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鰹節 ものと人間の文化史<宮下章>

■法政大学出版局250826
 鰹節のすべてがわかる本。映画監督の大重潤一郞はおそらくこの本を読んだのだろう。

 縄文時代からカツオを食べ、奈良・平安以前には「堅魚(かつお)」と書かれる製品が、伊豆、土佐、紀伊などから朝廷へ貢納されていた。これらは単なるカツオの素干しだった。本来の「鰹節」の最古の記録は、室町末期の「種ケ島家譜」の1513年の1項に書かれた「かつほぶし」だった。

 堅魚と鰹節はなにがちがうのか。

 鰹節の製造は、①生切り ②煮熟 ③焙(燻)乾④削り ⑤カビ付け、という段階を踏む。

 古代の堅魚(かつお)は、生切り後、天日で乾かしたもの。「煮堅魚」は、生切りして煮たあとに乾したものだ。
 室町末期に登場する鰹節は③の工程を経たものだ。

 ①生切りと②煮熟のあと、2回程度焙乾・燻乾し、水分が多くやわらかい食べる鰹節を「若節」という。8回程度焙乾をくり返し、削って花鰹としても使われるものが「荒節」。荒節の表皮を削ると「裸節」となり、西日本ではこのまま食用とすることが多い。

 さらに焙乾したうえで青カビをつけ、悪カビ付着を防いだものが「上枯節」「一番枯節」。これに4,5番カビまでつけて堅固に仕上げたものを「本枯節」「仕上節」と呼ぶ。カビをつけるのは、カビが節内の脂肪、水分を吸い出し、かたくて香味豊かな製品にできるからだ。

 本枯節が完成品と位置づけられているが、西日本の産地は明治までは裸節をつくっていた。削り節が主流になった今でも、東日本ではカビ付けした鰹節・雑節が好まれ、西日本では裸節や荒節段階の鰹節・雑節が好まれている。東西で鰹節の定義が異なるのだ。

 ③の段階を踏んだ鰹節が広範に普及している国は、日本以外にはインド洋のモルジブしかない。モルジブでは総漁獲高の7割をカツオが占め、カツオの存在感は日本を凌駕する。鰹節の歴史も、日本では16世紀初頭が最初の記録だが、モルジブではその150年以上前にインドや中国へ輸出していた。

 カツオをとる漁法も、煮沸して煙でいぶし日干しにする……という「荒節」までの工程も日本とモルジブで共通している。ただ、モルジブの鰹節はこれで完成だが、日本では表面のざらついた部分を削って一次製品(黒節、裸節)とし、その上でカビ付けをして2次製品(本枯節)とする。


 温帯の日本ではとれすぎた魚は塩干魚にして保存する。サケや川魚を焙乾する例はアイヌなどにあった。だが、燻乾法はなかった。

 熱帯では、じかに天日乾燥をすると虫に食われウジが発生してしまう。東南アジアでは虫の駆除方法として、魚類の焙乾・燻乾が発展した。燻乾小屋は、蝿や蚊が近づかず、食物の保存所にもなった。

 日本では、南西諸島のエラブウナギは燻乾法で加工される。また南西諸島には、イロリの真上にセイロウを釣るし、魚類を入れ、燻乾を目的とする保存法があった。イロリの上の燻乾用のセイロウは、フィリピンにも見られる。燻乾法は南方から学んだ可能性が高い。日本最古の「かつほぶし」の文字が南西諸島の文書であることからも、鰹節は南方から伝来したと考えられる。

 ただ、鰹節は東南アジアには存在せず、日本とインド洋のモルジブにしかない。つながりがあったのだろうか?

 モルジブは1153年、仏教からイスラム教に転換した。200年後の14世紀にはマラッカ王国、15世紀にはインドネシアがイスラム教に改宗し、モルジブ王国と関係が深まり、モルジブ、マラッカを中継してアラブと中国がつながる「海のシルクロード」貿易が盛んになった。

 一方、琉球王国は14,5世紀から、明国に供与された200人乗りの大船約30艘を駆使して、安南、シャム、マラッカ、インドネシアなどと交易をした。モルジブからマラッカに鰹節が輸出され、その地で琉球王国人が鰹節を知った可能性は否定できない。事実、モルジブの鰹節は「溜魚」の名で中国に輸出されていた。そして燻・焙乾食品に無縁だった日本に「大航海時代」後の15世紀ごろから鰹節が忽然と出現したのだった。
 琉球王国の交易を支えたのは久髙海人だった。久高島には、風葬や略奪婚などの風習があり、南方系海洋民であった可能性が高い。

 奄美方面では、沖縄から来て海上交通や漁業に従事する船を「クダカー」と呼んだ。
 江戸中期と後期、琉球へきた清の冊封使2人が、報告記で鰹節について「久高島の産」と書いた。その背後には、薩摩藩が清国を刺激しないよう、独立国の琉球王国を前面におしだす意図があった。大坂や富山で仕入れた昆布も冊封使の記録には「久髙島で採れる」と記された。

 久高島のエラブウナギ(イラブー)を加工する技術は、鰹節づくりと酷似している。しかもその上質なものは、切り口から鰹節と同じ芳香が漂う。

 エラブウナギは、口永良部島などに多数生息するから久髙漁民が出漁した。この島の周辺はカツオの大漁場でもあった。久髙海人がカツオの燻乾技術を指導し、販売に寄与したと考えられるという。

 熊野の漁師が全国の最先端の技術をもち、出稼ぎによって、鰹節だけでなあく様々な漁法を青森から九州にまで伝えた、という話もおもしろい。全国どこでも「熊野の漁師が伝えた」という言い伝えがあるという。

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▽4 幅広い黒潮の激流にすっぽり包まれる七島ートカラ列島。ここには遅くとも室町末期に「かつほぶし」と書かれた最古の記録が残されている。
 すでに奈良・平安以前には「堅魚」と書かれる製品が、伊豆、土佐、紀伊など10カ国から朝廷へ貢納されていたが、それが単なるカツオの素干し品なのに対し、「鰹節」は燻し工程を加えた乾燥品という差異がある。(〓なるほど)
 ……潮岬周辺は、黒潮にもろにぶつかる位置にあるから、漁場としては最高。鯨捕獲で日本一とうたわれた太地港があることでも分かるように、クジラ・カツオ共通の餌であるイワシ群の宝庫でありつづけた。
 潮岬周辺の漁師は、カツオ群の中へ船が突入したとき、餌イワシをいっせいにばらまき、カツオ群を興奮状態におとしいれてから行う一本釣り漁法(釣り溜法)や、製造小屋を設けて行う、シンポした鰹節燻乾法を開発している.釣り溜法と熊野節製法は各地に伝播され、土佐節、薩摩節、伊豆節など、江戸時代の三大名産地はみなこの影響をうけている。
▽7 モルジブ カツオが総漁獲高の9割に達し……
▽12 沿岸網漁の衰退過程は、カツオ群の沿岸から沖合へ遠ざかっていく様子を物語る。戦後に創案された巻網漁は、遠洋漁業に最適なところから、今では釣り漁業を圧し、現代のカツオ漁業の主流となっている。
▽13 曳き縄漁法の発展した釣り漁の一瞬に、紀伊半島の西岸、田並、周参見周辺に発達したケンケン釣りがある。……大正年間に田並の漁師がハワイの漁法を真似てはじめたといわれ……
 カツオ群の盛んに北上する沖縄県西部の先島方面や沖縄島東方の粟国島などでは、ケンケン釣りより進歩した曳き縄漁法がもちいられている。
▽25 ジンベイザメの泳いでいる付近は、シャチなどの天敵が近寄れないから、ジンベイザメの周囲にカツオが集まる。ジンベイザメにとっては、カツオがたくさんの小イワシを集めてくれる。
▽41 モルジブとサモアと日本のカツオ釣り漁法は共通点が多い。とくにモルジブの漁法と酷似している。
▽45 古代から曳き綱漁法はあった。しかし、活き餌をまき、カイベラを使って13〜5人乗りの船でする一本釣りは、室町中期以降に紀州熊野ではじめられた。
 ホーネルは日本とモルジブで熊野式釣り新法を見て、ルーツをインドネシアとし……
▽47 製造工程 生切り→煮熟→焙(燻)乾(荒節、鬼節、という)→削り→カビ付け カビが節内の脂肪、水分を吸い出し、香味豊かな完成品となる。これを本枯節という。
▽55 堅魚(かつお)……古代用語、生切り後、日乾したもの。
 煮堅魚……古代用語、生切り煮熟後に日乾したもの
 若節……生切り煮熟後、2回程度焙(燻)乾したもので、水分が多く柔らかい。食べる鰹節
 荒節……生切り煮熟後、8回程度焙乾とアン蒸をくり返す。削って花鰹としても使われる。
 裸節……荒節の表皮を削ったモノ。西日本各地ではこのまま食用とすることが多い。
 上枯節(青枯節)……十分に焙乾したうえで青カビをつけ、以後は徹底した日乾によって悪カビの付着を防いだもの。「一番枯」ともよばれる。
 本枯節……上枯節に4,5番カビまでつけて堅固に仕上げたもの。仕上節ともいう。
▽57 東日本産地の主力製品は本枯節であり、西日本の産地は裸節をつくっていた。西日本の産地が、東京方面へ向けて本枯節を送り出したのは明治40年以降である。
 鰹節製造では最古の歴史をもつとみられる南西諸島や紀伊、志摩の大部分が、明治時代9まで裸節を作りつづけていた。
▽58 本枯節が鰹節だと考えるのは東日本の見方だが、東京中心の鰹節需要が多くなると、西日本の産地でも東京向けには本枯節を製造するようになっていった。そしてついに本枯節が、鰹節の究極の製品とする見方が、とくに鰹節製法を研究する学者のあいだで支配的になっていく。
……本枯節と一番枯節は、東西に需要を二分しており、その傾向は現在も変わりない。西日本では本枯節の需要はごく少ない。削りが主流になったので、東日本ではカビ付けした鰹節、雑節の、西日本では裸節や荒節のままの鰹節、雑節が好まれている。【東西で鰹節の定義がちがうとは〓】
▽63 鰹節は、良質のタンパク質の固まりである。100グラム中のタンパク質は77.1グラム、エネルギーは365カロリーと、魚介類では最高の部類に属する(サバ節が411カロリーと多少高い)
▽65 世界の中で鰹節をつくり、その食習が広範に普及している国は日本とモルジブ以外にはない。
▽66 インドネシア方面には、魚類の燻・焙乾法が古くから発達しており、カツオを煮た煎汁も、魚醤もよくつくられ、調味料として使われている。
▽66 モルジブの鰹節は日本よりはるかに早い。……1153年にモルジブ王がそれまで全土に普及していたインド仏教にかえてイスラム教信仰を宣言した。200年後の14世紀にはマラッカ王国が、15世紀にはインドネシアがイスラム教に改宗して、モルジブ王国との関係は近いものとなった。これによりアラブ人のモルジブ、マラッカなどを中継基地とする、中国との海のシルクロード貿易はますます盛んに。
▽70 モルジブの魚類別水揚高をみると、カツオが7割を占めている。世界でも類例がない。
▽71 温帯の日本より200年も前から、熱帯のモルジブで、火を使うカツオ燻乾法が発達したのはなぜか。
……とれすぎた魚の一時的保存としては塩干魚にするのが最適だが、熱帯地方の場合はじかに天日乾燥をおこなえば、いろいろな虫に食われることが多い.熱帯地方では手軽な虫の駆除方法として燻乾を行うのは理にかなっている。
……燻乾小屋 蝿や蚊の類も近寄りがたく、鰹節づくりに打ち込めるし、食物の保存所とすることもできる。
 燻乾を十分に施して、ウジの発生する余地が少なくなってから日乾をおこない、堅い鰹節にしあげる
 煮沸・煙によるいぶし、日干し……本質的な点で日本での手順と同じである。
 ……製品は、日本における荒節、鬼節。モルジブではこれで完成品だが、日本では表面のざらついた部分を削り取って第一次製品(黒節、裸節)とし、その上でカビ付けをして第2次製品(本枯節)とする。
▽80 琉球王国は14,5世紀から東南アジア海域へ進出。明国から供与された200余人乗りの大船約30艘を駆使して、安南、シャム、マラッカからインドネシア方面に至る東南アジア各地と交易を行っている。マラッカは、当時国際的な貿易港だった。
 ……モルジブからマラッカ王国に鰹節が輸出され、その地で琉球王国人がそれを知った可能性もある。
 モルジブの鰹節はシナへも輸出され「溜魚」の名で知られていた。
▽82 モルジブは、イスラム教国となり、豚肉は食べず、サンゴ礁で牧畜も農耕もできぬので、漁業専一の国として生きざるをえなかったこと。カツオの漁獲高が他の魚類と比べて圧倒的に多い上に、焙乾品に最適と認められたこと。日常食といってよいカレーに、鰹節、生節類が大変に適すること。
▽日本では室町末期になってようやく鰹節出現の記録が見られる。……琉球王国とモルジブ王国の貿易船の接触がおこなわれた可能性は否定できないだろう。……それまで燻・焙乾食品に無縁であった我が国に15世紀ごろから鰹節(カツオの焙乾食品)が忽然と出現したのである。
……日本では、都市の発達によって料理が多彩になった結果、荒節では満足せず、製法は江戸時代に眼に見えて進歩した。そして裸節、カビ付け節の工夫によりモルジブの製法をはるかにしのいでしまうのである。
……基本的には全く同製法による製品が地球上でただ2カ所、数百年にわたってつくられつづけているのである。
▽84 沖縄で現在つくられている鰹節は大型の裸節。昔からこの地方では、だしの効果よりは香りを喜び、食べて味わうことに重点をおいてきた。スープでも出し殻とはせず、煮物に使えばおいしくする素材と考える。このような食習¥には、モルジブとの類似点が認められる。モルジブの鰹節は荒節であり、これは一皮むけば裸節となるものだから……〓
▽84 日本各地には囲炉裏を使って魚を焙ったり、焼いたりして食べ、いろりの上部に吊して保存する習慣があるが、これは北海道の塩鮭と同じように保存が主で、燻乾を当初からの目的としたものではない。だが、屋久島など南西諸島には、イロリの真上にセイロウを釣るし、魚類を入れ、燻乾を目的とする保存法がある。
 イロリの上の燻乾用のセイロウは、フィリピン島にも見られるという。燻・焙乾を目的とする魚の保存法やカツオの煎汁づくりなどは、東南アジア各地で広くおこなわれている。カツオ焙乾食において、東南アジアとのなんらかの関連も考えられそうである。
▽86 しょっつる、イシリなどの日本の魚醤は、東南アジアの魚醤と無関係とは見られない。各国と日本の製法は共通している。
 魚の燻・焙乾品もまた、製法のちがいこそあれ熱帯の産物である。生魚を塩乾法によって保存しようとしても、猛暑の中では蝿などにより大量にウジが発生して腐敗を早める場合があるので……
 室町時代に入って南方諸国との通交を深めた琉球王国と周辺の島々は、自然にこの方法を受け入れたものと推察できる。
 ……日本の本土で自然に生まれたとみなすのは次の3点で無理がある。①温帯にあるから、ウジの発生を予防する動機から、燻乾法が自然発生的に工夫される余地は乏しかった。②塩サケの場合に見られるイロリの上の保存法は、火乾の域を出なかった。③東南アジアで盛んな、各種魚類を燻・焙乾する習慣ーーひいては鰹節の製法を引き出すような習慣は生まれなかった。
▽89 ビルマではナマズの塩干、燻乾品が広くだしに使われている。
▽90 沖縄県に、わが国では鰹節以外の唯一の燻乾品である、エラブウナギの燻製品がある。
▽92 「種ケ島家譜」に鰹節の文字が見られてから約100年後の慶長年間以降になって、ようやく本土でも同じ文字が散見されだした。……鎌倉時代に本土から着任した種ケ島氏が、貢納させた鰹節を都へもたらしたと考えられる。
 カツオの燻乾法、煎汁製法も、日本・モルジブ・東南アジアにおよぶ海域に共有圏が形成されている上に、日本のモルジブは、荒節製法までの工程を同じくしている。
多彩な魚の燻焙乾法やカツオ煎汁製法を慣習としてもつ東南アジア海域を媒体として、モルジブと南西諸島ひいては日本の鰹節製法が、深層海流において相通じるところがあったということができよう。
▽116 浦島は、カツオ釣りにでかけて、台風に酔って流された逸話を持つ漁師。浦島伝説に類似の伝承は南方諸国にもあるという。南方系黒潮伝承のひとつであろう。
 おそらく日下部首一派の海人族は、遠く南の島から、この伝承を携え、黒潮に乗ってカツオ群を追い求めるうちに、丹後半島にたどりつき、ここを漁労の根拠地としたものであろう。
▽122 700年前の縄文早期以降、カツオの遺骨が各地で発見されており……
▽124 戦後、漁船もなく漁に出られなかった時代、カツオ群が岩壁までやってきた。
▽ 縄文時代の中期、現在より気温が2,3度高く、東日本の人口は90%を超え、縄文後晩期になっても80%余だった。東西日本の人口比が逆転するのは、米栽培を基とする農業生産の盛んになった弥生時代以降のことである。
▽131 呉越の亡国の民 両国滅亡のころ、日本列島の人口は急増している。渡来した海人たちは、各種漁撈技術のほか、釣り針など金属性漁具と構造線を列島にもたらした。大和朝廷が成立することには、海部といわれる海の職業人として知られるようになっていたのである。
▽142 カツオほど古代人が貴重視したものはない。その理由は、有史以前から知られた調味料としての有用性にあると考えられる。米食中心の食事が形成されて以来、カツオの煎汁だけがとくに選ばれ、大豆製の発酵調味料と肩を並べていた事実や、伊勢神宮の神饌として「堅魚」が、米塩についで重視されていたことなどにより明らかとなる。
▽146 奈良時代には、他の魚類にhないカツオの特質が知られ、利用法が創案されていた。堅魚、煮堅魚、堅魚煎汁(いろり=塩とならぶ重要な調味料)など。
▽147 紀伊半島には、来往した出雲海人がもたらしたという「熊野の諸手船」があった。
▽150 堅魚というのは、「煮堅魚」に対する用語だから、生魚を縦に細く何条にも気って、そのまま干し上げたものである。
 「堅魚煎汁(いろり)」は、カツオを煮たあとの汁を煎じつめ、濃縮した黒褐色のアメ状液である。今も山川や屋久島でつくられているセンジにあたる〓。
▽161
▽165 堅魚煎汁(いろり) 飛鳥奈良朝当時から、大陸伝来の発酵調味料である酢、醤、未醤などがもちいられたが、非発酵性調味料で、わが国で唯一の固有調味料といってもよい堅魚の煎汁も重視されていた
 塩梅とは、梅の塩漬けによって生じる液汁(梅酢)。
 堅魚の煎汁は、時代の経過とともに大陸伝来の発酵性調味料にその座を奪われていった。平安朝末期になると、料理に使われる度合いはごく少なくなっている。
▽176 堅魚が新製品、鰹節に生まれ変わった要因は、一つは軍事目的であり、もうひとつは京の都や堺などにおける上方料理の発達であった。
 「鰹節」の文字が見られる最古の資料は、「種ケ島家譜」に書かれた1513年の1項である。「かつほぶし」
▽178 南西諸島だけになぜカツオ以外(エラブウナギ)にも燻乾品をつくる習慣が生まれたのか。
 琉球の「歴代宝条」という古記録。1609年に薩摩が琉球王国に侵攻する以前……室町時代の琉球王国の海外貿易などを記した外交文書で、薩摩支配の260年間、ひがかくしにされたとされる、因縁をもつものである。
 これを隠し続けたのは、久米村に住んだ華僑の子孫であって、日本帰属が決定的となる明治12年まで、久米村の家々を転々として秘蔵されていた。
 1392年、明の洪武帝は36姓の移民を琉球に派遣した。ほとんどが福建人で、……海人であり、造船、航海の術に優れていたため、洪武帝は彼らにより琉球を支配下におき、朝貢貿易を行わせる目的をもって移住を命じた。15世紀初頭ごろには、まだ明人として行動し、対明貿易の琉球船の正使をつとめた。副使は琉球王国人。洪武、永楽から正統帝時代に至る30年間に、明から琉球王国へ支給された船は30隻というから、毎年1隻ずつの計算となる。
 琉球王朝が自力で貿易に乗り出した最初は、シャムとの継続的な交易を開始した1432年であろう。それにつづいてマラッカあと通商をはじめる。通商開始は1461年。永楽4年から正統4年までの34年間に、シャムに派遣された貿易船は20隻以上、明へ向けた貿易船は51隻に達した。久米村の華僑が琉球を中継貿易の基地として、南方の物産を対明貿易の品目に加える意図をもっていたからだった。琉球から明国へは、馬や硫黄。これに南方から輸入した胡椒、蘇木、檀香などを加え、品目を豊富にするねらいがあったのである。これらは日本にも輸出し、日本から扇子、屏風、刀剣類を輸入し、明国への朝貢貿易に利用していた。
 ……当時すでに南方各海域に進出して、商圏をはりめぐらしていた華僑の多くは福建人であり、言葉も通じたことも、久米村華僑の南方進出を促進させた大きな要因である。
▽182 広範囲な南方交易を通して自国産業の開発を図った結果が、泡盛、南蛮がめ、紅型、更紗などを生みだすことになった。
……インド洋上で、マラッカから琉球までと等距離の位置にモルジブがある。歴史的、社会的類縁関係からみれば、マラッカとの交易は、異教との国である明や琉球よりずっと盛んだった。
……モルジブとの技術交流や伝承の記録は一切ないにもかかわらず、明治年間には、すでに両国のカツオ漁法から荒節製造までの基本工程が同じであったことが明らかにされている。
▽183 琉球王国が東南アジアの魚の燻乾法、あるいはモルジブの鰹節製法との交流のなかから南西諸島へ鰹節製法を伝える橋渡しをしたとすれば、その間に介在したのは久髙海人である。〓南方系海洋民であった蓋然性は高い。(風葬、略奪婚の慣習も、南方風俗と共通している)
 奄美方面では、沖縄方面から来て海上交通や漁業に従事する船を「クダカー」と呼ぶ、古い習わしがあった。……明治年間を迎えてもなお、小舟しか持てぬ奄美などの島々へ海産物を供給していたのは、久髙、糸満の漁民であった。
……久髙海人は、商船、飛脚船の船乗りとなったり、琉球王府の薬務として船に乗り組んだのは、圧倒的に久髙海人が多かった。薩摩藩もまたその水術、操船術を高く認め、利用した。「トーシン唐船」「ヘーシン楷船」という熟語が久髙にはあるが、唐、薩摩、先島などへ向けて大型商船で活躍した名残のようである。
▽183  久髙の船乗りが鰹節に関係したことを証明する記録が、清人によって残されている。江戸中期と後期に琉球へきた清の冊封使2人が、報告記のなかで鰹節に触れ、これを久高島の産だと書いている。
……この島には、エラブウナギを鰹節ときわめて類似した工程によって燻乾品とする製法が伝えられている。
 ……エラブウナギの燻乾品のうち最上質なものは、切り口が鰹節と同じ芳香が漂う。
 ……口永良部島には多数生息する。その燻製技術をもつ久髙漁民が、より多くの製品をつくろうと出漁してきても不思議ではない。この島の周辺はカツオの大漁場でもあった。江戸時代には南西諸島のうち、口永良部島は屋久島、臥蛇島と肩を並べる鰹節の産地だった。久髙海人が製法指導・販売に関与した可能性は強い。
▽187 鰹節を「久髙産」と書いた背後には、薩摩藩が清国を刺激しないよう、表面上は独立国の琉球王国を前面に押しだして、朝貢貿易を行わせた。昆布までを大坂や富山方面まで手を回して仕入れ、琉球をとおして輸出し、見返りとして利幅の大きかった生薬類などの輸入につとめた。……冊風使の記録には、昆布もまた久髙島で採れるとある。
……モルジブと東南アジア海域を舞台にカツオ漁業の交流をつづけた久髙海人は、鰹節製法を南西諸島に根づかせ、鰹節愛好の食風を琉球列島に広め、清人へその美味を知らせるのにも貢献した可能性がある。
▽188 ①モルジブの鰹節は、日本での鰹節出現が明らかとなる、15世紀ないし16世紀初頭より150年も前に、すでにインド、中国などへ輸出していた。
②東南アジア方面には、魚類を焙乾あるいは燻乾する習慣や、カツオの煎汁を作り、調味料とする食習が名付いている。
③日本には川魚の焙乾やアイヌのサケの焙乾などはあったが、燻乾法はなかった。室町時代になって鰹節が出現したほかには、1例がみられるにすぎず、南西諸島だけにあるエラブウナギの燻乾法。燻乾法にくわしい南方地域から学んだものと考えるのが妥当である。
④最古の「かつをぶし」の文字も、南西諸島に見られ、本土で鰹節産地が明らかになるのはそれより数十年後、江戸時代に入る前後のことである。
⑤15世紀当時には琉球船が盛んに南方貿易をおこなっており、……魚の燻乾法、焙乾法を知る機会が増大した。琉球国には久髙漁民のような交易・漁業の両分野で能力を発揮できる集団があった。
……我が国の鰹節は、国内での取引が発達するより先に、諸外国船が続々と南方向け輸出品目に加えだしている。初期の鰹節生産は、この輸出によって促進された一面があるように見うけられ、日本の鰹節の南方関連説にひとつの根拠を与えることになる。
▽192 フカヒレやツバメの巣
 大坂に少数ながら鰹節問屋の出現が明らかになったのは寛文年間(1661〜72)。このころ国内での消費地は、まだ、京、大坂周辺にとどまっていたから、外国向け輸出に刺激された側面があったと考えられる。
▽199 戦陣の携帯食として、老嬢用の保存食として使われるようになった。

▽203 「関西、関東どの地方に行っても、ここの漁業は熊野の漁師が来てはじめたと言い伝えられているところが多い。魚類を捕ることもこれを製造することも、多くは熊野の人がはじめたのであり、熊野から伝わったのである。
▽205 広村、湯浅、栖原の有田郡内3カ村は、出稼ぎ浦として有名。その主体は、干鰯製造目的のイワシ漁とカツオ、鯨漁などだった。
 1654年には三陸海岸、さらには大湊まで。1965年には銚子のカツオ船40〜50艘のうち、かなりの数が前記3村のものだとみられる。
▽207 紀州漁民の出稼ぎ船は九州方面へも。日向灘と五島列島。
 南北朝時代には熊野水軍が五島列島海域まで進出していた。江戸時代に入ると、カツオだけでなく、イワシやクジラの旅漁も開始。
▽214 潮御﨑会合 大職船主が、餌イワシ漁場の占有権とカツオ漁場での釣り優先権を共有する目的。
 絶好の漁場の潮岬周辺は、紀伊半島全域から出漁していた。それが「会合」によって締め出される。3つの会合の成立で打撃を受けたのは、黒潮の影響力の弱い日高、有田郡下の漁民である。出稼ぎの原因の一端はここにある。
▽217 唐桑村鮪立浜に入稿
▽220 足摺岬周辺に釣り溜漁法を伝えたのは印南浦漁民。潮岬をしめだされ、船団をくんで旅漁を開始する。日南海岸へ。栖原や広のカツオ船も。
 日向への出稼ぎ漁は慶長のころまでで終わり、以後は土佐国幡多郡に行くようになる。
 印南漁民は、足摺岬西岸一帯にカツオ釣り溜漁業を定着させ、地元漁民を協力して新土佐節製法を開発。
 土佐人の力が増大し、印南漁民は天保年間にはほぼ撤退する。
▽230 印南漁民の土佐清水七浦への入漁がきっかけとなって、土佐国へ熊野式製法(燻乾法)が導入される。宇佐浦などで、元禄年間前後からカビ付け法が付け加えられた。
▽242 印南の甚太郎 初代は宇佐浦の人に熊野式燻乾法を伝えた。2代目は、初代と現地妻の間にできた土佐人。父の故郷印南浦に滞在中の1707年、大地震による津波にのまれて脂肪。二代目甚太郎の活躍内容は、カビ付け工程を含む土佐節の改良である。
▽233 カツオ漁法と鰹節製法を全国の主要産地に伝えたのは、印南浦の3人の漁民だった。江戸初期には初代甚太郎の土佐カツオ漁業開発、江戸後期には与市による伊豆、安房への鰹節改良法の伝授、宝永年間には森彌兵衛による鹿籠(枕崎市)の鰹節製造が創始された。
▽238 1723年、密貿易で栄えていた坊津港に「唐物崩れ」という一大事件が発生し、坊津から多数の船が枕崎港に逃げ込んだ。
 坊津は、鑑真が上陸し、遣唐使が揚子江へ向けて東シナ海を横断するためにも使った。幕府の目をかいくぐる薩摩藩の密貿易港として栄えたが、享保8年、突如幕府による一斉手入れが強行された。以後坊津は、人影もまばらな小漁港になってしまう
 密貿易線は枕崎港に逃れ……大船の所有者はカツオ漁、鰹節製造の特権を与えられた。近海のカツオに恵まれていなかった鹿籠浦は、密貿易船をカツオ船に利用して漁場をおそらく、黒島、屋久島方面まで延ばすことができた。大量漁獲、大量製造の端緒をつかんだ。
▽247 鰹節へと変身していく同じ時代に、4種の主要乾物が誕生している。細工昆布、凍結り豆腐、寒天、海苔。
……主原料の食用は平安朝時代前後から珍重されているが、それが加工されて完成品の形態となったのは、江戸時代初期、寛永(1624〜43)前後であること、商品として盛んに売られ出したのは享保(1716〜35)前後であることが共通している。
 鰹節もこれらの乾製品もほぼ同じ時期に出現、たまりー醤油の出現期とも大差はない。
▽260 江戸時代を通じ、江戸鰹節商の重鎮でありつづけた店が現在の「にんべん」。
……現金、掛け値なしの販売をはじめた。これまでは駆け引きで売値を決め、盆、正月の節季に決裁する掛け売りだった。
▽274 江戸も名古屋も、関ヶ原が転機となって町づくりがはじめられた。慶長年間の新興都市。名古屋城、江戸城の築城以前は、近くに位置する熱田神宮や浅草観音の門前市のほうがはるかに古くから発達していた。
 名古屋には、信長の居城があったが、信長は清洲に築城して移ったので、その後は小集落を残すだけになっていた。……築城し、徳川義直が清洲から7万人をつれて入城。
▽289 初鰹で大騒ぎする江戸。だが上方では、桜の咲く頃を旬とする瀬戸内のタイを桜鯛と呼んで熱烈に親しんだが、初鰹には関心を示していない。
▽300 初鰹に熱狂。元禄のころ1両したという値段は、安永〜天明の初鰹狂乱期には2,3両することも。だが、初鰹人気は文化年間(1804〜17)になると下降し、10分の1まで下落した。
 初鰹は他界が、6月を迎えると、どの家でも食べられるようになる。
▽329 伊豆の製品水準は、文政年間は土佐節、薩摩節の足下にも及ばず、紀州節より下位だったが、幕末維新以降になると、紀州節を追い落とし、土佐や薩摩に迫る存在になった……背後には、江戸の鰹節需要の増大を背景にした、江戸の勝節問屋資本の協力な介入があったことであろう。
▽330 江戸時代に入る前後に最大の産地だった紀州は、その製法を伝授した土佐に、江戸初期には質量ともに追い抜かれた。土薩のように藩当局が製造に関与・奨励しなかった。
 薩摩藩領の場合は、土紀両国の中間だった。
▽340 薩摩半島は、西岸沖合を黒潮の分流が北上し、南岸の沖合を本流が東にむかっており、間近にカツオ群をみる位置にはなく、近海のカツオ漁には不敵であった。南岸の鹿籠は、唐物崩れにより坊津の大船を受け入れて沖合操業ができるようになってから本格化しており、……
 こうした地理的条件のために、薩南諸島にくらべてカツオ漁業と鰹節製造は大きく遅れたのだが、領主喜入ウジの力を入れた鹿籠がまず発展。正徳年間(1711〜15)に人口約1000人だったのが、唐物崩れから50年後の1767年には8156人に伸びている。
▽348 潮御﨑会合の18カ浦より西では、田邊浦周辺と印南浦が古い歴史をもっていた
 紀州の「旧藩時代の漁業慣行調査書」(明治20年ごろ)によると、印南漁民は、土佐や熊野におけるクジラ漁法でさえも本村漁夫の伝授したものという。
 ……有田郡の栖原、湯浅、広などの漁民は徳川時代の初期に房総各地へ大挙して干鰯漁出稼ぎに行ったが……少数ながらカツオ漁を伝えた漁民も。
▽352 潮御﨑会合の最北端の下田原浦から東北に向かって、浦神、下里、太地、勝浦、三輪崎、新宮と良港がつらなる。太地のようにクジラとりが盛んな浦もあったが、他ではカツオ漁が行われていた。……延宝年間に陸前の唐桑など、仙台藩領各地にカツオ漁法を伝授した幾右衛門は三輪崎の漁民である。
 ……新宮沖からいちど東方洋上へ向かった黒潮は、御前崎周辺で小分流が生じ、西方へ反転長駆して熊野灘北縁まで押しよせる。尾鷲から長嶋、あるいは志摩半島南岸の浦々もカツオの好漁場となった。
▽354 薩南諸島のカツオ漁は、有史以前にさかのぼる。だがあまりに遠く、黒潮の激流が海上交通を阻害したため、平安朝時代になっても堅魚貢納国の仲間入りはしなかった。
 古くから鰹節製造に関係あるのは、大隅諸島とトカラ列島。
▽356 黒潮は、琉球の先島を過ぎると列島北方に遠ざかり,奄美諸島に接近することなく、はるかその北方を進む。トカラ列島のはるか西方で二派にわかれ、対馬海流を分流したのち、主流軸は七島群のほぼ中央を横断し、屋久島、種子島の南岸を洗いつつ、大隅半島の東側、太平洋へと抜けていく。
▽357 薩南諸島はどの島も良港に恵まれていない。とくに七島は、火山島の特徴として過去においては港らしいものはなかった。
 江戸時代、屋久島から鹿児島へ帆船で行くとき、往路は黒潮に乗って1日で着いたが、帰路は、潮流、風向きがわるいときは1月から半年ももどれぬこともあったという。
 平家物語の俊寛は、七島よりはるかに薩摩半島に近い硫黄島に流されたが、「世の末にある島」と感じていた。
 米麦耕作不能の島が大部分であり、野菜づくりすら満足にできず……明治初年でも、宝島、平島をのぞけば火山島で平地がほとんどなく、極度にやせた土地だった。
 屋久島は耕作可能な土地もあったが、薩摩藩は経済政策で農耕を許さなかった。
▽361 七島は、カツオ群の滞留月数では日本列島のどこよりも勝っていた。ただし漁法は「餌木釣り」漁であり、釣り溜漁法ではなかった。漁法ははるかにおくれていた。
 明治後期のサモアと同一であり、曳き縄漁法はセレベスとも共通。
 南太平洋と薩南に同一漁法があることからみると、南方から黒潮の流れに乗ってしだいに北上して薩南海域にたどり着いたのではないかとの推察が成り立つ。
……南西諸島は鰹節製法では先頭を切ったが、釣り新法では立ち後れた。
 なぜ釣り溜法で後れを取ったか。第1にカツオ群が豊富なこと。第2に大型の釣り溜船の出入りできる良港に恵まれなかったこと。第3は餌料とするイワシが少なく、キビナゴが少々とれるに過ぎなかったこと。
▽364 薩南諸島の鰹節製造の特徴として、カビ付けは行わず、焙乾、日乾を徹底させるところに重点をおいていた。
……薩摩半島の鹿籠が有力産地に成長したのは、享保よりはずっと後年の天明年間(18世紀半ば)。それまでは薩南諸島だけが、薩摩とそれ以南における唯一の鰹節産出国となっていた。販路は薩摩国から琉球王国、さらには琉球を通じて明国、清国にまで開かれた。
▽365 琉球王国は、薩摩藩の指示により、福建方面へ鰹節や昆布の輸出をになった。…
 ……那覇では庶民層は明治のころにはかまぼこを乾燥させ、これを削って鰹節の代用品としたり、やどかりを乾燥させてから肉をすりつぶし、塩漬けにして調味料にもちいる村もあったという(沖縄県史)。
▽ 清国、とくに福建の食風が琉球に与えた影響は強烈だ.豚の血、頭、耳、足、内臓、肋骨まで料理する技術が、本土で四つ足を禁忌していた江戸時代に根づいていたのである。
▽366 「鰹節は、本土のように色香を貴ぶのではなく、深みのある味わいを出すために大量に使い、ぐつぐつ十分に煮るのが特徴です」
 だから、沖縄の人は本枯節を喜ばず、焙乾した軟節ばかりを食べ、消費量が全国トップの原因である。鰹節を「食べる」ところに重点を置く習慣は、淵源を中国の医食同源思想に発するもので……
▽370 あとがき 2000年10月10日
13年かけて調査執筆

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