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山と獣 焼畑と祭りにみる山村の民俗誌<須藤功>

■農文協260103
 四国でも北陸まで「平成になるまで焼畑をやってた」という話をきき、ソバやアズキ、稗をつくり……といった漠然とした内容は理解していた。
 でも、延焼しないように左右と上部に幅1間の「火断ち」をもうけ、火が強くなりすぎないように上部から下部にむけて焼く……といった細かな手順は知らなかった。
 林業の集落は、水田集落にくらべて個人主義的でまとまりが弱い、と思ってきたが、焼畑は5,6軒の共同作業が必要だから、むしろ「結」の原点である可能性がある、というのも目から鱗だった。
 最近、能登半島などの過疎の山村では猪による獣害になやまされているが、じつは昔はこんなものではなかった。
 たとえば対馬は、江戸中期までは猪と鹿の食害で食料不足がつづいていた。鹿と猪を撲滅するため島の東西に大垣を築き、さらに内垣をおいて、そのなかに猪と鹿を人海戦術で追いつめて捕獲した。猪垣は北から5筋、総延長37里、内垣は総延長123里になった。9年で3万頭捕獲した.正徳年間(1711~16)に甘藷がはいり、やっと食料自給が可能になった。
 今は過疎とはいっても1億人がすんでいる。江戸時代中期は3000万人だったから、列島は獣の王国だったのだろう。だからこそ、簡単にとれる猪肉は貴重な栄養源であり、殺した獣をまつる神社もあったのだ。
 焼畑の村々は芸能と祭りが豊かに残っている。天竜川沿いの芸能は、熊野修験が伝えた。それらは稲作をもとにした「田楽」と「田遊」だった。稲田のない三信遠の人々がそれらを郷土芸能としたのは、米飯へのあこがれがあったからだ。奥三河の14集落(かつては21集落)がつたえる「花祭」も焼畑にまつわる行事だった。宮崎県の椎葉村は、88集落のうち32集落に神楽面があり、今も26集落が氏神に神楽を奉納している。
 食の記録も興味深い。
 稗と粟はまずしい主食の代表というイメージだが、粟は稗よりも肥沃な土地ではなければできず「ごちそう」だったという。稗は、粥にしたり、米3か2に稗7か8の割合で炊いたりした。この飯を猪汁の残り汁に入れると美味だった。稗は乾燥させると100年保存できる。米良山では主食の一部として唐芋が食べられたが、猪の食害によって昭和50年代に作らなくなった。
 葬儀の香典は、かつては米だった。新潟県のある地区では、死者の家から嫁に出た娘は米1俵に酒5升……と決められていた。ふだん米のない家も葬式だけは米飯の食えた。山村でも米を食べられるようになって、香典は金銭になった。並行して、葬式は葬儀屋にまかせるようになった。
 熊は肉を食べる以上に、熊肝(胆嚢)が薬として売れた。秋山郷の猟師の記録では、熊肝1匁(3.75グラム)が米60キロと同じ値段だった。昭和50年代の秋山郷では、よい熊肝は1匁4万5000円だった。
 焼畑は山形と宮崎の椎葉村しか残っていない。椿山(高知県仁淀川町)のヤマハタ(焼畑)では1888年から三椏を栽培し、紙幣の原料として造幣局におさめた。硬貨が増えて紙幣が減り三椏が不要になったあとは、檜の実を苗木にするために営林署が買ってくれた。それもすたれることで生活は困難になり、2016年の椿山の住民はわずか2人になった。
 焼畑をめぐる作業や風俗、食、信仰、田楽などを細かく記録しているから読みにくい部分もあるが、かつて日本中にあった焼畑文化の全体像を知るには最適の書籍だ。

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▽4山村の人々が稲作をしなくても米飯が食べられるようになるのは、1939年に米が配給制になってから。それは山村の食糧自給の体制を崩壊させたといわれる。
▽18 天竜川の中流域、「三信遠」は郷土芸能の宝庫とされ……
▽19 芸能と祭りは、熊野修験が天竜川を遡って伝えたといわれる。……稲作が主体の「田楽」と「田遊」だった。まだ稲田のない三信遠の焼畑の山村にぴったりとはいえなかったはずである。でも希望につながった.米飯へのあこがれがあったから、伝えられた田楽・田遊を放棄することなく、自分たちの生活である焼畑の農作物を組み入れて、郷土芸能としてつづけてきた。
▽32 幕末から絹糸が主要な輸出品のひとつとなり、現金収入となったことから、群馬・長野・山梨・埼玉の農家は養蚕に力を入れた。
▽39 粟は稗に比して肥沃にして土深くかつ陽当たりがよくなければならない。味のよい作物だが終了は少ない。米に混ぜた粟飯は農家としては米飯につぐ美食で、賓客でもない限り滅多に用いない。(「北設楽郡史近世」)
▽43 赤飯の祝いの習わしは江戸時代後期からとされるが、もとは赤米にあったといわれる。赤米を祭事のために今も栽培しているのは岡山県総社市新本の本庄国司神社と新庄国司神社、鹿児島県南種子町茎水の宝満神社、対馬市豆酘である。
 〓豆酘では、頭と呼ぶ14戸が「神様の田」で赤米を栽培、……
▽56 見ることができる焼畑は、椎葉村の民宿「焼畑」の焼畑と、〓、同村の尾向小学校の「子ども焼畑体験学習」、東北では山形県温海町一霞(鶴岡市)の赤蕪栽培のための火入れである。
……高知県池川町椿山(仁淀川町)のヤマハタ(焼畑) 三椏を植えるヤマハタの火入れと三椏の栽培、……高知県で三椏栽培が本格的になるのは1888からである。紙幣の紙をつくる大事な原料だったので、焼畑で栽培して造幣局に納めた。
……硬貨が増えて紙幣の原料はしだいに必要なくなる。檜の実を、檜の苗木にするために営林署が刈ってくれたが、それもすたれる。生活は困難になり、2016年の椿山の住民はわずか2人ということだった。
▽61 隣接する林に飛び火しないように、上部と左右に設けたカダチ(火断ち) 幅1間ほどのカダチは通路になった。
……火の勢いをおさえるため、上部から火をつける。……燃え残った太い木は一カ所に集めて再び火をつける。やらないと木が作物のノビルのをさえぎる。
▽63 蕎麦の実を狙ってイノシシやシカが侵入するので、油をつけた古着をコバの中やまわりに吊す。
▽65 米良山の食事、唐芋が食べられているが、昭和50年代に唐芋は作らなくなった。猪に食い荒らされるからである。
……稗は、それだけを粥にして食べたが、米3か2に稗7か8の割合で炊く家も。この飯を猪汁の残り汁に入れると実にうまかったという。
▽67 アキコバをきちんとおこなっていたころは、5,6人の男たちが、木にのぼり昼飯を木ノ上で食べて、夕方まで降りなかった。(猿のよう〓)
▽71 コバヤキの火が消えたら、日をおかず、稗・粟・蕎麦をまくこともある。地面がまだ熱いので、種を鳥がついばまないからである。……では焼いて2週間ほどたってから稗種をまいた。雑草が芽吹はじめるのを待って表土を軽く起こし、雑草の芽を摘んでからである。
▽73 表土の流下は肥料の灰も一緒だから、上の方の地力は低下して成長が遅い。
……稗はよく乾燥させると50年でも100年ももつし、味も変わらない。
▽74 椎葉村〓「稗搗節」は、焼畑につながる民謡。平家残党の追討を命じられた那須大八郎は、つくった陣小屋のまわりを椎の葉で囲った。その囲いから「椎葉山」の地名が生まれた(江戸時代の椎葉山根源記)
 大八郎は平家のうつくしい娘の鶴富と結ばれた。だから平家残党の追討をしなかった。
 「椎葉山」」の4村は明治23年に合併し椎葉村になった。88の集落のうち32の集落に神楽面があり、今も26の集落が氏神に神楽を奉納している。1つの村でこれだけの神楽を伝承するところは他にはない。〓〓
▽85 山火事を重視した明治政府は、焼畑を基本的に禁止した。欧風化の焦りによるもので、焼畑耕作を、原始的、野蛮なものとみなす風潮によるものだった。
▽100 水窪町奥領家の「西浦の田楽」 西浦は昭和40年代あたりまでは小石の転がる山道を歩くしかなかった。……この山道を遠江では信州街道、信濃では秋葉街道といった。
▽118 奥三河の「花祭」 今は公民館などを祭場とするが、以前は「花宿」といって民家を祭場とした。奥三河の21集落にあっがが、今は14集落になった。
……舞は男にかぎられていたが、月では昭和48年から少女が「花の舞」を舞うようになる。集落での出産が少なくなって、少年がそろわなくなったからだ。
▽128 1人が1年間に米を1石食べるといわれる。1俵を4斗(60キロ)とすると1石は2俵半になるので、百俵は40人分になる。
▽134 重病人の命が消えようとするとき、魂呼い(たまよばい)といって、「お父さん」と大きな声で呼んだ。……山村では庄屋から米をもらって竹筒にいれ、それを病人の耳元で振り、「元気になったら米飯を食わせるぞ」といった。こうした習俗は戦後もしばらくつづいたようである。
▽138 佐土原町では、死体を納棺したとき、死者を寝かせていたところに、蕎麦または麦の種子をまく風習がある。……生命は個としては死ぬ。しかし、個は死ぬことによって種は生きつづける。
▽141 香典は今は金銭だが、以前は米に故人とのつながりによって野菜などを添えた。新潟県では親族が葬式を援助するのを「合力」といい、死者の家から嫁に出た娘は米1俵に酒5升ぐらい、婿に出た者は米1俵に酒1斗、戦前にはそれに50円を添えたところもあった。
……いつもは米のない家にも香典として米がはいったので、葬式は米飯の食える日になった。……米飯の食える葬式の手伝いは決して苦ではなかった。
……山村でも米飯をいつでも食べられるようになって、葬式に食べる米飯の意識が薄らぐあたりから金銭になったと推測する。それと並行して、葬式は葬儀屋にまかせるようになり、組内の葬式は次第になくなる。
▽150 焼畑をつづけてきた山地の集落に、大盛飯を見る神楽がある。西都市銀鏡神楽の座付きに出る「ヘソめし」。以前はひとつ米2合5勺でつくった。
▽152 竹富島「種子取祭」 蒔いた五穀の種が成長して豊作を願う祭り。五穀は、粟・糯粟・麦・黍・高黍で、米はない。沖縄では昔は水田に必要な水が十分に得られなかったため、稲作をあきらめざるをえない島が多かった。沖縄には稲作を語る古代遺跡はない。
▽156 長野県の秋山郷 槍で熊を突く。……熊は突きだした槍先を両手でつかんでしまう。その瞬間、体の安定が崩れて前に倒れる。そのため熊自身の体重で槍先をズブっと神像まで刺して自滅する。
……熊肝とは胆汁を貯蔵する胆嚢のこと。食物がはいってこないと分泌しないので、胆汁がたまる。マタギは冬ごもりから出るころをよく狙ったが、それは大きな肝を得るためだった。秋山郷の猟師は、熊肝を「米1俵、肝1匁、金1匁」といった。1匁は3.75グラム。それが米60キロと同じなのである。昭和50年代の秋山郷では、よい熊肝は1匁4万5000円だった。(〓すごい! なんにつかった?)
▽162 兎を1羽とかぞえる。江戸時代に公二は獣肉は食べられなかったが、鳥は赦されていた。兎肉を徳川家でいつも食べていたので、都合のよい鳥の数え方にしたといわれる。〓
▽165 昭和50年の農作物被害 兎・鹿・羚羊の被害は合計しても猪の1割に満たない。猪の被害のすさまじさを証明している。
▽167 1665年の調べでは、防長の和紙は大阪市場で6割以上を占めていた。それに水を差したのは鹿。楮を食い荒らした。山代地方の1734年の和紙生産高は30年前の5分の3に。
▽177 猪がヌタウチをするのはダニで体がほてるのを冷やすと言われる。ヌタは湿地をいみし、ニタともいい、「仁田」「仁井田」の地名にもなっている。ウチは「打ち」で、ヌタウチは「のたうちまわる」の語源とされる。
▽188 罠にかかった猪や鹿が生きていればよいが、息絶えてから長くて1時間以内、一昼夜も経ったら自家用にもならない。一昼夜で内臓までモエル(腐る)からだ。
……猪の肉は年末までは牡が、年明けからは牝がうまいという。発情期の関係らしい。1月末ごろになると牡は尾根筋に登り、そこに敷いた草の上で1頭の牝と交わる。その1頭が牝のところにたどりつくには、他の牡とたたかって勝たなければならない。……年が明けて牝の肉がおいしいのは、子を産むために栄養を取るからで、牡の味が落ちるのは、牝をめぐって骨身を削るからだという。
▽185 オタドコという解体するところ。そばに流水のある家の庭。解体は猪の毛を焼くことからはじめる。1969年はドラム缶の火だったが、平成にはガスバーナーに。西都市銀鏡〓
▽190狩猟免許には甲・乙・丙があって、銃器以外の方法で狩猟する甲種の免許は1963年から必要になった。高齢の猟師は、字が読めないために狩猟をあきらめなければならなかった。
▽192 加計呂麻島には猪はいなかったが、昭和30年あたりから出没。好物のハブの臭いをかぎとったのではないかといわれる。島では「自由にお使いください」と書いた長い棒がおいてあって、ハブが出たらそれで撃ち殺す。
……ハブへの注意 夜道は懐中電灯をつけてハブの有無を確認、便所にはいるときは戸の隙間にハブがいないことを確かめてしゃがむ。長靴をはくときはまず逆さにして振ってみる。
……猪が渡ってきたことでハブは少し減ったが、今度は田畑が荒らされるようになる。
▽196 対馬は88%が山地で、猪は江戸中期まではすさまじいほどいた。猪と鹿が作物を食い荒らすので、食料不足がつづいていた。1680年の島人は3万人。それに貿易のために朝鮮などからやってきた島外者が8000人ほどいた。
……鹿と猪の撲滅を計画したのは陶山訥庵。……島の東西に大垣を築いて一画を仕切り、内側にさらに内垣をおいて、そのなかに猪と鹿を人海戦術で追いつめて捕獲するものだった。……対馬の猪垣は北から5筋、総延長37里、作業に要した人夫は延べ38880人、内垣総延長123里。人夫は8万8560人になった。……足かけ9年で3万頭近くを捕獲した.……正徳年間(1711〜16)に対馬に甘藷が入り、食料自給が可能になる。
▽205 「生類憐れみの令」 鳥や獣、魚も販売してはならないという禁止令。このかなり前から、肉や魚や鳥を食べたら社寺に来てはならないという精進期間、物忌令があった。……猪と鹿の食がとくに長い。
……滋養と体を温めるための薬食いとしての獣肉食が赦されていた。
……幕末になると肉食店が江戸や大坂にあらわれる。でも抵抗があるから、シシ肉を「山くじら」、もっともうまい猪肉の部位が牡丹の花に似ているので「ぼたん鍋」
▽209 熊肝、猪肝 西表島では薬として今も使う例も。二日酔い予防。
▽224 祭事と芸能につながる猪狩りをつづけてきたのは西都市の銀鏡を中心とする地域である。狩倉(狩猟の区域)には鹿倉社がある。白身では狩の神を大切にしてきた。
……今は鹿倉祭りに猪を供えなくなったが、銀鏡神楽では今も神前にオニエとして猪頭を供える。
▽235 山村留学を募集し、年々増えて、平成7年から18年間の集計では209人が留学生として小学校(西都銀上学園)に通い、神楽も舞って……
▽236 銀鏡には「共有倉」 上原集落では1970年まで穀物の貯蔵をつづけていた。貯蔵の米を借りた場合、1割から1割5分の利子を払った。上原の共有倉は、テレビ取材と記録保存のため1972年に再現された(今は?〓)
▽246 宮本常一「食生活雑考」 銀鏡で……1年に300頭とれるときいて、おどろいてしまった。
▽248 国頭村比地 1年にとった猪の供養として、鼠を猪の霊としてパパイヤの実をくりぬいてそのなかに納め、それを海に流してニライカナイに送る。
▽254 各地の農家では、小正月に「餅花」をつくる。「左義長」ともいう「ドンド焼き」で餅花を焼いて食べるのも小正月の楽しみである。
▽256 鎮花祭 桜の花が散る旧暦3月に宮中でおこなわれた。花が散るころ疫病が広がるが、それは散る花とともに疫病が分散するためとして、それを鎮め、花がゆっくり散るように祈ったものだった。これを引き継いだのが京都、奈良市、滋賀県の神社である。
……暑い夏をすごすと二百十日になる。立春から数えた9月1日前後の日で、だれもがまた台風の季節になったと不安になった。300余年の調査によると、8月28日と9月17日、9月26日に大きな台風が来襲している。
稲作が手作業だったころの二百十日は稲の花が咲く時節で、風雨で花が散ったら実りはなくなる。
……機械化により今は田植えが早くなり、本州などでは7月末から8月中旬にかけて早稲、中稲、晩稲の花が咲くようになった。……温暖化によって以前はなかった月日に台風の来襲がある。台風への警告はテレビやラジオになって、二百十日への意識は薄くなりつつある。
……210日を強く意識されるのが八尾町の「風の盆」 9月1日から三日三晩踊られる。
▽260 奈良盆地にはあちことに溜池がある。古墳を築く技術が溜池づくりに厄だったとされる。
 奈良市東部の天満神社の拝殿と籠所には、雨乞いと日乞いの大絵馬がびっしり掲げられている。雨乞いは黒毛馬、日乞いは白毛馬。古いのは文政元年1818年に奉納されている〓。
▽上京区の御所の西の護王神社〓は「いのしし神社」ともいわれる。狛犬が犬ではなく阿吽の猪だからである。祭神は和気清麻呂。……道鏡に大隅半島に流された際、腰を痛めていた清麻呂を300頭の猪が道案内したという。
 神護寺の境内に清麻呂公の霊社としてまつられていて「護法善神」といわれた。1874年に護王神社と改称。明治天皇の勅命により1886年に現在の地にうつされた。
 1899年に発券された拾円紙幣の表に和気清麻呂と護王神社、裏に猪の絵があり、「いのしし」と呼ばれた。10円は大金だったが、みんなその「いのしし」がほしいとあこがれた。
▽271 久米島 球美 続日本記の和銅2年(709)の項に「球美」とあるのが古名とされる。水が豊富だから古くから稲作がおこなわれた【旅行記には書いたっけ?】
 沖縄の稲作は、昭和のはじめに蓬莱米がはいって2期作となった。それまでは冬から夏にかけての一期作。
 ……田植えは旧暦の正月か2月に。旧暦4月10日ごろ、田草取りや害虫を除去する畦払いをした。とった害虫はノロたちが小舟に載せて海に流した。この日の行事をアブシバレーといって、1960年代のはじめまでおこなわれた。この日は浜で遊ぶ日ともされ……
▽275 久住町(竹田市)の猪鹿狼(いがら)寺。……
 猪を専用とするのは、大分県野津町西神野(臼杵市)の「猪権現の祠」が唯一かも。鉄鎖を頼りにのぼる崖上の鍾乳洞のなかにあって、祠のまわりには猪頭部の骨が散乱している。解体しない頭部もある。〓
▽278 江戸時代、東北の田はほとんどが湿田だった。酸素不足や肥料の浸透が遅れて稲の発育を悪くした。1反あたりの収量は今は10俵強だが、湿田では3俵に満たなかった。東北に多かった飢饉は、この湿田も原因のひとつだった。
 湿田の改良は、1877年以降。湿田の田起は鍬でよかったが、乾田では馬に犂をつけての作業になる。そのための講習があった。
 東北地方に馬耕の指導にきたのは、現在の福岡市に生まれた伊佐治八郎である。1891年に44歳のとき、稲作改良実業教師として、庄内にはいった。
 1896年12月からは、日本一の大地主といわれた本間家(酒田市)に乞われ、6年間、同家の小作人や実習生に犂での馬耕を教えるとともに、湿田を乾田にして、庄内米を確かなものにした
 酒田市日吉町・日枝神社の拝殿に、伊佐治が故郷からもってきた農具箱が掲げられている。八幡神社の「乾田紀功碑」
……人に代わって馬で田を起こす。乾田維新なり、これによって米の収穫は倍徒(5倍)になる。庾(倉)に満つ……(〓旅行記で書いたか?〓)
▽280「千匹塚」 とった獣が千頭になると祟るという伝承。熊本県では千頭とると娘一人殺したことになるという。奄美大島では千頭目の猪は獲ったところに埋めて、山の神としなければならないとする。……
▽284 焼畑は、まわりの草木に火が移らないようにするには最低でも5,6人は必要で、5,6軒の家があれば村になる。焼畑では互いに助けあわなければならないが、それが「結」の原形だったのではないだろうか。
……驚くのは、列島に製作する獣の棲息数が多いことである。……源頼朝の1193年の富士野の巻狩りでは、とった猪鹿1万1640頭とある。動員されたのは70万人に誓い。この捕獲数から富士山で山麓での農業は、猪や鹿の侵入がひんぱんで難しかったことが察せられる。
▽288 近畿日本ツーリストの日本観光文化研究所に所属して、……宮本常一にいわれたのは「芸術写真は撮るな」「読める写真を撮れ」ということだった。

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