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妖怪と怨霊が動かした日本の歴史 なぜ日本人は祟りを怖れるのか<田中聡>

■笠間書院 251108

 源氏物語の怨霊の様子からときおこす。光源氏の最愛の妻の紫の上は、嫉妬にともなう怨霊にとり殺される。生霊という言葉は、紫式部が創作したとされる。
 清少納言は「枕草子」で、「病は、胸。もののけ。あしのけ」と書いた。「胸」は胸の病、「あしのけ」は脚気。モノノケはそれとならぶ病名だった。陰陽師が病がモノノケだと判断したら、僧侶が加持祈祷をした。
 記録にのこる最初に怨霊は、藤原氏の策謀によって妻子と共に729年に自害に追いこまれた長屋王のものだった。
 桓武天皇は長岡京に遷都するが、785年9月、新京造営の指揮者の藤原種継が殺される。犯人として大伴氏、佐伯氏を中心とする人々がとらえられ、首謀者は1カ月前に亡くなった大伴家持とされた。皇太子である早良(さわら)親王も連座したとしてとらえられる。桓武は、弟の早良ではなく自分の子の安殿(あて)親王を皇太子にするため、この機会を利用したとみられている。
 早良は乙訓寺で幽閉され、憤って十数日間も食事をとらず、淡路へ流される途中、淀川の高瀬橋あたりで死んだ。それでも赦されず、淡路に埋められた。早良らの怨霊への恐怖と水害によって長岡京は棄てられた。
 新たな平安京は、怨霊対策で、宮殿の南に神泉苑という池苑をおき、東西に東寺と西寺を建立、鬼門には延暦寺を配した。神泉苑は、後に疫神や怨霊の祭りがおこなわれた。
 貴族たちをなやませた疫神や雷神にくらべると、モノノケは現在の幽霊にちかい存在だ。奈良時代までの皇統は大陸の勢力や豪族たちの軍事力バランスのうえにあり、皇位争奪戦は大きな戦乱がともなった。だが貞観5年に御霊会を催した藤原良房が摂政となってからは、天皇と藤原北家のあいだに生まれた皇子のみが皇位継承権をもつようになり、争いは内輪もめになる。政争の変化を反映して、怨霊はミクロ化した。
 菅原道真は、宇多天皇に重用された。学問によって低い地位から異例の出世をとげ、娘たちを宇多天皇の女御にしたり皇子の斉世親王の室にしたりした。後継者に恵まれなかった藤原氏には危機だった。そこで、道真が醍醐天皇を廃して斉世親王を擁立しようとしたという疑いをでっちあげ、太宰府に左遷した。道真は太宰府で死ぬ。
 道真の恩を受けながら裏切った藤原菅根、怨敵だった藤原時平、時平の妹が産んだ保明親王……と、道真の宿敵やその縁者たちが次々に死んだ。清涼殿で公卿が雨乞いの相談をしていたとき、雷が柱を直撃し何人も亡くなった。そのショックで醍醐天皇も亡くなった。
 道真の怨霊は、宮廷内の政争から生まれたが、民間に信仰される御霊(疫神)としての威力も備える神となった。報復をはかる怨霊神と、災厄をまきちらす眷属は冥界の巨大な軍団となった。そして平将門の叛乱という、道真の怨霊に動かされた軍の蜂起が現実に起こった。
 将門と藤原純友の乱を鎮圧した勲功者たちの家系は武士(もののふ)の家となった。将門が討たれたことで「武者の世」への道が開かれた。天台座主の慈圓は「愚管抄」で、「武者の世」は怨霊にあやつられて実現した末法の世だと評した。
 保元の乱によって讃岐に流された崇徳院は、舌の先をかみ切って、流れでる血で、五部大乗経の奥に「日本国の大悪魔」になってやる……と記し、髪も爪も伸びほうだいにし、生きながらに天狗の姿になった、と「保元物語」はしるす。
 崇徳は父の鳥羽天皇から「叔父子」と呼ばれていた。鳥羽の祖父である白河院が、自らが愛した璋子を鳥羽に嫁がせたうえに、その後も密通をつづけ生まれた子だったからだ。鳥羽にとっては、建前は子だが、じつは叔父でもあったのだ。
 崇徳を愛する白河院は、鳥羽天皇を退位させて5歳の崇徳を即位させたが、白河の死後、鳥羽は反撃に出た。崇徳は譲位を迫られ、3才の近衛天皇が即位する。
 保元の乱で源義朝は、崇徳側についた父の為義、弟の頼賢らの首を斬った。810年の「薬子の変」以来、約350年ぶりの死刑が、武士の復讐という慣行にかこつけて復活された。保元の乱は、宮廷内の政争が武士の合戦によってはじめて決せられた事件だった。もはや政争は、宮廷内の座席争いではおさまらなくなった。
 慈圓は「日本国の運は尽きはて、大乱が起き、武者の世となってしまった」と記した。「武者の世」とは、怨霊たちがダイナミックに歴史を動かす時代だった。
 崇徳は、讃岐に流されて8年後の1164年に亡くなる。
 平家物語は最期の地を、実際とは異なる志度であるとする。志度は龍神信仰で有名な地で、その沖には竜宮があると信じられていた。
 危機の世に経典は海中深く竜宮に委ねられるという説が、崇徳院の怨念と結びつけられた。海底に沈められることで、世界の転覆と乱世の出現が可能になると信じられた。崇徳の呪いは、竜神の力だった。
 1176年、後白河院と藤原忠通の縁者で、院号をもつ者が4人つづけて亡くなった。翌年4月28日、大火で大内裏までが焼けた。後白河は崇徳と頼長の祟りのすさまじさを思い知り、讃岐院と呼ばれていた院に崇徳院という院号が贈られた。
 崇徳の霊は平清盛を出世させ、ヤマタノオロチを安徳として誕生させ即位させた。壇ノ浦で安徳天皇は二位尼に抱かれて海に沈む。彼女は三種の神器のうち、神璽(勾玉)を脇にはさみ、宝剣を腰に差して入水した。鏡は船に残された。勾玉は発見されたが剣は見つからなかった。
 宝剣の喪失は、妖怪にとっては慶賀であった。ヤマタノオロチの生まれかわりである安徳天皇は、世を争乱に巻き込み、剣とともに海に還っていった。
 1221年の承久の乱で敗れた後鳥羽は隠岐へ流されて1239年に亡くなる。生前から怨念による祟りが噂されていたほどだから、死後には怨霊-天狗となって天下を乱れさせた。1242年に北条泰時が悶絶死する。武家の権勢が天皇をしのいだとき、武家は天皇の怨霊を怖れなければならなくなった。

 一方、民間で盛況だった御霊会は、誰かの死霊というより疫神を鎮撫する祭礼だった。雷神や「狐」が信仰の対象になった。
 雷神は龍蛇神であり、降雨を支配し農業生産を支える土地に根ざした神だ。狐は市を支配し、流通するところで力を発揮する。平安中期以降に稲荷信仰と狐が結びつくようになって、狐と竜神が結びつく。稲荷信仰は雷神信仰でもあったからだ。
 狐は稲荷信仰に入りこみ、雷神と習合したことで権威を高めた。だが一方で「狐憑き」という妖怪のような存在でもありつづけた。

 江戸時代、「狐つきはうそ」という儒者にたいして、上田秋成は「世の中を見れば、狐や狸がつくことなど、いくらでも実際に起こっているではないか」と反論した。奉行所で人にとりついた狐が裁かれ、狐の言葉だけで捕らえられ、拷問される人もいた。不思議なふるまいをする者で、天狗とかキリシタンとかの風評が広がって捕らえられる例もあった。

 秀吉が野狐を殲滅すると伏見稲荷を脅したように、狐も公儀の管理下にあるべきとされた。戦乱のない徳川時代、町奉行が命じて(狐が)落ちるほどになっていた。
 だが幕末の混乱期になると、新手の強力な狐が現れる。
 1858年、アメリカのミシシッピ号によって長崎にコレラがもたらされた。1822年につづいて二度目の流行だ。3年近く全国に広まり、江戸だけでも死者15万とも20万ともいわれる。文久2年(1862)には、残留していたコレラ菌によるとされる3回目の大流行があった。
 はげしい疫病流行のなか、人々は妖怪じみた獣の姿を見た。三峯山には御犬(御札)を借りようと参詣者が殺到した。コレラを狐のしわざとみなす噂は各地に広まった。人々は、妖怪的な獣を使役して日本侵略を狙うアメリカやイギリスの謀略を想像した。
 明治期には、巣鴨病院に入院中の「狐憑(こひょう)症」患者113の症例を調べた報告書がつくられた。狐つきはありふれたものだったのだ。
 内山節によると、野山で狐にだまされることがなくなるのは、昭和40年ごろだという。

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▽20 モノノケとは病名でもあった。清少納言は「枕草子」で、「病は、胸。もののけ。あしのけ」と書いている。「胸」は胸の病の全般、「あしのけ」は脚気のこと。病がモノノケかどうか判断するのは、陰陽師。モノノケだとなれば僧侶が加持祈祷をした。
▽24 源氏物語のモノノケから説き起こす。紫の上はとりころされる。
▽41 ……さまざまな意識的無意識的な「心の鬼」と外から侵襲するモノノケとが不可分に重なりあったところに、モノノケという病はあった。
▽49 怨霊の登場。長屋王の「気」による被害。藤原氏の策謀によって妻子と共に729年に自害に追いこまれた。
▽60 政敵を追い落とし、死霊におびえながら桓武天皇への皇位継承が実現。天武天皇系の復活の芽はなくなる。
▽61 長岡京 785年9月、新京造営の指揮者であった藤原種継が視察中に射殺される。クーデターの一味として、大伴氏、佐伯氏を中心とする人々がとらえられた。首謀者は事件の一月前に亡くなっていた大伴家持とされた。
 ……皇太子である早良親王も連座したとしてとらえられる。桓武は、弟の早良ではなく自分の子の安殿(あて)親王を皇太子にすべく、この機会を利用したとみられている。
 早良は乙訓寺で幽閉されたが、憤りのあまり十数日間も食事をとらず、淡路へ流される旅の途中、淀川の高瀬橋あたりで息絶えたという。死してなお罪は赦されず、屍は淡路まで運ばれて埋葬された。
▽64 長岡京は棄てられ……怨霊への恐怖と水害とが、遷都の主な理由……
 新都は、それらへの対策をより完璧にする必要があった.宮殿の南には神泉苑という大きな池苑をおき、東西には東寺と西寺を建立、鬼門には延暦寺を配するなど、さまざまに呪術的な配慮が尽くされた。神泉苑は、後に疫神や怨霊の祭りがおこなわれる場所である。794年に遷都。
▽76 御霊としてもっとも巨大なキャラクターは祇園天神の牛頭天王。
 この当時の民間では、個人の顔をもった怨霊が祭祀されることは、菅原道真という巨大な例外をのぞいて、あまりみられなかった。
▽92 「今昔物語集」には、方術にたけていても教学を学ばない修行僧たちが天狗にたぶらかされたり、天狗になったりする説話が多く、それは山岳修行者、さらに彼らを包含する真言宗への天台宗からの批判という一面があったらしい。
▽100 モノノケたちは、疫神や雷神とは無縁な存在である。今日の我々が抱く「幽霊」のイメージに近い。
 この怨霊のミクロ化は、おそらく政争の質が変化したことでおこった。奈良時代までの皇統は大陸の勢力や豪族たちの軍事力バランスのうえにあり、皇位争奪戦は大きな戦乱ともなりうるダイナミックなものだった。それが貞観5年に御霊会を催した藤原良房が摂政となってからは、天皇と藤原北家のあいだに生まれた皇子のみが皇位継承権をもつようになって、争いは内輪もめのようなものばかりになる。
……たいして、民間で盛況だった御霊会は、誰かの死霊というよりは疫神を鎮撫する祭礼だった。
▽106 宇多天皇は、基経に屈したことを悔しく思い、道真を重用した。宇多天皇が譲位して醍醐天皇になると、道真は右大臣までなる。菅原氏は、もとは土器(埴輪)製作や墓陵の造営など壮麗にかかわっていた土師氏で、781年に改姓を願って赦された一族である。道真は、学問によって低い地位から異例の出世をとげた成り上がり者だった。しかも娘たちを宇多天皇の女御にしたり皇子の斉世親王の室にしたりもしていた。
 後継者に恵まれていなかった藤原氏には一大危機だった。……道真が醍醐天皇を廃配して斉世親王を擁立しようと謀ったという疑いをでっちあげた。
▽110 道真の恩を受けながら裏切った藤原菅根、怨敵の中心だった藤原時平、時平の妹が産んだ保明親王……と、道真の怨霊は確実に宿敵やその縁者たちの命を奪っていった。
▽114 清涼殿で藤原忠平ら公卿が雨乞いの相談をしていたとき、雷が柱を直撃。……このショックで醍醐天皇は病み……亡くなった。
▽123 道真の怨霊は、宮廷内の政争から生まれたものだが、民間に信仰される御霊ー疫神としての威力をも備えた神となった。報復をはかる怨霊神と、災厄をまきちらす眷属たちは、冥界の巨大な軍団としてビジュアライズ化されたのである。……平将門の叛乱という、道真の怨霊に動かされた軍勢の蜂起が現実に起こった。
▽125 騎馬でかける将門を、貞盛が射落とし、秀鄕が首を落としたという。新皇に即位してわずか二カ月後のことだった。
▽126 将門・純友の乱を鎮圧した勲功者たちの家系は武士(もののふ)の家となった。……将門が討たれたことによって「武者の世」への道が開かれたのである。
 天台座主の慈圓によれば「武者の世」は怨霊にあやつられて実現した、末法の世だった。
▽129 保元の乱によって讃岐に流された崇徳院 舌の先をかみ切って、流れでる血で、五部大乗経の奥に誓いの言葉を書いた。……「日本国の大悪魔」になってやる。……髪も爪も伸びほうだいにし、生きながらに天狗の姿になったという。
 「大悪魔」と化し、古代王朝の幕引きをプロデュースする存在となった。
 ……崇徳は父の鳥羽天皇から「叔父子」と呼ばれていたという。鳥羽の祖父である白河院が寵姫とした璋子を、鳥羽に嫁がせたうえに、その後もなお密通をつづけ、生まれた子だったからだ。鳥羽にとっては、建前は子だが、じつは叔父でもあるから、叔父子というわけである。
 白河院は、鳥羽天皇を退位させて5歳の崇徳を強引に即位させたが、白河の死後、鳥羽は反撃に出た。
 崇徳は譲位を迫られ、三才の近衛天皇が即位する。璋子や崇徳は疎外されていった。
▽133 保元の乱は、宮廷内の政争が武士の合戦によってはじめて決せられた事件だった。もはや政争は、宮廷内の小さな世界の座席争いだけではおさまらなくなった。
……源義朝は、崇徳側についた父の為義、弟の頼賢らの首を斬っている。……810年の「薬子の変」以来、ほぼ350年もおこなわれなかった死刑が、武士の復讐という慣行にかこつけて復活されたのである〓〓。
……保元の乱から3年後、平治の乱。
▽134 慈圓は「愚管抄」に「日本国の運は尽きはて、大乱が起き、すっかり武者の世となってしまった」と記した。「武者の世」とは、怨霊が生みだした世であった。怨霊たちがダイナミックに歴史を動かす時代がはじまった。
▽135 崇徳は、流されて8年後の1164年、亡くなった。平家物語は最期の地を、実際とはことなる志度であるとしている。志度は龍神信仰で有名な地で、その沖には、竜宮があると信じられていたからである。……「危機の世に経典は海中深く竜宮に委ねられるという説が、崇徳院の怨念と結びつけられたからにちがいない。海底に沈められ……ることで初めて、呪いの大乗経に託された世界の転覆と乱世の出現が可能になると信じられたのだ」
 崇徳の呪いは、竜神の力を背景として……
 1176年、わずか3カ月のうちに院号をもつ者が4人もつづけて亡くなり、みな後白河院や藤原忠通の縁者だった。
 1177年4月28日、京が大火に見舞われる。……大内裏までが焼けて……後白河に崇徳と頼長の祟りのすさまじさを思い知らせた。……それまで讃岐院と呼ばれていた院に崇徳院という院号が贈られた。
▽138 崇徳の霊は清盛をあやつった。清盛が並外れた出世をとげたのも、専横なふるまいにおよんだのも、すべて崇徳の怨霊の力によることだった。
▽139 壇ノ浦で安徳天皇は海底に沈む。このとき二位尼は三種の神器のうち、神璽(勾玉)を脇にはさみ、宝剣を腰に差して入水した。鏡は船に残された。
 宝剣が失われたことは、妖怪どもの歴史にとっては慶賀であった。……八岐大蛇は何度も姿を変えて剣を奪い返そうとしてきた。ようやくその宿願がはたせたのだ。
▽143 安徳天皇はヤマタノオロチの生まれかわりだったのである。世を争乱に巻き込んで、剣とともに海に還ることが目的だったのだ。……崇徳の怨念と竜神の宿願とが手を結び、天狗となった崇徳は清盛をあやつって、ヤマタノオロチを安徳として誕生させ即位させたのだ。
▽146 愚管抄で慈圓は、……宝剣に象徴される武威は、これ以後は武家がになうことになったので、もはや天皇家には必要なくなった。だから、失われたのだと説く。
▽155 1221年の承久の乱。後鳥羽は隠岐へ流されて18年をすごし、1239年に亡くなった。生前から怨念による祟りが噂されていたほどだったから、死後にはやはり怨霊-天狗となって天下を乱れさせることになる。
……1242年、北条泰時が悶絶死
……武家の権勢が天皇をしのいだとき、武家は天皇の怨霊の祟りを怖れなければならなくなったのである。
▽202 雷神は龍蛇神であり、水神である。降雨を支配し農業生産を支える。土地に根ざした神。
 たいして狐は、市を支配していたとされるように、流通するところで力を発揮する
▽210 狐と竜神の関係は、平安中期以降に稲荷信仰と狐が結びつくようになって、いっそう明瞭になる。稲荷信仰は、雷神信仰でもあったからである。
……稲荷信仰の古い姿は、穀神ウカノミタマを祀る穀霊信仰で、稲荷山を神体としていたと考えられている。
▽214 狐は、稲荷信仰に入りこみ、雷神ー龍蛇神と習合したことで、ほとんど頂点にまで駆け上がった。アマテラスと同一視され、王権の継承を保障する存在にまでなった。
▽224儒者たちは「狐つき」はうそだという。上田秋成はそれに反論する。「世の中を見れば、狐や狸がつくことなど、いくらでも実際に起こっているではないか」
 ……江戸時代になると、幽霊も妖怪もありえないと主張する儒者のような人たちも目立ってくる。
▽250 奉行所で狐をさばく
 加持祈祷や説得ばかりでなく、薬をふくませたり、外科的な対処もおこなわれた。
▽255 狐の言い放つ言葉だけで捕らえられ、……拷問で殺される……
 たんに不思議なことをする者で、天狗だとかキリシタンだとかの風評が広がったのがもとで捕らえられた……
▽257 秀吉が野狐を殲滅すると伏見稲荷を脅したように、狐も……公儀の管理下にあるべきとされた。戦乱のない徳川時代の日々を経るうちには、町奉行が命じても(狐が)落ちるほどになっていた.……だが幕末の混乱期になれば、新手の狐が現れる。
▽258 1858年、アメリカのミシシッピ号によって長崎にコレラがもたらされた。1822年につづいて二度目の流行である。……3年近くに渡って全国に猛威をふるい、江戸だけでも死者15万とも20万とも伝えられる。
▽261 文久2年(1862)には、残留していたコレラ菌によるとされる3回目の大流行。
▽263 はげしい疫病の流行するなか、人々は妖怪じみた獣の姿を見、その背景にアメリカの謀略を感じていたのである。
▽264 三峯山には各地から御犬(御札)を借りようと参詣者が殺到していたという。コレラを狐のしわざとみなす噂は各地に広まっていたということだろう。
▽266 人をコレラにするという獣たちは、クダ狐、オサキ狐とされながら、ジグマ、千年モグラとも言われた。……
▽268 人々は、妖怪的な獣を使役して日本侵略を狙うアメリカやイギリスの謀略を想像した。
▽269 明治 巣鴨病院に入院中の「狐憑(こひょう)症」患者の調査 113の症例を調べて報告書にした。狐つきはありふれたものだったのだろう。
▽271 内山節 野山で狐にだまされることは、昭和40年を境としてなくなったという。

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