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われらが海民 映画監督大重潤一郞著作集<高橋慈正編>

■港の人 250730

 沖縄の久高島の信仰や暮らしを撮った「久髙オデッセイ」を10年以上前に見て感動したけれど、大重潤一郞という監督の名前は覚えていなかった。ひょんなところから「久髙オデッセイ」の助監督をした高橋慈正さん(この本の編者)と知りあって、大重作品のウェブ上映会に誘われた。
 「久髙オデッセイ」の3部作以外に、7,8本は見たろうか。とくに「光りの島」は不思議な作品だった。「人間死んだらなんにもならん」。そう思って母は死んだのか? という問いを胸に、西表島の沿岸にうかぶパナリ島という無人島をたずねる。無人島だから、撮るべきストーリーはない。海岸のカニや人のすんだ跡の石垣や井戸、植物に照り返す光や風のうごめきを撮る。
 監督は撮影時をこうふりかえる。「じーっと大気を凝視していると、光が液体のようにふわっとまくれたりですね、風が、何かポンとある衝撃を与えてくれたり、光と風だけでかなりダイナミックな世界があることが、だんだん感じられてきたわけですね。……夕方、ある浜にいる石くれたちが歌を歌い出すんですね。何もないようでいて、霊たちがたくさんいらっしゃるんですよ。夕方いい気分のときは、皆さんお歌いになるわけですね……一番大事だなと思ったのは、木や葉っぱを見て、これは何か偉大な力によってつくられたのではないかと思う臨場感ですね」
 3回見たが、「隅々まで見てやる!」と思うのだけど、かならずどこかで気持ちよくなって寝てしまう。でも最後のメッセージは頭に刻まれる。
「自然には始まりも終わりもない。くりかえしがあるだけじゃないのか。地球は生命のゆりかごであるという。しかしそれは生みだすだけではない。死をもひきとっている。そして眼には見えない、耳には聞こえない、ちがう次元へと導き、計り知れないいのちを生かしている。生も死も全てを包みこんで大きなうねりをくりかえしている。……ああ、すべてが生きている」
 そう、死者もまた生きている。
 上映会で「寝てしまった」とは言えなかった。でもこの本にも「毎回寝てしまう」という学生が登場していて、それに対して監督は「自分の映画は自然のリズムを刻んでいる。人間にとって心地よいリズムなんだ。眠くなるというのは最高の褒め言葉だ」と言った。退屈だからではなく心地よいから寝る映画というのもありなんだなぁ。

 ウェブ上映会に宗教哲学者の鎌田東二さんがいたのにもびっくりした。出雲の宗教や熊野古道、遍路について調べる際、鎌田さんの本を何冊も読んだ。信仰や宗教は「頭」ではなく「体」で感じるといった内容が新鮮だった。高尚な宗教哲学者だと思っていたら、気さくでぶっ飛んだ人だった。(「ぶっ飛んだ」部分がわかるのは「京都大学ボヘミアン物語」を宗教関係のサイトで書評を書いてくれたときでした)

 この本は、鎌田さんの「いのちの汀」と題した前書きではじまる。
 鎌田さんによると、大重さんの映画は、「風が描く」「水が描く」という非自我・超自我だ。たしかに「光りの島」には自我の影も見えない。
 大重監督が亡くなる直前の7月15日、久髙オデッセイ第3部の上映会を開くことを伝えると、大重さんは「ありがとう。ありがとう。頼む。かまっさん。でも、もう限界。明日明後日か。ゆるして。ゆるして」と力ない声で言った。泣きそうになって、「ゆるすよゆるすよゆるすよ。あんしんして。もうずいぶんがんばったよ。大重さんのいいところは全部映画に込められているから、それをみんなに伝えていくよ」と叫んだ。
 そんなやりとりに圧倒される。でもその鎌田さんも今年5月30日に亡くなった。鎌田さんの言葉はだれが受け止めたのだろう?

 大重監督のシナリオや文章、講演は珠玉の言葉だらけだ。
「…母さんはな、最後は、もう骨と皮になって、手をにぎる力もなかった。…それでも、母さんが死んだら、いい母さんをもらえよって、俺たちのことばかり心配しとった。どんなに苦しかったかも知れんのに……母さんはな、体はああなっても気持ちは俺たちに、あふれつづけてとったぞ。最後まで、あふれにあふれて、あふれたおしてしまった。…母さんはすごい人や。人間ちゅうもんはあそこまで強くなれるもんじゃ…忘れるな、俺達も負けんように生きたおさにゃならんぞ」
 こんな言葉、涙がとまらなくなるやん。

 「光りの島」は撮影したまま編集できないでいた。そこに阪神大震災が襲った。
 震災10日後、大阪の事務所へとどいた大量の魚や野菜を神戸に運び、炊き出しをはじめた。混乱のなか、「街を歩く人の顔がとてもやさしく見えます。泣きはらしたあとの清々しさとでもいうのでしょうか。とりわけ女性の顔が美しい」「この震災は次の千年の未来の人々へ地球から贈られた啓示でだったのではないか」「人と人の間のバリアが消え、みんなが生命のために一つになり、人間、捨てたもんじゃない、と感動した」
 震災をきっかけに編集を再開し、大切な人を亡くした人のためのレクイエムのような映画になった。

 映画「縄文」は、白神山地と屋久島をロケ地とした。縄文の遺跡は、人が生きていける条件が整った場所であり、魂も育ててくれる場所である。自然との直接的な関わりのなかで生まれてきた祭祀は魂の永遠を表している、という。
 世界宗教や経済が力を持つ時代はこの1000年、2000年であり、2万年近くつづいた縄文と比べれば一瞬にすぎない。自然のなかに神を見る多神教の縄文世界は「日本の各地でずっと続いてきた」と監督は実感する。「山を歩きますと、精霊たちから見られているという感じがして……人間界という層の世界の上にもっと別の層があり、いろんな層が積み重なってあるんだなと思うわけです」
 能登の真脇遺跡を鎌田さんらと訪ねたとき、環状木柱列(ウッドサークル)のまんなかに横になると、サークルの内と外で空気のやわらかさがちがった。「ウッドサークルは宇宙(もうひとつの世界)とつながるパラボラアンテナのようなものです」と鎌田さんは言った。鎌田さんと大重監督の言葉はあちこちで共振し、どちらが発したのかわからなくなってくる。

 大重監督は「海の道」を重視し、室町時代、中国の明の時代以来の海の民のつながりを追いかけていた。
 中国・宋の刺激で日本は海洋国家になり、室町時代、明の時代になると最盛期を迎える。洪武帝の命令で、海上交易の技術をもつ中国人が琉球の久米村に移民してきた。そこから琉球は海洋交易の時代に入る。
 海人が活躍したのが糸満と久高だった。糸満は漁業の中心地だが、久髙の男たちは漁だけでなく、中国や東南アジアとの交易に関わった。ジャワやマラッカにも足跡を残している。
 モルジブからマラッカと、マラッカから琉球の距離はほぼ同じだ。モルジブは日常のカレーなどの食事にかならずカツオをつかうという土地柄だ。久髙の人たちは、マラッカでモルジブの人たちと接し、カツオに関する漁法や技術、主に燻製技術を獲得した。
 カツオは黒潮本流にのってくる。久高島近辺は黒潮からは離れているが、トカラ列島海域は黒潮のど真ん中だ。久髙の男たちはトカラ列島まで遠征してカツオをとり、モルジブ人から教わった燻製技術で鰹節を生産した。それを琉球王国を通して中国に献上した記録があるという。
 遠洋漁業や東南アジアとの交易を支えたのがイラブーだった。イラブーはなにも食べなくても1カ月以上生きる。イラブーの血を吸って肉を食えば壊血病を防ぐことができた。さらに、モルジブ人から学んだ燻製技術でイラブーの燻製をつくりはじめた。
 久高島は男はほとんど陸にいなかった。海に出たら2年、3年帰ってこない。中国への進貢船、薩摩への「飛船」「楷船」操舵は、久髙の連中が任されることが多かった。

 久高島の井泉は、昔は島の北部にあったが少しずつ南下する。集落も南端まで移動し、古い集落跡は聖地(御嶽)となった。島に人が暮らしはじめてからの歴史が土地に刻まれ、その故事来歴を語るのが祭りだった。
 これは大重監督を久高島に導いた比嘉康雄さんの「発見」という。
 琉球王府時代に制度化されたイザイホーは1978年を最後に消えた。だが「久髙オデッセイ」の撮影をはじめた2002年、大重監督は「太古から地下水脈のように島人の心の中に息づく、天、海、大地、生命を祈る心は健在だ。……12年後までには新たな祭りが再生する」と予感する。事実、2014年には、とんでもない霊威をもつ若い女性が現れた。本人は聴いたこともないイザイホーの「ティルル」という歌をトランス状態になって突然歌い出した。「地下水脈」が彼女の体を通してあふれだした。

 こうやって大重監督の文章をたどっていくと、とてつもなく感性が鋭くて、すべてを大らかに受け止めて、そこから本質を見だしていく力がなみはずれている……という人物像が浮かび上がってくる。
「撮りたいものを撮るのではなく、撮れたものを観てそこから構成・編集し映画を作りたい」という言葉は、表現を志した人は共感するだろう。でも「自分のストーリーありき」ではなく、素材がもつストーリーを発見し形を与えることは想像以上に難しい。大重監督は、その難しい作業を生涯つづけてきた。そしてその積み重ねは、死を前にして監督自身を救ったようだ。
 編者の高橋さんはこう記す。
「脳内出血を起こしてから激痛に悩まされ……久高島の子どもたちの元気な姿、とれたての魚、生き生きとした樹木、常にうつろう優しい雲、島をなでる風や光が、耐えがたい痛みへの特効薬だったようです。事務所に戻って撮影された映像をくり返し確認することも痛みを忘れさせる作用がありました」。阿部珠理さんは「病になり命を削って映画を作ったのではなく、久高島からいのちを吹き込まれて作品を創ったのだ」と解説したという。
「人間は辛さがあって当たり前なんだ。命はその中でなんとかやっている。人はお互いに支え合うんだよ。幸せであったりすると人は支え合わない。これは不思議なもんだ。お互いのために、相手に寂しい思いをさせないために頑張っていきましょう。友だち同士が、一番尊いものなんだ。人間は生きている間は希望よ」
 辛さは人と人を結びつける。死者と交流するから「悲しみ」を感じる。辛さや悲しみは生きぬくために不可欠なものなのだ。たぶん編者はそんな思いでこの本を編んだのだろう。

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□前書きは鎌田東二さん「いのちの汀」
▽7 「東京自由大学」 1999年、学長・理事長を横尾龍彦さん、副理事長を大重潤一郞さんとわたしがつとめる形で産声をあげた。
横尾学長の瞑想絵画は、自分(自我)が描くのではなく、非自我あるいは超自我ともいえる「風が描く」「水が描く」という絵画で、……わたしたちは「ゼロ」になる身心変容技法として横尾さん指導の禅瞑想を実習したのだった。大重さんの映画もまた、「風が描く」「水が描く」という非自我・超自我のゼロ芸映画だった。
(能登の本も、語らされている〓 出会うべきして出会っている)
▽8 「光りの島」 「光り」といえばポジだが、「光りの島は」は無人島で、その意味ではネガともいえる。……
  島は、「光り」に満ちあふれているが、人には満ちあふれていない。無人島のさびしい島。「いのちの根源」である「母の声」を反芻する。
▽12  7月15日、10月に久髙オデッセイ第3部の上映会とシンポジウムを開くことを伝えた。すると大重さんは「ありがとう。ありがとう。頼む。かまっさん。でも、もう限界。明日明後日か。ゆるして。ゆるして」と力ない声で言うのだった。思わず泣きそうになって、「ゆるすよゆるすよゆるすよ。あんしんして。もうずいぶんがんばったよ。大重さんのいいところは全部映画に込められているから、それをみんなに伝えていくよ」と叫んでいた。
▽18 「いのちの汀」には波が打ちよせる。ニライカナイから。その波を波として送り込み、動かしているのが「息吹」としての「風」である。「風の使徒」大重潤一郞はいつも澄明で大らかないのちの風を届けてくれた。

□シナリオ・シノプシス
▽18 ……母さんはな、最後は、もう骨と皮になって、手をにぎる力もなかった。……それでも、母さんが死んだら、いい母さんをもらえよって
俺たちのことばかり心配しとった。どんなに苦しかったかも知れんのに……母さんはな、体はああなっても気持ちは俺たちに、あふれつづけてとったぞ。最後まで、あふれにあふれて、あふれたおしてしまった。……母さんはすごい人や。人間ちゅうもんはあそこまで強くなれるもんじゃ……忘れるな、俺達も負けんように生きたおさにゃならんぞ。(〓チンのこと。気持ちはあふれつづけていた〓)
▽34 上地と下地 双子の新城島。下地は通称パナリ。周囲4.2キロ。世帯数ゼロ。ただし牧場に働きに来ている人たちが数名いる。
▽37 パナリ 石製のロクロが発見された。……くりぬいてつくった井戸跡。水脈は埋もれてしまった。……
43 農業用水をとったであろう井戸の跡。……
▽44 奇跡は生命を生むだけでなく、死をもひきとり、また再び蘇らせることまで含めて奇跡を行っているのだ。この永劫にくりかえすリズムこそが奇跡の正体だったのだ。

□東京フィッシャーマンより
 昭和41年、
□光りの島は(53歳)
▽53 生前母のふともらしたという言葉を追ってゆく旅。「人間死んだらなんにもならん。つまらんものね」。そう思ったまま母は死んだのか。
▽57 島は何も語らない。しかし、眼には見えないナニカが見えるか、耳には聞こえないナニカが聞こえるかと迫ってくるようだ。(〓過去にそこにいた人、祖霊、未来にここに住まう人)
▽58 この島の自然にはじまりと終わりはない。ずっと今が続いている。あるのは、くりかえしくりかえす循環だけだ。自然には始まりも終わりもない。くりかえしがあるだけじゃないのか。地球は生命のゆりかごであるという。しかしそれは生みだすだけではない。死をもひきとっている。そして眼には見えない、耳には聞こえないちがう次元へと導き、計り知れないいのちを生かしている。生も死も全てを包みこんでおおきなうねりをくりかえしている。
……ああ、すべてが生きている。先祖やさまざまな霊たちが石の像を借りて唄っている。
……この小さな無人島はすでにその姿を失っている。開発によって島の様子が一変し、原型をとどめるのは海岸線のみとなった。しかし……やがて何百年かあとには、島はもとの姿をとりもどすと確信する。

□久髙オデッセイ第3部 風章
▽63 地下水脈からにじみ出てくるような歌声であった。祭りは途絶えているが、祭りの命は息づいている。祭りは人間が生きている限り行われる。
生きていることの証しが祭りである。
▽81 黒神 大正の世の初頭と昭和時代終戦直後、黒神部落は数十メートルの高さでおしよせてくる溶岩の流れにのみこまれてしまった。沖合にあった小島までも
▽97ミクロネシアの不幸 ひとには武力によるもの。もう一つは西洋がもちこんだ病気、なかでも梅毒や天然痘。ハワイは1778年には約30万人のハワイアンがいたが、今から10年ほど前には7500人を数えるのみであったといわれる。……スペインが1519年にメキシコを征服するに際して天然痘におかされた1人の黒人を連れて行き、……あっという間に350万人の住民を死に追いやったこと、またアメリカ合衆国が天然痘の菌をつけた毛布をアメリカインディアンに贈り、その人口を激減させたのと同様である。
▽108 創る側のマインドと、観る側のマインドとの間に 強烈な共振作用を起こして結びつけるような 情念のこもった映像詩をうたいあげたいのだ。
▽113 国家形成の礎となった稲作を始めとする弥生文化も、黒潮が運んで来ました。呉越の戦いとと滅亡。それによって生じたボートピープルが舟山列島から九州西岸に流れ着き、技術を伝え、それが国家成立の下地となったのです。
▽114 坊津 日本のセンサーとして長く活躍してきた。……かつて坊津と肩を並べた交易港・堺が、東アジアの拠点として名乗りをあげ関西の要となり、博多が「アジア太平洋博」、長崎が「オランダ村」を成功させています。坊津は、それらの最前線で日本のセンサーを果たしてきた所ですから、規模は小さくても、その内容においては充実し、意義深いものでなくてはならないと考えます。
▽125 青森・深浦を舞台の「天の川」 人は、それぞれ、どん底に突き落とされながら、苦しく切ない暮らしを生きる。そんな時、気持の破綻をくい止め、つないでくれるのがこの土地の人々にとっては十一面観音なのである。「観音様が必ず見守って下さる」
▽134 阪神大震災後10日をすぎたころ、大阪の事務所へとどいた大量の魚や野菜を神戸に運び、炊き出しをはじめました。小さな避難所では11日目にはじめて菓子パン以外の温かい汁を食べ、20日すぎて生野菜を口にできるといった状態でした。
▽混乱の中で悪さをする人間もいましたがそれは微々たるものです。圧倒的に、ほとんどの人は生命感に満ちた姿を見せていました。有事に発揮される人間の悪意は百分の一にとどかないことを体験したことは幸せなことでした。
……街を歩く人の顔がとてもやさしく見えます。泣きはらしたあとの清々しさとでもいうのでしょうか。とりわけ女性の顔が美しいのです。
……選ばれたとき、選ばれた場で起こったのがこの震災であり、永い目で見ると、地球から、次の千年の未来の人々へ贈られた啓示であったのではないかと思えてならないのです。今、そう思うことで、ようやくこの現実に対峙しはじめています。
▽139 この地震は千年の啓示、地球からのメッセージと思えてならない。おおくの生命と生活が失われる一方で、得たこと、気づかされたことも多かったように思う。
「光りの島」 ご家族や友人を地震によって亡くされた方々、そして、仮設住宅におられる方々に、まず観て頂きたい……
▽142「オヤケアカハチ」  石垣島のフルスト原遺跡 オヤケアカハチの居城跡と伝えられている。……西暦1350年頃より沖縄にあったシャーマン制度が型を転じて残されたのが祝女やユタとのちに呼ばれ、沖縄とその周辺国を統治する力として濫用された。……フルスト原のように原始共同生活の集落は1350年ごろから各地に見られ、その共同体ごとに交易があった。
アカハチら8人の有志が琉球王府の地方統括の動きに反発……
▽151 座談会 アメリカの文化がどんどん浸透してきた中で「清浄野菜」というのがもてはやされた時期が有るんです。セロファンに包んだ野菜で、農薬で育てられた野菜だから身体に一番いいと教えられたんです。それまで日本は下肥で回虫の問題なんかがありましたからね。農薬と化学肥料が一番いいというので、わざわざセロファンに包んで八百屋の一番上段に飾ってあったんです。
▽153 共生という言葉、実はあれも驕りなんですね。……共生じゃなくて生かされているんですよ。
▽164 神馬亥佐雄(岩波映画での師匠)と対談
 「光りの島」描くべき事象がない。構造物も何もない.音を発するものも言葉を発する人間もいない。あるのは島に漂う気配だけです.
……実は昨年の3月に家内をガンで亡くしていて……非常に直感的にこの映画の光りが分かったんです。
▽169 いずれ監督になるため、テーマを用意せないかんと、鹿児島で新聞を見ていた。そこに黒神部落の連載があった。……行ったら、1本の植物も生えていない。溶岩流だらけでね。昭和21年の溶岩流だからものすごく新しい。月世界のようで、生命というのがまったくないですよ。怖くて怖くて。……川添さんという人。70近くの人だけど、悠然としてねぇ。山をちょっと見ながら、まあこの山もそのうち休火山になるでしょうっていうんですよ。都会にはいない人だなぁと思って、それから2年くらいすみついたんですね。1年に半年くらい開墾し、量を手伝ったわけです。
▽174 光りの島 海岸沿いの防風林を除いてすべて更地になっちゃった。滑走路のように真っ平らになった。……1771年の大津波で、それまで300人いたのが、半分が亡くなった。どんどん少なくなって戦後になると、わずかしか残っていなかったようです。牧場主に切り売りして最後は誰もいなくなった。
……完全に牧草地にしちゃった。
▽180 映画「縄文」を語る
 白神山地を山岳部のロケ地、沿岸部を屋久島に。
 縄文集落というのは、崖地とか山岳部の条件がすべて整ったところにあります。人が生きてゆきえる場所でした。食べていける……だけでなくて、精神的にも永遠の命、つまり循環する生命を感じさせるような環境であったと思います。
……三方町 「今、先生が話した縄文の暮らしというのは、この間まで我々が暮らしていた生活そのものだ」(梅原に対しての質疑?)
……1万2000,1万3000年つづいた縄文期に対して、2,300年の弥生期など対比すべくもない。弥生は稲作民による占領期、単に移行期にすぎません。奈良、平安、鎌倉と時代の変遷が語られてきましたが、これも都を中心とした考え方に過ぎません。日本の各地では、ずっと縄文が続いてきたのです。
▽187 山を歩きますと、何か見られているというか、精霊たちから見られているという感じがして……人間界という層の世界の上にもっと別の層があり、いろんな層が積み重なってあるんだなと思うわけです。(パラボラアンテナ〓)
▽190 縄文時代というのは多神教だった。世界中がそうだったわけですよ。環状列石の共通性とか、注連縄が蛇の交合を表現しているみたいなことが世界中で繋がっている。
▽193 強制移住されたアメリカインディアン 生きがいをなくして、アルコール漬けですよ。母なる大地を失っては、人間は生きてゆけないんですね。
▽195 久高島の井泉が古代から徐々に南下する。同時に集落も南下している。古代からの集落は聖地、御嶽となっている。その島に人が暮らしはじめてからの歴史が土地に刻まれている。そのストーリー、故事来歴を語るのが祭りだったわけです。
 比嘉さんは、島に人間の生活が始まってからの歴史的な流れを、土地に刻んである御嶽、井泉、祭祀というふうに、全体を体系的にご覧になった。現代において、その価値を見出した。〓
 ……「日本人の魂の原郷」ができあがり、書評を梅原先生にお願いして、それがとどいた翌日、他界された。もう自分は永遠に生きるということを思い、今生はこれでもう済んだというところで、逝ったわけですからね。
 62歳で亡くなったけれど、人間、生きているうちに輝ければいいじゃないですか。
▽199 ある宗教が力持っていたり、経済が力を持っていたりという時代はこの1000年、2000年間有りました。だけど、自然中心だった多神教の時代とか、人間の生き物としての生命観を大事にしていた時代とか、そこあたりの原点を振り返ることを、今ものすごく必要としている時代じゃなかろうか。原点なくして、アンカーなくしては、やばいんじゃなかろうかと。
▽206 縄文の遺跡などには圧倒される。見事に人が生きていけるところであり、暮らしばかりでなく、魂も育ててくれる場所である……自然との直接的な関わりのなかで生まれてきた祭祀、それは魂の永遠を表している。現代的な認識の行き詰まりのなかで、いのちと大地との一対一のやり取りに心をいたしたい。
▽208 シンポ「自然と祖霊」
「光りの島」 ただじーっと大気を凝視、空気を撮るようなものですから。すると光が液体のようにふわっとまくれたりですね、風が、何かポンとある衝撃を与えてくれたり、つまり光と風だけでかなりダイナミックな世界があることが、だんだん感じられてきたわけですね。……夕方、ある浜にいる石くれたちが歌を歌い出すんですね。何もないようでいて、霊たちがたくさんいらっしゃるんですよ。夕方いい気分のときは、皆さんお歌いになるわけですね。これは楽しい世界だなと思いまして。
……撮り始めて3,4年して島には入れない事情ができたものですから、ほったらかしておいたんですね。それで阪神大震災……
▽212 一番大事だなと思ったのは、木や葉っぱを見て、これは何か偉大な力によってつくられたのではないかと思う臨場感ですね。
▽214 震災……人と人の間のバリアが消え、みんなが生命のために一つになり「人間、捨てたもんじゃない」と感動した。その一方、あの非常時に制度を盾に実態に対応できない役所などがもたらす人災に怒った。臨機応変にフレキシブルな動きをみせたのが、ボランティアだった。
▽220 イザイホーの島
 琉球王朝が沖縄の全域を治めるようになったのは、1500年尚真王が八重山のオヤケアカハチを滅ぼしたときにはじまる。尚真王は祭政一致政策として、ノロ制度を施行した。ノロは神職であるが、同時に土地を掌握する官人でもあった。その頂点に、王の妹を聞得大君として君臨させた。
……2002年4月にフェリー就航。島始まって以来のタクシーが渡ってきた。
▽228 2003年の毎日新聞
 琉球王府時代に制度化されたイザイホーは消えるものの、太古から地下水脈のように島人の心の中に息づく天、海、大地、生命を祈る心は健在だ。……12年後までには新たな祭りが再生すると予感している。
▽237 久高島は、土地を神からの預かりものとし、現在まで私有地は一切存在しない。また1500年ごろ始まったと推定されるイザイホー以前の「、20を数える神事を今も継続している。日本列島の基層文化を維持してきたラストランナー。
……神人をはじめとする女たちが島を出て、外の女たちと交流し、自らを複眼で見る機会を得ている。……海人として生きてきた男たちは、魚が少なくなったために、海藻などの栽培漁業や自然を生かした生活を模索している。
▽240  谷川健一先生は、宮古島の狩俣集落に何度も行かれている。ここは、琉球王国の影響が全然ないのです。彼の研究に比嘉康雄は同行した。
▽242 宮古島にもウヤガン祭という一番重要な祭りがあったのですが、ほぼ消滅したようです。司祭するツカサになる女性もいなくなりつつあります。
▽243 久高島 太古から今まで、男はほとんど陸にいなかった。男が島にいるのはみっともなかったわけです。海に出たら2年、3年ほとんど帰ってこない。20、30年も帰ってこない場合もありました。……
現在は遠洋に出て航海する時代ではなくなっている。サバニのような小さいクリ舟でやる漁では、もう生活が成り立たない。それでウニや海ブドウなどの栽培漁業をはじめたけど、みんながうまくいくわけではありません。現代のなかで男たちは行き場を失っている。「久髙の男たちは初めて魂で悩んでいる」という言葉が出てくる。
……海人たちは太陰暦で生活している。太陽暦に従順なのは学校の先生たちだけです。
▽247宋の海上交易の刺激をうけて、日本は海洋国家になりますが、交易が一番活発化したのは明の時代です。室町時代に入って洪武帝の英断で、中国人が琉球の久米村に移住してきた。国際通りの近くに、中国人の村をつくった。小さい小島のような地区でした。「久米三十六姓」 海上交易の役割をもった人たちが、皇帝の命令によって移民してきた。そこから琉球は、大規模な海洋交易の時代に入ります。それらの人々は1392年に初めて、琉球王府から交易船の建造許可や通商の許可などを全部与えられています。
……このころ、久髙以外に海人が盛んに活動していたのが糸満です.漁業の中心地として機能し……
 久髙の連中は、卓越した航海と漁のワザだけでなく、中国の琉球王府の交易に関わったり、東南アジア一帯との交易に関わったりしています。ジャワには1430から42年にかけて数回行っている。マラッカには1463から1511年にかけて行ったという記録があります。マラッカやモルジブは海の交易の心臓部であり、中継点でもあった。
 モルジブからマラッカと、マラッカから琉球の距離はほぼ同じ。
▽248 世界一カツオが有名なのはモルジブです。カレーはカツオがベースになっている。久髙の人たちは、マラッカでモルジブの人たちと接点を持っています。彼らと、カツオに関する漁法や技術の交流をしたであろうと言われています。
 主に燻製技術です。この技術が一番難しい。(その技術を学んだ)
……カツオは黒潮本流に載ってきます。トカラ列島海域に黒潮の本流がずばりきている。久髙の連中はトカラ列島にたびたび行っていた。
 トカラにはイラブーという産物も。イラブーはなにも食べなくても1カ月以上も生きる。イラブーをもっていけば、長い航海でも大丈夫なのです。その血を吸って肉を食えば高い栄養がとれる。琉球王国では、イラブーは最高のもてなしの品とされ、中国の国賓を迎えるとき出しました。
 久髙の連中は、東南アジアを航海するときに重宝したと言われています。モルジブの人々とマラッカで出会い、カツオの燻製技術を聞いて、イラブーの燻製をやってみようと思ったわけですね。
……久髙近海ではカツオはとれないが、遠洋漁業でカツオをどんどんとってきました。モルジブ人から教わった燻製の技術を持ち帰り、トカラ列島で鰹節を作り出している。彼らがつくった鰹節を琉球王国にもってきて中国に献上したという歴史があります。
▽252 中国への進貢船、さつまへは「飛船」「楷船」。それらの船の操舵は、久髙の連中が任されることが多かった。
……海で生きる連中が、生きたイラブーをかじり、その血をすすりながら生活してきたのです。
▽253 オバアたちが亡くなり、祭りも途絶えつつあります。しかし、若い女性でとんでもない「セジ」(霊威)をもった人が出てきました。イザイホーで唄われる「ティルル」を突然歌い出すのです。彼女はティルルなどまったく知らないのに。23,4歳の子がトランス状態になって。
▽258 久髙の女たちが、トランス状態になりつつ、男たちを守っているという関係性。神に仕える女性が、本当に何も知らないことを突然語り出すのです。海に出ている海人たちを守ることを「ヲナリ信仰」と言いますが、女たちは祈りをもって男たちを守護しているのです。
▽263 京都 お地蔵さんが各地にある街の姿は、ほかにない類いまれなところだと思います。
▽265 沖縄には「殺す」という言葉が明治時代までなかった。「殺す」という言葉は日本から輸入されました。それが「タックルセ−」
▽267 比嘉康雄さん「島々につながる神は全部同じ。母が神になる。姉妹が神になる」。これが人類の神の祖型だろう、それを彼は発見した。
 ……御嶽信仰 何もない空間。何もないということは、こちらの内側がすっと入っていく、むしろ豊かなのです。
▽271 久高島のワザとこころ
 15,6世紀は日本を含めて東アジア、東南アジアの海の交流がいちばん栄えたときです。
 ……明になって海の交流が盛んになり、そのころ琉球王国も始まりました。そのころ明は、琉球王国に、33隻の船と航海士をプレゼントした。「久米三十六姓」36人の海に関するプロたち。糸満は漁民として重要だったが、久髙人は漁民ではなく、航海士として有名だったのです〓〓。
 今でも、日本や台湾で大きな客船などの航海士をやったり、アラブの方でサルベージ船の操船などをしています
 ……イラブーと鰹節は燻製技術が似通っている。「バイカンヤー」という小屋。外部の人間を入れない。
▽276 鰹節は熊野から始まったのです。熊野灘の漁民が燻製法を編み出した。彼らは七島村、南西諸島まで出向き、カツオを獲ったと言います。
▽278 久髙の海人は、北は熊野までつながり、南はマラッカまでつながった。古くから舟を派遣していて、そのなかで「水手」は久髙人が多かった。非常に航海にたけていた。
……鰹節の燻製が伝わったルートは、カツオが世界でいちばん捕れるモルジブからなんです。
▽292久髙オデッセイ第3部 制作ノート
 65歳の海人が今、青春真っ盛り。太陽光を生かした仕組みで海の加工物(塩)を作り始めた。そして刀自(妻)との間に赤子を授かった。〓
▽297 1972年「能勢」をつくったが一般公開されなかった。2013年、スタッフの一人が使われていないパソコンから「能勢」をはじめいくつかの映像を発掘してくれた。能勢の翌年に撮影した「かたつむりはどこへ行った」も確認された。伊丹市からの依頼で公害を追ったものだったが、完成と同時に他の行政からの反対の声によってお蔵入りしていた。
▽303 阿嘉島と慶留間島は、ダイビングの観光事業で半分は島の外から来た人たちとなっていた。慶留間島には農業はまったくなく、団地が立ち、ほとんどの人は教師や公務員の仕事に携わっている。よって島には生活臭がないのだ。沖縄戦の痕跡も全て消され、島で語られることもないといった雰囲気を感じた。
▽306 縄文時代から人が暮らしていた土地は、津波の被害は小さかった。
……大嶺實清さんの窯元は、やちむんの里にある。
……野津唯市さん 沖縄のふるさとの原風景を描く。風土を描く。

□編者あとがき「悲しみの経験」が生んだ大重映画のやさしさ
▽373 大重監督と出逢いなおした
▽374 阪神大震災をきっかけに「光りの島」「風の島」をしあげ、その映画を見た鎌田東二先生から声をかけられたことをきっかけに、「神戸からの祈り」や「NPO法人東京自由大学」の立ちあげに携わった。
▽378 監督の映画は、観て考える映画ではなく、身体が反応する映画でした。「監督の映画を鑑賞すると気持ちよく眠ってしまうのです」と語る大学生に監督は「自分の映画は自然のリズムを刻んでいる。人間にとって心地よいリズムなんだ。眠くなるというのは最高の褒め言葉だ」
……親友が突然死んだとき、呆然と立ち尽くす私に、監督は一言……「彼女も辛かっただろうけど、残された方も辛いなぁ」と。そのたった一言に救われ、「あぁ、私は今辛いのだ」と辛い自分を肯定しながら、そこから歩みを進めていくことができたのです。
▽379 監督の映画は、生母への「喪の作業」や震災への「鎮魂の祈り」だったのだとも感じました。深い悲しみを経験したからこそ「命ある限り本物の命を生きたい」と強く語り……
▽381 脳内出血を起こしてから激痛に悩まされ……久高島の子どもたちの元気な姿、とれたての魚、生き生きとした樹木、常にうつろう優しい雲、島をなでる風や光が、耐えがたい痛みへの特効薬だったようです。事務所に戻って撮影された映像をくり返し確認することも痛みを忘れさせる作用がありました。阿部珠理先生は「病になり命を削って映画を作ったのではなく、久高島からいのちを吹き込まれて作品を創ったのだ」と解説。
監督ご自身は、「撮りたいものを撮るのではなく、撮れたものを観てそこから構成・編集し映画を作りたい」
(能登のこと)
 ……痛みを耐えながら積極的に生命の輝きに触れ自身を鼓舞するお姿に、心がどこか病んでいた私は励まされていました。
「人間は辛さがあって当たり前なんだ。命はその中でなんとかやっている。人はお互いに支え合うんだよ。幸せであったりすると人は支え合わない。これは不思議なもんだ。お互いのために、相手に寂しい思いをさせないために頑張っていきましょう。友だち同士が、一番尊いものなんだ。人間は生きている間は希望よ」
▽384 膨大な量の読書の痕跡。
▽386 死者との交流を持てば、悲しみはあっても、強く生きることができる」鎌田先生からお聞きしたこの言葉が、これからの私の支えになりつつあります。

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