■PHP 260121
筆者の論は考古学の主流ではない。とてもおもしろいけど、推論が多くて眉唾的な部分も多そうだ。どこまで信じてよいかわからないが、一気に読んでしまった。
神武に先だち、物部氏が北部九州から東遷したという考えは、邪馬台国北部九州論者の多くが主張する。筆者も邪馬台国九州論ではあるが、尾張氏は近江や東海、物部氏は、瀬戸内海の吉備からきたとみる。前方後円墳は吉備で生まれた。物部氏の祖・饒速日命は、吉備から前方後円墳をたずさえてヤマトにやってきた。
邪馬台国の時代は、北部九州、山陰(出雲)、瀬戸内海(吉備)の勢力が拮抗していたが、弥生後期になると、北部九州が独占していた鉄器が出雲や吉備に流れこみ、北部九州が凋落する。ちなみにその時代の近畿は、貧相な方形周溝墓をつくりつづけていた。
ところが3世紀初頭、ヤマト盆地東南部に、巨大都市「纏向」が誕生する。吉備や出雲、その他の地域が、新たな都市作りに参画した。北部九州・出雲・吉備連合が瓦解し纏向連合が誕生した。饒速日命がヤマトに君臨し、纏向型前方後円墳が生まれた。
北部九州沿岸部はヤマトの軍門に降ったが、山門郡周辺の人々は独立を保っていた。
15代応神天皇の母・神功皇后は、越の敦賀にいたが、九州のクマソを討つため日本海を西に向かい、出雲を経由して福岡の山門県(山門郡)の女首長を殺した。
神功皇后が殺した女首長こそ邪馬台国の卑弥呼だった。卑弥呼を殺した神功皇后は「魏志倭人伝」の「卑弥呼の宗女・台与」という。卑弥呼は「親魏倭王」だったので、魏には「私が卑弥呼の宗女」と報告したのだ。
神功皇后は近江系で日本海(出雲)系と手をむすんでいた。ヤマトにいた吉備系の勢力が彼女を裏切った。ヤマトに攻められて台与らは南部九州に敗走する。これが出雲の国譲りと天孫降臨神話ではないか、という。日本海ルート(出雲)が、瀬戸内海ルート(吉備)に負けたことを意味する。
ところがヤマトで疫病が蔓延し、崇神天皇は神功皇后(出雲神)らの祟りをおそれ、神功皇后の子をヤマトに呼びよせる。これが、神武であり応神であった。崇神は饒速日命や物部氏のことだった。纏向近辺に宮をおいた10代崇神、11代垂仁、12代景行は物部系(吉備)の纏向の王で、彼らの王権が、神武(応神)に入れ替わったという。
東征した応神天皇(神功皇后)は、天孫降臨と神武東征のふたつを演じる、応神はヤマトに裏切られた「出雲の子」であるとともに、南九州に逃れた「天皇家の祖」であり、ヤマトに招かれた神武天皇と同一人物だという。
台与を裏切ったヤマトの崇神天皇=饒速日命は、台与たちの祟りに脅え、南部九州の日向から、台与の子(末裔)の神日本磐余彦(神武天皇)を招き寄せたという構図だ。
西の吉備からやってきた饒速日命は、生駒山の西麓(トミ)に拠点をつくり、その後にヤマト盆地に進出する。
一方、纏向遺跡には近江・東海系の土器が大量に流入している。
「長髄彦」は本名ではない。手足が長い人という意味だ。梅原猛は長髄彦を縄文系とみて、ヤマトの長髄彦とニギハヤヒの政権は、縄文系と弥生系の連合政権と指摘した。
筆者は、長髄彦はヤマトタケルだという。ヤマトタケルは白鳥のイメージだ。長い足をもっている。
天皇家はヤマトタケルをおそれ、天皇の葬儀ではヤマトタケルの死を悼む歌が歌われつづけた。ヤマトタケルに恨まれる理由があるからだ。
ヤマトタケルは西国よりも東国で英雄視され祀られている。彼の妃のミヤズヒメは尾張氏の祖とされている。
ニギハヤヒは吉備から纏向にやってきたのにたいして、長髄彦は東の尾張から纏向にやってきた。吉備のニギハヤヒ(物部)は、尾張のヤマトタケルの妹をめとった。「尾張と物部」の連合を意味する。両者が手をくんだことは、神話で、「物部系のフツヌシの神と尾張系の建御雷神」が出雲をいじめたことでもうかがい知れるという。
近江・東海勢力がヤマトを奪う前に、吉備が拠点をつくろうとしたことが、饒速日命の降臨と纏向誕生に結びつき、近江、東海勢力(前方後方墳体制)と手を結ぶことで瀬戸内海と近江・東海をつなぐ流通ルートが完成した。守山市と栗東市にまたがる巨大遺跡「伊勢遺跡」は近江勢力の拠点だったとも考えられる。長髄彦は、近江・尾張=前方後方墳体制の王だった。
ヤマトで天変地異があいつぎ、朝鮮半島との関係もギクシャクして鉄もスムースに入手できなくなった。そこでヤマトの饒速日命は、「出雲+近江の貴種をヤマトに招き入れ、祭司王にたてる」ことにした。長髄彦はそれに納得しなかった。長髄彦(ヤマトタケル)は、饒速日命に殺されてしまった。
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▽ 政治と宗教に特化された都市、纏向遺跡によって、邪馬台国ヤマト説が優位になったとされるが、筆者は「なにかがちがう」
▽11 日本書紀のヤマト建国説話も ①長髄彦の君臨。②饒速日命が空から舞い下り長髄彦の妹をめとりヤマトの王に。③神武東征 の3段階
▽14 通説は「第10代崇神天皇と神武天皇は同一人物ではないか」と指摘。
▽21 神武に剣を献上して助けた高倉下の素性を、「先代旧事本紀」は、尾張氏の祖の天香語山命(あまのかごやまのみこと)と記録している。
▽26 ヤマトに君臨していた饒速日命は、……長髄彦の心根がねじ曲がっていることもわかっていた。説得しても無駄と思い、長髄彦を殺して帰順し忠誠を誓った。【この部分をネット記事に〓】 長髄彦に改心する意志がなかったこと、心がねじ曲がっていて、神と人の区別もつけられないからだ、としている。
▽38 古代最大の豪族だった物部氏は、律令制度を完成させるために、領土と民を投げだし、改革をよびかけた蘇我氏に協力していた。
……藤原氏は「蘇我氏や物部氏が進めていた律令制度の整備を継承する」というそぶりをみせながら、法制度の不備を悪用し、領土の雌雄と拡大をめざし、日本一の大地主になっていった。
物部氏出身の最後の大物宰相・石上麻呂は、平城京遷都に際して藤原不比等の陰謀で旧都とともに捨てられた。
▽45 「天孫本紀」(先代旧事本紀の第五巻)は……饒速日命は天道日女命をめとり、天上で天香語山命を生んだという。これが尾張氏の祖にあたる。天香語山命の別名は高倉下命だったという。つまり物部氏と尾張氏が饒速日命から枝分かれした同族だと言っている。
▽48 神武に先だち、物部氏が北部九州から東遷したという考えは、邪馬台国北部九州論者の多くが主張する。谷川健一がその代表。
▽53 尾張氏は近江や東海から、物部氏は、瀬戸内海を支配する吉備からやってきたのではないか。
▽「古墳時代」が「物部氏の時代」でもあった。……前方高円墳は物部氏とともに栄え、物部の垂迹とともに埋没した。
……前方後円墳の原型は吉備で生まれ……物部氏の祖・饒速日命は、吉備から前方後円墳の原形をたずさえてヤマトにやってきたのだろう。
……原田氏のいうような「物部氏は出雲出身」とする考えや、邪馬台国北部九州論者がのべるような物部氏が北部九州からやってきたという説は、考古学が否定しているように思えてならない。
▽63 纏向遺跡 3世紀初頭あるいは2世紀末に出現。4世紀前半までの150年間栄えた。
……ヤマト王権黎明期の中心は、纏向にあった。
▽66 各地の集落に占める外来系の土器の平均が5%であったのにたいし、纏向は26%にのぼった。
▽72 纏向に宮をおいた11代垂仁天皇の時代、埴輪づくりがはじまったきっかけが記されている。初代天皇が10代崇神とすれば、、11代の時代はヤマト黎明期。……野見宿禰が、殉死のかわりに埴輪をつくらせた。
▽89 邪馬台国が纏向で、卑弥呼の墓が箸中山古墳だった、という騒ぎは、見つめ直す必要がある。
▽95 三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではない、とする考えが次第に有力視されるようになった。
▽103 弥生時代は農業によって人口爆発を起こし、土地と水利の奪いあいがはじまる。集落は防衛のため「環濠」がつくられる。
▽107 高地性集落や周辺の環濠集落が消滅したあと、北部九州を除くいくつもの地域が続々と纏向の地に集まってきたことがわかっている。平和な時代の到来であり……
▽109 邪馬台国の時代を、3つの勢力の拮抗と妥協という視点で見てきた。北部九州、山陰(出雲)、瀬戸内海(吉備)である。
……弥生時代後期になると、鉄器は北部九州がほぼ独占していたのが、出雲や吉備に流れこみはじめ、北部九州が凋落していく。
弥生後期の近畿は、貧相な方形周溝墓をつくりつづけていた。
ところが突然、ヤマト盆地の東南部に、前代未聞の巨大都市「纏向」が誕生する。環濠集落は消え去り、平和な時代の到来を告げたようなのだ。3世紀初頭のことであろう。
吉備や出雲、その他の地域が、新たな都市作りに参画していった。北部九州はこの新潮流に乗り遅れた。
▽112 鉄器をヤマトに回さないという北部九州との間に交わした密約によって、出雲と吉備は急速に発展し、出雲は巨大な四隅突出型墳丘墓を造営し、この埋葬文化は日本海づたいに北陸地方に伝播していった。吉備も、前方後円墳の前身となる楯築弥生墳丘墓をつくった(〓密約はウソっぽい)
……3世紀初頭、北部九州・出雲・吉備連合は瓦解し、忽然と纏向連合がヤマトの地に誕生する。
▽115 北部九州沿岸部は、日田をヤマト側に抑えられて海と背後をはさまれ、ヤマトの軍門に降ったのだろう。しかし山門郡とその周辺の人々は独立の気概をもっていた。
「日本書紀」 15代応神天皇の母・神功皇后は、越に出向いていたが、九州のクマソが背いたことを知り、日本海を西に向かい、出雲と穴門(下関)、橿日宮(福岡市)を経由して山門県(山門郡)にいたり、この地の女首長を殺すと、きびすをかえして新羅に向かったという。
神功皇后が殺した女首長こそ卑弥呼で、邪馬台国は山門県にあったと考えている。卑弥呼を殺した神功皇后は「魏志倭人伝」に登場する、「卑弥呼の宗女・台与」とみる。……卑弥呼は親魏倭王だったので、魏には「私が卑弥呼の宗女」と名乗り、王位を継承したと報告したのだろう。
……卑弥呼の死の直前、倭国が魏にたいし「邪馬台国の南の狗奴国が攻めてきた」と報告しているのは、本物のヤマトが動き出したということだろう。
▽117 日本書紀編者は、神功皇后を邪馬台国の卑弥呼か台与のどちらかであったと言っていることになる。
母が邪馬台国時代の人で、九州から東征してヤマトに乗りこんだ応神天皇は、ヤマト黎明期の王であるとともに、神武天皇とうり二つの航路をたどってヤマトに入っている。神武東征は二度語られていたのだ。崇神天皇は、神武に王位を禅譲した饒速日命と同一人物であろう。あるいは、纏向近辺に宮をおいた10代崇神、11代垂仁、12代景行天皇は、神武以前の物部系のヤマトの纏向の王で、彼らの王権が、神武(応神)の王に入れ替わったのだろう。
▽118 神具皇后は、朝鮮南部を従属させると、九州に戻り応神を生み、東に向かったと「日本書紀」はいう。応神の異母兄たちが、応神は王位を奪うつもりだと抵抗した。これを打ち破り、神功皇后一行はヤマトに凱旋する。69年間神功皇后は摂政の地位におさまり、死後、応神天皇は即位したという。
……これが本当なら、神功皇后は勝者であり、祟るいわれがない。
▽120 饒速日命は、吉備からやってきた「瀬戸内海の流通王」ではなかったか。吉備で生まれた前方後円墳の歴史と物部氏の命運はぴったりと重なる。
まず饒速日命がヤマトに君臨し、纏向潟前方後円墳が生まれたのだろう。
▽121 日本書紀によれば、崇神・垂仁の時代、出雲の祭祀権を奪おうと、朝廷が物部潮祖や「吉備」の名を冠する者を遣わしていたという。「物部と吉備」が出雲をいじめていたのは両者が同一だからである。
……弥生時代後期の出雲は繁栄を誇っていたが、ヤマト建国後没落していたことが、考古学的に確かめられている。
▽122 日本海ルート(出雲)は、瀬戸内海ルート(吉備)に負けたのである。
……神功皇后は、日本海(出雲)系の女人であり、吉備は日本海の女王の存在が、おもしろくなかったのであろう。
▽124 出雲と神功皇后は、ヤマトの吉備に裏切られた。ところが、のちに神功皇后の子、あるいは子孫である応神天皇、神武天皇)はヤマトに乗りこむことに成功する。
▽126 饒速日命は吉備、神武天皇は出雲ではないか。では長髄彦は?
▽128 邪馬台国の卑弥呼を滅ぼした神功皇后 ヤマトは神功皇后が邪魔になり、裏切り、追い落としてしまった。神功皇后らは南下して笠狭﨑(鹿児島の野間岬)に逃れた。
ヤマトで疫病が蔓延し、崇神天皇は神功皇后(出雲神)らの祟りをおそれ、神功皇后の子をヤマトに呼びよせる。これが、神武であり応神であるとともに、いつしか「日向御子」とたたえられるようになったのであろう。崇神は饒速日命や物部氏のことである。饒速日命は祟りに脅え、神武を迎え入れ、玉座を手渡した。
▽133 纏向は東国の人たちの拠点。(われわれは東国は後進地帯という先入観が邪魔して、ヤマト建国に果たした東国のの役割に気づかずにいた)
西からやってきた饒速日命は、生駒山の西麓に拠点をつくり、そのあとヤマトの盆地にやってきたようだ。大阪と奈良を結ぶ街道筋には、饒速日命が降臨したという伝説がのこる。
▽138 纏向遺跡に近江・東海系の土器が大量に流入していたのに、日本書紀の神武や崇神、応神の周辺にまったく「東」の匂いがない。
……藤原不比等が、天武を後押しした尾張氏の姿を抹殺した……3世紀のヤマト建国と7世紀の壬申の乱、尾張氏は2度も歴史から消されたのである
▽141 長髄彦は本名ではない。肉食の多い狩猟民は、腸が短くなり、上半身が短く、手足が長い。稲作民はながい腸を持ち、手足が短い。
……梅原猛は「海人と天皇」のなかで、長髄彦を縄文系とみなし、神武以前のヤマトの長髄彦とニギハヤヒの政権は、縄文系と弥生系の連合政権だと指摘している。
……歴史作家の梅澤恵美子は、長髄彦とはヤマトタケルのモデルとなった実在の人物だという。
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ヤマトタケル=白鳥
▽150 ヤマトタケルを天皇家がおそれていた。ヤマトの王家が恨まれている。(天皇の葬儀では、かならずヤマトタケルの死を悼む歌が歌われつづけた。なのに、「ヤマトタケルなど、神話にすぎない」と、高をくくっていた)
▽153 ヤマトタケルは凶暴な性格。東国征討は景行天皇による放逐であり、捨てられた。
▽160 ヤマトタケルの妃 尾張氏の祖・ミヤズヒメがもっとも有名。
▽163 ヤマトタケルが英雄視されたのは「東側」の話。ヤマトタケルがAIされ、足跡が語り継がれ、丁重にまつられるのは東国だ。
▽166 ニギハヤヒは吉備から纏向にやってきたと考える。長髄彦は「長いスネ=白鳥」で、ヤマトタケルを暗示し、彼は吉備、近江、尾張、山科、山代と強く結ばれていた。実質的に尾張氏の祖であった。本来天皇家とはかかわりなく、尾張から纏向にやってきたと推理する。
……吉備のニギハヤヒ(物部)は、尾張のヤマトタケルの妹をめとっていたことになる。ヤマト建国の直前の段階で「尾張と物部」は血縁関係を結んでいたことになる。
……両者が手をくんでいたことは、神話のなかでの出雲いじめが「物部系のフツヌシの神と尾張計の神、建御雷神」によってなされたことからもうかがい知れる
太田市の饒速日命の子ウマシマジをまつる物部神社。……ヤマト建国直後ウマシマジと天香具山命が石見と越に拠点をつくったという物部神社の伝承。
……出雲大社にいわせれば「物部神社はヤマトのまわし者」。物部神社は大真面目に「われわれは出雲大社を監視している」というのである。
▽176 纏向誕生直前のこの地域の文物の流れは、丹波(日本海)→近江→濃尾であった。琵琶湖が、日本海と太平洋、東日本をつなぐ大動脈。
▽177 弥生時代後期、出雲や吉備では強い王が生まれ、巨大な首長墓がつくられていたが、近江でも似たような事態が発生していて、伊勢湾沿岸も刺激されていた。
……史学界は、纏向出現の背後に、近江や東海の影があったことを見逃してきたのではないか。
……近江や尾張の発展に驚愕した吉備や出雲は、「早くヤマトに乗りこまなければ」と、あわてて纏向に向かったのだろう。東の勢力がヤマトを押さえてしまえば、瀬戸内海も日本海も、ヤマトと琵琶湖を失えば、大変なことになると……
▽180 前方後円墳より早く前方後方墳が伝播していたこと。その前方後方墳は纏向と周辺だけでつくられていた。
……近江、東海勢力がヤマトを奪う前に、拠点をつくってしまおうと……これが、饒速日命の降臨と纏向誕生の真相と考える。近江、東海勢力(前方後方墳体制)と手を結ぶ。長髄彦の妹をめとり、瀬戸内海と近江、東海をつなぐ流通ルートが完成した。
▽182 長髄彦の悲劇は、ヤマトタケルの悲劇だった。ではなぜ、饒速日命と手をくんだ近江+尾張が「神武天皇はダメ」と拒んだのか。
▽197 守山市と栗東市にまたがる巨大遺跡「伊勢遺跡」700×450メートルで、吉野ヶ里や唐子・鍵遺跡とならぶ最大級の遺跡。1,2世紀に倭国大乱の時に栄え、纏向の時代になるとなぜか衰弱する。
▽205 邪馬台国の近江説
▽207 ヤマトは「東」の勢力にとては、故郷とつながっていた。西にとっては瀬戸内海まで逃げられる。
▽209 長髄彦は、近江・尾張=前方後方墳体制の王ではなかったか。
吉備は、東にむかってモーションをおこし、ヤマトに降臨した。これが纏向誕生の瞬間である。
▽211 蘇我氏の祖は武内宿禰という。彼は神宮皇后と応神天皇を支えた人物。……のちの朝廷はヤマトタケル同様、神功皇后の祟りに脅えている。……つらい仕打ちをしたという記憶があったから、祟りをおそれたのである。
「日本書紀」は、蘇我氏の始祖などが邪馬台国やヤマト建国の時代に活躍し、ヤマト建国に大いにかかわりをもっていたことを抹殺せざるを得なかった。
▽212 神功皇后が「日本海の女王(台与トヨ)」で、ヤマトから九州に差し向けられ、邪馬台国の卑弥呼を攻め滅ぼし、のちに卑弥呼の宗女と名乗り即位したと推理。……日本書紀も「神功皇后は卑弥呼か台与のどちらか」と証言している。
……親魏倭王=卑弥呼を滅ぼしたヤマトは、魏を敵にまわしたくないから、台与を卑弥呼の宗女にしたてあげたはずだ。
……ヤマトは台与を裏切り、軍勢を差し向け、台与らは南部九州に敗走する。……これが出雲の国譲りと天孫降臨神話の真相ではなかったのではないか。
……応神天皇は九州から東征する。天孫降臨と神武東征のふたつを応神が演じるのは、この人物がヤマトに裏切られた「出雲の子」であるとともに、南九州に逃れた「天皇家の祖」であり、ヤマトに招かれた神武天皇と同一人物だからである。
台与を裏切ったヤマトの崇神天皇=饒速日命は、台与たちの祟りに脅え、南部九州の日向から、台与の子(末裔)の神日本磐余彦(神武天皇)を招き寄せたのではないか。
▽217 神功皇后は越の敦賀がにいて、日本海を西に向かい、出雲を経由し……神功皇后を支えた武内宿禰の末裔は蘇我氏で、蘇我氏はいたる場面で出雲と接点をもっている。神功皇后は「日本海の利害を代弁する者」と考えた。
▽225 蘇我氏全盛期には「方墳を造営する特権」を獲得するが、方墳が森業していたのは出雲だった。
出雲大社背後のスサノオを祀る摂社は「素鵞社(そがのやしろ)」といい、蘇我氏の地盤である飛鳥は、出雲神の密集地帯である。
神功皇后は近江からの女人で、武内宿禰は出雲の男であろう。神功皇后の説話は、近江と出雲の接近を暗示している。
▽229 出雲は朝鮮半島東南部と接点をもっていた。(くにびき神話)
……日本海は新羅、瀬戸内海は百済という図式ができあがっていたように思える。
▽231 ヤマト建国の直後、瀬戸内海(吉備・物部)と日本海(出雲)は主導権争いを演じ、日本海ルートはつぶされたと指摘してきた。
▽238 関東には出雲系の神社が多い。氷川神社など。最大の理由は、武蔵国造家が出雲系だからだろう。 ……ヤマト建国直後、出雲は没落する。しばらくの間、前方後円墳をつくることをせず、方墳や前方後方墳がつくられつづけた。
……出雲国造家は尾張氏。物部とともに出雲潰しにはしった「尾張」は、出雲を支配し、出雲国造になったのではないか。
▽240 和歌山の熊野本宮は「海人」が奉斎する。日本書紀では紀伊土着の高倉下が登場するが、「先代旧事本紀」は、この人物を「尾張氏の祖」とする。尾張氏は海の民出会った。だから、熊野山中の巨木を使って船を造っていたのだろう。
尾張氏が出雲=日本海をつぶしにかかったのは、海人としての戦略であろう。熊野大社は尾張氏が紀伊から出雲にもちこんだと考えられる。
▽243 ヤマトが出雲(日本海)をつぶしたのは、出雲と朝鮮半島南部がつながっていて、瀬戸内海勢力が出雲をつぶしたことによって、朝鮮半島側がヘソを曲げた、ということだろう。
▽244 【結論】 ヤマト建国当初、出雲、吉備、近江、尾張は手を携えて、北部九州が独占していた鉄の交易ルートを奪い取った。北部九州沿岸部の首長たちは軍門にくだったが、内陸部の邪馬台国は抵抗した。ヤマト連合は武力で邪馬台国を滅ぼし、
近江からやってきた巫女・台与(神功皇后)が卑弥呼の宗女を名のって即位する。
ところがヤマト内部で主導権争いが勃発し、出雲(日本海)に着くもの、吉備(瀬戸内海)に着くものがわかれた。出雲(武内宿禰)+近江(台与・神功皇后)は、吉備(饒速日命)+尾張(長髄彦・ヤマトタケル)に敗れ、南部九州に逃れる。これが国譲りであり、天孫降臨であった。
ところが、ヤマトで天変地異があいつぎ、朝鮮半島南部との関係もギクシャクして鉄の入手もスムーズに行かなくなった。そこでヤマトの饒速日命は、「出雲+近江の貴種をヤマトに招き入れ、祭司王にたてる」と考えた。だが、長髄彦は納得しなかったのだろう。
結局長髄彦(ヤマトタケル)は、饒速日命に殺されてしまう。
饒速日命と長髄彦の謎は、前方後方墳を支えた2つの地域の絆と裏切りによって、解き明かすことができたのである。
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