上賀茂神社と神奈備山の神山の関係、さらには貴船神社との関係を知りたくて手に取った。上賀茂神社の宮司が1972年書いた。
奈良の葛城には、出雲関係の神々が祀られ、その中心は鴨都味波八重事代主命神社と高鴨阿治須岐詫彦根命神社だった。
建角身命を中心とする部族は葛城から北上してきた。高野川と賀茂川のうち、高野川を選ばなかったのは、小野氏が高野川上流にいたからだ。
賀茂県主族は、「庚午年籍」に、現在の上賀茂太田神社の東方の神坂に居住していたとされている。彼らがこの地を開拓するため、守護神として賀茂別雷神を招きくだした。
上賀茂神社の2キロ北にある神山は、頂上に巨大な岩石が密集して磐座をなしている。最初はここに神が降臨すると信じられたが、後に神山全体が天降り坐す場所と考えた。山上の祭祀を山麓に移した斎場の跡地が「貴船神社」になった。上賀茂神社(上社)の本殿は神山を拝む遥祭殿だった。
賀茂と貴船は平安から江戸まで数百年にわたって土地争いがあった。賀茂社は、貴船神社は往古より賀茂社の摂社だと主張し、貴船側は、鎮座の当初から独立していたと訴えた。本来、賀茂社は里宮であり、貴船社は奥宮だが、賀茂の勢力が増大したために係争がおきた……と筆者は言う。
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なぜ上賀茂神社と神山のあいだに貴船神社があるのか。本来、神山と拝む場である神社のあいだにはなにもなかったはずだ。
上賀茂神社と貴船神社がもめているとは聴いたことがある。
貴船と神山と上賀茂神社は直線上にある。そして上賀茂神社の祭神の賀茂別雷神は、母のタマヨリヒメが賀茂川で遊んでいるときに流れてきた丹塗矢を寝所においておくことで別雷神をさずかった。
丹塗りの矢がながれてきた賀茂川上流には貴船神社がある。貴船の神さまが流れてきて、それとまじわることで別雷神が生まれたと考えられる。
貴船神社は上賀茂神社の摂社と位置づけられていたが、明治になって独立した。
上賀茂と貴船は、平安時代から江戸末期にいたるまで数百年も土地などをめぐって争ってきた。貴船側は自らを独立の神社だと主張し、上賀茂側は逆をとなえた。ほぼ力のある上賀茂側が勝っていたが、明治維新後に独立することになった。
この本の作者は、貴船神社は奥宮であり、神が藻大社が里宮であったと考える。
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