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森の家の巫女 高群逸枝<西川祐子>

■新潮社202509

 高群逸枝は「娘巡礼」から読みはじめた。みずみずしい感性にひかれた。その感性にひかれて多くの男が彼女に恋をした。男をふりまわす魔性の女でもあった……とはこの本でわかった。ほれてしまうと客観的になれない。私もまた高群逸枝の魔性にとらわれていた。
 著者の西川さんは文学者であり人類学者でもある。10年間かけて膨大な資料を調べたから高群の魔性にとらわれず、戦前のアナキストや戦争協力者としての姿も描きだした。
 敗戦前の2年余は、大日本婦人会の機関誌「日本婦人」で神国日本をたたえ、銃後の守りと殉死さえよびかけた。
 無政府主義から日本主義へ、さらに戦後民主主義へと立場をかえた。
 過去の「日本」に加担したゆえに戦後沈黙した知識人もいたが、高群は、原始的で「女性的な日本」を「封建的な日本」から切りはなし、他方ではアジアとの心情的連帯を強調して西欧的近代と対抗することで彼女自身の戦前・戦中・戦後の矛盾をねじふせた。どの時代でも高群は、抜群の感応力を発揮して大衆の願望を表現した。抵抗とか転向といった観念の通用しない、自己否定とは無縁のたくましい感性こそ「民衆の思想家」の本領だった--。転向を批判するのは簡単だが、転向の経験をもふくめて高群の座標を明確にする西川さんの視点は独創的だ。

 高群逸枝は、子どものころから、おとなしくてのろまだけど、弱虫をせめられると「あたい観音の子よ」ととんでもないことを叫んで立場を逆転させる。ことばを自在にあやつる巫女のような能力をもっていた。
 師範学校の寮生活に耐えられず退学し、4カ月余の女工生活を送ったが、夜の勉強室に電灯を要求するなどして、最後は校長の娘だることがばれてやめさせられる。
 代用教員になると、モンテッソーリの自由教育法を実践し、生徒には人気だったが、お茶くみもせず、酒席にもはべらないから、同僚には「御令嬢」とあだ名をつけられた。
 そんななか後に結婚する橋本憲三と出会い、永遠の恋を誓って書き送る。それにたいして憲三は「この世には永遠というものはあり得ない。瞬間のみがある。まあ行けるところまで行きましょう」と恋愛瞬間説を説く。
 熊本で知りあった別の青年からの恋文を同封して、どうしましょうかと相談すると、憲三は「勝手にしろ」とすねてしまう。
 三角関係になやんだ逸枝は24歳で巡礼の旅に出る。
 年齢と名前をたずねられると「花枝と申します。18になります」と答えた。この後10年間、読者の前では「18歳」をとおした。彼女は大衆がどのようなイメージにひきつけられるかよく知っていた。まさに「魔性の女」だった。
 巡礼記を新聞に連載すると、ファンレターが次々に届いた。会いに来て結婚を申し込み、ききいれられずに投身自殺を図った青年もいた。「人間関係において特殊な感応力をもっていること、即興の才があること、マスメディアの魔力を知りこれを扱う能力を具えていることがよくわかる」と西川さんは分析する。彼女の巡礼記にのめりこんだ私は、ほれた弱みでそんなことにはまったく気づかなかった。
 逸枝は連載のなかで、私はあなたが恋しい、あなただけを想っています……と、橋本憲三への誘いの信号をおくりつづけた、
 多感の恋になやみ、大切なひとにあこがれ、支離滅裂にくるしんだ半年の旅。高群逸枝は晩年まで、この旅のことをくりかえしさまざまな文体で書きつづけた。旅行記を書くことは高群にとって納経帳をくるのと同じく、再び旅することだった。
 1919年、妹を伴って家をでたが、熊本市までくると妹を旅館におき、橋本憲三のところへあいさつを告げに寄ってそのまま共同生活をはじめてしまう。
 1919年暮れから1920年にかけて「感情革命」を体験する。結婚生活にともなう動揺した心理から吐きだされる詩を、朝日新聞の短歌の選者だった柳沢健は激賞した。
 柳沢健は「20歳に足りない少女で、頽廃した村の貧しい家に育った」と逸枝を紹介した。逸枝は「娘巡礼」のつづきを演じていた。

 東京で発表した長編詩「日月の上に」は、娘巡礼が、時代の予言者あるいは「神」としての詩人となってゆく経過をえがいた自叙伝という。
「娘はまだ、性格をもたないかもしれない」「詩人はまだ 性格をもたないかもしれない」と最終節につづる。
 平塚らいてうは、性格を「ゆがみ」ととらえ、ゆがみのない人こそ天才、真正の人と呼んだ。高群逸枝の最終行は、性格をもたないからこそ、(私は)天才であるかもしれない、真正の人であるかもしれないという意味になる。逸枝の「天才宣言」だった。
 その後、橋本憲三は、逸枝をともなって熊本の海辺で暮らす。これは、逸枝と生田長江のあいだに、恋愛に似た気持ちがうまれたことに気づいたからだった。逸枝は他人と、常識からみれば恋愛とみられる結びつきしかつくれない。魔性の女なのだった。
 次の長編詩「東京は熱病にかかっている」ではたとえば第一次共産党事件をとりあげ、「1923年6月5日、地裂け天落つるとばかりに 大活字の人工的発作は、都下全新聞紙の個性を奪いぬ」と記す。知識人でもっとも民衆の方へ向いていた有島武郎が畑野秋子と情死すると「ふざけるな有島武郎」と罵倒する。
 詩が書かれた1923年から発表された25年にかけて、プロレタリア文学は全盛期にあり、「民衆」は実態ある存在とみなされていた。
 詩は第二次世界大戦による終末を予言していた。「……待ちくたびれた戦争がやってきて、科学的な方法で、全世界の都会をめちゃめちゃにした上でなくては自覚できないというのなら、この上何をいおう」と、世の右傾化を憂えた。 脱稿直後の9月1日に関東大震災が襲った。
 橋本憲三は、上京する友人、文学青年たちを新世帯に次々に同居させた。家事が不得手な逸枝は、合宿のような生活をきりまわす主婦の役割に疲れはてた。同居人のひとり、平凡社社員の藤井久市と家出をした。
「同行の人には巡礼の道を教えたのちに別れ、自分は寺に籠もって恋愛論を書きます」という置き手紙をした。四国遍路の二番煎じをこころみたのだが、世を騒がすスキャンダルとなってしまった。
 橋本憲三と下中弥三郎という2人の編集者は、事件を忘れるのではなく「書く」ことをすすめた。「家出の詩」が生まれ、「東京は熱病にかかっている」の付録となった。
 「家出の詩」のなかで、結婚生活の破綻は性格の不一致などではなくて「結婚制度」からくるものだと断じた。「女の真の自覚は 結婚制度の改革などでなく、 結婚制度の撤廃を要求する」と。

 「青鞜」発刊時の平塚らいてうは霊感詩人だったが、「青鞜」以後は神のことばを吐くことができなかった。らいてうの火を消したのは結婚と育児だった。だから、家庭を放棄する高群の蛮勇にたいしてらいてうは敬意を表しつづけた。
 下中弥三郎(平凡社創設)は階級対立よりも都市ー農村の対立を重視し、高群と渋谷定輔を農民自治会という運動に参加させ、運動をになうべき農民と婦人を代表する象徴的人物とした。
 階級闘争が性別の問題に優先し、社会主義政権のもとで家事と育児が社会化されれば婦人問題は解決するというマルクス主義者にたいして、逸枝はアナキストの立場から論争を挑みつづけた。
 だが人生の折り返し点の36歳でいっさいの社会関係を断つように「森の家」にこもる。雑誌「婦人戦線」は廃刊となった。その原因は資金難でも内部論争でもなく高群逸枝の恋愛だった。恋の相手は、ずっと年下の松本正枝の夫である延島英一だった。瀬戸内晴美の小説「日月二人」がこの恋をとりあげた。

  「森の家」の費用は橋本憲三が整えたが、軽部家は地所を貸しただけでなく、さる宮家とも、あるいはかつての鹿鳴館ともいわれる建物を解体した古建材を提供してくれた。
 森の家で生みだされる高群逸枝の「母系制の研究」は、父系の家族という生活の実体は存在しなかったと主張する。その独創は、母系制遺制の発見そのものよりも、実証のための資料に「新撰姓氏録」(815年)をえらんだ着眼と、膨大な資料分析の方法、さらには推論のたてかたにあった。
 出雲国造は、名祖族なので、一祖をつづけて祖変がない。逆に、遠国の国造の多祖のなかに出雲系が数多くみいだされる。中央名祖族が地方の豪族の女を妻問して、生まれた子をとおして女の一族に勢力をひろげていた。
 オオクニヌシノミコトの子181神とは、ミコトが各地の女神、つまり母系氏族の女酋を妻問して生まれた子であり、彼らが母族をひきいて父神に従った結果、国作りすが行われたと神話を読み解く。

 津田左右吉の「古事記及日本書紀の新研究」「神代史の研究」などは発禁処分になったが、その2年前の「母系制の研究」は弾圧をのがれている。津田が起訴された1940年に、高群逸枝は、皇紀2600年式典のために「女性2600年史」を執筆した。
 1931年に森の家へ入居し、32年以降、「戦争の必然性をも信じる」「日本主義」「ファッショ」肯定の発言が増えていく。
 婦選大会は、自主的な婦人団体が、議会主義と男女平等を否定するファシズムに抵抗するための共同戦線の場だったが、1935年から参政権問題と平和問題をとりあげる比重が減り、市政参加、母子扶助法設定、婦人労働立法といった具体的な問題に重点がうつされた。
 官製・半官製の婦人団体は、戦争の進展とともに急膨張をとげた。反戦を掲げていた市民的婦人団体は解散に追いこまれた。1938年には、毎年婦選大会が行われた時期に時局婦人大会が開かれ、「起ちて負へ総動員の秋」と掲げた。非常時の協力は女性の地位向上につながるという判断にもとづいて、反戦から戦争協力へと集団による方向転換が行われた。
 戦争協力は女の地位向上につながると信じたい国民精神総動員運動に加わった女性たちにとって、女性史研究成果をよりどころとした高群の文章は支えになった。全国の女性にとってほとんど唯一の情報源となった「日本婦人」の、ただひとつの連続読み物を高群逸枝が執筆し、終戦直前の廃刊までつづいた。

 下中弥三郎は1931年以後、急速に右傾し、戦争中には大政翼賛会の中心人物となった。彼がよりどころにした集団は「農民」→「日本」→「大亜細亜」と拡大した。戦後は賀川豊彦らと世界連邦運動に熱中した。「大東亜共栄圏」から「世界連邦」へと集団は再び拡大された。
 高群逸枝も、近代と西欧に対抗して女性と農民(すなわち民衆)の側に立っているという意識はかわらなかった。あるべき民衆が国民にかわり、あるべき「村」が巨大な村である「日本」へと拡大しただけだった。戦後は国民が再び大衆となり、自分は大衆と共に苦しみ共に歩んできたという意識が高群を戦後民主主義に無理なく結びつけた。
 家父長制家族制度の思想に反論して、国体の思想をゆさぶると共に、母系制の側からの血縁国家論を展開し、万世一系の天皇統治については支持した。

 59歳で完成させた「招婿婚の研究」は高群逸枝の頂点の作品である。
 柳田国男は、婚姻は歴史を通じて男性主体の一夫一婦婚が原則だったと考え、婿が女の家に労役に入ることもあるが、その期間の後は男が女を男家に連れて帰ると主張した。
 だが進化説でなければ女の「家」からの解放はあり得ないと考える高群逸枝は、婚姻は、群婚(ツマドイ)ー招婿婚(ムコトリ)ー娶嫁婚(ヨメトリ)ー相互婚と進化し、招婿婚と娶嫁婚のあいだで婚姻の主体は女から男ないし男の家にかわり、その後の相互婚で両性の寄り合いとなると考えた。
 それを論証するため、藤原定家「明月記」をはじめとする漢文体日記約50部600年分を中心資料とした。
 招婿婚の研究を開始して2年で4000冊を読破(すごい!)、カードを1万枚とったところで破棄して再出発した。「招婿婚の研究」は2600枚で脱稿。「平均10時間の日課で13年9カ月かかりました」。すさまじい知的肺活量だ。
 高群は、有史以前から室町期までつづいた招婿婚の本質は、「自然婚」であり、恋愛のように離合できる一時の一夫一婦制とみている。ただしこの自由は生活の氏族保障によって支えられており、近代的な個人の自由ではない。
 研究は、「自然」と「制度」とのあいだの長年にわたる闘いとして描いている。
 そのせめぎあいは、平安朝の純婿取期にいたって頂点に達する。夫婦同居となり、婚姻は女の父親がつかさどる。両親は住居を娘に提供し孫を養育する。娘夫婦はある時期以後は独立する。夫婦は同族同士でないかぎり死後はそれぞれ自族の墓に入る。
 高群は、源氏物語の姦通例にみられる罪の意識を、後世の制度を冒した不義密通を罰せられる恐怖と同一視してはならないと注意する。女房層にみられる多夫あるいは自由恋愛は男性側の多妻と同じ性質のものだからだ。そこには制度でなく、なるがままの自然を旨とする招婿婚の本質があるという。
 純婿取婚期につづく経営所婿取婚と擬制婿取婚の章は「自然」が「制度」との闘いにやぶれる過程だ。そして娶嫁婚になると、自然にして自由な一夫一婦婚から、法律その他の強制力を借りた制度的一夫一婦婚、一夫多妻婚があらわれ、公娼制も制度化された。
 高群は「自然」の生命生産の立場から、産業本位に編成され私有財産の容れ物となった父系の「家」に対抗する。その一方で、子育て中心の母系家族の共同生活は閉鎖性と停滞をまぬがれられないから、父系氏族と闘争的な個人に敗れて当然であるとも論じた。
 「招婿婚の研究」は、「自然」と「制度」の抗争が主題だ。「自然」とは、男性にたいする女性、都市にたいする農村、工業にたいする農業、文明にたいする原始など、彼女が加担した遅れているものの側を指す。

 原始楽園説をふくむ高群固有の基本図式は「女性の歴史」にもうけつがれる、原始・古代をあつかう上巻は「女性中心の社会」、封建時代の中巻は「性の地獄」、近現代にあたる下巻は戦後の解放気分を反映して「解放のあけぼの」とした。
 高群逸枝は、原始婚の遺制や女性的文化という最古層こそが日本文化の本質と考えた。神道・仏教・儒教を同化吸収して形成された武士道を日本文化の華とする新渡戸稲造の男性的日本とは対照的だった。
 高群の女性的な文化とは、無文字的な文化をさす。古事記、万葉のうたの数々、室町以後は五木の子守歌のような民謡他のうたいもの、らいてうの「青鞜」発刊宣言、中山みき、出口なおなど新興宗教の教祖のお筆先が女性的文化としてあげられている。

 敗戦によって、農民は小作人ではなく、婦人も法律上の無能力者ではなくなった。戸主権は消えた。
 戦後に増大する核家族は、独立した人格をもつ男女の寄合婚がたてまえだが、現実には家父長制家族の最終段階である夫権小家族の「ホーム」にすぎない、と高群は位置づけている。
 女性はしだいに独立した労働力となって家庭から独立し、核家族はこわれて、孤立した個人にまで細分はすすむと高群は予想した。「夫や父は奴僕化され、妻は無為有閑者となり、子どもは不良化」という予想は1980年代を予見しているようだ。
 ひとびとは孤独になる自由を得て、孤独の集まりが大衆となる社会が生まれる。孤立化がきわまったとき、あらたな共同性をさがしはじめ、独立した男女の寄合婚による単婚家庭がつくられる、と予言し希望を託した。
 もうひとつ、子を連れて家庭からさまよい出た女性たちの保障の要請にもとづく大規模な社会編成が起こり、経済は共産制、族制は母系型になるだろうと「高次の原始復活」を予測した。今現実にシンママの貧困が問題になっているが、残念ながら大規模な社会再編は起きていない。
 「女性の歴史」の最終章は、母親たちによる平和運動、社会主義諸国の存在、科学技術の進歩による「平和と愛の世紀」という希望をつづった。だが、あかるい予言は1958年に「女性の歴史」を書きあげた前後から、社会主義諸国間の対立など次々に崩れていった。

 高群逸枝は1964年に亡くなる。橋本憲三は、67年に「高群逸枝全集」を完結させると「森の家」をひきはらい、水俣市秋葉山に移住し、逸枝の墓をつくった。チッソ工場をみおろす場所だった。 早い時期に「森の家」をひきはらった原因のひとつは、逸枝の最後の入院と葬儀をめぐって橋本憲三と市川房枝ら後援者との間に、生活感情、経済観念、彼女の仕事の成果の所属についての考え方のちがいが明らかになったためだったという。
 入院のために「森の家」を出たとたん、「森の隠者は人びとの心をつなぐ力を失ったかのようである」と西川さんは記す。 橋本は、逸枝のことばを森の神秘に深くつつみ、あくまでも娘巡礼であり、女詩人、予言者、連綿の糸を紡ぐ老媼というイメージを守りぬこうとしたのだ。

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▽10 人生の折り返し点で転身を図った。それまで主宰していたアナキスト系の雑誌「婦人戦線」を放棄して同志を置き去りにし、いっさいの社会関係をたち切るようにして森の家で移り住んだ。
▽……婦人運動の高揚期であった昭和のはじめには、神近市子、平林たい子、山川菊栄らと論争をくりかえす評論家として注文をあつめた。
▽12 敗戦前の2年余、大日本婦人会の機関誌「日本婦人」をメガフォンにして神国日本をたたえ、銃後の守りと殉死さえよびかけていた。
▽13 無政府主義から日本主義へ、日本主義から戦後民主主義へと立場をかえた極端な屈折は時流の変化そのままの路線変更であるのに、……自叙伝と日記には変更に伴う動揺の後も打撃にうちひしがれた形跡もわずかしか残っていない。
……どの時代にも高群には多数の読者がおり、抜群の感応力を発揮して大衆の願望を表現した。抵抗とか転向といった観念の通用しない、しぶとい精神のありようこそ、高群についての最大の謎ではないだろうか。
▽20 森の家で老いていく高群は、くりかえし自分の幼い文章を読んでは、30年後、40年後、50年後の感想を書きくわえていった。
▽22 あそびの世界では、おとなしくのろまなこどもであり……弱虫をせめられておいつめられると「あたい観音の子よ」ととんでもないことを叫んで立場の逆転に成功している。
▽24 絵本や児童書のはんらんする以前には、わたしたちの身近にも、おとぎや物語のわきでるひとがいくらでもいた。即興と口誦が物語ことばの条件である。
▽25 後の詩人として、研究者としての作品は、紋切り型と模倣の不思議な連続模様、まるで壮大なパッチワークであった。
 彼女が後の仕事において示した天才とは、まさに記憶力と模倣の集積からうまれたものではなかろうか。……模倣を最後に独創へと倒立させる彼女の力業の謎をとかねばならない。
▽28 土地の者ではない校長一家の子どもたちは、村境の「とんどの橋」を渡って村から出て身を立てねばならない。広い世間の通路は、そのころも今も村境の橋を渡って異教の学校へ入ることであった。
▽33 師範学校の寮生活に耐えられなかった娘が、自分からすすんで工場の寄宿舎へ入り4カ月余の女工生活を送っている。……ここでも「はみだし者」となった。夜の勉強室に電灯を要求するインテリ女工は監督の目障りだった。
▽34 代用教員に。モンテッソーリの自由教育法を実践しようとする若い女先生。生徒には人気があったが、お茶くみもせず、酒席にもはべらないから、同僚には御令嬢というあだ名を付けられた。
▽37 24歳のとき、「娘巡礼記」を連載。
▽39 熱い想いのまま、永遠の恋を誓って書き送る娘の手紙に、若い男は「この世には永遠というものはあり得ない。瞬間のみがある。まあ行けるところまで行きましょう」と恋愛瞬間説を説いてくる。……逸枝におとらず憲三も……相手の魅力に圧倒されているのだが、そうと口にだして素直にいえない。
▽41 熊本で知りあった別の青年からの恋文を同封して、どうしましょうかと相談したのがいけなかった.橋本は勝手にしろ、ととじこもってしまい、そんなつもりじゃないと逸枝がいいわけすればするほど彼の気持ちはこじれるのであった。
▽44 年齢と名前をたずねられると……「花枝と申します。18になります」というものであった。逸枝はこの後10年間、読者の前に立つときには常に18歳であった。必要な擬装であって、彼女は大衆がどのようなイメージにひきつけられるかということをよく知っていたのである。(〓悪女 アンドー)
▽46 伊藤老人こそは娘巡礼を手引するお大師さまであった。
……娘巡礼は、琵琶をかかえての弾き語りをくりひろげた。……ついには娘の杖にさわれば万病半癒というさわぎにいたった。
▽48 ファンレターも次々。人間関係において特殊な感応力をもっていること、即興の才があること、マスメディアの魔力を知りこれを扱う能力を具えていることがよくわかる。
【そう分析するのか! ほれた弱みで気づかなかった】
▽52 道端の木陰、茶屋の縁台の上、夜は野宿の焚き火の傍や善根宿の暗いランプの下で綴った文章である。強靭な意志の力と体力にはおどろかされる。
▽53 逸枝は、思いあまって旅に出ます、……と橋本青年に書き送ったであろう。だが青年はとめに来なかった。……そこで彼女は……その心にむかってひそかに私はあなたが恋しい、あなただけを想っています、と誘いの信号を(記事を通して)送っているのである。
……まだ見ぬ娘巡礼にあこがれてファンレターを書く読者が続出した。……会いに来て結婚を申し込み、ききいれられないと投身自殺を図った青年もいた。
 多感の恋になやみ、大切なひとにあこがれ、支離滅裂にくるしんだ半年の旅……
▽56 娘巡礼とおじいさんは、じゅばんに虱をかっており、もうほかの漂泊の遍路たちと区別がつかない。警官の検問にあい、尋問を受けた。……布施をうけることが
浮浪罪にあてはまるとして検挙の理由になっている。
▽58 晩年まで、ひとつの旅をくりかえしさまざまな文体で書くのはなぜか。……旅行記を書くことは高群にとって納経帳をくるのと同じく、再び旅することであった。
▽62 1919年、妹を伴い、母だけに言い置いて家をでた。しかし熊本市までくると妹を旅館におき、橋本憲三のところへあいさつを告げに寄った逸枝は、そのまま予定を変更して彼の部屋で共同生活をはじめた。……
 つねに相手(評論家)ののぞむところを相手のことばなかばで理解し、潜在する願望さえも相手に代わってことばにしてみせる特異な才能が彼女にはあった。
 ……柳沢健「20歳に足りない少女で、頽廃した村の貧しい家に育った」……娘巡礼のつづきを演じていた。
▽65 憲三は逸枝からうけとった手紙を素材にして長編小説を書く計画を立てていたし、逸枝は恋愛詩を書く。2人は恋をことばで切り刻み、お互いにお互いのことばに傷ついた。
▽66 1919年暮れから1920年にかけて「感情革命」を体験し……革命の火をつけたのは、娘時代から結婚生活へという変調であり、その動揺した心理から吐きだされることばにひきつけられた柳沢健の批評と激賞であった。
▽78 長編詩「日月の上に」 娘巡礼が、時代の予言者あるいは「神」としての詩人となってゆく経過をえがいた自叙伝なのである
「娘はまだ、性格をもたないかもしれない」「詩人はまだ 性格をもたないかもしれない」
……らいてうは、性格をゆがみ、とととらえ、ゆがみのない人こそ天才、真正の人と呼んだのであった。高群の最終行は、……性格をもたないからこそ、彼女は天才であるかもしれない、真正の人であるかもしれないという意味になるのである。……天才宣言でしめくくられることになる。詩人らいてうを継ぐ決心をひそかに告げている。
▽81 橋本憲三は、逸枝と生田長江のあいだに、恋愛に似た気持ちの交流がうまれていることに気づいて彼女を東京から遠ざけたのだという。……高群は他人と、近代的な社会関係の常識からみれば恋愛とみられる結びつきしかつくれない。〓たしかに読者はほれてしまう。
……図書館の高群の本の場合、落書きがあまりに数多く、あまりに熱烈なのである。悪口と熱中とがあいなかばしている。
▽86 「東京は熱病にかかっている」脱稿直後の9月1日に関東大震災が東京を襲った。詩のなかで予言されていた終末は天災ではなく、来たるべき第二次世界大戦であった。
▽87「……待ちくたびれた戦争がやってきて、科学的な方法で、全世界の都会をめちゃめちゃにした上でなくては自覚できないというのなら、この上何をいおう」と、世の右傾化を憂いている。
第一次共産党事件 「1923年6月5日、地裂け天落つるとばかりに 大活字の人工的発作は、 都下全新聞紙の個性を奪いぬ」
▽89 知識人のなかでもっとも民衆の方へ向いていた有島武郎にたいしても容赦がない。畑野秋子と情死した彼にむかって「ふざけるな有島武郎」と罵倒をあびせかけるのである。
……詩が書かれた1923年から発表された25年にかけて、プロレタリア文学は全盛期にあり、一般にも「民衆」は実態ある存在とみなされていたのである。
▽95 橋本憲三も、上京する友人、文学青年、政治青年たちを新世帯に次々に同居させた。……合宿のごとき生活をきりまわす主婦であることをもとめた。ところが彼女は……家事は不得手のままだった。
▽98……家出 同居人のひとり、平凡社員の藤井久市と。スキャンダルに。
 家出前を記録した「路地裏の記」……恋しても恋しても愛に渇くと書きつけていた。男は追い、女は逃れながら,選ぶことによって恋愛の主導権をにぎるというのが逸枝の考えていたゲームの虫のよすぎるルールであった。
……同行の人には巡礼の道を教えたのちに別れ、自分は寺に籠もって恋愛論を書きます、などとあって……藤井久市は以前から放浪をくりかえし、武者小路実篤の「新しい村」にいたことがある青年だった。
……逸枝はこのとき、四国遍路の二番煎じをこころみて社会から手痛いしっぺがえしをうけたのであった
▽102 橋本憲三と下中弥三郎という2人の編集者は、事件を忘れるという療法ではなく、さらに考え、書くという荒療治をすすめた。「家出の詩」が生まれ、「東京は熱病にかかっている」の付録となった。
▽103 結婚生活の破綻は性格の不一致などではなくて「結婚制度」からくるものであると、決定的な一語を吐くのである。スキャンダルは、個人的ななやみを越えて結婚制度一般について考えるという飛躍をゆるした。
「女の真の自覚は 結婚制度の改革などでなく、 結婚制度の撤廃を要求する」
▽105「恋愛創生」という恋愛論で、古事記その他の古い恋物語、万葉集の恋歌においてはあんなにもすこやかでのびのびとしていた恋愛感情が、次第に凋落する経過を物語や小説のなかにたどり、男が女を所有の制度にとじこめたそのときから女は男にまといつくものと堕し、男は闊達にして熱烈な本当の愛を見失ってしまったのだと述べている。
▽107 「青鞜」発刊のときのらいてうは霊感詩人であった。しかし彼女は「青鞜」以後はふたたびあの火のような神のことばを吐くことができなかった。……らいてうや紅吉の火を消したのは……結婚と育児、らいてう自身が天才を殺すと呪った家事であった。
……いわゆる家庭を放棄して進むことのできた高群の蛮勇にたいし、生涯、敬意を表し続けた。また高群逸枝はらいてうを継ぐことにより、集団の代表を僭称できることを知っていた。高群のこの後の仕事はすべて一世代前の平塚らいてうが直感と行動によってきりひらいた道と無関係ではない。
▽112 下中弥三郎(平凡社創設)は、高群と渋谷定輔を農民自治会という運動に参加させ、運動をになうべき農民と婦人という2つの集団を代表する象徴的人物としている。
……下中は階級対立よりも都市ー農村の対立を重視。不況の時代にあたり農村の疲弊は深まる一方であったから、都会は農村の上前をはねているという下中の反都会主義には説得力があった。
▽115 下中は1931年以後、急速に右傾し、戦争中には大政翼賛会の中心人物となり、戦後は追放の身であった
▽118 アナ・ボル論争。マルクス主義の立場に論争をいどむ。相手は、階級闘争が性別の問題に優先し、社会主義政権のもとで家事と育児の社会化が実現すれば婦人問題や恋愛のなやみが残ることはないという立場。
▽121 無産階級にとって娘は最後の売り物であって、廃娼運動にたいし東北の農民が抗議の声をあげる。
▽124 「婦人戦線」最終号は、高群が世田谷に新築した研究所に転居するにつき編集責任は城しずかがうけつぐと告げているが、その後つづかず、廃刊宣言もないままに消滅した。
……廃刊の直接の原因は資金難でも内部論争でもなく高群逸枝の恋愛であったと……恋の相手は、松本正枝の夫、延島英一。瀬戸内晴美の小説「日月二人」がこの恋をとりあげた。〓(だいぶ年下)
▽128 森に籠もることが世捨ての様相を帯びるのは、「婦人戦線」において彼女自身が育てた仲間のつながり、恋の絆を切ったからである
▽130 建築費をととのえたのは橋本憲三であったが、軽部家は地所を貸しただけでなく、さる宮家とも、あるいはかつての鹿鳴館ともいわれる建物を解体したときの古建材を買いこんでおり、これを提供して建築一切をとりはからってくれた。
……かつての天才少女をまた自分の地所んい住まわせることを心底からよろこんでいる様子である。
▽135 高群逸枝の独創は、母系制遺制の発見そのものよりもむしろ、実証のための資料に「新撰姓氏録」(815)をえらんだ着眼と、膨大な資料分析の方法、さらには推論のたてかたにあったとおもわれる。
▽140 出雲国造は、名祖族なので、彼自身は一祖をつづけて祖変がないばかりか、逆に、遠国の国造の多祖のなかに出雲系がつぎつぎにみいだされる。中央名祖族が長駆して地方の豪族の女を妻問して、生まれた子をとおして女の一族を把握し勢力をひろげるさまをみせる。
 オオクニヌシノミコトの子181神とは、ミコトが各地に勢力を張っていた女神、つまり母系氏族の女酋を妻問して生まれた子であり、彼らが母族をひきいたまま父神に従った結果、国作りすなわち統合がすみやかに行われたと神話を読み解いている。
……複氏現象は、複氏の上は父系の氏の名、下が母系の氏称であって両氏併存は両系統のせめぎあい、母系の長い抵抗をあらわすものであり、下の氏称がとれる現象は、父系制の最終勝利を意味すると解く。
▽144 「母系制の研究」は、父系系譜の虚構性についての研究であり……父系の家族という生活の実体はまだ存在しなかったということを主に語っている。
▽150 津田左右吉「古事記及日本書紀の新研究」「神代史の研究」などは発禁処分に。著者と岩波茂雄は出版法違反のかどで起訴された。
 ところがその2年前の「母系制の研究」は国家権力の圧力からのがれている。
……津田が起訴された1940年に、高群逸枝は、皇紀2600年式典のために「女性2600年史」の執筆を依頼されてこれを書いた。
▽156 「面会お断り」の札は、実用の目的の他に、祭祀の地に立入を禁ずと告げ、この地を聖別するためであったように想われる。
▽158 1931年、森の家へ入居。32年以降、「戦争の必然性をも信じる」「日本主義」「ファッショ」肯定の発言が増えた。
▽159 婦選大会は、自主的な婦人団体が、議会主義と男女平等を否定するファシズムに抵抗するための共同戦線の場となった。……だが1935年第6回から後退がはじまる。参政権問題と平和問題をとりあげる比重が減り、市政参加、母子扶助法設定、婦人労働立法といった具体的な問題に重点がうつされた。
……官製・半官製の婦人団体は、戦争の進展にしたがい積極的に婦人大衆を組織して急膨張をとげていた。抵抗をつづけていた市民的婦人団体は、反戦をかかげて解散に追いこまれ、獄につながれるか、それとも戦争に協力して団体の持久を計るか、いずれかを選ばねばならなかった。
 1938「年、毎年婦選大会が行われた時期に時局婦人大会が開かれた。「起ちて負へ総動員の秋」。
 非常時の協力は女性の地位向上につながるという判断にもとづいて、反戦から戦争協力へと集団による決定的な方向転換が行われた。
▽161 「母系制の研究」は過剰防衛とみえるほどの配慮につつまれた出版された。初版には徳富蘇峰(大日本言論報国会長)による序文……
▽165 戦争協力は女の地位向上につながると自分にいいきかせて国民精神総動員運動に加わった人びとにとって、高群の女性史研究成果をよりどころとした文章がいかに必要であったか。
▽168 一般の女性関係の雑誌新聞は廃刊になるなか「日本婦人」は全国の女性にとってほとんど唯一の情報源となった。
……この雑誌のただひとつの連続読み物の執筆者に高群逸枝……昭和20年終戦直前の廃刊までつづき……
▽174 下中弥三郎がよりどころにした集団は「農民」→「日本」→「大亜細亜」と拡大。大正時代に自由人をつくる創作教育を唱えた人が戦時中に書いた文章は高群とおなじくきまり文句で埋まり……
 戦後は賀川豊彦とともに世界連邦運動に熱中した。「大東亜共栄圏」から「世界連邦」へと集団は再び拡大されたのであった。
▽175 高群逸枝も、近代と西欧に対抗して女性と農民すなわち民衆の側に立っているという意識はかわらなかった。あるべき民衆が国民にかわり、あるべき「村」が現実の巨大な村である「日本」へと拡大しただけであった。戦後は国民が再び大衆となり、自分は変わることなく大衆と共に苦しみ共に歩んできたという意識が高群を戦後民主主義に無理なく結びつけた。
▽177 家父長制家族制度の思想に反論して、国体の思想をゆさぶると共に、母系制の側からの血縁国家論を展開し、万世一系の天皇統治についてはこれを支持し、強化してきた。
▽181 女性史研究においては「招婿婚の研究」が彼女のいわば頂点の作品である。
▽184 婚姻をあらわす語は通い婚の時代にはツマドイだった。同居婚の時代となってムコトリという語が用いられ、これが長くつづいた。室町時代になってはじめてヨメトリという語が用いられはじめたといい……
▽185 柳田国男は、婚姻は歴史を通じて男性主体の一夫一婦婚の原則。婿が一定期間、女の家に労役に入る一時的母所婚が行われるが、その期間の後は男が女を男家に連れて帰ると考えた。
 だが進化説でなければ女の「家」からの解放はあり得ないと考える高群逸枝は、婚姻進化説……婚姻は群婚ー招婿婚ー娶嫁婚ー相互婚と進化し、招婿婚と娶嫁婚のあいだで婚姻の主体は女から男ないし男の家にかわり、その後の相互婚で両性の寄り合いとなると考えた。
▽188 藤原定家「明月記」をはじめとする漢文体日記約50部600年分が中心資料になるとわかった。
▽190 招婿婚の研究にうつって2年たち4000冊読破(すごい!)、カード1万枚とったところで、破棄して再出発。
……「招婿婚の研究」は2600枚で脱稿。「平均10時間の日課で13年9カ月かかりました」〓肺活量
▽191 高群は、有史以前から室町期までつづいた招婿婚の本質は「自然婚」であって「制度婚」ではない、という。本質は、強制をともなわない自然な一時の一夫一婦制とみている。夫婦の離合は恋愛のように自由、ただしこの自由は生活の氏族保障によって生まれ……母子の生活も族に託すことによって成立したとしており、近代的な個人の自由ではない。
……全体が「自然」と「制度」とのあいだの長年にわたる熾烈な闘い、でるかのように描かれている。
▽194「自然」対「制度」のせめぎあいは、平安朝の純婿取期にいたって頂点に達する。ようやく夫婦同居となり、婚姻は女の父親がつかさどる。両親は住居を娘に提供し、……娘がうむ孫を養育する……娘夫婦はある時期以後は独立して、妻族への同化はない。夫婦は同族同士でないかぎり死後はそれぞれ自族の墓に入る。
▽194 高群は、たとえば源氏物語の姦通例にみられる罪の意識を、後世の制度を冒した不義密通を罰せられる恐怖と同一視してはならないと注意する。女房層にみられる多夫あるいは自由恋愛は男性側の多妻と同じ性質のものだからである。この時代には現在のことばでいう姦通、重婚、再婚、多夫がじっさいには区別がつきにくく、そこに制度でなく、なるがままの自然を旨とする招婿婚の本質がある、と見ているのである。
▽195 純婿取婚期につづく経営所婿取婚と擬制婿取婚の章は「自然」が「制度」との闘いにやぶれてしだいに鎮圧されていく過程をえがいている。
……擬制……もおわり娶嫁婚にうつると、自然にして自由な一夫一婦婚から法律その他の強制力を借りた制度的一夫一婦婚、じっさいには一夫多妻、……があらわれ、公娼制も制度化される。
▽196 高群は巫女−遊芸人−売春婦はもともと神前集団結婚から発生したものであり、抑圧されていく「自然」の一つの系譜をあらわすと考えている。自然婚が生きのこるやさしい風土には、自然婚を歪曲する性の商品化がつけこみやすいという示唆もある。
▽198 彼女にはもともと子を重視するところが少ない。……高群の立場は「自然」つまり種の立場である。生命生産の立場から、産業本位に編成され私有財産の容れ物となった父系の「家」に対抗している。その一方で子育て中心の母系家族、あるいは氏族の共同生活は閉鎖性と停滞をまぬがれることができないのだから進取的な父系氏族と闘争的な個人に敗れて当然であるともいう。
▽202 高群は、近代的知識人ではなかった。アカデミズムや学者の世界にたいしてほんものの憎悪をいだいてきたひとであろう。
 彼女は婚姻形態の進化発展説にどこまでも固執した。発展説でなければ「家」に釘付けされた女性の救いはありえないと考えたからであった。
▽203 孤独のひとといわれる高群逸枝であるが、彼女はいつも絶対多数派の側にいた。絶対多数派は抑圧されているものたちであり……
▽204 「招婿婚の研究」は、「自然」と「制度」の抗争という主題である。「自然」とは高群にとっては男性にたいする女性、都市にたいする農村、工業にたいする農業、文明にたいする原始など……彼女がつねに加担した遅れているものの側を指す。彼女は「自然」の凋落をかなしみ、自ら「自然」になりかわったかのように語った。
 招婿婚の研究が出版されたとき、高群は59歳(〓同じかぁ)
▽208 汽車よりも山を愛して故郷へ帰りたい、とうたっている。……彼女は放浪者宣言をして故郷を捨てたのであるから、成功したのちも帰らぬ近いをつらぬいてこそはじめて故郷から認められ、遠くよりあいさつを送ることを許されるのであった。逸枝は歌碑の除幕式には出席せず……
 故郷にたいして距離をおきながら、文字による表現の上では故郷への傾斜が年ごとに深まってゆく。最後の自叙伝は「火の国の女の日記」。
▽212 根強い原始楽園説をふくんでいる高群固有の基本図式は「女性の歴史」にも残り、原始・古代をあつかう上巻は「女性中心の社会」、封建時代の中巻は「性の地獄」、近現代にあたる下巻は戦後の解放気分を反映して「解放のあけぼの」
▽213 複合停滞の底には原始性、原始婚の遺制や彼女のいう女性的文化がわだかまっている。この最古層をもって日本文化の本質と考えたのだった。彼女の描くいわば女性的日本と、同じく重層性をみとめながらも、鎖国を行った封建時代に神道・仏教・儒教を同化吸収して形成された武士道を日本文化の華とする新渡戸稲造のえがく男性的日本との対照はあきらかであろう。
▽214 高群の女性的な文化とは、無文字的な文化の伝統をさす。高群はこれを「ことばの文化」とよんで文字の文化と区別している……古事記、万葉のうたの数々、室町以後は五木の子守歌のような民謡他のうたいもの、らいてうの「青鞜」発刊宣言、中山みき、出口なおなど新興宗教の教祖のお筆先があげられている。
▽214 「女性の歴史」の「先駆者平塚らいてう」の節……書き上げた日、らいてうに手紙を書いて、30余年前にあなたの伝記を書くことができる唯一の人間はわたしと述べたあの約束を今日、果たしましたとよろこびの報告をした。らいてうは後に自伝のなかで、高群の女性史研究をたたえ、「高群さんのこの研究によって明治44年「青鞜」の創刊に際してわたしの内部から吹きこぼれるようにして叫ばれた『元始、女性は太陽であった』という言葉に学問的な実証があたえられることになったのです」と語った。高群は「青鞜」の発刊宣言には原詩の女性祭司の声がきこえると言ったのであった。
▽216 高群の「日本」は開国と敗戦において二度、力に屈したのであった。力とは西欧の近代的な産業力であった。黒船のあと、明治政権は封建的家父長制を強化して内なる植民地、家族奴隷をつくって外国に対抗し、自らも短期間のうちに世界市場の競争に加わることができるほど強力な産業力を有するにいたる、というストーリーを用意している〓。
▽地主にしぼりとられる小作農民の苦しみと戸主権によって売りとばされるムスメの問題は二つにして一つという認識は、彼女が加わった農民自治会運動と雑誌「婦人戦線」の主張であった。
▽218 敗戦 「日本」にとっては哀しみの日、「女性」にとっては解放の喜びの日 過去の「日本」に加担したゆえに自分に沈黙を科した知識人もいた。高群は「女性の歴史」において原始的で「女性的な日本」を「封建的な日本」から切りはなし、他方では亜細亜との心情的な連帯を強調してあくまで西欧的近代と対抗することによって彼女自身の戦前・戦中・戦後をつなぎ、矛盾を力業でねじふせた。その精力と、自己否定とは無縁のたくましい感性こそ民衆の思想家の本領であった。
▽219 敗戦によって、農民は小作人ではなく、婦人も法律上の無能力者ではなくなった。戸主権は消えた。戦前の社会では市民とはみなされず、下層意識をもやしていた分子の参加がはじまった。
……核家族 独立した人格をもつ男女の寄合婚がたてまえであるが、現実につくられているのは家父長制家族の最終段階である夫権小家族の「ホーム」にすぎないといっている。〓なるほど
▽220 女性はしだいに独立した労働力となって家庭から独立し、核家族はこわれて短期間のあいだに孤立した個人にまで細分はすすむというのが高群の予想する家族論である。……夫や父は奴僕化され、妻は無為有閑者となり、子どもは不良化しつつある事情にあると書いている。
 ……ひとびとは孤独になる自由を得て、孤独の集まりが大衆となり、女を含む大衆社会が生まれる。……個性も希薄になった孤立した個の集まりに大きな期待をかけて……細分がきわまったときあらたな共同性をさがして生きる必要にせまられる。
 高群の予想の一つは、独立した男女の寄合婚による単婚家庭があらためてつくられるというものである。寄合婚がつくる家庭は、つねに自分たちで選んで集まるのだから
離合はもっと自由になる。
 もうひとつの予想は、子を連れて家庭からさまよい出たものたちの母子保障の要請にもとづく大がかりな社会編成が起こり、経済は共産制、族制は母系型になるだろうというものである。「高次の原始復活」とよぶ。
……高群は下中弥三郎とおなじくやすやすと愛と平和、そして世界国家を説く。他方において彼女の「日本」はどこまでも血縁共同体の拡大であり……国家は権力装置とは理解されていず、「村」の拡大である。彼女はひそかに天皇制に固執し、その性格は土着の酋長の如きもの、と説明するのは、彼女の「日本」が戦後もなお血縁共同体にほかならないからである。
▽221 「女性の歴史」の最終章は「平和と愛の世紀」 希望的観測の根拠は、母親たちがはじめた平和運動、新生の社会主義諸国の存在、そして反・近代の思想家の自説とは矛盾する機械力の進歩、宇宙開発におかれている。しかし、あかるい予言は1958年に「女性の歴史」を書きあげたその前後からつぎつぎとはずれた。社会主義諸国のあいだの対立……
▽222 教祖たちの「お筆先」は大衆語で短歌風に書かれており、……その魅力は昭和初期以降にあらわれた平林たい子、壺井栄、佐多稲子、林芙美子……の文章のもつ性格に共通するというのである。これら女流作家たちもまた大衆語で書いた人びとであり、一般読者は彼女たちの大衆的資質のなかに、自分自身を感じとって、単なる聴聞衆としてではなく、創造者として参加することができるのだと説明している。
 高群自身もまた、象徴をちりばめた大衆語で語るお筆先作家の一人なのである。
▽222 高群は、メディアに無条件に信頼をよせていたことにわたしたちは気づく。
 長辺社会詩「東京は熱病にかかっている」は新聞切り抜きのコラージュであった。家で事件は新聞によって追跡されたが、それでも彼女は報道に恐怖や不信をいだいた様子はない。昭和のはじめには新聞雑誌を舞台とする連続の論争に闘志をもやした。
▽234 橋本憲三は「火の国の女の日記」を第1回配本とする「高群逸枝全集」を編集し、1967年に完結させた。森の家をひきはらい、水俣市秋葉山〓に逸枝の墓を建造……チッソ工場をみおろす場所。墓のみえる家に独居し、1968年「高群逸枝雑誌」を創刊……1976年、橋本憲三の死をもって終わった。
▽235 早い時期に森の家をひきはらった一つの原因は、逸枝の最後の病、入院、葬儀をめぐって橋本憲三と市川房枝をはじめとする後援の人びととの間に、生活感情、経済観念、彼女の仕事の成果の所属についての考え方のちがいが明らかになったためであった。入院のために森の家を出て白昼の光りに照らされたとたん、森の隠者は人びとの心をつなぐ力を失ったかのようである。
 橋本は、逸枝のことばを再び森の神秘に深くつつみ、あくまでも娘巡礼であり、女詩人、予言者、そして連綿の糸を紡ぐ老媼というイメージを守りぬくことによって、彼女のことばを遠く未知の読者にまで届けようとした。
▽227 歴史の連綿の糸をつむぐうちに高群はしだいに、世代をつないで生きる種の立場、あるいは永遠につづく自然の立場から時間を眺めるようになった。
……全集が切り捨てたアナキズム運動時代、戦中の日本主義への傾斜をふくむ高群逸枝の全体像が姿をあらわすには、全集のあと10年の時間と多くのひとの努力が必要であった。それほど神秘のおおいは厚かったのである〓
 ……自分のことばで自由に高群逸枝を語るには、彼女の魅力から解き放たれることが必要であった。……書きはじめたとき、大衆の慰めの主、救済者そして猛々しい大衆のデーモンの姿を掘り起こすことになろうとは思ってもいなかった。

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