■文春新書251022
土器のない旧石器時代の生活をしていた琉球を文明化したのは九州の石鍋の導入とそれを模倣する土器の出現であり、それを介在したのが家舟にすみ交易をにない「倭寇」ともよばれた海人たちだった。さらに、琉球の第一尚氏王朝は、熊本・八代の海人系の武装集団が打ちたてた……という。ダイナミックな展開に目が白黒した。
福岡には志賀島の阿曇、宗像市の宗像、それに鐘崎の海人がいた。日本の代表的海人族の発祥の地が集中していた。鐘崎の枝村は、壱岐や対馬、長門、さらには能登の輪島まで広がっていた。黒潮にのれば山陰、北陸まで進出することのできる地の利があった。
同一形式の土器や黒曜石が韓国南部から沖縄本島まで出土していることから、縄文時代から弥生時代にかけて、沖縄本島が九州と交流関係があったことがわかった。
対馬は、多くの古墳があるが五島列島には古墳は存在しない。対馬は平地にとぼしく、朝鮮に食料を求めてきた。なだらかな五島で銅剣銅鉾が1本も出土せず古墳もないのは、五島が海人の島だったからだ。
鹿児島でも、志布志湾は古墳が集中しているが、川内川以南の薩摩半島には古墳はほとんどない。阿多隼人の拠点で東シナ海に面して漁撈文化がおおっている。淡路島の古墳の大半が後期のものであり、熊野に古墳がないのも、海人族の拠点だったためだ。
南方産のセグロウミヘビは黒潮によって出雲の海岸にたどりつき、出雲神社や佐太神社の神有祭りにはなくてはならぬものだった。
保元の乱に負けた源為朝が沖縄に行ったという伝説がある。「保元物語」では源為朝が阿多忠景の娘婿となって九州で活躍したと記されている。その後に阿多が南方へ逃亡したことが為朝伝説にすりかわったと考えられる。
12世紀の琉球は原始社会から脱してまもなくだった。第一尚氏の統一王国以後は奄美は琉球に服属するが、それ以前11、2世紀のグスク時代黎明期は奄美の方が沖縄本島よりも先進地帯だった。
八重山では紀元前には土器が出土したが、土器のない時代が1000年以上つづいた。12世紀、長崎県の西彼杵半島を主な産地とする石鍋がもちこまれ、それにそっくりの形態の外耳土器が誕生した。これによって無土器時代は終わり、グスク時代が訪れた。石鍋は、琉球列島に石器模倣土器を出現させ、新石器時代を終焉させ、農耕社会の成立にかかわった。琉球社会を1000年の眠りからゆり覚ましたのは九州産の石鍋だった。
瀬戸内海における家船の根拠地は能地(三原市)、二窓(竹原市)、吉和(尾道市)で一本釣りを主体とした。西北九州の長崎の家船や釣り漁をおこなわず、銛や鉾を使って魚貝をとる。潜水して魚をとった。
(九州の)家船のグループは、海にもぐって、敵の船腹に穴を開けるのを特技とした。もぐるから髪の毛は黄色く脱色する。朝鮮人からは海賊「倭寇」と怖れられた。
彼らの根拠地は、九州では西彼杵半島の大瀬戸や﨑戸であり、大瀬戸は滑石製石鍋の一大産地だった。それを沖縄にはこぶのも家船が利用されたと考えられる。
石鍋や鉄器を家船で運んだ交易集団のなかには武士団の残党らも加わっていた。家船じたいが海賊まがいの存在だった。
そのなかで抜きんでていたのが肥後八代の名和氏一統だった。南朝の敗北によって海賊となり、南下して沖縄本島にわたり、知念半島の一角に上陸。肥後の佐敷にあやかって、その地を佐敷(南城市佐敷)と称した。ここを根拠地にして権力を樹立したのが第一尚氏のはじまりだと折口信夫は説いた。古いグスクである玉城付近の洞窟から日本本土の鎧が見つかったというのは、折口説を補強する材料といえる。
第一尚氏には八幡信仰が熱烈にみられた。さいごの尚徳王が1466年に喜界島を征伐した際、八幡大菩薩の加護をうけたとして安里に八幡宮をたてた。慶長年間、琉球には6カ所の熊野権現と1カ所の八幡大菩薩が祀られていた。為朝伝説は、九州西海岸から渡来したと考えられる第一尚氏の八幡信仰によって定着したと考えられる。
石鍋の次に歴史をうごかしたのは「鉄」だった。
沖縄では、新しい王朝は鉄と関わりのある伝承をもっていた。鉄は輸入するしかない。政治権力をにぎる者は、武器や農具として決定的な意味をもつ鉄器をいちはやく島外から入手することに敏感だった。16世紀半ばごろまで、琉球社会は鉄器類を喉から手が出るほどほしがっていた。鹿児島の坊津や秋目などは、鍛冶技術や鉄製品を南の島々に向けて送りだす拠点だった。秋目の鍛冶屋の大半は奄美の島々で鍛冶屋をしていた。
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▽11 海人族の発祥地 志賀島には阿曇の海人がいて、潜水漁法に長じ、真珠をとるのがたくみ。
宗像市の神湊は、宗像神社の辺津宮のあったところ。これと中津宮のある大島、沖津宮のある沖之島は一直線。
鐘崎の海人の枝村は、壱岐の小崎、対馬の曲、長門の大浦(油谷)、能登の輪島や舳倉島まで。
阿曇海人や宗像海人、鐘崎の海人という日本の代表的海人族の発祥の地が60キロ足らずの海岸線に集約されているということは、黒潮のもたらす、くさぐさの文物の漂着するところとして海の幸にめぐまれていおり、黒潮にのれば山陰、北陸まで進出することのできる地の利があることを物語っている。
▽16 倭人伝のころ、玄界灘を渡るのに帆を利用しなかったはずはないと私は主張した。
▽19 同一形式の土器や黒曜石が韓国南部から沖縄本島にいたるまで出土している。縄文時代のはじまりのころから弥生時代にかけて、沖縄本島が九州と交流関係があったことがはっきりした。
▽24 戦前は対馬で重病人がでると、釜山の病院に運んだというし……魏志倭人伝のころすでに、朝鮮半島南部には倭人が住みついていたとみられる。
▽27 垂仁天皇の時代に、タジマモリが、トキジクのカグの木の実(タチバナ)を求めにいった常世の国は済州島ではないかという説もある。済州島の橘にはながい間、実が熟している種類が存在しているのである。〓福江島にはタチバナという地名が十カ所あるが、野生のタチバナも自生している。
▽29 「李朝実録」に載っている朝鮮人の琉球列島への漂流は、済州島人がほとんどである。もぐり海女も柑橘類と同様に済州島だけにみられ、朝鮮本土には見あたらない。
▽32 対馬は、前方後円墳は1つ、円墳はあちこちに。五島には古墳は存在しない。
対馬は平地にとぼしい。対馬の2000年の歴史のなかで、対馬が朝鮮に対して食料を求めないのは20世紀後半からだけではないか……
五島はなだらかで平地も多い。銅剣銅鉾は1本も出土せず、古墳もない。五島は海人の島だったということである。
薩摩半島の南半部も同様。志布志湾には古墳が集中しているが、川内川以南の薩摩半島には古墳はほとんどな。こちらも阿多隼人の拠点で東シナ海に面して漁撈文化が濃い地方である〓〓(熊野も古墳がない)
淡路島の古墳が、ほとんど後期古墳であるということは、強い漁撈文化によっておおわれていたことを示す。
権力者の象徴である巨大な古墳は不要だったのであり、海人の葬制が根強かったともみられるのである。
▽40 五島の海人は容貌のみならず、言語も隼人に近かったかもしれない。今日でも五島と薩摩の方言はよくにているという話しを聞くからだ。
▽53 沖縄の稲作は昭和初期に大転換。昭和10年までの間に、台湾から輸入した品種が普及して在来種にとってかわった。生育期間が短く、芒はなく、茎丈も短い。その前の在来種は……
▽60 七島灘は、「渡瀬線」とよばれ生物地理学上の境界線。日本語はここを境として、本土方言と琉球方言に大別される。
▽63 ハリセンボンと同様、南方産の背黒ウミヘビも出雲の海岸にたどりつく。出雲神社や佐太神社の神有祭りにはなくてはならぬものとされてきた。
▽71 為朝伝説は「琉球神道記」のころにすでに沖縄に受け入れられていた。
「保元物語」では為朝が阿多忠景の娘婿となって九州で活躍したと記され……阿多の南方への逃亡の事実が、為朝の琉球入りの物語にすりかわったとみることができる。
▽94 12世紀の琉球はまだ原始社会から脱してまもなくであり、商業の芽生えなどなかった時代である。
……奄美諸島が交易拠点として沖縄諸島よりも先進地域であった。
▽101 沖縄本島から島影一つない約300キロの海域をこえて先島諸島に向かわせた動機はなにか……ヤコウガイとホラガイを求めての旅と推定している。ヤコウガイを主たる素材にする螺鈿工芸は、日宋貿易における重要な特産品であり,12世紀に消費のピークを迎える。ホラガイも、大和の寺院のほか、高麗や宋の王室で仏教法具として珍重された。どちらも東アジアにおける産地は、琉球列島を除くと台湾南部や海南島に限られており……
▽102 八重山では紀元前には土器が出土したが、土器のない時代が1000年以上つづいた。12世紀頃になってはじめて、新しい時代が到来した。それは九州の石鍋そっくりの形態の耳状の把手つき土器が出現した。この外耳土器の誕生によって無土器時代は終焉を告げ、スク時代(グスク時代)が訪れた。
……石鍋は、琉球列島に石器模倣土器を出現させ、やがて琉球全域に新石器時代を終焉させるほどの強烈な文化的インパクトを与え、琉球列島における農耕社会の成立と不可分の関係をもつ……
……石鍋はとくべつの呪器と考えられた節がある。日本本土では石鍋4個は牛1頭の値段といわれたくらいである……土器をもたない沖縄の世界にもたらされたときの衝撃は……
石鍋の産地は、長崎県の西彼杵半島が主な生産地。……グスク時代を開いたのが石鍋ともいえる。
▽109 瀬戸内海における家船の根拠地は能地(三原市)、二窓(竹原市)、吉和(尾道市)で、打瀬網や手探り網をひき、また一本釣りを主体とした。西北九州の長崎の家船や釣り漁をおこなわず、銛や鉾を使って魚貝をとる。潜水して魚をとるというちがいが見られる。
……吉和漁港では昭和30年代から40年代にかけて約600隻の漁船が出入りしていたが、このうち陸に家をもたない家船の数は200世帯と推定された。彼らは20余隻の船団をくんで、壱岐・千島まででかけてブリの一本釣りをした。
▽121 (九州の)家船の連中は、海もぐって、敵の船腹に穴を開けるのを特技としたが……家船の連中は朝鮮人から海賊とみられていた。もぐって漁業をする者は、黄色く髪が脱色する。「倭寇」と怖れられていた。
……彼らは1年のうちきまった日だけ根拠地にもどった。それが九州でいえば西彼杵半島のとりわけ大瀬戸や﨑戸であった。大瀬戸は滑石製石鍋の一大産地だった。それを太宰府や博多に運ぶのも家船で、石鍋をつんで沖縄をめざすときも家船が利用されたと思われる。
……石鍋、鉄器を家船で運んだ商人は、博多の宋商とつながる交易集団と考えられるが、それらに武装集団も加わっていた。家船じたいが海賊まがいの存在だったか、武士団の残党がのっていたにちがいない。そのなかで抜きんでていたのは肥後八代の名和氏の一統あるいは分派と称する連中であろう。彼らは沖縄の知念半島の一角に上陸して、佐敷に根拠地をもうけた。それが第一尚氏のはじまりであることは折口信夫の説くところである。
▽127 砂糖生産のはじまり
▽129 八代の相良氏は東シナ海を横断して明国と交易するほどの貿易船を16隻も保有していた時代も。
▽134 折口によると、八代の古麓に白をかまえた名和氏は、南朝の敗北となって終焉を見た後、海賊となり、南下して沖縄本島にわたり、東南海岸のヤマトバンタに上陸。肥後の佐敷にあやかって、その地を佐敷(南城市佐敷)と称したという。ここを根拠地にして権力を樹立、第一尚氏を開いた。
▽143 大正末年、首里城に県社の沖縄神社が創立されたが、第2尚氏は自分の祖先を神とまつっても、第一尚氏を合祀することは拒否した。……第一尚氏の最後の王の尚徳が死んだのち、王妃と長男の佐敷王子は殺された。……尚徳の父にあたる尚泰久の骨は乞食墓(ハンセン病者の墓)にかくされた。ながらく第2尚氏に知られず、明治41年にはじめて玉城村の當山に改装された。
▽151 古いグスクである玉城の付近の洞窟から日本本土の鎧が見つかったというのは、折口説を補強するのに好都合な発見というほかはない。
▽158 慶長年間、琉球にはすでに6カ所の熊野権現と1カ所の八幡大菩薩が祭られていたというが……第一尚氏に八幡信仰が熱烈にみられる。第一尚氏さいごの尚徳王が喜界島を征伐したのは1466年のことである。八幡大菩薩の加護をうけたというので、安里に八幡宮をたてた。
▽160 為朝伝説を定着させたものが九州西海岸から渡来したと考えられる第一尚氏の八幡信仰であったことは、十分に推量しうるところである。
▽165
▽172 大島は1440年代には琉球に服属した奄美の役人もノロも、琉球王府の任命によるものであった。
▽179 知念城の内側にある御嶽だろう。……知念城はアマミキヨがはじめて天降ったといわれる城である。アマミキョには、日本から鉄をもたらした人びとの影がちらつく。
▽182沖縄では、新しい王朝を開いた人が、つねに鉄と関わりのある伝承をもっていたことが注目される。鉄の原料、もしくは製品は輸入するしかない。政治権力をにぎろうとする者は、武器としても、農具としても決定的な意味をもつ鉄器をいちはやく島外から入手することに、きわめて敏感であったと想像される。
▽184 16世紀半ばごろまで、琉球の社会が鉄器類を喉から手が出るほどほしがっていたことがわかる。
▽191 宮古島には鉄器の製法が久米島を経由して伝わるルートがあったことを示唆しているが……属島の伊良部島の長山御嶽の神が、日本から鉄をもってきて農具を制作したと伝えられる。
▽193 坊津や隣の秋目などは、鍛冶技術や鉄製品を南の島々に向けて送りだす拠点でもあった。
……老人の話では秋目には30軒ほどの鍛冶屋があったが……ほとんどは奄美の島々で鍛冶屋をしていたという。
▽205 先島の経済的統一の原動力となったものは家を建てたり舟を作ったりするときの良材を西表島に求めたことであった。……西表島が宮古や多良間を含めた先島の経済交流の中心であった。もうひとつ西表島の東部海岸の古見を中心とした稲栽培。西表島は、米と船材という不可欠な欲望をみたす島として先島の統一を促進する求心力となった。
▽214 黒潮を利用して北上し、七島灘を超えて活躍した南島の民の代表は糸満漁夫と久髙漁夫である。
……糸満漁夫の活動を画期的なものにさせたのは明治10年代に水中眼鏡が考案されたことである。……彼らが八重山に進出したのは、明治10年代の後半とされる。
……「道の島」づたいに北上し、五島、対馬、隠岐、若狭にも出漁している。
▽217 久高島の漁夫は、明治以前から「道の島」を北上。エラブウナギを漁し、赤ガメを捉え……かれらはもっぱらエラブウナギに関心があった
▽221 714年に石垣や久米島から大和へ、という記録。だが本土と八重山の交流は11,12世紀以降にはじまる。
▽222 沖縄本島では貝塚時代、先島では無土器時代がつづいた。それが日本からの文化が11世紀から12世紀にかけて琉球社会に流入をはじめる。その影響をもとに、本島では石鍋を忠実に模倣したグスク土器が出現した。=グスク時代の到来。
琉球社会を1000年の眠りからゆり覚ましたのは九州産の石鍋がきっかけであるといっても過言ではない
▽224 鍛冶技術をもった人々が九州から南島に渡ったことはまちがいない。
▽225 11,2世紀の奄美諸島は、琉球狐のなかで、最も速くから開けた地域であった。第一尚氏の統一王国以後は奄美は周辺部分だったが、それ以前、グスク時代の黎明期においては奄美の方が沖縄本島よりも先進地帯であった。
▽234 名和氏の残党が海賊化して沖縄本島の一角を占拠し、琉球の初期王権を樹立したという折口の仮説。
……南朝の征西府方の将士は倭寇に投じて南下し、琉球諸島に根拠をきずき……
……琉球王府は倭寇に具えて王城の守りをかたくした。
▽238 原始時代とグスク時代を画したのは、石鍋模倣土器の出現であった。無土器時代に終止符が打たれ、琉球社会は、文化の黎明を経験することになった。それは石鍋に代表される日本文化と言ってもよい。…
…12世紀に九州産の高価な滑石製石鍋を運び入れた。普通の人たちは模倣で土器をつくった。それが発展したのが外耳土器で、無土器だった八重山で再び土器の製作がはじまる。……それにより、それまでは異文化だった先島の文化が琉球圏にはいるんです。
琉球に統一王朝が誕生するきっかけとなったのは、九州から南下した武装勢力であった。折口信夫は名和氏の残党としているが、、その公算はきわめて大きい。
……根底には縄文時代以来の自然の「海上の道」があった。列島と琉球弧のあいだの往来の道であった。
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