■文春新書250909
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし」につづく一節は「世の中にある、人と栖と、またかくのごとし」だ。鴨長明は人生とともに「すみか」にも無常を見だしていた。筆者は「方丈記」を建築の書として読み解いていく。
長明は1153ごろに生まれる。3年後には保元の乱、さらに3年後に平治の乱が起き、30代はじめの1185年に平家は滅亡する。激動の時代のまっただなかを生きた。
長明の父・長継は賀茂御祖神社(下鴨神社)の正禰冝惣官だったが、長明はなぜか生家ではなく、父方の祖母の家に暮らす。だが30代になって祖母の家にもいられなくなる。「祖母の家との縁も切れてしまい、おちぶれてしまった。……立ち退かざるを得なくなって、30歳あまりで自ら庵を結んだ」と記す。家の大きさは10分の1になった。
和歌・管弦の才能を磨いた長明は、和歌が勅撰集の千載和歌集に選ばれ、四十代後半になると、後鳥羽院に抜擢され、勅撰和歌集(新古今)の編纂にもたずさわる。
だが50歳前後だった1203年春、いきなり出家してしまう。
後鳥羽院は長明を河合神社(下鴨神社の摂社)の禰冝にしようと考えた。長明の父・長継は、河合神社の禰冝を経て下鴨社の禰冝となっていたから、長明は涙を流して喜んだ。だがこの人事は、自分の長男を河合神社の禰冝にするつもりだった鴨祐兼に阻まれた。下鴨神社へもどる可能性が断たれ、長明は絶望した。
「すべて、あられぬ世を念じ過しつつ、心を悩ませる事、三十余年なり。その間、をりをりのたがひめに、おのづから、短き運をさとりぬ……」(不都合なことだらけの世を耐え忍びつつ、30余年も心を悩ませてきたが、折につけ、自分に運がないことを悟った……)
長明が最初に隠棲先とした大原は当時、隠れすむ僧侶、修行者たちのたまり場だった。長明はそうした仏教者ネットワークのなかで暮らし、「最期を迎える家」である「方丈庵」をつくりあげた。大原に5年間すんだあと、伏見の日野の山中にこの庵を移築した。
方丈庵はその場所がいやになったらすぐに移れるよう、簡単に解体して車2台で運搬できるモバイルハウスだった。
一丈(3メートル)四方、高さ7尺(2メートル)弱で、東に3尺余の庇を出して、火をたけるようにした。南面は竹のスノコをしいた。
5畳ほどしかない屋内の北西(奥)に阿弥陀如来や普賢菩薩の絵をかけた。南西(手前)には竹の吊棚を設けて、和歌・管弦・往生要集などの抜き書きを入れた。かたわらに、組み立て式の琴と琵琶を立てた。東側半分には蕨を敷いて夜の床とした。つまり、東側は生活の場で、西側は仏間と文化空間だった。
庵の外の南には山から水をひく懸樋(樋)をつくり、小さな池をつくった。西は広々と開けていた。そんな土地を選んだのは西方浄土への想いがあったからだと筆者は推測する。
浄土信仰のバイブルのような存在である「往生要集」は比叡山の源信が記した。地獄とこの世の凄惨さと、極楽の甘美な様相を対比して描き、どうすれば極楽往生を遂げられるか論じた。往生要集は、死ぬときは執着から解放されるため簡素な草庵がよいとする。往生要集が理想とする「無常院」はまさに方丈庵だった。
方丈記は前半、25歳から33歳にかけて体験した五大災厄をとりあげ、都の堂宇や屋敷が焼き尽くされる様子を記す。2年にわたる日照りや洪水による飢饉では、地方からの食料供給がとだえ、疫病が重なって多数の死者が出た。長明はこれらは都市災害であると考えた。後半は一転、日野山の「極楽」のような暮らしをつづる。地獄と極楽を対比する構成は「往生要集」と一致している。
ただ「方丈記」の最後では、庵での生活を楽しむことも仏の教えに反すると言う。仏は、なにがあっても執心をなくせと教えるのだから、草庵を愛し、閑寂に執着するのも罪である、と。世を逃れて山林に交わる姿は聖に似ているが、心は濁りに染まっている……と自省する。そのへんが長明という人のおもしろさだ。
地位も名誉も失い、山に隠棲した長明は幸せだったのか
日野に隠棲後、歌論書の「無名抄」、仏教説話集「発心集」、自伝的な「方丈記」をたてつづけに執筆した。また庵に閉じこもっていたわけではなく、石山寺や琵琶湖方面まで散策し、時には鎌倉まで赴き将軍実朝に面会するなど、詩歌、音楽、仏教を軸に幅広い交流の輪をもっていた。
長明は、山中の方丈庵で自分の「死ぬ形」を具体化した。自らの死のイメージを具体化し、人生にとってこれだけは手放せないというものだけを手元に置いた。それによって、憑きものがとれたように生き生きとした日々を送るようになった。
方丈庵は、「再生の家」でもあった、と筆者は位置づける。
「家を建てると、……家のトポスに縛られてしまいます。仕事から解放された人でさえ、案外、その延長線上に暮らしていることが多いようです」という指摘は重い。不動産などをもってしまうと、生き方がそれにしばられてしまう。もっと自由にならなくては……と思わせられた。
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▽14 「方丈」のルーツは、釈迦の在家の弟子である維摩居士の一丈四方の居室だとされていますが……
▽15 長明は方丈庵を「最期を迎える家」としてつくりました。仏教者としての世界観が込められているのと同時に、波乱に富んだ彼の人生を総括するような家になっているのです。
……長明は大原山で方丈庵を構想し、製作しましたが、それを南南東の日野山に移設しています。モバイルハウスなのです。
▽18 「人と栖の無常」がエッセイの主題
▽ 方丈記の五大災厄は、25歳から33歳にかけて体験した自然災害(と福原遷都)
……災害文学としての「方丈記」に注目したのは文学者の堀田善衛でした。戦争中に方丈記をくりかえし読み、「方丈記」の本質は、後半の「方丈庵」とそこを中心とした生活や想いではなく、前半の五大災厄の記述にこそあるという観点で「方丈記私記」(1971)を発表しています。
▽19 災害描写 すべてが焼けていくところを描写し、
(人の営みはみな愚かなものであるが、これほど危険な都の中に家を作ろうと、金を費やし心を悩ませるのはとても空しいことだ)
大火災が「人と栖の無常」を浮きあがらせています。
▽23 養和(1181-82)のころ、2年にわたり、春・夏にひでり、秋・冬には大風や洪水などで、五穀がことごとく実らなかった……
この飢饉について、長明が指摘するのは都市の生活の脆弱さでした。地方の食料生産地から物資が届いてはじめて京都の暮らしは成り立っている。それが途絶えた上、疫病の流行が重なって死人が夥しく出たのは、明らかに都市災害であると言うのです。都で亡くなった人の数を区域ごとに数え、全国で考えたらどれくらいになるか、と思いをめぐらせ、地方の疲弊も強く意識しています。
……元曆の大地震(1185) 山が崩れて川を埋めてしまい、津波が押し寄せた。大地には亀裂が走り、地下水が噴出して、岩石が割れて谷に転がり混んだ。……都の近郊では、あちらこちらで寺社が壊れ、一つとして無事なものはない……
▽27 長明は賀茂御祖神社(下鴨神社)の正禰冝惣官である鴨長継の次男として生まれた。父は神社のトップをつとめていた。
……長明はなぜか、生家ではなく、父方の祖母の家に住まうようになる。
……その後、祖母の家も出るようになる。
「その後、縁かけて、身衰え、しのぶかたがたしげかりしかど、つひに、あととむる事を得ず。三十余にして、さらに、わが心と、一つの庵を結ぶ」(祖母の家との縁も切れてしまい、おちぶれてしまった。……立ち退かざるを得なくなって、30あまりで自ら庵を結んだ」
……以前の家に比べれば10分の1の大きさ。
……寝起きする場所だけを建てて、付属の建物まではできなかった。築地塀を築いたが、門を建てる資力はなかった。竹を柱として、車宿りを造った。雪が降り、風邪が吹くごとに、心配がないでもない。場所が河原に近いので水難の恐れがあり、盗賊に襲われる心配もしきりであった。
▽29 50歳ごろの春。「すべて、あられぬ世を念じ過しつつ、心を悩ませる事、三十余年なり。その間、をりをりのたがひめに、おのづから、短き運をさとりぬ……」
不都合なことだらけの世を耐え忍びつつ、30余年も心を悩ませてきたが、折につけ、自分に運がないことを悟った。そこで50の春を迎えて、出家した。もとより妻子も亡ければ、捨てがたい関係もない。何の官職もなく、執着はない。大原山の雲に臥して、5年の月日を過ごしてしまった……
▽31 広さは一丈四方、高さが7尺のうち(2メートル以下)であり、世間一般のものとはかなりちがう。家を建てるため土地を所有したりせず、心にかなわないことがあったら、いつでもよそに移れるようにした、というのです。
材料は車に積めばわずか2台で、運搬にかかる費用のほかはなにもいらない。
……はじめから移築が容易なモバイルハウスとして構想されていた。
土台を組み、簡易な屋根を葺き、継ぎ目ごとに掛け金を掛けて、解体してどおに移設しても容易に組み立て可能な家として設計されたのです。
▽33 東に3尺余りの庇を出して、柴や小枝を火にくべる所とした。南に竹の簀子をしき、その西に閼伽棚をつくり、北に寄せて衝立をへだてて、阿弥陀如来の絵像を安置し、そばに普賢菩薩をかけ、前に「法華経」を置いた。東の端には蕨ののびたものを敷いて、夜の床とした。西南に竹の吊棚をかまえて、3つの黒い皮籠をおいた 。そのなかに和歌・管弦・往生要集などの抜き書きを入れた。かたわらに、琴・琵琶をそれぞれ一つずつ建てている。いわゆる折琴・継琵琶(組み立て式の楽器)である……
▽35 庵の周りは 南に懸樋(山から水をひく樋)をつくり、岩を立てて、水を溜めるところにしています。……西の方は視界が開けている。西方浄土への強い思いがあったと考えられます。
▽37 〓「方丈記」の最後に至って、長明は庵への愛着、閑寂を楽しむことも仏の教えに反している、と言い出します。
仏の教えは、事に触れて執心をなくせという。今、草庵を愛することも罪科である。閑寂に執着するのも罪障である。
……世をのがれて山林に交わるのは心を修めて道を行うためなのに、姿は聖に似ているが、心は濁りに染まっている。浄名居士(維摩)の真似をして方丈の庵に住んだが、……の行いにさえ及ばない、と自省するのです。
▽39 1153ごろに生まれる。3年後には保元の乱、さらに3年後に平治の乱。古代的な秩序が崩壊しはじめ、武家の支配する時代へと転換していくことになります。
1185年、平家は滅亡。このとき長明は30代のはじめでした
長明が没したのは1216年、その3年後に源実朝が暗殺されます。
長明は激動の時代のまっただなかを生きた人物だったのです。
▽41 父・長継は若くして正禰冝惣官につきますが、体調は思わしくなく、31歳で引退を余儀なくされ、1172年、長明が20歳のころに他界してしまいます。父の死から長明の苦難ははじまる……長継の死後は本家筋の鴨祐季が正禰冝を継ぐことに。祐季は1175年に延暦寺との土地争いに敗北して失脚する。祐季の子である祐兼との後任争いに長明は敗北してしまいます。
▽42 30歳すぎたころには……「その家との関係が悪くなり、落ち目になって……ついにそこに留まることができなかった」とあるように、祖母の家からも離れることになります。
五大災厄は長明が25歳から33歳にかけて体験したもの。
……世の中の悲惨を受け止めるうちに、犠牲者に寄り添い、自らの再生を経験していく契機になったと考えられます。長明は20代から30代にかけて、和歌・管弦に精進します。その道でそれなりの立場を確立していくことになりました。
▽47 和歌によって、一級の知識人や有力者の知遇を得ていく……「千載和歌集」勅撰歌人の仲間入り。「無名抄」のなかで長明は、家柄、実力、評判いずれもはかばかしくないのにん、一首でも勅撰集に入るのは大変名誉なことだ、と記し、喜んでいます。
▽52 四十代後半になって、長明は歌人として脚光を浴びる。後鳥羽院が院政をはじめた時期と重なります。
後鳥羽院は19歳で譲位して上皇になると、その才能が一挙に開花します。わけても和歌にかける情熱はすさまじいものがありました。新古今の時代が到来。
▽54 定家の記録
後鳥羽院に招かれたそうそうたるメンバーの中ではひとりだけ位が低く、みぎりの下、すなわち階下の敷石に長明が座していた、という記述。
▽60 後鳥羽院に抜擢されるて、和歌所に招かれて勅撰和歌集の編纂にもたずさわり、一流の歌人、文人、知識人と交わっていたが、1203年の春、いきなり仏門に入り、出家。
「源家長日記」によると、後鳥羽院は長明を河合神社(下鴨神社の摂社)の禰冝職にしようと考えました。長明の父・長継は、河合神社の禰冝を経て下鴨社の禰冝となっていた。後鳥羽院の内意を漏れ聞いて、長明は喜びの涙を止めることができなかった。
ところが、この人事に鴨祐兼が反対し、自分の腸名の祐頼を河合神社の禰冝にするつもりでした。……長明の禰冝就任を阻止したのです。
下鴨神社へ戻れる可能性が最終的に断たれ、宮中から姿を消してしまうのです。
▽65 長明が失踪したころ、勅撰和歌集の編纂は最終段階を迎えていました。……家長は大原で長明に再会します。「それかとも見えぬほどにやせをとろへて」いました。
▽67 5回の春秋を大原山で過ごし、56歳の時に日野山に移り、方丈庵を結びます。
▽69 まず歌論書の「無名抄」、仏教説話集「発心集」、そして自伝的な「方丈記」を執筆します。建築と執筆の二本立てが、長明の生き方の軸になったのです。
……日野にずっと籠もっていたわけではなく、1211年の秋から冬にかけて鎌倉に赴き将軍実朝に対面した。59歳でした。
▽72 長明の死後、1219年に実朝は殺され、1221年には承久の乱が起こり、後鳥羽上皇は隠岐に流されます。
▽73 方丈庵を東西に分割するなら、東側は庇を含めて通常の生活の場。西側は奥(北側)に出家の身にふさわしく仏間的な部分が置かれ、手前(南側)には和歌、管弦といった文化的な部分(音楽と文学の空間)が配置。
西が開けた土地にたてたのは、西方浄土への強い想いがあったと考えられます。
▽78 松風の音や水の音に合わせて、ひとり楽を奏でて楽しんでいる……方丈庵の暮らしの中でも、音楽は不可欠の要素でした。
▽79 奈良時代前期には弥勒浄土信仰が栄えます。そして奈良時代後期には、遅れて伝来した阿弥陀信仰が優勢になり、平安時代初期に創始された天台宗のなかから、阿弥陀信仰の浄土教がおこります。
▽「往生要集」とは比叡山の源信の著作。浄土信仰に決定的な役割を果たしました。源信は、貴族的な仏教に批判的。
地獄とこの世の凄惨さを描き、極楽の甘美な様相を描く。いかにすれば阿弥陀如来に帰依して極楽往生を遂げられるかを論じた。
▽87 「方丈記」は前半で五大災厄というこの世の地獄を描写します。後半では、日野山で浄土を目指す生活を描きます。この対比は「往生要集」そのものです。
▽89 往生要集の「臨終の行儀」 執着から解放されるために、簡素な草庵がよい、とする。死者の「北枕」の起源も、「臨終の行儀」に示されています。
往生要集のいう「無常院」はまさに方丈庵。長明が臨終の床についたとき、目にすることができるのは、西壁にかけられた阿弥陀像、普賢菩薩像などでした。臨終のための場所だったのです。「死を迎えるための場所」
▽96 大原で5年の月日を過ごします。隠棲した貴人や文人たちの集まる場所に
。別所と呼ばれた僧たちの住まう草庵が最盛期には50ほどもあったといわれます。そうした寺社に束縛されない僧たちは「聖」と呼ばれていました。
……長明の「発心集」のなかには「貧男、差図を好む事」という貧しい男の話があります。差図とは設計図のことです。
▽101 方丈記には略本と広本があって……略本は「方丈記」の草稿だったのでは……という説。略本に描かれた方丈庵は方丈庵のプロトタイプ、試作的な設計図である可能性があります。
▽104 略本版の庵を実現するプロセスでさまざまな変更がなされています。構造も竹造から木造に変わりました。工法も、現場で一から施工するのではなく、前もってパーツを作っておいて、それらを「掛け金」で留めて組み立てる方式に変更します。
▽105 「地を占めて、造らず」すなわち基礎を作っていないと、記している。「土居を組み」は土台を組んだこと。
▽109 南側には竹のスノコ縁があるので、広い開口部がありそうです。北側と東西の一部が壁でしょう。西側の一部は突き出し窓でしょうか。東側は庇の下への出入り口があってもいいように想います。
▽111 〓日野山の方丈案の模型 完成形の図面〓〓 引き戸(遣り戸)は、「宇津保物語」(10世紀後半頃成立)から「落窪物語」(十世紀末成立)の間の一時期に登場して普及したと考えられているようです。
▽111 方丈庵は、建築家長明の生涯をかけた作品だといえるでしょう。
▽112 モバイルハウス、ユニットハウスの元祖。日野山に移して、東に庇を延ばし、南に竹のスノコ縁、その西に閼伽棚を設けて「方丈庵」は完成しました。
▽113 庵の周囲の様子 南に設置された懸樋(竹の筒で水を引いたもの)で引かれた水を溜める場所。そこに小さな池をこしらえたと読めます。庇の下には竈らしきもの。
▽119 谷のほとり、静かな林の間であることを理想としていました。
▽121 小童との交流。10歳の子。 食用にできる茅花、岩梨、零余子、芹をとり、落穂の穂組を作る。子どもから教えてもらったのではないか。 小童とともに、岩間、石山寺にでかける。
……小童が頻繁に長明のもとを訪ねていたのは、ターミナルケア的な役割もあったのではないか。
▽125 方丈記は「死ぬ形」を、自らの小さな家で構想しえた文人の、生の最終章のあり方を力強く述べた作品だといえます。……長明にとって「死の形」の確認は「生の原点回帰」を促したように想えます。方丈庵を建て、自らの死のイメージを具体化したことによって、かえって充実した生を送ることができたのです。
方丈庵は、自分の人生にとってこれだけは手放せないというものだけを集めた「再生の家」でもあったのです。
▽128 方丈庵は、浄土教の教えをベースに、死と再生をテーマにした建築でした。
▽132 10世紀後半の歌僧・増基法師「いほぬし」という熊野詣の紀行文 熊野本宮に至ったとき、「庵室が2,300」ほどあり、それぞれが思いおもいにしている様子が大変趣き深いと述べています。庵室は炉のあるⅠ室空間。
▽134 「方丈記」の特徴は、建物を通して生き方を述べていること、つまり建築と文学の両方を作品として生みだしていること。
……「方丈記」が「池亭記」に由来することを明示したのは、「日本文学史序説」の加藤周一氏でした。
▽165 茶室が形成されていく過程で、四畳半が重視されてきた……5つの畳からなります。茶室の機能と空間が一対一に対応している。……方丈庵は京間でおよそ四畳半の広さ。四畳半の茶室の起源は方丈庵にある、といいたちころですが……
▽173 芭蕉の庵 「奥の細道」の足袋を終えた翌年の1690年3月ごろから、近江・膳所の義仲寺の無名庵に滞在した後に、4月から4カ月間「幻住庵」に隠棲した。庵は近津尾神社に今も立っています。1991年に没後300年記念事業として復元したものです。
「幻住庵記」は芭蕉俳文の最高傑作という評価も。
いかに最低限のものだけを身近に生活していたか。明日にも旅立つ人の部屋のようです。現代のミニマリスト。
▽182 良寛の五合庵 出雲崎の橘屋山本家の長男として生まれる。廻船業者で、石井神社の神職も兼ねる名門だった。
34歳で諸国を巡る。父は投身自殺。訃報を受けても足袋をつづける。故郷にもどったのは39歳のとき。
▽187 五合庵は1906年の大雪で倒壊するが、1914年に再建。
▽190 出家して修行を続け、継ぐべき生家は没落し、両親を早くに亡くしたが、地域の人びとに愛されて生涯を終えました。
最期を看取った弟子の貞心尼。良寛より40歳ほども若い。最後の4年間、世話をした。
▽190 葛飾北斎 生涯に93回も転居。……衣食住すべてに無頓着で、食器や調理器具などほとんどなかった。食事は近所から出前を取り、画室が散らかり汚れてきたら引越をした、といわれています。
▽194 ソローの森の家 1845年から2年間、ウォールデン湖畔の土地を借りて、自分で家を建てて自給自足の暮らしをした。
▽209 自ら家を建てることで、ソローも長明も、自分に必要な住みかとは何か、を具体的に再考したのです。
▽212 ソローは「市民としての抵抗」の提唱者としても知られています。1846年、アメリカ・メキシコ戦争が始まりました。この戦争と奴隷制度に反対して人頭税を支払わないという抵抗を行います。そのために逮捕され……。この事件は「森の家」で暮らしている時に起こりました。ソローの(良心的不服従の理念)は、のちにトルストイやガンジー、キング牧師……などに影響を与えます。
▽215 地震で家を建て、自然とふれ合い……自分の将来を切り拓き、再生させたと言っていいでしょう。それこそ「森の家」と方丈庵の共通するところだと思います。長明は、決して庵に閉じこもっていません。周辺を散策し、小童などと遊んだり、時には鎌倉まで赴くなど、詩歌、音楽、仏教を軸とした広い交流の輪を持っていたのです。
▽219 浦和市・別所沼のヒアシンスハウス 詩人・建築家の立原道造が週末住宅として計画した。実現する前に立原は他界したが、2004年11月、別所沼畔に建設されました。立原道造などに関する展示やイベントが行われています。
▽234 家を建てると、……家のトポスに縛られてしまいます。仕事から解放された人でさえ、案外、その延長線上に暮らしていることが多いようです【まさにその通り。自由にならなくては】
▽236 中村好文の提案する小さな家、4×3メートルの小屋を、電気、水道、下水など、線や管につなげることなく、自立したものとして提案。太陽光パネルの発電、屋根上の給水タンク、台所は七輪のコンロ。
▽245 長明は自らの終の棲家として、方丈庵を構想し、そこでの暮らしに安寧を乱しました。自分の死の形をそこに取り込み、そうすることによって生を輝かせることができた。そこに現代のわれわれが学べることは少なくないと思います。
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