという説など、いくつか伝えられている。いずれにせよ、ヤマトに討伐されたことはまちがいないだろう。
氷川神社そのものも、元々はアラハバキ神社であったという説もあって、文献上も祭神がスサノヲであるのを確認できるのは江戸時代までしかさかのぼることができないためもある。アラハバキ伝説は、それよりもはるかに古い。氷川神社は武蔵国を中心に関東地方でのみ信仰されている神であるが、その祭神が記紀神の代表格の一つであるスサノヲであるのは、いかにも政治的な作為が感じられる。
……少なくとも、東国の人々にとっては鬼は神であると……
▽84 怨霊と鬼は別だったが、能が、怨霊を鬼にした。
能曲は、その大半が怨霊をテーマにしている。そのうちのいくつかは怨霊を鬼の姿とした。演出手法は「ツノのある鬼の面」を着装することにあった。その面こそは、「般若」である。
▽86 長い歴史のなかで、さまざまな物や事を大陸から輸入してきたが、「纏足と宦官だけは輸入しなかった」とは、しばしば言われることである。
▽96 祇園御霊会は、神泉苑において大々的におこなわれたのが発祥とされる。南北4町、東西2町の総面積8町におよぶ大庭園だった。現状の境内地の約10倍強で、東京ドーム2個半に掃蕩する。
……いまは二条城の南側に位置する小規模な庭園として、真言宗東寺派の寺院になっているが……現状は往時の6%しかない。
▽101 早良親王をはじめとする6人の怨霊を鎮めるための御霊会。神泉苑で。全国の国の数である66本の鉾を立てて、それを神泉苑の池に納めて厄払いとする。この催しが発展して、祇園祭となった。
▽109 「怨霊」と「慰霊施設」の代表例
聖徳太子ー法隆寺
オオクニヌシー出雲大社
オオモノヌシー大神神社
井沢正彦は、ヒミコー宇佐神宮、もそのひとつとしている。
……法隆寺と出雲大社については、通常は間口を奇数割りにすることで中央の出入り口を設けるが、両社は偶数割になっているため中央が封鎖される構造になっている。この構造は日本には両者をふくむ数例しかなく、いずれも怨霊を封じるのが目的で建設されている、というものである。(梅原)
▽117 前方後円墳 鍵穴のような形をした巨大古墳。
……私の推理ではヒミコは前方後円墳の第一号の被葬者である。おそらく自らその地を選定し、自ら基本設計をおこなったと私は考えている。ヒミコの思想・宗教が前方後円墳の特異な形を発明し、以後300年つづく国家的流行の手本になった。
▽122 「神道」という言葉じたい仏教が入ってきてから対抗的に作られた。
……原初的な神道祭祀と原始道教との複合であり、それが「ヒミコの鬼道(鬼神道)」である。それが前方後円墳をつくる原理になったと考えるべきだろう。ヒミコにたいする「呪術師」「妖術使い」というのは不当な誹謗と言ってよい。ヒミコは、当時最先端の科学技術を習得していたと考えられるからだ。
……道教には独自の宇宙観がある。「天円地方」という。天空は丸く、大地は■であるというとらえかたである。この思想が「前方後円墳」の根拠であろう。
……「円=天」において神霊をうけつぎ、「方=地」において即位を宣言する。これが「天孫降臨」の儀式であり、「天降り」であろうと、私は考えている。
▽124 前方後円墳から被葬者が「北枕」になる。それ以前にはわが国には北枕の風習はほぼない。しかし道教においては古来定着している風習である(北枕と仏教は無関係)
▽127 「鬼門」という言葉と、それが東北(丑寅)の方向を示すことは常識になっている。
……「鬼門除け」と称する手法も数多く発生。寺院の屋根に鬼瓦をおいて鬼門除けとした。
京都御所の「猿が辻」 御所の東側の長い塀を北の端までたどると、突然切れてしまう。東北の角にあたるカ所が、角の部分一間ほどを内側に凹ませて「欠け」としている。つまり、鬼門にさわっていない、という設計なのである
▽131 京都御所が現在の場所になったのは1337年の光明天皇(北朝)の時から。本来の平安京の内裏は真西へ1500メートルの小さな公園。794年から543年間は内裏はこちらにあった。
▽133 賀茂別雷 神山山頂の磐座に降臨し鎮座したとつたえられる。
「立砂」は神山をかたどったものとされている。……鬼門などに砂をまいたり、清めの砂と言ったりするのはこれがはじまりで、地鎮祭の「盛り砂」も、これが起源とされる。
▽136 糺の森 境内は12万平方メートル。元は495万平方メートルあった。
▽晴明神社(上京区清明町堀川通一条上ル) 平安京の北の端から一步外にある。身分の高い公卿が邸宅を京の町の外にかまえていたことはありえない。
▽139 江戸の鬼門 神田明神、浅草神社が表鬼門の守護として設定されたが、実はその先にも「仕込み」があった。
……神田明神 それまで大手門前にあった将門明神社、通称・片目明神を現地在地にうつし、守護神として祀った。元の跡地は首塚として残った。
明治政府は祭神を将門から大己貴命にかえてしまうが、(徳川の風水断ち) 本来は将門のみを祀る社である。江戸徳川の鬼門守護は、鬼神・将門こそ第一であった。表鬼門はさらにその先に三社祭で有名な浅草神社がある(浅草寺ではない)。
裏鬼門の守りは、山王日枝神社である。
……鬼門守護の打ち止めは水戸徳川の設置である。「鬼門守護」の最終施策である。家康は「将軍継嗣についてのみ水戸を除外する」としていた。それは「鬼門守護」の意味を熟知していたからである。
ところが最後の将軍は、水戸徳川の慶喜だった。「鬼門の将軍は、幕府の滅亡を招いた」「家康はこれを怖れていた」とも言われる。
▽143 家康は、信長・秀吉の風水断ちを徹底的におこなった。「風水断ち」という呪術的手法によって天下を取ったがゆえに、家康はそれをもっともおそれた。
そこで「ダミー」建設をしくんだ。これこそが鬼門の守りであると大いに固持した。鬼門軸から30度はずれている寛永寺と増上寺があたかも鬼門軸であるかのように巧妙なデマコギーを流布し浸透させた。
……家康の死後、何ものかが風水断ちとして寛永寺と増上寺を破壊しても、真実の江戸風水は無傷である。
……なお、東海村原子力発電所が、東京の鬼門にある。
▽145 日本の歴史の重要なキーワードのひとつが「鬼門」であることは否定できないだろう。
▽146 桃太郎がなぜ、猿・雉・犬をつかって鬼退治するか。どの地域の伝承においても同じ。
……「鬼門」は東北(丑寅)の方角で、その正反対の南西は「正」の方向に、申・酉・戌となる。鬼に立ち向かうための「「正義」は、猿と雉と犬が体現するのである。わが国では鳥といえば雉のことであった。
つまりおとぎ話の「桃太郎」とは「鬼門封じ」のことである。
▽148 鬼門の方位・丑寅は一体で「艮うしとら」と称する。「ごん」とも読む。これを五行の「金」と重ね合わせて「金神」が生まれた。これを最強の祟り神としたのは安倍晴明とされる。金神は道教にも神道にもない。が、俗習としてあまねく広まり、江戸期には暦の迷信の代表格のようになった。……金神を救済の最高神として主祭神にしたのは金光教であり、「鬼門の金神」が世の中の立て替えをおこなうとしたのは大本教である。
▽151 だれも鬼門を信じなければ、延暦寺も神田明神もなかったかもしれない。
……鬼門は、1000年以上日本人に信仰されてきたもので、日本人の心身と一体となっているのではないか。
▽153 2018年、ユネスコで日本の「来訪神」が無形文化遺産に登録された(能登のアマメハギも)。……ほとんどが鬼の面をつけて、人々を脅したり追いかけ回すという設定の祭りなので、鬼こそが日本の神であり、日本の神はみな、鬼の姿をしていると思いこんでしまう人を大量生産することになった。
▽156 欧米では、外からの来訪者は敵とする。だから、家も城も町も要塞とかする。日本では逆で、外からの来訪者は福音をもたらす者である。だから住宅には塀も間仕切り程度のものしかもうけず、垣根越しにあいさつができる。
▽157 鬼を怖れたのは京都の文化。鬼門信仰が肥大化したのも京都ならでは。……のちに江戸徳川でも鬼門信仰は発展するが、京都の亜流であって、江戸人は京都人ほど鬼門を信仰していない。
▽158 記紀の系譜とは無縁の土俗神。これら「まつろわぬ神々」とは縄文の神々である。……これらの神々を殺すことで、神武軍は征服をなしとげていく。「神殺し」こをは征服の証なのだ。
▽161 「まつろわぬ」とは、「まつりに讃歌しない」という意味であって、転じて「中央の意向に従わない」という意味になった。まつろわぬ神々は、鬼や天狗や河童など、各地で独特の信仰や伝承を生みだしている。
……記紀に最初に登場する異形の神は「天狗」である。
記紀神の天狗に対して、民間信仰で代表的な異形の神は「河童」だろう。
▽164 異形の土俗神「案山子」 ……春祭りで山から降りて「田の神」となり、秋祭りで山に戻って「山の神」になるという循環神の信仰。そのような九州地方の「田の神さあ」とならんで「案山子」は田の神の代表的なものである。
▽167 富士山の神はコノハナサクヤヒメではない。本来の神は「アサマ大神」さらに古くは「フジ大神」と呼称する神である。どちらの神名も日本神話には見あたらない。
▽170 スサノヲを祭神とする神社は、全国に1万3000社ある(境内社もふくむ)。なかでも「八坂神社」が一番多くて2500社。
▽172 都には鬼は魔物であるとして退治する祭りが盛んで、地方では鬼を神として歓迎する祭りが多い。追儺や御霊会は都の祭り、なまはげ、呉のやぶ、などは地方の来訪神を信仰する祭りである。
▽173 古来の神を退治させ、悪鬼として追いやり(追儺)、新しい神を信仰するように仕向けたのだ。
新しい神に従うものはヤマト人とされ、従わぬ者は「まつろわぬ者(まつりに参加しない者)」として排除した。まつろわぬ者が信仰する神すなわち「鬼」は、ヤマトの国教となった仏教によって、地獄の番人に落とされたのだ。
▽177 鬼という観念でかくされた縄文の信仰がとりわけ色濃くとどめているのは熊野だろう。……ゴトビキ岩 戦前には現在の社殿も石垣も存在しなかった。岩の手前ではなく、後ろにそれらしきものがあった。538段におよぶ石段は頼朝の寄進とつたえらられる。……ゴトビキ岩と呼ばれるようになったのは近年のことで、それ以前は「天の磐盾」と称されていたようである。
▽181 熊野の3社は本来は、本宮大社=家津御子大神、速玉大社=熊野速玉大神、那智大社=熊野夫須美大神、を祀るものだった。
……古くは本宮と速玉の2社のみだった。3社体制が成立したのは11世紀後半の、平安時代も半ばを過ぎてから。……大正期の絵はがきなどでも、もっぱら本宮と速玉の2社を前面に出して、那智の滝は名称旧跡扱いになっており、地元での認識を示しているだろう。
▽181 熊野の3神名とも記紀の神話に登場しない。とくに本宮の神はまったく独自の神のように見える。
▽186 家都御子大神
この地で古来信仰されてきた縄文神のことだろう。
……熊野の正体は、「隠(おん・おぬ)」であり、「神野(かみの)」である。それは「鬼(おぬ・かみ)」と、大和言葉では同一であった。おそらく太古より、鬼が隠れ住む場所とされていたのだろう。
▽188 オオモノヌシは、オオクニヌシでもオオナムヂでもなく、別の神である。……
オオモノヌシいは丹塗りの矢に姿を変えて流れを下り、用足し中のセヤダタラヒメの女陰を突いて懐妊させる。そして生まれたのが神武妃となる。
また「箸墓伝説」では、百襲姫は夫のオオモノヌシが夜しか姿を見せないのでいぶかると、小さな蛇が姿をあらわす。驚いて叫んだために、オオモノヌシは恥じて三諸山(三輪山)へのぼってしまう。姫は悔やんで箸で女陰をついて死んでしまう。このため埋葬された墓を箸墓と呼んだ。
……オオモノヌシは、巨大な神でありながら、実は三輪系統の神社でしか祀られていない。
▽190 オオモノヌシは「偉大なる物部(もののふ)の主」の意味で、それは物部氏の氏祖であるウマシマジの伯父であり、後見人である長髄彦(ながすねひこ)である。
……こんぴらさんの金刀比羅宮は大物主を祀っているが、これは明治の神仏分離の際に定めたものだ。もとは真言宗の寺院であったが、神社へと改宗した。その際に、古い伝承にもとづいて祭神を大物主とした。
……三輪山の神こそは長髄彦である。崇神王朝に祟りをなした「神宝」こそは、長髄彦の御霊代である天叢雲剣である。……正体をへびとしているのはその証だ。蛇体すなわちオロチと呼ばわるのは貶める意図があってのもので、その意図とは「祟り神」である。
……かつてこの地に存在した三輪王朝こそは、長髄彦王朝であろう。オオナムヂを鎮魂するために杵築大社を建立したように、長髄彦を鎮魂するために大神神社を建立した。両者ともに「縄文の神」である。
……ただ、伊勢の五十鈴川河畔に鎮座するまで聖地探しの旅があった。三輪山の檜原神社から発して滝原宮で仮宮をすごし、さらに東の聖地を見出すまでに多くの年月を要している。さらにそこから、依り代の剣はヤマトタケルに託されて、さらに東へ移動し、熱田に鎮座することになる。
▽199 日本三霊山 立山、白山、富士山
高野山は、本来この地は、丹生都比売神社(紀伊国一宮)の神体山=神奈備である。八つの峰に囲まれた盆地であって、単独峰ではないが、古来、特別な霊地聖地である。
……比叡山もそうだが、神道の霊地が仏教に奪われたものである。
……古寺大寺のほとんどは、もともとは縄文霊地に建っている。そして、街場に鬼がやってくるのは、これらの山からと相場は決まっている。
▽202 宇佐神宮の神体山の御許山
▽阿蘇山 わが国でもっとも古い浅間山であるだろう。「あさま山」は全国にあり、富士山ももとは浅間山と呼ばれていたと思われるが、「あさま」とは火山の古語で、火山はすべて「あさま」であった。「あさま」は「あそま」から転訛したものであり、「あそま」は「阿蘇」からきている。阿蘇は日本人に常に畏怖される山の筆頭であった。古来、大災害の脅威は阿蘇によるもので、ほかの「あさま山」は、いわばそのミニチュアであった。阿蘇には、怨念を体現したという鬼八伝説や、鬼たちが暴れまわる代わりに山嶺を積みあげたという伝承などがある。(逆では?)
▽207 縄文神ではないが、吉備にあらわれた鬼(温羅)は、製鉄技術をもたらした。豊かさをもたらして、平和に統治したのだろう。崇神天皇10年、吉備津彦命によって征討されて、この政変は「鬼退治」として大々的に広報された。しかし温羅が悪事を働いたという伝承は皆無であって、関連遺跡も吉備津彦よりはるかに覆い。つまり、地域の人々に親しまれていたからだろう。
……もともとの鬼は、福をもたらす「かみ」であった。まつろわぬゆえに貶められて悪鬼とされた。東北地方をはじめとして全国各地に残る「鬼まつり」は、元々の「おに」への思慕であり追憶である。
コメント