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歓喜する円空<梅原猛>

■新潮社251030
 
 奈良時代の泰澄や行基の後継者として円空をとらえる。
 泰澄は白山信仰をつくりだした。白山の神は、稲作と養蚕に結びついている。白山の主峰・御前峰の本地仏が十一面観音であるという信仰は、仏教を農民に定着させるのに大きな役割を果たした。
 奈良時代の仏教は、藤原氏の氏寺である興福寺が支配していた。聖武天皇はその興福寺をしのぐ規模の、天皇家の氏寺というべき東大寺を建立しようとした。伊勢の神は(藤原氏の)春日神と蜜月関係にあるから助けてくれない。そんなとき、応神天皇とその母の神功皇后をまつる宇佐八幡宮の八幡神が聖武天皇の前にあらわれた。東大寺建立という大国家事業によって行基がひっぱる八幡信仰が国家宗教となった。そして空海の真言密教によってほぼ完全に仏教にとりいれられた。
 奈良時代の仏像は、金剛仏、乾漆仏、塑像仏が主流で、行基や泰澄の木彫仏は例外的だった。
 行基仏は、素木で彩色がなく、木の生々しさを残し、神像と仏像が同居する。円空仏とおなじだ。円空が白山信仰の修験者となったと思われる高田寺には行基仏の薬師如来坐像があり、円空の中興した弥勒寺の本尊は、行基作の弥勒菩薩坐像だった。
 円空の思想は、天台密教、華厳思想、法華思想と結びつくが、その中心に泰澄の白山信仰があった。円空は神仏習合の思想と木彫仏の制作において、泰澄・行基・空海の流れをうけつぐ存在だった。
 平安時代の仏像は木彫仏ばかりになる。木には神が宿るとされ、木から仏をつくることは神仏習合の思想とむすびつく。
 木彫仏の技術は寄木細工の技術を生み、精密な技術で知られた平安中期の定朝らが平等院鳳凰堂の本尊などの傑作を生む。定朝様式がマンネリ化すると、鎌倉初期に運慶による剛健な像が登場する。
 修験道は鎌倉・室町に全盛期をむかえ、木彫仏も完成期をむかえるが、その後衰えていく。仏像を必要としたのは奈良・平安の真言密教や天台密教だった。鎌倉時代の法然・親鸞らの口称念仏による浄土教は、名号が礼拝の対象となり、仏像は不要になる。本尊も来迎印を結ぶ阿弥陀如来の立像にかぎられた。禅は人間そのものが仏になるという教えであり、礼拝の対象としての仏像はいらない。日蓮宗も日蓮上人像だけが重んぜられる。江戸初期に生きた円空は、泰澄・行基の伝統を復活し、木彫り仏制作の原点に帰ろうとした。
 修験道は、江戸時代の檀家制度で僧の移動が禁じられて衰え、明治の廃仏毀釈・神仏分離によって壊滅した。武士と同様に山伏も姿を消した。
 梅原は、円空仏を3つの時期にわける。1671年までの第1期は白山信仰を忠実に守った。1679年までの第2期は「弥勒信仰と護法神出現の時代」で特徴ある円空仏が誕生した。第3期は、十一面観音を本尊として脇侍に善女龍王と善財童子を置く、独自の白山信仰が完成した。
 円空は、芭蕉の「奥の細道」の24年前に、アイヌの住む北海道にまで足を延ばした。円空が訪問した3年後にシャクシャインの乱が起こった。
 厳寒の大峰山で修行したあと滞在した志摩半島には184枚の絵が残されている。これらは円空の作風の変化を示しているという。円空彫刻のエッセンスといえる護法神があらわれ、絵柄は次第に簡略化される。絵の簡略化を彫刻に活用することで、12万体造顕の夢を実現できると円空は確信した。竜泉寺(名古屋市)で馬頭漢音や千体仏を彫り、荒子観音寺で、3メートル超の仁王像とその余材で木端仏など千数百体を彫った。
 絵を時系列でならべると、途中から釈迦の光背が消える。釈迦は大寺の奥深くで金色の光背に包まれているのではなく、庶民のかたわらにいるという思想だ。この絵を描いた5年後の1679年に白山神の「ここに釈迦あり」という託告をうけた。庶民の釈迦になることで、円空に乗り移ることができた、と梅原は見る。キリストはおれたちといっしょに汗をかいている、とうたう中南米の解放の神学と通ずるものがある。
 法然は、末法の世では「南無阿弥陀仏」の念仏が救われる唯一の仏の道だと言い、日蓮は、「南無妙法蓮華経」という題目こそ仏になる唯一の道と考えた。禅は、寺院も経典も滅びる末法の世では自分が仏になることだけが成仏の道であると説いた。
 円空は、末法の仏教を護るのは龍女と護法神だと考えた。人間以外の宇宙的な力、龍の力を借りずには仏法は護りきれない。神々はすべて護法神となって仏法を護らなければならない……と。その証拠に龍泉寺の馬頭観音像の脇侍には熱田大明神、天照大神がついている。末法の世では、天照大神さえも仏法の守護者となるべきだと考えたのだ。サムシング・グレイトを想定する古代的・縄文的な感覚といえないだろうか。

 「円空和歌集」には「楽」「喜」「歓」という言葉がしばしば登場する。円空の思想の中心は生きている喜び楽しみを礼讃することであり、神々の清らかな遊びであるという。空海は密教の最高の境地を「大笑」とよんだ。現実を絶対肯定する空海の精神を円空は体現したと梅原は見る。

 円空の歌と西行の歌の比較も興味深い。西行は京での自分の歌の評価をしきりに気にした。その自然観は「古今集」をうけつぐものだった。円空と同時代の芭蕉の自然観も「古今集」の枠から出なかった。
 円空の自然観はちがう。どのような日本人の歌にも見られない、超古代人の声がきこえてくるような雄大な世界観が脈打っている、という。たとえば……

 やすやすと 伊勢御神 遊ふらん 竹馬にのりて 春来らん
(アマテラスが竹馬に野って遊んでいる。それを見れば春の到来がかんじられる)
 遊(ぶ)らん 浮世の人(ハ) 花なれや 春の初(め)の 鶯の声
(梅の花を愛でて遊ぶ人自身が花である……円空は人生の深い闇を生きてきたが、心に花を絶やさず、心はいつも春であった)

 古今集以来の歌人は世界をすべて美的享楽の対象とするから、民が従事する生産と労働の世界は目にはいらない。円空はちがう。

 御空より 玉そ降(り)ける 清浄(きよき)地の 神の御前の 新田(あらた)成(り)けり
(空から待望の雨が降った時の歌……新田の開拓が成功した喜び)

 一方でこんな歌もある。

白紙に 血ぬる人の 多くして 霊のおもたち 世々モたちなん

 「白紙に血を塗る」というのは人を殺したりすることを意味するのであろうと梅原は解釈し「殺された人の霊がどのように恨みを晴らして世を乱すか分からない。円空は人間のすさんだ心を深く嘆いている」と解説する。

 円空と同時代、かれの地元尾張藩でキリシタン弾圧が吹きあれた。
 「そのような闘争の世界は彼の好むところではなかったであろう。和合の世界こそ彼の理想の世界だった」と梅原はかくが、それだけではないような気がする。
 円空ほどの人物が、尾張藩だけで数千人が斬首された弾圧から目をそむけるはずがない。伊藤治雄は、切支丹禁制に苦しむ人々の心の救済に円空は心を砕いたとみる(「円空とキリスト教」)。「白紙に血を塗る」というのはキリシタンの悲劇を表しているのではないだろうか。

 梅原は、高田寺の薬師仏などに「縄文」を見る。「縄文の文様も風の流れ、水の流れに象徴される霊の流れを表すものであると私は思うが、……この衣文の流れには、縄文時代以来の日本の霊が復活したような感がある」
 また円空の絵は棟方志功につうじるという。棟方志功の絵もまた縄文系だ。円空の歌を「超古代人の声がきこえてくるような雄大な世界観が脈打っている」というのも縄文的なひびきをあらわしているのだろう。
 円空=木地師説をとり、円空を単なる職人とみてその技術のみを考察すればよいと考えた五来重を、「五来氏は詐欺師であったと思わざるを得ない」とこきおろすのも梅原らしくて心地よかった。

 梅原は、幼くして両親を亡くした円空に自分との共通点を見る。彼自身の人生と重ねてつづる部分も興味深かった。

===
▽54 円空の仏像のあるところ、そこには必ず泰澄や行基の影が射している。円空が天台密教を学んだとされる北名古屋市高田寺の高田(こうでん)寺には隣接して白山社があり、寺の薬師堂には行基仏の代表作と言ってもよい。桂の木で彫ったみごとな薬師仏がある。
▽55 泰澄は神仏習合のさきがけをなした白山信仰を始めた人であると思う。
……神仏習合は役行者によってはじまるが、泰澄の白山信仰によって強まり、行基の八幡信仰によって国家の宗教になり、空海の真言密教によってほぼ完全に仏教にとりいれられた。
 東寺の南大門の脇には八幡宮があるが、そこに空海作とされる僧形八幡像がある。これこそ神が仏になった証拠であり、神仏習合を見える形で表したもの。
……修験道は鎌倉・室町に全盛をきわめるが、江戸時代に檀家制度がつくられ、僧の移動が禁止されると衰え、明治初年の廃仏毀釈・神仏分離の政策によってほとんど死に瀕した。武士のみではなく、山伏もほとんどすべて日本から姿を消したのである。
▽56 平安時代になると、金剛仏、乾漆仏、塑像仏などが姿を消し、仏像は木彫仏一本槍になる。木は昔から神の宿るものとされてきた。木から仏をつくる木彫仏制作は神仏習合の思想と深く関係している。
……円空は神仏習合思想と木彫仏の制作という2点において、泰澄・行基の伝統の上に立つ。
▽63 円空研究は民間の学者によって発展。
▽64 円空は寛永9(1632)年、美濃国生まれ。島原の乱が起きるのは5年後。
▽72 行基が泰澄に会いに来た。行基は57歳、泰澄は44歳。
 行基は泰澄から、神仏習合の思想とともに木彫仏制作の方法も学んだにちがいない。なぜならその時すでに泰澄は、岩間寺をたて、その本尊の千手観音像を桂の木でほっていたからである。岩間寺は近江と山城の境にあり、今でも一面に桂の木が群生している桂谷とよばれる谷があり……〓
▽78 十一面観音は水の仏。水瓶を左手に持つ。水の仏である十一面観音。農民にとってもっともありがたい。白山の神は、稲作農業とともに養蚕とも結びついている。
 白山信仰は東北まで広まる。東北のお蚕さんの神である「オシラサマ」のお守りは白山の御札であった。白山の主峰・御前峰の本地仏が十一面観音であるという信仰は、仏教を農民に定着させるのに大きな役割を果たしたであろう。
▽83 行基は八幡信仰を国の信仰とすることに貢献した。東大寺建立という大国家事業の過程で国家宗教として確立された。奈良時代の仏教は、最大の寺院であり藤原氏の氏寺である興福寺が支配していた。その興福寺より大きな、天皇家の氏寺というべき東大寺を建立しようとした。事業の中心に聖武天皇と橘諸兄がいた。
▽84 伊勢の大神は(藤原氏の)春日神と蜜月関係にあった。興福寺以上の寺をつくることに賛成するとは期待できない。困っていた聖武天皇らの前にあらわれたのが、宇佐八幡宮の八幡神であった。応神天王とその母で朝鮮に兵をすすめた神功皇后がまつられている。
▽86 鑑真和上によって移入された仏像には木彫仏はない。中国北部では森林が乱伐され、巨木が手に入りにくかったせいであろう。
▽88 素木で彩色がなく、異相で、木の生々しさを残し、神像と仏像が同居した行基仏の特徴は円空の木彫仏とそっくりである。円空が白山信仰の修験道の業者となったのは北名古屋市の高田寺と思われる。そこに行基仏の代表作と目される薬師如来坐像があり、円空の中興した関市池尻の弥勒寺の本尊は、行基作の弥勒菩薩坐像であったという。
▽89 円空の思想は、天台密教、華厳思想、法華思想と結びつくが、その中心に泰澄の白山信仰があったことはまちがいない。……円空は神仏習合の思想と同時に木彫仏の制作においても、泰澄・行基・空海の伝統のもとではっきり日本思想史上に位置づけられる。
……木彫仏の技術はやがて寄木細工の技術を生み、精密な技術で知られた平安中期の定朝によって平等院鳳凰堂の本尊のような傑作を生む。定朝様式が主流となったが、やがてマンネリ化する。それに抗して、鎌倉時代初期に運慶による雄渾にして剛健な像が登場する。
 鎌倉時代に木彫仏は完成期を迎えるが、以後、衰えていく。仏像を必要としたのは奈良・平安の仏教で、とくに真言密教や天台密教であった。恵心僧都源信によってはじまったといってもよい浄土教もすぐれた仏像を生んだが、鎌倉時代に法然・親鸞らの口称念仏による浄土教となるときに、仏像の制作は不要になる。仏像のかわりに名号が礼拝の対象となり、本尊も来迎院を結ぶ阿弥陀如来の立像に限られる。禅は人間そのものが仏になるという教えであり、礼拝の対象としての仏像を必要としない。日蓮宗も日蓮上人像が重んぜられ、仏像は不要となる。
……江戸初期に生きた円空は、ふたたび泰澄・行基の伝統を復活しようとする。それが木彫り仏制作の原点に帰る作業だったのである。
▽92 円空は木地師だったという説は、劇作家の飯沢匡によって提出され、宗教民俗学者の五来重によって発展させられた。
▽94 定朝や運慶、快慶の仏像もすばらしいが、それらは権力者の命令で、権力者のためにつくられた。……民衆の幸せのために、あるいは大地の鎮魂のためにつくった円空仏より自由さと幅広さという点で、多生劣るのは当然だろう。
▽103 円空=木地師説は、飯沢氏によってはじめて提出され、1968年の五来重氏の「円空仏 境涯と作品」にうけつがれ、1984年の「美並村史」通史編下巻によって決定的に主張された。
 五来氏 柳田の民俗学ブームで、弟子のなかに仏教の知識をもった五来氏がもてはやされることになった。
 五来氏は、円空を宗教家としても芸術家としても認めない。円空を単なる職人とみてその技術のみを考察すればよいと考える。
▽111 無名の研究者によって研究されてきた円空が、五来という著名な学者にとりあげられたことが、円空ブームを促進することに。五来氏は第一人者の地位を守るためにも、人を驚かすような新説を出さなければならぬ。それが円空=木地師説なのである。
▽130 私は五来氏に尊敬の念を抱いていたが、今は少なくとも円空研究においては、五来氏は詐欺師であったと思わざるを得ない。
▽132 美並村=円空生誕地という根拠なき説によって、同じ県内の羽島市といさかいを起こすのは愚かなこと。
▽136 円空生誕地の伝承が多く残る羽島市上中町中
▽144 円空は「まつばり子」 泰澄も行基も。行基の母は身分の低い帰化系の人で、小役人である父との間に行基が生まれたが、父はそれを羞じて母子を捨てた。
 まつばり子は物心がつくや周囲の人から浴びせられる冷ややかな視線に耐えなければならない。
▽150 高田寺の薬師仏 そこに縄文の文様を見る。縄文の文様も風の流れ、水の流れに象徴される霊の流れを表すものであると私は思うが、……この衣文の流れには、縄文時代以来の日本の霊が復活したような感がある。
▽154 第Ⅰ期を1671までとし、白山信仰を忠実に守った時代としたい。第Ⅱ期を1679年6月までとし、特徴ある円空仏が誕生した、弥勒信仰と語法神出現の時代としたい。第Ⅲ期を1695年の彼の死までとする。独自の白山信仰の完成の時代。十一面観音を本尊として左右の脇侍に善女龍王と善財童子を置く、独自の信仰が確立されるのである。
▽167 寛文5年の旅は、芭蕉が「奥の細道」の旅に出かけたのに24年さかのぼる。円空の旅は、芭蕉の旅よりはるかにきびしかった。芭蕉は平泉までだが、円空は化外の民であったアイヌ人の住む北海道に足を延ばし……
▽168 円空は恐山に行きたかったのでは。死んだばかりの西神頭安高と、幼いころ、洪水によって死んだ母の霊に会いに行ったのではないか。
▽176 恐山には現在、石の千体地蔵はなく、かわりに木の千体地蔵がある。……石の地蔵は参拝者によって持ち帰られ、いつしか木の地蔵にかわったのであろう。
▽183 円空がきた3年後の寛文9年に、シャクシャインの乱が起こった。敏感な円空が、和人とアイヌの間にある微妙な空気を感じとらないはずがない。
▽216 真の芸術家はしばしばひとつの様式を創造し、それを完成した後にはその様式を破壊する。そういう破壊の情熱のない芸術家を私は信用しない〓(梅原らしさ、共感をもとに)
▽219 円空の絵画 護法神 厳寒の大峯山で修行中の円空を訪れた異形の神の像であるといってよかろう。護法神こそ円空彫刻のエッセンスである。
 円空の絵 片田の漁協に54枚、志摩市阿児町立神の薬師堂に130枚。
 絵はどこか棟方志功を思わせる。(棟方も縄文系?〓)
▽221 「志摩半島で会得した絵の簡略化が彫刻にも活用できた円空は、誓願であった12万体造顕の夢がこのとき現実となる確信を持った。そして名古屋市守山区竜泉寺で馬頭漢音や千体仏を彫り、ついで荒子観音寺では、3メートルを超える仁王像とその余材で木端仏など千数百体を……」
 「超人的な数の神仏像を造顕できるようになったのは、この志摩半島での古典大般若経見返絵の模写からはじまった一連の作業、古典の吸収・消化が円空の宗教観とあいまって、彼独自の省略描法の絵画を生み、その省略法が、仏像彫刻にも生かされたからだと考える」
▽244 「龍女にたいする授記が終わると釈迦の光背が消える」つまり釈迦は大寺の奥深く金色の光背に包まれているのではなく、庶民のすぐ近くに裸になっていらっしゃるという思想は……法然も円空も、思想的に阿弥陀仏の光背をとりのぞいて、庶民に近づけたといえる。円空はこの絵を描いた延宝年の5年後に白山の神の「ここに釈迦あり」という託告をうけたが、釈迦の光背を消滅せしめたことと関係があると思う。庶民の釈迦になり、円空に乗り移ることができたのである。
▽261 法然によれば、末法に残るのは「浄土三部経」のみで「南無阿弥陀仏」という口称念仏は、救われる唯一の仏の道であった。日蓮は、残るのは「法華経」のみであり「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることこそ末法の仏教者が仏になる唯一の道であると考えた。禅は、寺院も経典も滅びる末法の世では自己そのものが仏になる道こそ唯一の成仏の道であると主張した。
 円空は、末法の仏教を護るものは龍女と護法神とであると考えた。人間以外の何か宇宙的な力、龍の力を借りずには仏法は護りきれない。そして日本の神はすべて護法神となって仏法を護らなければならない。それが円空の答えなのであろう。
▽261 前衛芸術とみまごうばかりの、円空仏がつくられるのはこの絵を描いて以降なのである。
▽263 木はもともと神なのである。神である木から神や仏の像を彫りだしたような仏像は、すでに行基に例があった。円空は行基の道を、行基を超えて進んで行ったのである。
▽269 龍泉寺の馬頭観音像は、熱田大明神、天照大神までが脇侍をつとめておられる。仏法の衰退の危機において、天照大神も仏法の守護者となることを円空は期待したのではないか。
▽280 荒子観音寺は白山信仰を護持する観音崇拝の寺。観音と阿弥陀が支配する理想の世界をつくる。そこでは菩薩たちが自由な生活をして和合している。円空はその人生において、キリシタン弾圧、アイヌの反乱、農民一揆などを目にしたが、そのような闘争の世界は彼の好むところではなかったであろう。和合の世界こそ彼の理想の世界だった。(〓弾圧を無視する感性ではないと思うけど……)
▽287 父母を失い、おじの半兵衛が私をひきとった。政治家にしたがったが、私は官僚や政治家になる気はまったくなく、「自分はひと時の栄華より千年の心理を求める」と豪語し、西田幾多郎に憧れた。どの大学でも入れると教授に言われたが、迷いなく、京都大学文学部哲学科に願書を出した。
▽289 津島市天王通3丁目の地蔵堂の地蔵菩薩を修理し、そのまわりを取り囲む千体の仏を彫った。
▽292 「円空和歌集」には「楽」「喜」「歓」という言葉がしばしば東條する。円空の思想の中心は生きている喜び、楽しみを礼讃することであると思う。それはまさに神々の清らかな遊びである。
▽294 天川村栃尾の観音堂においては、聖観音像の脇侍をつとめたのは弁財天像と金剛童子像だった。尾張旭市庄中町の観音堂で、聖観音の脇侍を毘沙門天像と不動明王像がつとめる新しい三尊形式の仏がつくりはじめられたと言ってよかろう。
▽295 1679年、美並町近くの滝に打たれて修行していた円空に突然、白山神の神託がくだった。……真の宗教者にはかならず神のお告げがおりるものである。48歳の時であった。……円空が修行している千多羅の滝そのものが釈迦のいますところで、即ち釈迦そのものであるというのである。……円空はすでに仏そのものに近くなっている。
▽300 1679年から3年ほど関東への旅。関東の円空仏は圧倒的に埼玉県に多い。「歴史と民俗の博物館」(春日部市の観音院旧蔵)の像。
▽302 埼玉県の円空仏の多くは、もともとあったところにはない。円空が像を残したのは修験の寺が多かった。修験道は明治の神仏分離・廃仏毀釈によって、修験道の寺は壊され、修験者はほとんど還俗させられた。円空仏は離散した。
▽303 空海は密教の最高の境地を「大笑」とよんだ。現実を絶対肯定する精神の表現である。円空は空海の精神を誰よりも理解した僧になったようである。
▽319 円空の歌と西行の歌は180度異なる。西行はしきりに京のことを気にして、自分の歌が「千載集」や「新古今集」にどれだけ選ばれるかに強い関心をもっていた。……西行の自然観は「古今集」以来の自然観を免れていない。円空とほぼ同時代の松尾芭蕉も西行の跡をしたって旅をし、俳句を残した。その自然観は西行同様、「古今集」以来の自然観に沿うものである。ところが円空の自然観は「古今集」とはまったくちがう。
 円空の歌集を西行の「山家集」とともに読んだが、円空の歌の方に強い感銘を覚えた。……歌としては西行のほうがはるかに巧みである。……にもかかわらず、円空の歌には今までのどのような日本人の歌にも見られない雄大な世界観が脈打っている。まるで超古代人の声がきこえてくるようである。
▽321 やすやすと 伊勢御神 遊ふらん 竹馬にのりて 春来らん
アマテラスが竹馬に野って遊んでいる。それを見れば春の到来がかんじられるという。
▽325 円空は雄大な想像の世界にのみ遊ぶ人間ではない。現実を見る鋭い目ももっている。古今集以来の歌人は、ほとんどの民が従事している生産と労働の世界が目に入っていない。彼らは世界をすべて美的享楽の対象としているからである。
 御空より 玉そ降(り)ける 清浄(きよき)地の 神の御前の 新田(あらた)成(り)けり
 空から待望の雨が降った時の歌であろう。……新田の開拓が成功した喜びがこのような歌になったのであろう。
▽327 白紙に 血ぬる人の 多くして 霊のおもたち 世々モたちなん
「白紙に血を塗る」という意味は分からないが、人を殺したりすることを意味するのであろうか。殺された人の霊がどのように恨みを晴らして世を乱すか分からない。円空は人間のすさんだ心を深く嘆いている。【キリシタン弾圧などをさしているのでは】
 石たにも もゆるほのうに あこかれて 御山木も 色付にけり
 もみじの色を「もゆるほのう」の色とみている。円空はもみじの紅さに何か不気味なものを感じているのだろう。もみじに魔の色を感じるようなことは、「古今集」以来の伝統の美学にはない。
▽336 遊(ぶ)らん 浮世の人(ハ) 花なれや 春の初(め)の 鶯の声
 梅の花を愛でて遊ぶ人自身が花であると円空は言うのである。円空は人生の深い闇を生きてきたが、心に花を絶やさず、心はいつも春であった。
▽343 私は80歳を超えた。そのような老人にも春があるのである。私はまだ花を咲かせたい。学問の花、芸術の花を咲かせたい。遊びのない学問や芸術はつまらない。作者が無心になって遊んでいるような学問や芸術でなくして、どうして人を喜ばせることができようか。
▽346 注目すべきは両面宿儺像であろう。円空は、両面宿儺がいたという伝承のある高山市丹生川町出羽の岩窟に一時住んでいた。
……宿儺が両手に持っているのは鉞(まさかり)であり、槌らしいものがみえる。この像は円空自身でもあると見なくてはならない。
……高山市の東山神明神社には柿本人麻呂坐像がある。

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