■森話社260109
熊野には矢倉神社・高倉神社という名の無社殿の神社が多い。仏教寺院の影響で社殿をもつ以前の原初の信仰形態を残しているという。
なぜ熊野に無社殿の神社が多いのか。なぜ矢倉神社や高倉神社と名づけられたのか。
筆者は、それらの神社を片っ端からたずね、「紀伊続風土記」などの文献で過去からの変遷をたどる。
膨大な神社を並行して紹介するから退屈な部分もあるのだけど、徹底的に歩くことで見えてきた事実は刺激的だった。
まず、1839年に33年かけて完成した「紀伊続風土記」から牟呂郡の「矢倉神社」をピックアップし、なぜ「矢倉」なのか検討する。
「矢」は谷であり「クラ」は岩壁や岩塊を意味する。谷筋から岩壁を見あげるような場所で、樹木や大岩を崇めたところから命名されたらしい。地主社とか山神森といった拝所が、ありがたい名をもとめて改称したのではないかと結論づける。矢倉系では、拝所に丸石をおく例も多いらしい。山梨に多い丸石信仰とのつながりも知りたいところだ。
「森全体がご神体なので、樹木を伐ること、持ち出すことは禁じられていた。『社を建ててはいけないお宮だ』と聞かされた」
「(社殿を)建ててはいけない。建てると不漁になる」
「鳥居を建ててはいけない」……などなど、たんに「原初的な形態」であるだけではなく、熊野では、無社殿であることに積極的な意味を見だしていたようだ。
赤木川流域に集中する「高倉神社」は高倉下命(たかくらじのみこと)をまつる。
神武が熊野に上陸して国つ神の攻撃で失神状態に追いこまれた際、高天原から刀剣が地上に落ちる夢をみた高倉下(たかくらじ)が剣を神武にさしだすと、軍勢は目覚めて敵をたおした。
刀剣の献上は、軍事的、政治的服従を意味する。高倉下は物部氏の一族だから物部氏が天皇家に帰順したことを物語るという。
高倉下の父の饒速日命(にぎはやひ)は、神武に先だって大和をおさめていた物部の祖先神だ。神武の仇敵・長髄彦(ナガスネヒコ)の妹を妻にしていた。高倉下が熊野にいたのは、大和盆地の物部一族を代表して鉱産資源をさがしにきたのではないか……と筆者は考える。神武にとって功績のあった高倉下だが、その後、日本海の越の国に左遷され、弥彦神社の祭神になった。
本宮大社の大斎原の地番は「本宮町本宮字高倉地1番地」であり、高倉下は本宮周辺の多くの神社の祭神になっている。新宮の神倉山には「高倉下が霊剣を授かったところ」という伝承がある。
近世の「神道の巻き返し」「国学の興隆」「記紀神話の見直し」で地元に根づいていた「高倉下伝承」に光があたり、自然信仰の社に「高倉」の名がつけられ、周辺に勧請されていったのではないか、と筆者は想像する。
神社の名前や伝承は意外に新しいのだ。
古座川町の河内神社は、神社のある小さな島を舟がめぐる「河内(こうち)祭」で知られている。河口沖1キロの九龍(くろ)島と鯛島とを結ぶ祭りであり、海上から「寄り来る神」を目標となる河口の島でむかえ、さらに上流の聖地までおつれする、という意味がある。河内祭の前、高池下部の獅子屋台をのせる獅子伝馬は船体を海水で浄めるため九龍島に行くという。九龍島はカヌーでわたって取材したからそんな意味があったのか、と勉強になった。
大昔、海辺を移動しながら漁をして暮らしていた人々が、稲作の伝来とともに定住し、農業または半農半漁の生活に変わった。住民たちの視線も「海から陸へ」から「陸から海へ」と変化した。海への眼差しは祖先がやってきた理想郷「常世」へのあこがれとなり、、海から「善きもの尊きもの」が寄り来るという信仰になった。徐福や神武が熊野に上陸したという伝承から、浦々に臨時収入をもたらす「寄り鯨」まで、寄り来る神をむかえる精神がうけつがれていた。
……と、結論づけている。
漁撈のための丸木舟をつくるには、太い木が必要だ。大木を海岸まで運ぶより、山間の川沿いで船の形に加工してから河口まで運ぶ方が効率的だった……という記述も、熊野の山奥にある漁民が信仰する神社の意味を示した。
本に登場する郷土史家の多くが私も取材でお世話になった人だった。もっと時間をかけて取材していればよかった、と思った。
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▽14「紀伊続風土記」 紀州藩が文化3年(1806)に儒学者の仁井田好古らに着手させた地誌で、天保10年(1839)に完成した。
そこから牟呂郡の矢倉神社をピックアップする
▽19 矢倉神社の命名由来。
▽22 熊野別当の力は1221年の承久の乱につづく内部抗争などで衰退する。別当家にかわって熊野地域を取り仕切ったのが、別当家の流れをくむ七上綱だった。宮崎、蓑嶋、矢倉(後に鵜殿)、瀧本、中曽(中脇)、芝、楠(新宮または新)の各氏である。
▽29 矢倉明神の「矢倉」は南紀地方に多い地形、それも谷筋から岩壁を見あげるような場所で、樹木や大岩を崇めたところから命名されたのではなかろうか。
▽31 木村甫(はじむ)氏は「神社名に矢倉がついたのは近世ではないか。当初は地主社とか山神森といった拝所が改名したのだろう」、もっともらしい、ありがたい名前をつけたい、と願って……
▽41「矢倉は谷=ヤと岩壁や岩塊を表すクラから名づけられた」という私の推測が正しければ、その勧請や命名は矢ノ川と同様に、筏師をふくむ山林関係者によってもたらされたのではなかろうか。
▽45 神保圭志、上野一夫氏らの強力
▽48 河内明神 現在の河内神社 7月の河内祭で御船が「こおったま」をまわる夜籠り神事。
▽55 古座川町の楠地区の地主神社(木葉神社) 虫喰岩から山道をわけいる。御神体は「二尺余の麻の紐に小竹の輪切りを20余個ほどあたかも数珠玉の如く通したもの」
首飾りは「勾玉」の意で、ほかに鏡や小刀もあったというから、南朝・後南朝とかかわりがあるかもしれない。12月の祭りでは区長が古座まで塩汲みに行くという。
▽58 古座川流域の矢倉系神社のうち、とくにひかれたのは古座川町洞尾(うつお)の矢倉神社 続風土記で「宝大神森」と呼ばれていた。
▽62 漁撈のための丸木舟をつくるには、それなりの太さの木が必要だ。大木を海岸まで運ぶより、山間の川沿いで加工し船の形にしてから水面に浮かべ河口まで運ぶ方が効率的だったろう。平安時代初期の「日本霊異記」には「熊野の村の人、熊野の河上の山に到り、樹を伐りて船を作る」というくだりがある。山中造船。
……「宝大神森」は、「浮宝」をもたらしてくれる森=樹木神への感謝を込めた命名で、クスノキの大樹がご神体だったのではないか。〓〓
▽67 矢倉系神社は小社なので、大半が明治後半の神社合祀の波をかぶった。
▽80 神社合祀で、日置川流域に点在した小社の多くは川添村市鹿野の村社、川添神社(熊野十二神社)に集められた。……被合祀社の神々は戦後、旧社地にふたたび遷座したとされるケースが多いが……
▽84 拝所に丸石をおくのは、矢倉系神社でよく見かける風習。
▽90 周参見の木村甫さん
▽98 大都河村は、昭和30年の周参見町と佐本村との合併で「すさみ町」に。
▽120 すさみ町の西の太間川。上村矢倉神社 私が好きな社のひとつ。
▽129 太間川では、上村と下村の矢倉神社は「夫婦神」とされてきた。
……「太間川地区は上から下に発展してきた……」
▽136 赤木川流域に集中する高倉神社の祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)
熊野に上陸して国つ神の攻撃で窮地に陥った神武を救った人物として記紀に登場。……神武軍を失神状態に追いこんだ相手は古事記が大熊、日本書紀が丹敷戸畔(にしきとべ)。高天原から刀剣が地上に落とされる夢をみた高倉下が、夢の教え通り剣を神武に差し出すと、軍勢は目覚めて敵を倒した……刀剣の献上は、相手に対して軍事的、政治的に服従したことを意味する
高倉下は物部氏の一員だから、物部氏が天皇家に帰順したことを物語る。
……高倉下の出自がわかるのは物部氏に伝わる「先代旧事本紀」によってだ。〓
▽138 饒速日命は物部の祖先神。天上で天香語山命(高倉下)をもうけ、神武に先だって大和に入った。地上で神武の仇敵・長髄彦ナガスネヒコの妹をめとって生まれたのが宇摩志麻治(ウマシマジ)という筋書き。
……熊野の古い家系とされる榎本・宇井・鈴木(穂積)は熊野三党とよばれ、高倉下の末裔と称した。新宮では「熊野の神邑でそこに登った」という天磐盾は神倉山のことで、そこに高天原から霊剣が落とされた、と伝えられてきた。高倉下は地元で馴染みの人物なのである。
……高倉下は、神武から日本海の越の国にうつされる。……弥彦神社の祭神天香山命(あまのかごやまのみこと)は「おやひこさま」と呼ばれている。……高倉下は、天上→大和→熊野→越と長い旅路の果てに夫婦で眠っている。
……熊野にいたのは、大和盆地に進出した物部一族を代表して鉱産資源をさがしにきたのではないか。……一族の長の饒速日命が鉱産資源をさがす任務を高倉下に託したのでは……
▽143 熊野市育生町の大丹倉という高さ300メートルの大岩壁。頂上に近藤兵衛屋敷跡という史跡があり「天狗鍛冶の発祥地」と書いた説明板。16世紀末にここに居をかまえた近藤兵衛は鍛冶で修験者でもあった。……頂上には「高倉剱大明神」がまつられ、山道の脇には巨岩をご神体とする無社殿の丹倉神社がある。近藤を介して鍛冶と高倉下は結びついている。
▽144 大斎原の地番は「本宮町本宮字高倉地1番地」……には「此地主ハ高倉下ノ神ナリ」「高倉下命は本宮地主権現也」と記している。……高倉下と本宮の縁の深さ。
▽145 新宮の神倉山には「高倉下が霊剣を授かったところ」という伝承が引き継がれている。彼は神武がやってきた当時、熊野川と赤木川が交わる一帯から河口の場所あたりを勢力地として、鉱物を探していたのではなかろうか。
▽146 高倉下伝承は人々の記憶から遠のいていたが、近世になって「仏教にたいする神道の巻き返し」「国学の興隆」「記紀神話の見直し」などのなかで復活し、地元の自然信仰の社に「高倉」の名が付けられ、周辺に勧請されていったのではないか。
▽147 新宮の神倉神社の祭神は天照大神と高倉下命だが、高倉下がいつから祭られたのかを示す古い資料は少ない。……江戸初期にはすでに天照大神と高倉下がまつられていた。
室町初期の「熊野山略記」には、神倉山と高倉下を具体的に結びつける記述はない。……神武東征神話の舞台で、高天原から刀剣が落とされたという伝承が中世に定着し、近世になって神倉山頂に高倉下が祀られるようになった、という経緯ではなかろうか。
▽148 矢倉神社 高倉神社 双方とも無社殿で、樹木や大岩を崇めていたが、一方は谷=ヤとクラの組み合わせから矢倉と呼ばれるようになり、一方は地域にその伝承がある高倉下を勧請し、新たな神社名にしたのだろう。
▽157 山本殖生氏
▽163 高倉下は本宮周辺で引っ張りだこ。多くの神社の祭神におさまっている。
……地元に高倉下伝承が根づいているからこそ、各地に勧請されたのだろう。
八川神社の数が多い。
……近世のある時期、本宮近くのどこかの神社に高倉下が勧請され、それが周辺に分祀されていったのでは……
▽167 請川の木葉神社は磐座、静川の高倉神社は滝。熊野の石仏にくわしい堀敏実氏が同行。
……(高倉神社)明治の合祀に村民は強硬に反対した。その結果、筌川神社に合祀はするが旧社を礼拝してもいい、ということになりました。村民は筌川に行かず、これまで通り地元祭りを続けました。ご神体は御幣でした。2008年に鏡を買って御幣に加えてご神体にしました。
……地元の人にとっては神社名より「タカクラ」様を祀っていることが大事だったと思われる。
▽176 赤木川流域に集中するタカクラ神社は、高倉下命を祭神としている。その多くは、大岩や樹木を崇拝する自然信仰の社だったと思われる。
▽183 赤木川と熊野川の合流点に位置する日足は文字どおり「浸り」やすいところだ。このため家屋より一段高い場所に「上がり屋」という避難小屋を持っている家も少なくない。2つの高倉神社のうち、上の神社は大水のときに備えた「上がり社」だったのでは。……赤木川の水運の興隆とともに、川岸の社が中心となり、上の社は忘れ去られたのではなかろうか。「相須のお宮」〓(おれが行ったのはここか?)
▽206 小口高倉神社 赤木川上流、ふたつの川の中洲に位置する。隣に「小口自然の家」
▽211 熊野の無社殿の神社では「空神を祀る」という記述や言い伝えが少なくない。……熊野市育生町にある300メートルの大岩壁・大丹倉の頂上に高倉剱神社が祀られているが、地元の人は「空神さん」と呼んでいる。
▽215 畝畑 高倉神社は境内818坪、氏子51戸もあった。
畝畑にすみ、企業の持ち山の管理をしている野尻皇紀氏(昭和26年まれ)……畝畑で人が住んでいるのは2軒だけで、その1軒が一番奥の野尻家である。
▽227 花の窟がイザナミと結びつけて語られるのは中世からだ。
……花の窟=イザナミの墓所という認識が定着したのは江戸時代になってからのようだ。その観念と、仏教にたいする神道や社家の「巻き返し」があいまって、「日本書紀」の光景を再現させる祭りがおこなわれるようになったのでは。
▽228 熊野市育生の丹倉神社(あかくら) 大丹倉の近く。丹倉地区は以前は20軒もあったが、2010年には数人になって祭礼は途絶えていた。それをアマゴ養殖をしている中平孝之氏が復活させた〓。
▽231 田並の矢倉神社 明治10年に同じ田並の天満神社に合祀された。その後、またもどってきた。
▽235 古座川町の河内神社 河内(こうち)祭 7月24,25日。
……河口沖1キロの九龍(くろ)島。隣に鯛島。
2つの島と河内様をむすぶ伝承。
祭りの原形は「海上から「寄り来る神」を目標となる河口の島で迎え、さらに上流の聖地までおつれする」
……九龍島には弁財天を祀る九龍神社がある。……河内祭の前に、高池下部の獅子屋台をのせる獅子伝馬は船体を海水で浄めるためこの島に行くという。
…… 当初、海辺で移動しながら魚を捕って暮らしていた人々は、稲作の伝来とともに定住し、その生活は農業中心または半農半漁へと変わった。住民たちの視線も「海から陸へ」から「陸から海へ」と変化していった。「海への眼差し」は自分たちの祖先がやってきた理想郷・常世へのあこがれと重なった。そして、「海から善きもの尊きもの」が寄り来るという想いや信仰になっていった。徐福や神武が熊野に上陸したという伝承、神・仏・貴人の伝来から、浦々に臨時収入をもたらした寄り鯨まで、寄り来る神を迎える儀式は人々の自然の心情であった。
▽239 熊野速玉大社の例大祭 神事の舞台が速玉大社、阿須賀神社、御旅所、御船志摩といくつもあるが、その原型は古座の河内祭と同じように「海上から河口の蓬莱山に寄り来る神を御船島へとお迎えする」ものではなかったか。(古座川の河内祭と同じ)
▽240 田辺市中辺路町西谷の一願寺の向かいの山に昔「山神森」とよばれた須佐神社がある。「社殿を建てると祟りがある」と「続風土記」に銘記された。
……「山神森」「地主神社」などは、無社殿神社の名称としては「矢倉神社」「高倉神社」より古いと想われる。
……西谷の須佐神社は以前、大山祇神社とよばれていた。この神社など11小社が中辺路・滝尻王子社に合祀された。王子社は社名を十郷神社と改めた。……大山祇神社は戦後、旧社地にもどり、主祭神としてスサノオノミコトを祀り、社名を「須佐神社」と改めた。「森全体がご神体なので、樹木を伐ること、持ち出すことは禁じられていた。子どものころ、『社を建ててはいけないお宮だ』と聞かされた(上須氏)。
……串本駅の近くの線路沿いにある矢野熊の矢倉神社も「建ててはいけない。建てると不漁になる」との言い伝えが護られて、境内には天保7年の石灯籠と石組みがあるだけ。
古座川町高池の神戸(こうど)神社は「鳥居を建ててはいけない」という禁忌がある。11月の火焚神事が名高い。
▽248 狭い県道から神戸神社に入る角に、芳流館互盟社の建物がある。昭和初期につくられた木造洋風建築だ。地元青年会組織の名で、火焚神事のときに伝統の獅子舞を披露する。
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