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震災後の地域文化と被災者の民俗誌<高倉浩樹・山口睦編>

■新泉社

 災害現場で民俗学や人類学を具体的にどう生かせるのか。東北の被災地における「フィールド災害人文学」のとりくみを紹介している。
 地震からの復興における、祭礼や民俗芸能などの役割が注目されるようになったのは、東日本大震災の特徴だった。百か日法要にあたる2011年6月からお盆にかけて、民俗芸能や祭りが次々に再開した。芸能や祭りは、日常を取りもどすための縁(よすが)になった。伝統文化や地域文化の専門家が復興に貢献してほしいという行政からの要請も増えた。
 従来、建築や防災などと異なり、人文学が災害に役立つとは思われていなかった。前例のない非常事態において、これまでの調査研究の経験や知識が役立つわけがない。手探りで進むしかなかった。
 試行錯誤のなかで、聞き書きという手法が、被災者支援に役割を果たすことがわかってきた。フィールドワークによって、社会的価値の学術的探究をしながら災害復興に関わる実践的学問として 「フィールド災害人文学」が立ちあがってきた。
 その中心的課題は、①コミュニティのレジリエンスにおける無形民俗文化財の位置づけ、②個人や地域社会がどのように日常性を回復していくのかについて民族誌(民俗誌)的な解明、③研究の知見を社会実装化するための方法論の開発、の3つだという。

□小谷竜介
 有形・無形文化財の救出は以前にもあったが、東日本大震災では、未指定文化財も救援対象になった。文化財保護行政の世界では画期的だった。
 被害を受けた無形民俗文化財(民俗芸能)をリストアップし、失われた用具をそろえる手伝いや、公開の機会をつくることが災害対応のかたちになっていった。地域の獅子舞など、文化財として意識されてこなかったものも、支援対象となった。それによって「地域として守るべきもの」と意識されるようになった。
 民俗芸能は、形だけ保持すればよいわけではない。たとえば獅子舞は、舞手だけでなく、それを見る地域住民、舞手を生みだす社会システム、獅子舞の縁起への信仰なども調査・研究しなければならない。
 民俗文化財調査は、その民俗文化の背後の地域文化や生業も視野に入れて結びつけることで、震災前の社会とつながった復興後の地域社会を構想することができる。

 能登のキリコ祭りも、ただ助っ人を呼んでかつぐだけではなく、祭りの背景にどんな生業や縁起・伝説があるのか。時代とともにどう変化してきたのか知る必要がある。
 たとえば宝立七夕キリコは「祭り」ではなくお寺の行事で、観光ブーム以前は小さな小さなキリコだけだったのが、観光ブームとともに大型化した。その歴史を知れば、原点回帰で小さなキリコから歴史を歩み直すという復興の選択肢もでてくるのではないか

□今石みぎわ
 無形文化遺産については、有事の際の保護や復興のために機能する活動体は存在しなかった。今後は、平時には文化財マップ、災害時には被災・復興状況を加筆した災害マップとして活用できるシステムを、全国規模で整備したい。
 東北の太平洋岸地域は内陸部に比べて指定の無形民俗文化財が少なく、民俗芸能の研究も低調だった。沿岸部の芸能には比較的新しいものが多く、エンターテインメントとして常に変化をつづけてきたからだ。
 無形民俗文化財のカテゴリーである民俗技術や風俗慣習は保護がさらに難しい。民俗技術は2005年の文化財保護法改正で追加されたが、情報収集や支援はほとんどない。生業とかかわるから無償の支援がしにくい。風俗慣習はさらに気づきにくい。それらの復興には、平時の調査研究の蓄積が欠かせない。
 民俗芸能や祭りといった華やかな側面だけでなく、生業、住まい方、土地の利用方法など.日常の暮らしの断片をとらえる必要がある。
 碁石半島での調査は3カ月に1度、2−4日のペースで通った。聞き取りは、最初にテーマありきではなく、できるだけ話したいことを話してもらう。各家庭のアルバムが流出したなか、新たな地域共有アルバムをつくる目的で写真や地域文書を収集した。
 地域は常に変遷しつづけている。震災後の復興もその変遷史の延長にある。民俗芸能などの「形」を守るだけではなく、過去の暮らしの上にどんな地域をつくるのかが課題となる。

 能登のキリコ祭りも。宝立や寺家は戦後になって巨大キリコをつくった。逆に電気の導入で、輪島などでは電線より低いキリコに変化した

 漁師町の糠漬けなどの食文化、海士町の注連縄を玄関につける習慣などは「文化財」とは意識されていない。それを文化財と認識させるには「研究」と「展示」が必要になる。そのためには学芸員のいる博物館・資料館が必要なのではないか

□久保田裕道
 震災後、獅子頭を作り直した伝承団体のなかには「せっかく作ってもらったけど、もう維持できない」というところもある。
 でも、伝承者と行政、支援団体、研究者、愛好者をつなぐネットワークを構築することで、災害時のみならず、過疎化や少子高齢化による無形文化遺産の消滅リスクにも対応できる可能性が出てくる。
 ベトナムの伝統的な家屋のなかには、洪水の際に水に浮かぶものがある。それらに着目し、民俗知識に根ざした家づくりも研究されている。大災害を経験した日本こそ、世界に「無形文化遺産の防災」を発信していきたい。
「文化遺産をいかに守るか」ではなく、「文化遺産で地域をいかに守るのか」が課題だ。

 能登半島地震で災害に強かったのは、百姓文化が生きる地域と、自主・自立の気風のある漁師町だった。そこには下支えになる独自の民俗芸能や祭り生業があった

□俵木悟
 地域社会を母体に伝承されてきた民俗芸能だが、「地域社会」を自明視するのは危うい。復興ではコミュニティの結束が強調されるが、現実には震災で解体されたコミュニティが少なくない。そうした状況下で、関係性をどう再編成するのか跡づけることが必要だ。
 祭りや芸能の復興は、基盤となる社会関係や物資、演じる場など、当たり前だったものの「ありがたさ」を再発見し、新たな文脈につくりなおすことを意味する。復興とは、日常化した生活文化を再構築する創造的な過程である。

 能登でも震災と豪雨で消えた集落がある。それをどう再編するか追跡する。いくつもの集落が消えた南志見地区のお寺の取り組みからその一端が見えてくるかもしれない。「復興」は創造である、という位置づけ、心構えが必要なのだろう

□高倉浩樹
 福島原発事故で双葉町は住民が散り散りになった。流れ山踊り復活への活動によって、様々な場所に住む住民が再会し語りあう場となった。
 民俗芸能は、社会的統合性、地域社会のアイデンティティ、回帰的な時間をもち、他地域では代替不能な文化資源だ。地域社会の歴史文化的構造を継承しながら、新しい社会的つながりもつくりうる。行政主導の村おこしイベントとはちがって、地域住民自らが伝承する意識をもっている。大切なのは、民俗芸能が不変の伝統文化なのではなく、住民自身によってかえられてきた伝統だと認識することだ。

 行政の補助金だよりの村おこしイベントと伝統的な祭りとの根本的なちがいは、住民の自主性と自らの力で実施する意思の有無だ。宝立の七夕祭りの主催者が「うちらは行政からカネなんてもらわんでやっとるわ」と胸を張っていた。補助金頼みのイベントはカネが途切れれば消える。珠洲の巨大提灯はその典型だった。

□川島秀一
 1792年の普賢岳の噴火により島原の眉山が有明海に崩落し、津波が生じた。対岸の肥後国でも5000人近くの死者が出た。天草の人たちは打ちよせられた死者を「寄り人様」としてまつった。
 天草上島の小島子で毎年「寄り人様」を祀っていた人びとは、1991年の噴火の際、津波を心配した。江戸時代の津波のあった4月1日(旧暦)は「津波節句」と呼んで、地区の人たちが集い楽しむ行事だった。天草の各地で4月1日を亡き人の供養を兼ねた行楽の日としていた。そうやって災害の記憶を受け継いでいた。
 大阪市浪速区幸町の木津川にかかる大正橋の東詰には、1854年の南海地震津波による死者の供養碑がある。「大地震両川(木津川と安治川)津浪記」が刻まれ……地元ではこの碑のことを「お地蔵さん」と呼び、毎年8月24日には地蔵盆が催される。碑文の末尾には「願くハ心あらん人年々文字よミ安きやう墨を入給ふへし」と記され、地蔵盆前に、幸町3丁目の近所の人たちが碑文に墨を入れる行事がある。
 大正橋の対岸にある尻無川にかかる岩崎橋には現代の怪異譚がある。1990年代の後半、大阪ドームなどの開発工事で、建設工事従事者が毎晩岩崎橋を通るとき、大勢の白い着物を着た人たちがぞろぞろと川から上がってくるところを何人もの人が目撃した。その恐怖のために仕事をやめる人が続出した。岩崎橋を付け替えるときに寺の住職に拝んでもらったところ、なくなった。
 死者を祀ることで、災害の記憶が伝えられる以上、こうした伝承も大切にしなければならない。
 いわき市の中之作にある真福寺の墓地には、墓地群の頂上に、海難事故で亡くなった者の供養として船主が立てた五輪の塔とともに、漂流死体を祀った「浮流白骨聖霊」と刻まれた墓が2基祀られている。災害死者のなかでも無縁の霊は「祟る霊」とされる。その供養を通して、災害記憶を伝承していた。
 昔の災害では亡くなった家族を「口寄せ」によって呼び出した。2011年は、「口寄せ」をする巫女が激減していた。そのような時代に「災害死者」をどのように供養をするのか。震災後、「怪奇現象」「霊体験」の語りが顕著に増えたのは、自らが宗教的職能者のかわりになって、自身と死者の思いを表現しなければならなかったからだろう。

□セバスチャン・ペンマレン・ボレー
 記念碑は、災害の地を記念するもっとも一般的な方法である。
 名取市閑上は人口のⅠ割を超える753人が亡くなった。
 閑上中学校の慰霊碑は、「追悼の集い」を開き、大震災の物語や教訓をつたえる重要な場となっている。記念碑に加え、NGOが「閖上の記憶」という遺族会事務室として使われる「津波祈念資料館」をたてた。
 災害後、閖上のコミュニティは分断され弱体化した。5年間で月面のような荒涼とした風景となった。そんななか記念碑は、生存者と土地とのつながりを保存し、生存者や訪問者がたがいにつながる関係性をつくる場にもなっている。記念碑は、災害後の状態を残す唯一のものであり、「当時」の証明なのである。

 能登はまだ記念碑はない。崩壊した珠洲の「キャバレー」は解体してしまった。見附島や窓岩などは残り、あるいはジオパークになるだろうが、町やムラの破壊の跡はどうやって残すのだろうか。

□福田雄 記念行事
 記念式典は形式的であるがゆえに数十年にわたって反復可能なのであり、形式性と遂行性こそが「社会の記憶」に連続性と持続性を与えるのだという。
 インドネシア・アチェでは2004年12月26日の津波で20万人以上が犠牲になった。
 イスラム教学の中心地だったアチェは敬虔なムスリムが多い。アチェ人にとって「敬虔さ」の自己認識は、オランダへの抵抗運動や大戦後の独立戦争、インドネシアからの分離独立を求めた内戦などの闘争を下支えするものだった。
 アチェの人々は「神がすべてのものごとを意味あるものとして計画されている」「神は祝福を与える前に困難を与えることがある」ととらえ、津波は神からの試練だが、それを乗り越えたからこそ長くつづいた内戦から救われた(津波の翌年に和平条約)、と考える。
 アチェの記念式典は、死者にとっては来世の救いを約束し、生者にとっては、救いに近づくための信仰を新たにする場であり、神との関係をとりむすぶ行事だ。
 一方、5800人が犠牲になった石巻市の慰霊祭・追悼式は、生き残った生者と死者との関係をむび、災禍からの救いを約束するという意味をもつ。

 2007年の能登地震の唯一の犠牲者が、輪島市街の寿司屋の奧さんだった。毎年3月の地震発生日には、寿司屋さんの思いを取材していた。2024年元日後、テレビか新聞に「これでもう妻のことは忘れられるんでしょうね」とおやじさんが語っていた。「忘れられる」というのはおそろしい。500人以上の犠牲者が出た2024年の地震も忘れられつつある。記念行事や碑は想像以上に大切なのだろう。

=====抜粋=====

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▽10 地域信仰がかかわる祭礼や民俗芸能が復興とつながることがマスコミはじめ社会の側で認識されたことは、これらの分野の研究者の背中を押す効果があった。
……試行錯誤のなかで、聞き書きという調査方法が、被災者支援において一定の役割を果たすことが認識されていった。
……調査をつづけるなかで、母子避難者の困難、被災者を受け入れた地域社会の対応、仮設住宅コミュニティでの積極的な経済活動、震災を個々の地域社会はどにょうに慰霊し記憶するのか、といった課題が見えてきた。
……東日本の経験からいえるのは、災害復興の場面において人々の生活文化の役割を積極的に理解し、この可能性を探究し、復興に貢献していく社会的責任が研究者にあるということである。
▽12 「フィールド災害人文学」 フィールドワークという方法を用い、社会的価値の学術的探究をしながら災害復興に関わる実践的学問。
……当面の中心的課題は、第1にコミュニティのレジリエンスにおける無形民俗文化財の位置づけ、第2に、個人や地域社会はどのように日常性を回復しているのかについて民族誌(民俗誌)的な解明。さらに、研究の知見を社会実装化するための方法論の開発。
▽20 有形文化財ー無形文化財=美的・学術的価値があるものとして判断される。
 それに対し、「我が国民の生活の推移を示す」ために認定されるものとして民俗文化財というカテゴリーがあり、民具などの有形民俗文化財と、祭礼・民俗芸能などの無形民俗文化財がある。
 ユネスコによる「無形文化遺産」は、無形民俗文化財に近い。しかし伝統性にこだわる必要はなく現代化されていてもよいし、特定の集団が排他的に伝承する必要はなく、歴史的過程のなかで他の集団と共有していてもかまわないという点で、いわゆる変わらない伝統という本質主義的文化の理解を排除している。

■Ⅰ 無形民俗文化財の被災と復興事業
□小谷竜介
▽27 東日本では、未指定文化財の救援という活動が加わった。建造物についても歴史的建造物を対象に文化財ドクター派遣事業がおこなわれた。未指定文化財も対象にしたことで、文化財保護行政の世界では画期的な活動だった。
……公費は投入されていないが、文化庁が音頭を取って未指定文化財をケアしたことが重要である。
▽33 用具が被害をうけた無形民俗文化財=民俗芸能をリストアップし、地域社会が壊れ、無形民俗文化財の活用=公開の機会が失われた文化財をリストアップし、……用具をそろえるお手伝いをし、公開の機会を設定することが、災害対応のかたちとして定まっていった。
……民俗芸能を芸能の側面から再生するのが第Ⅰ歩だとすると、次のⅠ歩はそこから民族性を取りもどすことにある。〓〓
▽34 「みやしんぶん」調査 これまで文化財として意識されてこなかった事象を文化財として捉え、支援の対象にリストアップされることになった。たとえば獅子舞……地域として守るべきものとして意識された。
……
▽ 無形民俗文化財のほかのカテゴリーである民俗技術や風俗慣習はどうか。民俗技術は生業活動と関わるもので、無償の支援のしにくい性格という面がある。風俗慣習は、、何でも対象になる可能性があるゆえ、もっとも気づきにくい民俗文化財である。【海士地区の食文化、注連縄など〓】
▽35 獅子舞は、舞手だけで成立するのではなく、それを見る地域住民、舞手を生みだす社会システム、獅子舞の縁起を受け入れる信仰がなくては続けていくことはできない。この部分への気づきもまた民俗文化財調査には必要な事項になる【キリコ祭りもその背景の生業 たとえば宝立は祭りではなくお寺行事……という理解〓】
▽36 出発点として民俗文化財調査は位置づけられるが、その背後の地域文化を見いだす必要がある。この結びつけまでを行っていくことで、復興し新たにつくられる地域社会に、震災前の社会との結合した地域社会が構築されるのではないか。

□今石みぎわ
▽39 時間経過とともに、無形文化遺産の復興支援の前に多くの問題が立ちはだかってくることも明らかになってきた。壁のほとんどは震災前から内在していた根深い問題であり、それが震災のインパクトによって顕在化したものであった。
▽40 無形文化遺産に関しては、有事の際に、有効に機能する活動体はこれまで組織されていない。
……無形民俗文化財に関しては「記録」がもっとも重要な保護手段と考えられてきた時代は長かった。
▽42 「311復興支援無形文化遺産ネットワーク」 全日本郷土芸能協会と儀礼文化学会が核に。
・「無形文化遺産情報ネットワーク」2013年に立ちあげ。一覧表を公開。〓
・2016年3月からは「無形文化遺産アーカイブス」も公開。
・防災科学技術研究所の地図システムでは、通常の地図に被災後の航空写真や津波の浸水域などを重ねる機能が搭載されている。
……今後は、平時には文化財マップとして、災害時には被災・復興状況を加筆した災害マップとして活用できるようなシステムが、全国規模で実現できるのが理想であろう。
▽45 震災後、早いもので百か日法要にあたる2011年6月ごろから死者供養の行事であるお盆にかけて、被災地域では民俗芸能や祭りが次々に再開していった。……芸能や祭りが、日常を取りもどすための縁になったようにも見える。
▽無形文化遺産の力の大きさに焦点が当たるほど、かえって存在感を失うのが民俗文化財の制度である。東北の太平洋岸地域は内陸部に比べて指定の無形民俗文化財が少なく、民俗芸能の研究も盛んではなかったといわれる。……沿岸部の芸能には比較的新しいものが多く、また常に変化をつづけてきたからとされる。エンターテインメントとして常に変わりつづけてきたのが沿岸部の芸能に共通する特徴であり……【能登のキリコ祭りも。宝立や寺家は典型〓】
▽46 民俗文化財における民俗技術が2005年の文化財保護法の改正で追加された。ほとんど情報収集や支援が行われていなかった。
「忘れられた民俗技術」の問題は、震災後の復興支援が、平時の調査研究の蓄積の上に実現するものだという事実を突きつける。
……民俗芸能や祭りといった民俗文化の華やかな側面はもちろんだが、より注目したのは、ごく当たり前の日常であった些細な暮らしの断片である。生業、住まい方、土地の利用方法、屋号や地名など.総体としてその土地の暮らしを形づくってきた要素であり……
▽48 調査/記録したのは、地域がたどってきた変遷史であった。地域は常に変化しつづけている。震災も、後から振り返れば途切れることのない変化の歴史における1ページとなる。それを提示することで、復興もその変遷史の延長にあること、過去の暮らしの上になりたっていることを強調したい意図があった。
 碁石半島の「碁石五地区」の5つの集落が対象。3カ月に1度、2−4日のペースで通う。聞き取りは、最初にテーマありきではなく、できるだけ話したいことを話してもらった。
 写真や地域文書の収集。写真は各家庭のアルバムが流出したなか、新たな地域共有アルバムをつくる意図で。
「無形文化遺産アーカイブス」で公開〓〓 2017年度以降は、全国の無形文化遺産情報を収納していくことになる〓

□久保田裕道
▽60 獅子頭を作り直した伝承団体。「せっかく作ってもらったけど、もう維持できない」という声も。
……外部者がかかわることで、伝承者側のモチベーションアップにつながる効果も。
 伝承者と行政担当者、支援団体、研究者、愛好者をつなぐネットワークを構築することは、災害のみならず、過疎化や少子高齢化による無形文化遺産の消滅リスクにも対応できよう。
▽61 岩手・宮城・福島沿岸にある民俗芸能と祭礼・行事は、1000を超えていたが、なんらかの文化財指定を受けていたのは8%にすぎなかった。
 市町村指定・都道府県指定文化財であっても、その情報がリスト化されていないというケースも多々存在する。……指定された文化財であっても全国的なリストは存在しないのである。
▽65 海外への発信 伝統的な資材でつくった家は、洪水の際に水上に浮かぶものもあるという=民俗知識に根ざした家づくり。……ハノイの研究機関では、災害に対する民俗知識を生かす研究をしていた。
……「文化遺産をいかに守るか」ではなく、「文化遺産で地域をいかに守るのか」という課題なのである。世界に対して日本が発信しうる「無形文化遺産の防災」へ。

□俵木悟
▽71 前例のない非常事態において何をすべきかということを、それまでの調査研究で得た経験や知識から導き出すことなどできるはずがない。
▽72 宮古市東日本大震災記憶伝承事業
 震災後の生活再建の実態を記録して後世に伝える。
▽73「ごいし民俗誌」
 第1に非日常的な災害と大変革のなかで、見過ごされがちな「普段の」「当たり前の」暮らしに目を向ける。第2に、以前からの地域の社会や暮らしの移り変わりの連続のなかで震災を考える視点を持つこと。第3に、調査成果を地域の人々に受け入れられる形で還元する。……地域の人々が「自分たちの文化」をより深く知る一助となることに重きを置いた。
 ……「聞き書き」とならんで「古い写真の収集」
▽79 法の脇鹿子踊の復活 震災以前から住民だけで踊りを担うことは厳しくなっていた。ただ補助金を得て衣装をそろえて復活したのでは意味がないと当事者は考えた。それでは、今後の継承を支える組織を再編成する貴重な気概が失われてしまうからである。
……広い地域から参加者を募る。
……地域社会を母体として伝承されるといわれる民俗芸能の、その地域社会なるものを自明視することの危うさ。復興を語る際は、コミュニティの結束が強調されるきらいがあるが、現実には震災によって安定的なコミュニティの存在が揺るがされ、解体された多くの例を直視する必要がある。そうした状況下で、関係性がどのように再編成されたのが跡づけることが必要・
……祭りや芸能などを受け継ぐ集団の再編成という問題は、震災関連に限らず今後のローカルな文化の動向を考える論点となるだろう。
「芸術・文化による災害復興支援ファンド」[https://culfun.mecenat.or.jp/]
▽83 災害で失われたものを回復するという発想よりも、それを将来に伝えていくためにどんな役割を果たせるかという発想を持つべき。支援活動は温情主義的な態度ではなく、受け継いだものを次世代に伝えるという当事者の思いを尊重しながら、自分が何ができるかを同じ目線で考え、協働する。外部の組織や活動との交流も、その質を見きわめた上で積極的に認められるべき。
▽84 祭りや芸能を復興するということは、基盤となる社会関係や、必要なものや、演じる場と機会など、当たり前であったものの「ありがたさ」を再発見し、それを新たな文脈につくりなおすということを意味する。復興とは、日常化した生活文化を再文脈化して構築する、創造的な過程である。

■Ⅱ被災地からみた民俗芸能の復興・継承
□稲澤努 山元町の八重垣神社
▽90 線路および山下駅と坂元駅を内陸へ移設したこともあって、常磐線の再開は2016年12月10日に。
 山元町の2010から15年の人口減は26.3%で全国でも5番目に大きい。
▽地域住民が移転してしまい、……「保存会」という形で存続をはかる。

□呉屋淳子
□一柳智子
▽111 福島県浜通りの田植え踊り 村上(南相馬市小高区)、請戸(浪江町)、室原(浪江町)
▽114 民俗芸能継承者による習合的な無形民俗文化財の保護団体である保存会は、1975年の文化財保護法改正によって指定制度が新設されたときに創設された。
▽小高区村上地区は2011年4月21日、「居住者等の生命または身体に対する危険を防止する」ため警戒区域に。2012年4月に避難指示解除準備区域に再編されて日中の立入は可能となり、2016年7月に避難指示が解除。
 浪江の請戸と室原は、2011年4月に警戒区域に。その後請戸地区は2013年4月に避難指示解除準備区域への再編をへて2017年3月に避難指示が解除された。役場機能も二本松市から本庁舎にもどった。室原地区より西側は2013年4月に帰還困難区域に指定されて以来、見直しがなされていない(2017年現在)

□高倉浩樹
▽134 福島原発事故の災害復興という文脈で、民俗芸能や祭礼といった無形文化財はどのような役割を果たすのか、というのが問題感心。
飯舘村の事例からは、復興されるべきは人々の共同体なのか、それとも物理的空間なのかについての先鋭的対立が現れ、復興を進める村とそのなかにある地域社会が対立する状況が生まれている〓
▽138 避難で地域住民が散り散りに。……流れ山踊り復活への活動によって、様々な場所に住む双葉町の人びとが再会を果たすきっかけとなり、双葉町時代の思い出や現在の状況を語りあう場となった。
 流れ山踊り参加者たちにとっては、原発事故前の日常を想起させ、そこで存在した社会関係を確認・更新する働きがある。
▽143 民俗芸能は、社会的統合性、地域社会のアイデンティティ、回帰的な時間をもっている。それら3つの要素が中長期的な周期性をもち、歴史文化的構造を受け継ぎながら新たな社会的つながりをつくり出すことができる。
……民俗芸能は3つをセットにし、他地域では代替不可能な文化資源であるという点で際立っている。そして、地域社会の歴史文化的構造を継承しながら、新しい社会的つながりをつくりうるという点では特異な性質である。さらに行政が主導するのではなく、地域社会の住民自らが伝承する意識をもっていることも重要である。肝要なのは、民俗芸能が不変の伝統文化なのではなく、住民自身によってかえられてきた伝統だということ。【〓補助金でやるイベントとはちがう、という誇り〓宝立の祭り……】

■Ⅲ 災害死者の慰霊・追悼と記憶の継承
□川島秀一
▽149 1933年の昭和三陸津波においては、死者・行方不明者が3064人。旅の者も被災。「旅の者」の墓。
▽150 天草の「寄り人さん」 1792年の普賢岳の噴火により島原の眉山が有明海に崩落し、津波が生じた。対岸の肥後国も被害に見舞われ、5000人近くの死者が出た。島原領だけでも1万の死者。この津波を「島原大変、肥後迷惑」と呼んだ。
 打ちよせられた死者を「寄り人様」としてまつった。
……天草上島の小島子では、1991年の噴火により津波が来るのではないかと心配していた人々いた。小島子の鯨道という12−3戸の集落で、毎年「寄り人様」を祀っていた人びとである〓。
 4月1日は、津波のあった日(旧暦)。「津波節句」と呼んで、地区行事として集い楽しむ行事だった。……天草の各地で4月1日を亡き人の供養を兼ねた行楽の日としていたようである。
▽154 災害による異状死がたたるものであるという言い伝えがあるが「寄り人様」もそのような理由で建てられたと思われる。
▽大阪大正橋の「地蔵盆」 1854年の南海地震津波で大阪でも死者が。浪速区幸町の木津川にかかる大正橋の東詰には、死者の供養碑が建てられている。〓〓「大地震両川(木津川と安治川)津浪記」が刻まれ……地元ではこの碑のことを「お地蔵さん」と呼び、毎年8月24日には地蔵盆が行われている。この碑文の末尾には「願くハ心あらん人年々文字よミ安きやう墨を入給ふへし」と記され、地蔵盆前に、幸町3丁目の近所の者たちが碑文に墨を入れる行事を行っている〓〓。「地蔵盆」という供養の年中行事の中に災害伝承が取り込まれていることにおいて、注目される事例の一つである。
▽155 大正橋の対岸にある尻無川にかかる岩崎橋の怪異譚。1990年代の後半、大阪ドームなどの開発工事のなかで、建設工事に携わった者たちの話として、毎晩、岩崎橋を通るときに、大勢の白い着物を着た人たちがぞろぞろと川から上がってくるところを目撃したという話が伝えられている。同様の目撃者が相次ぎ、その恐怖のために仕事をやめる人が続出し、岩崎橋を付け替えるときに寺の住職に拝んでもらったところ、以後そのようなことはなくなったという。
……死者を祀ることで、災害の記憶が後世に伝えられるものであるからには、このような伝承にも深く目を向けていかなければならない。
▽156 いわき市の中之作にある真福寺の墓地には、墓地群の頂上に、海難事故で亡くなった者の供養として船主が立てた五輪の塔などとともに、漂流死体を祀ったと思われる「浮流白骨聖霊」と刻まれた墓が2基祀られている。
▽158 漂流する遺体を回収した漁船の持ち主は「いいシアワセもらったな」と言われた。漁師にとって、漂流遺体を拾うことは縁起のよいことだった。
▽161 災害死者のなかでも無縁の霊が大きな影響力をもつ。「祟る霊」……
供養を通して、災害が生活文化のなかで伝えられていくとしたなら、見過ごすことのできない災害伝承の要件として、今後も注意していかなければならないと思われる。
……2011年は、すでに「口寄せ」を語る巫女が激減していた状況であった。そのような時代に「災害死者」をどのように供養をするかといことに向き合わざるを得なかったのが、東北地方の三陸の被災者たちであった。震災後、「怪奇現象」「霊体験」の語りが顕著に拾われていったのも、自らが宗教的職能者の代わりになり、自身と死者の思いを表現しなければならなかったからだと思われる。

□セバスチャン・ペンマレン・ボレー
▽167 記念碑は、災害の地を記念するもっとも一般的な方法である。記念碑をもたない東日本大震災の被災地コミュニティをほとんど知らない。
……大川小学校 74人の児童と10人の教職員の死。
▽169 名取市閑上 人口のⅠ割を超える753人の命を奪い、……震災以前は、漁師やサラリーマン、移住者、観光客の混ざり合ったコミュニティだった。住民が7103人で2551世帯。
……震災以前の姿を残すものは、日和山と呼ばれる人工の小さな山だけ。漁師を守護する神を祀る小さな社だった。
……閑上中学校の慰霊碑 地震が襲ったとき、住民の多くが避難所であった中学に避難してきた。
▽171 慰霊碑は、「追悼の集い」を行う重要な場を提供している。記念碑に加え、NGOは、「閖上の記憶」と呼ばれる遺族会の事務室として使われる「津波祈念資料館」を立てた。……閖上中学の慰霊碑は、遺族や生存者が東北の大震災の物語や教訓をつたえつなぐ重要な場所となっている。【能登の場合は?〓】
▽173 名取市東本大震災慰霊碑。名取市の944人の犠牲者の名前を刻む。
▽175 閖上の事例では、閖上中が港やお茶飲み場といった、死者を悼む二つの集団のリーダーは、コミュニティの社会的復興におけるもっとも積極的な関与者である。つまり、遺族の平穏の回復は、コミュニティの再建の鍵となっていると言えるだろう。
▽集合的な記念碑は、生存者とその土地とのつながりを保存することに寄与している。災害後に、閖上のコミュニティは分断され、縮小し、弱体化した。……五年間で月面のような荒涼とした風景となった。
▽176「閖上の記憶」は、東日本大震災のビデオや写真、資料をシェアする活動センターとなっている。もっとも重要なことは、このセンターが毎週行われる語り部を結成するようになったことである。語り部活動によって、訪問者は生存者の経験やコミュニティ全体で得た教訓を学び……
……「閖上の記憶」は、災害ツーリズムや津波スタディーツアーに公的で専門的なガイドを提供することで、リーダーシップをとっている。
……記念碑は、生存者間や訪問者間、そして生存者と訪問者との関係性をつくり、再建し、維持する手段にもなっている。……記念碑は、災害後の状態を残す唯一のものであり、「当時」の証明なのである。

□福田雄 記念行事
▽182 記念式典はまさに形式的であるがゆえに数十年にわたって反復可能なのであって、この形式性と遂行性こそが「社会の記憶」に連続性と持続性を与えるのだとコナトンは主張する。
▽183 インドネシア・アチェ」記念行事 2004年12月26日の津波は20万人以上の死者・行方不明者をもたらした。 バンダ・アチェ市では人口22万人の3割が犠牲者になった。
▽アチェ 胡椒は19世紀前半には全世界の半数以上を生産していた時期も.天然ガスや石油なども豊富。その不平等な利益配分が分離独立派とインドネシア政府との30年にわたる内戦の一因となった。
 東南アジアにおける最初のイスラーム君主国が誕生した地。アチェ王国は、胡椒夜勤の輸出で発展した海洋交易国家。アラブから東南アジア地域への玄関口、東南アジアからアラブ地域への船出の地としておおくのウラマーを集めた。イスラム教学の中心地となったアチェは、「メッカのベランダ」と呼ばれるようになる。
……アチェ人にとって「敬虔さ」の自己認識は、オランダへの抵抗運動や大戦後の独立戦争、インドネシアからの分離独立を求めた内戦など、闘争史の通奏低音でありつづけた。……インドネシアのなかで唯一、イスラーム法を自治法とする特別州。
▽185「神がすべてのものごとを意味あるものとして計画されている」という、アチェで広く受け入れられている前提。これらの行事は、津波をもたらした神を憶え、「神に近づく」ための記念式典なのである。それは東日本の「慰霊・追悼」を目的とする記念行事とは明確に区別するべき行事である。
▽アチェ 伝染病の風評が広がり、ほとんどの遺体は「大人」「子ども」の区別のほかには特定作業もなされないまま震災直後に埋葬された。
▽神は祝福を与える前に困難な過程を歩ませることがある。われわれアチェ人は長くつづいた内戦から救われた。津波は神からの試練である。われわれはこれを神に感謝しなければならない。
……内戦時代、外国人の入域が制限され、経済発展など望むべくもなかった。しかし神はこの内戦からアチェを救われた。津波翌年に和平条約を結んだアチェは、外国の支援を受け、近代的なインフラが整備され、何よりも平和がもたらされた。
▽188 アチェの記念式典は、死者にとっては来世の救いを約束するとともに、残された生者にとっては、救いに近づくための信仰を新たにする祈念の場なのである。
▽190 石巻市の記念行事 2011年の人口16万2822人のうち、死者・行方不明者は5800人にのぼった。
……石巻市主催の慰霊祭・追悼式と「石巻祈りの集い」に共通するのは、その儀礼が生き残った生者と死者との関係を取り結ぶ点にある(アチェの記念行事は神との関係を取り結ぶ行事)。すべての儀礼や発話は死者に向けられている。……津波を何らかの宗教的解釈の枠組みに位置づけて説明する明示的な語りは見られなかった。ただ死者の前にたち、冥福を祈る行事が行われたにとどまる。
▽193 石巻市における慰霊祭・追悼式には、死者との関係を取り結び、災禍からの救いを約束するという実践を見て取ることができる【2007年の能登地震で亡くなった鳳至の寿司屋の奧さん〓】

□黒崎浩行
▽198 稲場圭信(大阪大) 宗教の社会貢献を研究する。SNSのFB上に「宗教者災害救援ネットワーク」のページを開設。宗教施設の被災状況や宗教団体の活動状況を地図で示す「宗教者災害救援マップ」を開設。
……2011年4月1日、島薗進が代表となる「宗教者災害支援連絡会」が発足すると世話人の一人として運営をサポートすることに。
▽200 宮脇昭・横浜国大名誉教授の指導のもと、境内林が流失した神社にシイ、カシ、ブナ、タブノキなどの照葉樹の苗を混合して植え……
▽202 被災者としてもっとも怖れるのは、風化被害であるという話は……

■Ⅵ 被災者・家族の暮らしの再建と地域社会
□山口睦 手仕事ビジネス
▽218 仮設住宅生まれのソックモンキー 「売る」ではなく「里親になる」と表現される。自分のソックスモンキーを持参して東松島市の仮設住宅を訪ねることを「里帰り」と称する。……小野駅前仮設団地には、遠くは関東、九州など全国各地からソックモンキーを求めて人がやってくる。

□堀川直子 母子避難

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