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陰陽師たちの日本史<斎藤英喜>

■角川新書260312
 アニメや漫画の陰陽師・安倍晴明(921~1005)は、鬼と対決し、式神を操り、怨霊を調伏する魔術師だ。実際の陰陽師とはどんな存在なのかを古代から明治にいたるまで丹念にたどる。

 陰陽師は、星の動きが国家や天皇の運命にあたえる影響を見きわめ、吉凶を占う。その背景には、中国の陰陽五行の思想があった。7世紀初頭、天武天皇が、天文・暦・ト占などの知識を国家体制のなかに組みこみ「陰陽寮」という役所を設けた。
 「陰陽道」の用語は古代中国にはなく、日本の10世紀以降の文献にでてくる。古代中国の陰陽説・五行説・天文説などをベースにして、密教や道教、神祇信仰との交渉のなかで編み出された体系であり、そのキーパーソンが、藤原道長や清少納言、紫式部と同時代の安倍晴明だった。
 太陰太陽暦は、暦の作成は複雑な計算と暦法理論が必要で、おなじ暦を二度とつかうことはできない。毎年の暦をつくることは、支配領域が同じ時間を共有することを意味し、皇帝(天皇)が天の委託のもとに時間と空間を支配することの象徴だった。
 天体現象の異変は、天の支配者(天帝)が地上の支配者(天子)にしらせる予兆であり、地上の支配者はつねに天体の運行をチェックしなければならない。チェック機関が「陰陽寮」だった。
 陰陽寮は国家全体の問題を占うから極度な「清浄さ」を要求される。だから、貴族たちの私的な穢れを祓うことはない。そこで、個人を対象に祭祀をする「陰陽道」という呪術的な宗教が形成される。
 安倍晴明は当初は陰陽寮の「役人」だったが、陰陽寮をやめたあとはフリーの祈祷師・占術師として、貴族たちの救済をになった。「国家占星術」から「個人占星術」への変貌にたずさわったのが「陰陽師・安倍晴明」だった。晴明は85歳まで生きた。当時としては驚異的な長命だった。
 清明のような上級陰陽師を雇えない中下級の貴族は、「法師陰陽師」をやとった。彼らは裏では「呪詛」を請け負うことがあり、清少納言ら貴族女性たちにとっては軽蔑の対象だった。
 清明は、密教の焔魔天供、陰陽道の代厄御祭にかえて、「泰山府君祭」を考案した。そのルーツは中国の民間信仰にある。泰山は山岳信仰の聖地であり、山上には、人間の寿命をを記した帳簿があると信じられた。冥府の王である泰山府君に、死者としての戸籍を抹消し生者の戸籍に再登録してほしいと願うのが泰山府君祭だった。
 インドの仏教が中国に伝わることで、仏教の地獄や閻魔王などが混ざり、泰山府君には、生前のおこないにたいする審判や刑罰の執行者のイメージが付与されていく。そうした信仰が、「泰山府君」を中心におく陰陽道祭祀になっていった。平安時代後期から院政期にかけて、泰山府君祭は貴族社会に定着した。 
 平安前期までの陰陽寮の「天文」は中国由来の国家占星術だったが、個人の運命をつかさどる「星」を見る「個人占星術」は、唐の時代に中国に伝わった「インド占星術」がもとだった。そのルーツはギリシャにあり、さらにさかのぼると紀元前3000年に栄えた「メソポタミア文明」に行き着く。
 インド系・ギリシャ系の占星術は、個人の運命を占える。中国では根づかなかったが、日本では僧侶のグループがになう「宿曜(すくよう)道」に発展した。
 平安時代中期に確立した「陰陽道」では、暦部門は賀茂氏、天文部門は安倍氏が独占したとされている。賀茂保憲が息子の光栄に「暦道」を、弟子の安倍晴明に「天文道」をさずけた伝承がもとになっている。
 しかし実際は、平安後期には、安倍氏、賀茂氏以外の氏族出身の陰陽師も多かった。
 平安時代末期には安倍氏、賀茂氏に優秀な人物がおらず、陰陽道は衰退していた。「金神(こんじん)の忌み」などをめぐって儒学者と議論がおきた。
 「金神七殺の方」とは、金神がいる方向をおかすと、7人までも隣人を殺害するという禁忌だ。これをはやらせたのは、清原氏という儒家だった。陰陽師たちは反対したが、おさえることはできなかった。

 陰陽道は、清明から6代目にあたる安倍泰親によって再生される。当時、儒教などとの対立にくわえ、賀茂家への対抗や、安倍家内部も3つの家筋にわかれていた。1132年には、清明の旧邸宅地である「土御門の家」について、泰親と兼時(晴道)が、どちらが正統な相続者かをめぐって訴訟事件を起こしている。
 泰親は「土御門の家」を聖なる「霊所」とよび、のちに「晴明神社」となった。(「清明の邸宅跡」というのは伝承によって創作された作り話)
 鎌倉幕府も「陰陽道祭」に力を入れた。安倍有世(ありよ)は幕府に重んじられ、「土御門」という公卿としての名乗りをする。
 室町時代も、足利家にとりたてられたが、応仁・文明の乱で陰陽寮田を知行地とした若狭国名田庄に避難した。応仁の乱は、安倍氏、賀茂氏の陰陽師たちを地方に分散させるきっかけになった。
 戦国時代の1565年、賀茂家の当主在富(あきとみ)が死去し、後継ぎがないままに賀茂家が断絶した。そこで安倍有春の次男、賀茂在高(あきたか)が賀茂家に養子にはいった。実質上、天文も暦も安倍家がになうことになった。
 賀茂在富の息子在昌(あきまさ)は、キリスト教に入信した。1563年に来日したフロイスは、「日本史」のなかで「日本で最高の天文学者の一人で公家」である「アキマサ」が、キリスト教徒から日蝕月蝕や天体の運行についての知識を聞いて納得したため京都で最初に入信したと記した。彼の入信が、賀茂家断絶の一因とも考えられるという。

 戦国時代の武将につかえる軍師には「陰陽師」出身が少なくないが、豊臣秀吉は陰陽師を「国家を亡ぼすもの」として弾圧した。
 甥の秀次が、拾丸(秀頼)へ呪詛を仕掛けたという嫌疑をかけられ切腹したが、呪詛を請け負ったとされたのが土御門久脩(ひさなが)だった。このとき陰陽師131人が尾張国に強制的に移住させられた。

 「ホキ内伝」によると、祇園祭りの祭神である牛頭天王は星々の世界にむすびつき、陰陽道の世界では「天道神」とされる。「天道神の方」は、すべてが成就する最高の方位だ。凶悪な方位である「金神七殺の方」の金神とは、牛頭天王に宿を貸さなかったため殲滅された「巨旦大王」のことだ。
 民間にも広まる牛頭天王の物語によって、方位や日時の吉凶を説明するのは、「ホキ内伝」の担い手が、宮廷陰陽師ではなく、民間で活動する陰陽師である証拠という。
 そんな在野の「陰陽師」は、清明とほぼ同じ時期に登場し「陰陽法師」とよばれた。近世の「唱門師」も、占い・祈祷をして、家々に暦を配り、正月には万歳などをしたが、一般からは賎視された。
 折口信夫は、陰陽寮所属の「陰陽道の博士」に発する「宮廷の陰陽道」と、「民間の寺僧」がになう「僧侶の側の陰陽道」のふたつの流れについて、前者の官人たちは事務にたすわるだけで、「学問」としての発展性が失われたと評し、後者の「僧侶の側の陰陽道」が民間信仰とも融合して社会に広がったと評価した。
 土御門家は江戸時代にはいると、これら地方で活動する「陰陽師」系宗教者を自らの支配下におくことを画策する。「陰陽師」を名のって、占いや暦売り、祈祷、雑芸などの「商売」をいとなむ者は、土御門家から「門人」としての「許状」を発行してもらい、その対価として上納金を納めるという体制だった。1683年の霊元天皇の「諸国陰陽師之支配」の綸旨=勅許と、それを追認する将軍綱吉の朱印状などによって制度化された。
 賎視されることの多かった地方の陰陽師にとって、土御門家門人というブランドを得ることは祈祷などの「売り上げ」に直結した。土御門家にとっては、宮廷社会が衰退して経済的に逼迫するなか、地方の陰陽師たちからの上納が不可欠になっていた。

 江戸時代前期の陰陽師の競合相手は、西洋天文学をとりこんだ幕府の「天文方」だった。
 861年からつかわれていた「宣明暦」では、日蝕や月蝕の予報が実際と約2日ずれるようになっていた。そこで1684年(貞享元年)、823年ぶりに「改暦」されることになった。
 リードした渋川春海(1639~1715)は、西洋天文学を伝える「天経惑問」に学びつつ、イスラム暦の影響をうけた元の「授時暦」を京都の経度・緯度に合わせて再編して改暦に成功した。
 陰陽道再興で活躍した土御門泰福は、吉田神道が中世的な神仏習合色を残し、近世社会では時代遅れであることを見ぬき、当時台頭してきた山崎闇齋(1618~82)創始の「垂加神道」に接近した。垂加神道は、天文学と共振するものをもっていた。
 17世紀半ばに明が滅び、「中華」「華夷」思想の基盤がくずれ、儒学者が信奉する儒学=文明の教えの現実的根拠が失われた。「中華思想」が相対化され、日本こそが真の「中華」であるという日本中華思想、日本型華夷思想が生まれた。山崎は朱子学者だが、儒学を超えるものとして「神道」を位置づけた。
 山崎は、天地・万物をつくりだしたのは陰陽・五行の気の働きとみる。そして陰陽・五行のエネルギーこそが、じつは日本書紀のいう「国常立」だとする。天地開闢の冒頭に顕現したクニノトコタチとは、陰陽・五行の気に与えられた名称と解釈した。中国の陰陽・五行の思想は、じつは日本の神々のことであり、陰陽・五行説もじつは「神道」のひとつだと説いた。土御門泰福は、土御門の陰陽道を「天社神道」(土御門神道)とよんだ。
 渋川春海は西洋天文学の知識によって、中国絶対主義=中華思想から逃れた。泰福も、渋川や山崎との交流を通して、中華思想とはことなる、「日本」固有の信仰「神道としての陰陽道」を創造した。西洋の新しい知識とであうことで中華思想を相対化し「日本」を発見することになった。
 国学者の本居宣長は西洋天文学の解説書「天経惑問」を読み、天文学関係の論稿で、西洋天文学の優位性を論証し、地上は空に浮かんだ球体(地球)であることを認めていた。アマテラスを太陽そのものとし、太陽の子孫である天皇が統治する「皇国」は、他の国とは比較できない優秀な国であると主張した。神がかり的な宣長の国学の前提にあるのは、太陽が地球を照らしているという西洋天文学の知識だった。さらに宣長は太陰太陽暦の限界を指摘し、太陽を中心とした「太陽暦」のほうが真の暦であると主張した。
 宣長の「没後の弟子」平田篤胤(1776~1843)は狂信的なナショナリストと批判されてきたが、地動説を肯定していた。
 古事記の「国稚く、浮脂の如くして、九羅下(くらげ)なすただよへる」という神話は、地球が天界を旋回している意味し、日本の「古伝説」はすでに地動説を唱えていたと解釈した。篤胤は天文学に精通していたが、その結論は、西洋、中国、インドの天文学の根源は日本の神々であり、「暦」を統御する「暦神」は、牛頭天王であり、スサノヲであるとかんがえた。

 明治3年、1870年、「天社神道土御門家免許ヲ禁ス」という太政官布告(陰陽道禁止令)が発令された。「神道国教化」による神仏分離令、修験道廃止、禁厭祈祷の医療行為差止め取締りなど、「淫祠邪教」撲滅の動きの先陣をきるものだった。1872(明治5)年には太陰太陽暦が廃され、太陽暦が採用された。

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▽6星の動きが国家や天皇の運命に与える影響を見きわめ、その吉凶を占う。清明は、国家や天皇の運命を占う「天文密奏」といトップシークレットの職務を担っていた。
 彼らの天文占星術の背景にあるのが、中国から伝来した
天文学、陰陽五行の思想であった。
 「陰陽道」の用語は古代中国にはなく、日本の平安中期、10世紀以降の文献にでてくる。陰陽道とは、古代中国の陰陽説・五行説、天文説などをベースにしつつ、密教や道教、神祇信仰との交渉のなかで、平安中期の日本で独自に編み出された信仰・学知・技能の体系であり、そのキーパーソンが安倍晴明だった。
▽20 清明(921〜1005)は、道長や清少納言、紫式部らと同じ時代を生きた
▽22 7世紀初頭、天文・暦・ト占などの最新の知識、技能を日本に根づかせ、国家体制のなかに組みこんでいったのが天武天皇。
 ……天武は「陰陽寮」という役所を設け、天体の動きを観測し、吉凶を占うための「占星台」という施設をたてた。
……天武は一種の「魔術王」でもあった。
▽26 太陰太陽暦は、暦の作成はきわめて複雑な計算と暦法理論を必要とする。一度作った暦は、二度とつかうことはできない。
▽暦をつくること、トキを測定し知らせることは、本来は、国の支配者・天皇が独占的にもつ役目だった。毎年の暦を頒布することは、支配領域が同じ「時間」を共有することを意味し、皇帝が天の委託のもとに時間と空間を支配することを象徴することになる。
▽28 天体現象の異変は、天の支配者(天帝)が地上の支配者(天子)に下す予兆であり、地上の支配者はつねに天体の運行に異常がないかチェックしなければならないチェック機関が「陰陽寮」
▽31 暦が古びてきて、日蝕の予測があたらなくなる。それが原因でおこなわれたのが江戸時代の「改暦」。
▽32 中国経由の占星術は「国家占星術」とよばれる。星とむすびついた個人の運命を占う「個人占星術」の知識と方法は中国経由のものとは異なっていた。おもにインドからもたらされたもので、のちに「宿曜道(すくようどう)」と呼ばれるものになる
……「陰陽道」の成立とは、国家全体の問題から「個人」の救済という信仰的な主題へ変化する時代ともかかわっていたのである。
▽33 陰陽師たちも、「鬼」を追い払う儀礼に携わっていた。奈良時代から12月晦日の夜におこなわれる「大儺儀(だいなのぎ)(のちの「追儺」)。現代の節分のルーツになるもの。
▽34 鬼が牛のような角をもち、虎の皮模様のパンツをはく姿になったのも、陰陽説の方角にもとづく。鬼が出現する方角は「丑寅」(北東)で鬼門とされたからだ。
▽39 節分の「豆」も、じつは鬼にあげる食べ物だった。豆をやるから大人しく出て行ってくれという気持ちがふくまれている。
▽40 天河神社では「鬼は内」。宮司の一族が鬼の子孫という伝承があるあkらだ。役行者がつかえる「前鬼・後鬼」とされている。
▽41 奥三河の「花祭」にも鬼が登場。クライマックスに「榊鬼」が登場すると、人びとは「鬼さま」と熱狂し、鬼といっしょに舞い狂う。
……古代の「追儺」は、京都の吉田神社と平安神宮で再現されている。
▽47 国家祭祀を執行するには、多様な穢れが発生する貴族たちの私的な場にタッチすることができなかった。極度な「清浄さ」を要求される神祇官の官人たちは、私的な穢れを祓うことは不可とされた
 ……ここで神祇官にかわって、陰陽師が登場する。
 陰陽寮という律令国家の官人であることを超えて、個人を対象にした呪術的祭祀を担う。あらたな「陰陽道」という呪術的な宗教が形成されていく。
▽49 安倍晴明は85歳で死ぬ。当時としては驚異的な長命だった。
▽52 清明は、朝廷、天皇、貴族のために決められた行事につかえる地味な「役人」。
▽53 「泰山府君(たいざんふくん)」 祭 密教との競合・吸収のなかから清明自身によって開発された儀礼だと推測できる。
▽54 陰陽寮をやめたあと、フリーの祈祷師、占術師として活動するのが、「陰陽師・安倍晴明」の実像だった。
▽55 陰陽師としての清明は、陰陽寮の役人としてではなく、個人的な技能や呪力で貴族たちとの私的な関係をむすび、その救済を担った、まさにひとりの「宗教者」として生きたのである
▽58 密教・浄土教というふたつの宗教勢力にたいする、第3の新興勢力としての役割をもつことになる。陰陽道は、平安貴族たちの私的な救済をになるなかから成立した。
〓〓国家全体の運命を占う「国家占星術」から、個人の私的な運命を占う「個人占星術」へ。そうした変貌の現場にたずさわったのが清明だった。
▽72 上級陰陽師を雇えない中下級の貴族たちは、法師陰陽師たちをやとって祓でをしてもらっていた。清少納言ら貴族女性たちの目には、嫌悪や軽蔑の対象だったようだ。法師陰陽師たちが裏では「呪詛」を請け負うことが、彼らの常識となっていたからだろう。
▽80 泰山府君 ルーツは中国の民間信仰。泰山は山岳信仰の聖地。山上には、人間の寿命を支配し、それぞれの寿命を記した帳簿があると信じられた。その山にすむのが冥府の主宰者たる泰山府君である。
 インドの仏教が中国に伝わると、仏教の地獄や閻魔王……と混じり合い、泰山府君には、生前に行った善悪にたいする審判や刑罰などの執行者のイメージが付与されていった。
 そうした信仰が、「泰山府君」を中心におく独特な陰陽道祭祀へと作りかえられた
▽82 清明は、密教の焔魔天供、陰陽道の代厄御祭にかえて、あらたな泰山府君祭なるものを天皇のために行った。清明による独自の祭祀法だったといえよう。
……延命祈願ならば、泰山府君そのものに直接コンタクトをとるほうが効果的であるという理屈である。それを可能にするのは、密教僧ではなく「陰陽師」たる自分にあると、清明は主張したのだろう。
……平安時代後期から院政期にむかって、泰山府君祭は貴族社会に定着していったようだ。泰山府君のの力は、安倍晴明に由来するものとして、、その執行は安倍家陰陽師で独占されていく。
▽87 泰山府君の信仰は、泰山という山に死者の戸籍が記録されているという発想だ。……冥府の王である泰山府君に、泰山に記録されている死者としての戸籍を抹消してもらい、生者のほうの戸籍に再登録してほしいと願う。具体的な延命祈願の発想。
▽90 平安前期までの陰陽寮の「天文」は国家の運命を占う国家占星術であったが、それに加えて個人の運命を司る「星」の姿が浮かび上がる。それも、陰陽道が個人救済の宗教として成熟していく過程といえよう。
▽94 速水侑によれば、10世紀以降、天皇=国家護持のための護国修法は、しだいに天皇個人の安泰を守るためという方向に変化したという。
……個人の運命と星とを結びつける、「個人占星術」の成立が背景にある、ということだ。その背景には「インド占星術」
▽95 清明の陰陽道占星術の源流は、古代中国に起源する「国家占星術」にあった。一方、古代中国には、それとは異質なインド系の占星術の書物も伝わっていた。
 それはギリシャにルーツがあった。西暦2世紀ごろのアレクサンドリアのプトレマイオスが、天文学者であり、占星術師でもあった。……唐の時代には、イスラム占星術を経由してギリシャのそれが伝わったらしい。
 ……さらにギリシャ占星術のルーツをたどると、驚くべきことに紀元前3000年の昔に栄えた「メソポタミア文明」に行き着く。
 インド系・ギリシャ系の占星術は、国家の運命ではなく特定の個人の運命を占うことができる占星術である。が、中国では根づかなかった。そのかわり、日本に伝来し、発展していった。それを「宿曜(すくよう)道」という。……それを担ったのが宿曜師という僧侶たちのグループ。
▽102 戦国時代の武将につかえる軍師たちには「陰陽師」出身という人物も少なくない。合理的な精神の持ち主とされる織田信長も、陰陽師らしき集団が群議に参加している様子が見える程だ。一方、豊臣秀吉は陰陽師を「国家を亡ぼすもの」として嫌い、徹底的に弾圧、排除している。
……中世後期になると、宋学にもとづく新しい天文学を採り入れる賀茂家の陰陽道は、中世の神道界をリードする吉田家ともつながりをもつことになる。キリスト教がもたらされたとき「耶蘇」に改宗する陰陽師も出現した。
▽103 平安時代中期に確立した「陰陽道」のうち、暦部門は賀茂氏が、天文部門は安倍氏が独占したとされている。それは賀茂保憲が息子の光栄に「暦道」を、弟子の安倍晴明に「天文道」を授けた、という伝承がもとになっているようだ。
 しかし実際のところは、安倍氏、賀茂氏に独占されていたわけではなく、平安後期には、他の氏族出身の陰陽師も多数いたようだ。
 競合の相手は、外にもあった。平安時代末期には儒学者が陰陽道とぶつかる。その代表的なできごとが「金神(こんじん)の忌み」をめぐる議論である。
「金神七殺の方」のタブー 金神がいる方向を知らずに犯してしまうと、、その祟りで7人までが取り殺されるという禁忌。
 金神のタブーをはやらせたのは、陰陽道ではなく、清原氏という儒学の家のものであった。
……平安時代末期には、安倍氏、賀茂氏に優秀な人物がおらず、陰陽道自体の勢力が衰退気味だった。そんなときに儒学者から主張されたのが「金神の忌み」というタブーであった。
▽106 陰陽道劣勢を挽回する有能な陰陽師が登場。清明から数えて6代目にあたる、安倍泰親である。
▽110 泰親の場合は、他の宗教との対立にくわえ、賀茂家への対抗や、安倍家内部での対立も大きくなっていた。平安末期には安倍氏じたいも3つの家筋にわかれ、泰親の代には、家業の「天文道」についても競合が激化した。
……1132年、清明の旧邸宅地である「土御門の家」について、泰親が一族の兼時(晴道)とのあいだで、どちらが正統な相続者であるかをめぐって、訴訟事件を起こした。
……泰親は「土御門の家」を聖なる「霊所」とよび、霊所における泰山府君祭の絶大なる効験を貴族たちに喧伝したらしい。
▽111 清明の邸宅跡とされる「清明神社」は後の伝承によるもので、実際は、「京都ブライトンホテル」の駐車場の西端あたりだと判明。現代の晴明神社は、当時は安倍家とは無関係の「愛宕の僧」が起居していたという。
▽116 鎌倉幕府は禅宗との関係が知られているが……平安王朝以上の数と種類の「陰陽道祭」が繰りひろげられていた。
▽120 安倍有世(ありよ)は従二位まで昇進。「土御門」という公卿としての名乗りをする。有世は、朝廷の陰陽寮の一員だったが、その活動は幕府の側へシフトしていったようだ。
▽127 卜部氏は鎌倉時代になると、日本書紀研究の第一人者となる。卜部氏のなかから吉田社の神主を独占する家筋があらわれ、彼らを卜部吉田家と呼ぶ。そこから吉田兼倶(1435〜1511)があらわれる。
▽132 応仁・文明の乱 足利将軍にとりたてられた安倍家の人びとは、陰陽寮田を知行地とした若狭国名田庄に避難する憂き目に。陰陽頭を退いた安倍有春、その子の有脩(ありなが)も若狭国在国が多く,上洛したときも「下宿的寄留生活」を強いられていたという。
 応仁の乱は、中央で活動していた安倍氏、賀茂氏の陰陽師たちを地方に分散させるきっかけになったようだ。
▽133 戦国時代になると、1565年に賀茂家の当主在富(あきとみ)が死去し、後継ぎがないままに賀茂家の正系が断絶。そこで「暦道」を再興させるために安倍家のなかから賀茂家に養子に入った人物がいた。安倍有春の次男、当時まだ13歳の、後の賀茂在高(あきたか)である。
▽……賀茂家の陰陽師がキリスト教に入信。宣教師たちは天文や地理の「科学的」な知識を説く形で、布教活動をしていた。
……1563年に来日したフロイスは、「日本史」のなかに、都で最初にキリシタンになった「日本で最高の天文学者の一人で公家」である「アキマサ」のことを述べている。キリスト教徒から日蝕月蝕や天体の運行についての知識を聞き、それに納得したために、京都で最初の洗礼を受けて入信したという。「アキマサ」とは、賀茂家の暦道を継承している賀茂在富の息子である賀茂在昌(あきまさ)である。賀茂家の断絶を招いたのは彼がキリスト教に入信したため、ということも一因としてありそうだ。
▽139 秀次が、拾丸(秀頼)へ呪詛を仕掛けたという嫌疑をかけられ切腹。呪詛を請け負った犯人とされたのが、陰陽師の土御門久脩(ひさなが)である。……多数の陰陽師たちとともに尾張国に配流されたらしい。彼は豊臣家がほろんだあとには政界に復帰している。強制的に尾張に移住させられた陰陽師は131人にのぼった。荒蕪地の開墾という名目で、陰陽師たちが尾張に強制移住させられた背景には、陰陽師の呪力を必要としたことも考えられる土地がふたたび水害におびやかされないように、地の神を鎮める役割が期待されたというのである。
 秀吉は以前にも唄門師(民間系の陰陽師)たちを追放していた。秀吉は「陰陽師は国を亡ぼすもの」として、そうとう忌み嫌っていたという。
▽142 安倍晴明が筑波山のふもとに生まれたという伝説。
▽152 「ホキ抄」「ホキ内伝」
牛頭天王には複数の名前があり、帝釈天のもとにつかえていたときは、「天刑星」という名前だった。祇園社の祭神である牛頭天王が、星々の世界と結びつき、陰陽道の世界へ入りこんでくる。祇園祭りの長刀鉾。天井には「二十八宿」の星座のマーク。今は失われてしまった、祇園祭と陰陽道のつながりの痕跡かもしれない。
▽155 「天道神の方」 求めるすべてが成就するという最高の方位。天道神が牛頭天王のことと説明される。
「金神七殺の方」は平安時代の貴族たちも恐れた凶悪な方位。金神とは、牛頭天王に宿を貸さなかったために一家もろとも殲滅された「巨旦大王」のことだと。
 ……民間にも広まる牛頭天王の物語にもとづいて、方位の日時の吉凶を説明するという方法は、この書物の担い手や受け手が安倍氏や賀茂氏の宮廷陰陽師たちの世界とは異なっていることを示しているだろう。「ホキ内伝」の担い手は、民間社会で活動する陰陽師。
▽160 陰陽師を今に伝える「いざなぎ流」?
▽ 1870(明治3)年に公的に陰陽道が禁止され、陰陽師が歴史上消滅して以降、高知県の香美郡物部町にひっそり伝えられてきた民間信仰。
……「いざなぎ流」を広く世間に知らしめたのは小松和彦氏
▽166 多くの種類の「呪詛の祭文」を伝える。
▽175 宮廷陰陽師とは別のグループ、在野の「陰陽師」たちは、清明の時代とほぼ重なって登場してくる。「陰陽法師」と呼ばれ、呪詛に携わっていた。
……柳田国男が注目した「唱門師」。近世社会において、占い・祈祷などを行い、家々に暦を配り、正月には万歳などの芸能事に携わっていたが、一般からは賎視され、結婚のタブーが根強く存在したようだ。
唱門師の源流は、中世の権門寺院内部で、掃除などの雑務に携わったものらしい。穢れ・清めにかかわる職掌が、彼らが差別された理由となったのであろう。
▽177 土御門家は江戸時代に入ると、地方で活動する雑多な「陰陽師」系宗教者たちを自らの支配下におくことを画策する。「陰陽師」を名乗り、占いや暦売り、祓え、祈祷、雑芸などの「商売」を営むものは、土御門家から「門人」としての「許状」を発行してもらい、その対価として上納金を納めるという体制である。
1683年の霊元天皇の「諸国陰陽師之支配」の綸旨=勅許、それを追認する将軍綱吉の朱印状、さらに1791年の「触れ流し」によって、制度として完成をみていく。1870年、明治政府によって、システムが解体されるまで、諸国の陰陽師系宗教者は、土御門家の支配下におかれた。
▽185 近鉄奈良駅からアーケードの繁華街を抜けると、「ここは陰陽(いんぎょ)町」という表札があり、その先には陰陽道の神々を祭る「鎮宅霊符神社」
 1687年ごろ、この町には17人の陰陽師が集団的に居住していた……「暦師」として地域の人びとに暦書を売り歩き、祓え祈祷の手土産として配ったりしていた。木場明志の研究によって、地域社会を「檀那場」として活動していた民間系陰陽師の実態が生々しく浮かび上がってきた。
 民間社会に根づいた陰陽師のルーツは「唱門師」。占いや祈祷をおこない、暦を配り、正月には万歳などの雑芸にも携わっているが、近世になると、一般の村落民からは賎視された。
……興福寺の門跡寺院の大乗院には、多数の唱門師が組織されていた。
▽187 地方の陰陽師たちは土御門の門人となった。賎視されることの多かった彼らにとって、土御門家門人の「看板」は、差別をはねかえす看板になったし、「土御門」のブランドを得ることは、祈祷や祓えなどの「売り上げ」に直結した。一方、土御門家にとっては、宮廷社会が衰退していくことで経済的にままならぬ状態にになるなか、地方の陰陽師たちの「売り上げ」からの上納は不可欠になっていた。
▽191 江戸時代前期の陰陽師のあらたな競合相手が、西洋天文学をとりこんだ、幕府の「天文方」である。
▽1684年、貞享元年の「改暦」 823年ぶりの改暦。
 861年に採用された「宣明暦」にしたがっていると、日蝕や月蝕の予報がはずれることが多く、暦のうえで約2日の実際とのずれが生じていた。
 改暦をリードしたのが渋川春海(1639〜1715)。
 西洋天文学を伝える「天経惑問」に学びつつ、イスラム暦の影響をうけた元の「授時暦」を、京都の経度・緯度に合わせて再編した「大和暦」へと作り直し、「貞享の改暦」に成功する。
……中世末期の混乱のなかで暦家としての賀茂家は断絶し、それ以降、「造曆」の任務も土御門家にうつった。(安倍家のものが賀茂家に養子にはいり「賀茂家」の家名はのこした)
……春海は土御門家に「入門」し、土御門家から伝授されたという手続きがとられた。新しい暦もあくまでも「陰陽寮」から上奏された、という形にされた。
▽194 土御門泰福と天文方の渋川春海とをつなぐもの……あたらしい神道「垂加神道」。
▽196 陰陽道の衰退を挽回させたのが土御門泰福。吉田神道が中世的な神仏習合色を残し、近世社会では時代遅れであることを見ぬき、当時台頭してきた山崎闇齋(1618〜82)の創始した「垂加神道」に接近した。垂加神道は、天文学と共振するものをもっていた。
▽199 17世紀半ばに明が滅び、清が誕生する。「中華」「華夷」の思想の現実的基盤がくずれた。儒学者が信奉する儒学=文明の教えの現実的な根拠が失われた。江戸の儒学者たちによって「中華思想」が相対化され、さらに日本こそが真の「中華」であるという日本中華思想、日本型華夷思想を生みだすことになった。
 朱子学者たる山崎は儒学を超えるものとしての「神道」に目覚めていった。
 山崎は、天地・万物をつくりだしたのは陰陽・五行の気の働きとみる。だが彼は、この陰陽・五行のエネルギーこそが、じつは「国常立」のことだと説明する。天地開闢の冒頭に顕現したクニノトコタチとは、陰陽・五行の気に与えられた名称と解釈された。逆にいえば、中国で作られた陰陽・五行の思想は、じつはすべて日本の神々のことであった。これが日本こそが「中華」と説くことにつながる。
 この教えにしたがえば、陰陽・五行説もじつは「神道」のひとつであったと逆転させることができる。泰福は、土御門の陰陽道を「天社神道」(土御門神道とも)と呼ぶことになる。
▽204 「天経惑問」 西洋天文学の解説書。国学者の本居宣長も呼んでいた。
 渋川春海は西洋天文学の知識をも手に入れることで、中国絶対主義=中華思想から逃れることができた。
 泰福もまた、渋川や山崎との交流を通して、中国絶対主義=中華思想とはことなる、「日本」固有の信仰、思想の創造現場に立ち会ったのだろう。それが「神道としての陰陽道」の創造だ。
 中華思想を相対化する「日本」の発見は、、「西洋」の新しい学問、知識と出逢うことが大きな要因をなしていた。
▽206 清明の没後年を記念する行事が江戸時代にもおこなわれていた。650、700,750、800、850年祭と5回行われた。
▽209 「晴明神社」が清明の屋敷跡という伝承は否定されている。江戸時代の清明社には、「愛宕の僧」だった。愛宕の僧には、易占、祈祷などをおこなう山伏=法師陰陽師も多く含まれていたと考えられ、民間系の陰陽師の一派として「愛宕の僧」が清明社を住まいとしていた(梅田千尋)
▽213 西洋天文学の進展のなかで、幕府天文方や土御門家の陰陽道は、時代の流れについていけない守旧派となった。改暦を進めるのは、朝廷や幕府とは離れて独学で天文学、暦術を研鑽している在野の学者たちだった。
▽216 本居宣長の天文学関係の論稿は、西洋天文学がいかに優れているかを論証していくものだった。宣長は、地上は空に浮かんだ球体であることを認めていた。
▽218 宣長は、アマテラスを、太陽そのものと注釈している。太陽の子孫である天皇が統治する「皇国」は、他の国々とは比較できない優秀な国であるという、自己中心的な言説を展開していく。一見、神がかり的な宣長の議論の前提にあるのは、天体としての太陽が地球を照らしているという西洋天文学にもとづく知識であるのだ。さらに宣長は不正確な太陰太陽暦の限界を指摘し、太陽を中心とした暦、つまり「太陽暦」のほうが真の暦であるとまで主張した。
 西洋天文学とアマテラスの神話とがむすびつく。
▽220 宣長の「没後の弟子」平田篤胤(1776〜1843)狂信的なウルトラ・ナショナリストとして批判されてきたが、近年では民俗学、霊学、近世の出版文化のさきがけとして再評価の気運がたかまっている。
 篤胤は地動説を肯定。
 篤胤は日本の「古伝説」のなかに地動説は出てくるというトンデモ本的な発言をする。古事記の「国稚く、浮脂の如くして、九羅下(くらげ)なすただよへる」という神話は、地球が天界を浅海していくことを意味すると解釈していく。
……篤胤は天文学全般に精通していた。しかしその結論が、西洋、中国、インドの天文学を統合し、その根源をなしているのが、日本の神々であったと説いていく。
 「暦」の起源をなし、それを統御している「暦神」とは、牛頭天王であり、じつはスサノヲのことを指すという。
▽230 1870年、「天社神道土御門家免許ヲ禁ス」という太政官布告(陰陽道禁止令)が発令された。「神道国教化」政策による神仏分離令、修験道廃止、禁厭祈祷の医療行為差止め取締りなど、「淫祠邪教」撲滅の動きの先陣をきるものだった。「文明開化」に反する猥褻、低俗な迷信を一掃せんとする方針のさきがけ、というわけだ。
 1872(明治5)年に太陽暦を採用。
▽231 土御門家がだした許状による「陰陽師」身分の特権的保証が、新政府が打ち出した「四民平等」=戸籍改正のなかで、意味を失った。
 陰陽師たちは、国家神道の枠組みからはなれた神道系の団体である教派系神道に属することもあったようだ。土佐藩で独立系陰陽師の系譜を継承してきた「いざなぎ流太夫」たちも、明治9年に創生された教派神道のひとつ「神道修成派」に加入していた。
▽236 日本の陰陽道にはふたつの系統。ひとつは律令国家の役職である陰陽寮所属の「陰陽道の博士」に発する「宮廷の陰陽道」。もうひとつは「民間の寺僧」が担った「僧侶の側の陰陽道」
……折口によれば、陰陽寮の官人たちは「事務」にたすわるだけで、「学問」としての発展性が失われたという。。活気があるのは、「僧侶の側の陰陽道」であり、それが民間信仰とも融合して社会に広がったというのだ。
「法師陰陽師」「陰陽法師」 紫式部や清少納言など貴族女性たちからは嫌悪された。呪詛事件に連座するものも少なくなかったからだ。
▽241 「ホキ内伝」では、牛頭天王は「天道神」とされる。その方角、日時は万事が大吉の神である。妻の波梨采女(はりさいめ)は「歳徳神」という恵方の神、ふたりの子供の八王子は「八将神」という方位・暦の神、牛頭天王を歓待した蘇民将来は「天徳神」という大吉の方位神。牛頭天王に殲滅される巨旦(こたん)は「金神方位の神」。その方位を犯すと、7人までも隣人を殺害する=金神七殺という、もっとも凶悪な方位神である。
▽242 折口 「仏家の陰陽道」が「民間の神道」へと広がっていく。その具体的な例として「吉田の神道」。代表的人物が吉田兼倶。
 吉田兼倶は、ホキ内伝の牛頭天王と素戔尊との同体説を唱え、……スサノヲを多数の異国神と同体化させていくことで、「神道」が三国世界(天竺、震旦、本朝)の根源をなしていることを説き明かす。吉田神道は、仏教のみならず陰陽道の知識も吸収し、独自の神道説を生みだしていた。
▽246 阪本是丸によれば、昭和3年の大嘗祭、4年の伊勢神宮式年遷宮祭以降、「神道的イデオロギー用語」が社会にひろがっていった。「思想統制」がはじまっていく時代でもある。大正期以降の精神的、思想的、階層的に分断された社会にたいして、国民を再統合するために「神道的用語」が活用された。
……折口は、「神社神道」なるものの担い手は、二三代前までの伝統を調べてみると、純然たる神職の姿ではなかった。近代以前においては、宮寺の別当、陰陽師配下、唱門師、修験……の出身であった、というのだ。……折口の論調は、国家と結びつくことで世俗化、権力化していく「神社神道」にたいする批判がこめられていたのだが、同時に、宗教としての神道の再生を目論むものだったといえよう。

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