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海路残照<森崎和江>

■朝日新聞出版 20250328
 玄界灘につたわる、ほら貝を食べて不老長寿になった海女が津軽に流れていくという伝説からはじまり、若狭や隠岐、越後の寺泊、佐渡の小木…の八百比丘尼の跡をたどる。
 人魚の肉を食べて幾百年も生きつづけた八百比丘尼の伝説は、熊野権現の信仰を広めた比丘尼の語り口が一人称であったところから生まれたらしい。
 八百比丘尼の生誕地の小浜は、筑紫平定に向かった神功皇后の船出の地であり、筑紫の海女が小舟に乗ってアワビをとりにいった地方でもあった。
 鐘崎周辺では朝鮮半島を「川向こう」と呼び、「筑紫は朝鮮と親戚みたようなもんじゃから」という感覚だった。済州島に行った漁師が島の海女と結婚して郷里につれかえり、海女漁をひろめたという伝承もある。
 鐘崎からは、海女の家族が対馬や能登、五島列島や天草、瀬戸内海づたいに四国沿岸まででかけた。
 八百比丘尼などの伝説と、海女の暮らしとの関連をさぐっていく。
 海をなりわいとする海女たちには海神(女神)信仰があったはずだが、宗像族の海の女神が律令国家の時代にアマテラスの体系下にはいり、独立した信仰体系としては残らなかった。でも、若狭小浜には「宗像の神さま」をまつる神社があり、小浜には戦前まで潜水漁をする沖縄の糸満漁民がきていた。輪島の重蔵神社では、「舳倉島の女神さまが蛇神となって海を渡られ、その先の川尻…河井の浜でお産をなさった」と伝えられている。
 敦賀の常宮神社の祭神は神功皇后で、新羅から伝わった鐘は国宝だった。神功皇后の母親の母系の祖はアメノヒボコであり、父系はスガマユラトミでいずれも渡来者だった。
 八百比丘尼の伝承は、若狭以東では越後の寺泊や佐渡の小木近くなど、航路に近い地に残っている。一方、内陸の会津駒形村の金川寺にも伝わる伝説では、比丘尼の父を勝道上人としている。龍神が上人をもてなし、そのご馳走のなかに9つの穴のある貝があった。それを上人の娘が食べて八百比丘尼になった、という。これは海路ではなく修験とつうじて伝わったのだろうか。
 津軽では荒吐族(あらばきぞく)が独自の文化をもち、中央権力に対抗していた。荒吐族の中心勢力である安倍貞任の一党とその子孫の安東氏は、鎌倉幕府とも一線をおいて独自性をつらぬいてきた。「邪馬台国の王の安日彦命と長髄彦」が祖先とされた。津軽では、明治時代に祭神変更を強要されるまで、ほとんどの社は荒吐神をまつっていたという。
 九州の宗像神とちがって、津軽には、強固な共同体的氏神はない。人々が心をよせているのは地蔵と岩木山だという。「ごみそ」や賽の河原のちいさな地蔵たちに祈る人々の愛が信仰の核になっているという。
 青森の十三湊は、中世期に活躍した安東水軍が拠点として幕府と拮抗していた。安東氏と幕府のあいだに年3回北国船が往来し、その船の幕府側の湊が小浜だった。安東氏は、焼失した小浜の羽賀寺の再建にもかかわった。
 中世は、小浜や敦賀、十三湊などが栄えたが、船が大型になると、浅い港は沖積みしなければならなくなる。沿岸伝いの航行から沖乗りの大型船の時代になって、能登半島の福浦、佐渡の小木、越後の酒田、津軽の深浦などが活気をみせるようになる。
 深浦の船着き場近くには、船方衆が澗口観音とよんだ円覚寺と、問屋と遊女屋がならんでいた。寺の本堂脇の観音堂にはおびただしい船の絵馬があった。深浦のにぎわいは明治15,6年ごろまでつづいていた。
 十三湊も「料理屋もわたしが記憶しているだけでも十数軒ありましたから、明治のころはもった多かったでしょう。夜になると三味線がにぎやかでした。近くの村では十三をまちと呼んでいました」という。
 十三湊が米や木材の積み出し港として北前船に応じきれなくなった江戸期に、深浦についで鰺ヶ沢および青森が開港した。西廻り航路の主要港となった鰺ヶ沢に対して、青森は、東廻り航路で江戸廻米を運んだという。

「能登早春紀行」https://note.com/fujiiman/n/nf39662a53db9

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▽30 八百比丘尼の生誕地の小浜は、筑紫平定に向かった神功皇后の船出の港であり、筑紫の海女が小舟に乗ってあわびを取りに行った地方でもあった。その海女の足跡は、能登半島の沖合まで及んでいた。
…済州島も海女の島。
▽43 鐘崎でも、海女の仕事をする女もほとんどいない。ウエットスーツに酸素ボンベの男たちの仕事になった。
▽49 海に漂う死者はひろいあげて手厚くまつり、その霊を海に流す。…拾い仏を先祖とともに祀る。
▽50 舟で飯を食べるとき、必ず一箸、海に投げるばい。ムネンボウカイさまにあげます、というて…ムネンボウカイは海でのうなってまつりてのいない仏さんたい。無縁仏のことたい。
…春一番が吹き過ぎて…ころ、ドンザ帆とよぶ筵の帆をあげて海女の家族は漁に出ていった。対馬や能登へ行った家族はそのように早い季節にムラをでたようにみられる。
▽52 鐘崎の伝承には、済州島に行った地元の漁師が島の海女と結婚して郷里につれかえり、海女漁をひろめたというのがある。
…壱岐から東シナ海にあられる五島列島から天草にかけても、鐘崎の海女の出漁の跡がある。瀬戸内海づたいに四国沿岸にも筑前鐘崎から来たという浦がある。
 …長寿譚の背景となる海女の暮らしはこうして海を基盤とした独特の感性が培ったのだろう。
 白島という無人島で漁をする。数家族が組んで海辺に仮小屋を建てた。5月末に出かけて夏の3カ月を無人島ですごすのである。
▽61 「川向こうから来なさった神さまでしょうなぁ。筑紫はみんな朝鮮と親戚みたようなもんじゃから」(海を「川」とショウする)
▽62 響灘沿岸には古代熊鰐族とよばれた海人たちが活躍。鐘崎から西の浦々は宗像の神を信仰する海人たち宗像族が領有していた。
…沖ノ島は、海の正倉院とよばれ…、6,7世紀を中心とし、3世紀ごろから10世紀すぎまでの品がある。
▽68 宗像三女神のなかのイツキシマヒメ…この女神は後に宗像から安芸に勧請され、厳島神社の主神としてまつられた。
…日本列島では海神信仰は、独立した信仰として育っていかなかった。宗像族の海の女神が律令国家の当時に、アマテラスの体系下に入り…
▽74 与論島 明治2年の新政府の指令で、奄美大島のすべての島々に高千穂神社が建てられ、これまでのあらゆる進行と祭りとが禁ぜられた。…「ウンジャン祭(海洋神の祭礼)はそのまま廃止となり、シニュグ祭(血縁を中心とした地区ごとの祖先祭)は明治32年より復活」
▽81 若狭小浜 「この部落の神さまは宗像の神さまですよ」
…小浜の西に勢(せい)という村。八百比丘尼はこの浦の高橋長者の娘であった。
▽84 小浜の空印寺 八百比丘尼は入洞して亡くなる。寺には八百比丘尼の木像があり…。
▽85 貝原益軒の「おきのすさみ」という紀行文。隠岐の岩津というところに、比丘尼伝説がることを記した。大杉は、若狭国から人魚を食べたという尼が来て植えたもので、800年過ぎてまた来てみましょうといって去ったという。
…越後の寺泊近くの野積村、佐渡にも比丘尼の話。諸方の伝承の大半は、のちいなって若狭へ移ったという形になっている。
…勢に入る手前のあたりに、神明神社の台地が山を削ってつくられ、末社として八百比丘尼をまつる社が建っていた。「八百姫宮」
…海神の娘のトヨタマヒメが小浜にまつられ、若狭一宮。
▽92 小浜には戦前まで糸満漁民がきていた。…糸満漁法は潜水漁であり、その潜水の追い込み漁は、近年まで壱岐や対馬に残っていた。
▽94 若狭一宮 若狭彦姫神社 乙姫様をまつると伝えてきた。
…白石神社は若狭姫神社の元宮。丹生の採取技術者として新羅から招いたという。
…海の女神を信仰する古代人がいたが、女神が時代とともに神格をへんぼうさせ、信仰集団の生活も海洋の仕事ではなくなってきたということではあるまいか。
▽100 沖縄に近い島から明治30年代にやってきたお年寄り…大和では死んだら火で焼くそうなと、生まれて初めてこの世に火葬があることをご存じになったときのショックを話されていたんです。魂まで焼き殺される漢字で、なんとしてでも島に帰ろうと思ったっておっしゃっていました」
▽102中世期に活躍した安東水軍が十三湊を拠点に幕府と拮抗していた
…安東氏と幕府のあいだに年3回北国船が往来し、その船の幕府側の湊が小浜の古津であろうと…「安東氏は、…羽賀寺が焼けたあと、その再建をしたりしています。あの寺は…十一面観音の立像はすばらしいものです。」
▽112 敦賀の常宮神社 朝鮮から渡来した神を祭ると伝える。…祭神は神功皇后。境内に新羅より伝わった鐘が国宝として保存してあった。…神功皇后の母親の母系の祖はアメノヒボコであり、父系はスガマユラトミで、いずれも渡来者となっている。
▽121 (間垣) 切り取った竹を縄でキリキリとむすびあわせたもので、なかほどにくぐり戸もしつらえてある。垣根の先端に刈り残した葉群が白茶けていて、潮風のなかでかなしくやさしげにみえる。
▽125 (海女は)「何人かおるよ。それでもみな男だわ。このごろは、ほれ酸素ボンベでするから。女の海女はみんようになったわ」(〓そんな時代があった?〓)
▽129 舳倉島の奥津比咩神社 延喜式内社。かねてから鎮座していた神を鐘崎から着た人々が氏神とあがめた、とある。(昔は島で祭りをした)
▽132 舳倉のあわびの漁業権を、昔、名舟の者と争って勝ったと年寄りが伝えています。…名舟には海のなかに鳥居がたっていて、舳倉島を拝んでいます。」
▽133 若狭の矢代村の手杵祭り 漂着した唐の王女たちを杵でもって撃ち殺した罪をわびる祭りだと伝えてきた。
▽重蔵神社 「舳倉島の女神さまが蛇神となって海を渡られ、その先の川尻でお産をなさった。いま河井町といいますが、その河井の浜でお産をなさったと伝えています」
▽140 生産地のそばや都などの消費地に近い港湾が、集散港として発展した。小浜はその典型だった。が、船が大型化していくと浅い港は沖積みしなければならなくなる。小浜や敦賀は、こうして沿岸伝いの航行から沖乗りの大型船の時代になって次第にさびれ、にわかに活気をみせた寄港地が、能登半島ではそれまでの輪島を超えるにぎわいを福浦の港がみせるようになった。佐渡の小木、越後の酒田、津軽の深浦も。
▽146 西国には神功皇后伝承が多いが、東北には、能登の阿曇から船出をしたという阿倍比羅夫の北国征伐の話がふえてくる。国家統一の神話伝承の上からも、能登は分水嶺になっているかに思われる。
…新潟の寺泊 比丘尼の生誕地という伝承。
▽146 かつて北前船は能登を過ぎると佐渡の小木港に寄り、あとは飛島で風待ちをすると一気に津軽へ向かったという。
▽148 八百比丘尼伝承は、若狭以東では越後の寺泊や佐渡の小木近い海辺の村など、航路を思いうかべさせる地に残っている。が、内陸の、会津駒形村の金川寺にも伝わっているとのこと。伝承の北限であると柳田国男はしるした。…父を勝道上人とある。川の底から龍神があらわれて上人をもてなし、その馳走のなかに9つの穴のある貝があった。それを上人の娘が食べて八百比丘尼になった、という。
▽165 深浦 かつて民家のほとんどは丘の上にあり、船着き場近くには、澗口観音と呼んで船方衆がしたしんだ円覚寺と、問屋と遊女屋がならんでいたという。円覚寺は真言宗の祈願時寺。
 本堂脇の小さな堂宇に、おびただしい船の絵馬があるのだった。かららが信仰した観音堂である。
…深浦のにぎわいは明治15,6年ごろまでつづいていた。
▽172 岩木山 白装束で山かけという登山神事をしている。
 中世期に栄えた十三湊とは十三湖の水戸口をいうのだった。
 日本海ぞいにながながと十三湖までつづく砂浜を通り抜けたところがかつての港町十三である。その砂浜は七里長浜と呼ばれている。
▽181 この北辺の村々では、死者たちの霊はいつも生者の身近にいるように思われる。動物たちの霊魂もいっしょにそのあたりにいて、人々にかかわっているようだ。村びとは何か不安があれば、いたこやごみそに拝んでもらう。
▽186 料理屋もわたしが記憶しているだけでも十数軒ありましたから、明治のころはもった多かったでしょう。夜になると三味線がにぎやかでした。近くの村では十三をまちと呼んでいました。…
▽191 荒吐族(あらばきぞく)かつて独自の文化をもち、中央権力に単純に服従することはなかった。荒吐族の中心勢力であった安倍貞任の一党およびその子孫である安東氏は、鎌倉幕府とも一線をおいてその独自性をつらぬいてきた。
「邪馬台国王安日彦命長髄彦命に依りて国造られり」長髄彦は神武天皇とたたかって討死にした。
▽195 「津軽では以前はほとんどの社が荒吐神だったのです…明治以来影をひそめて祭神の名が変わっていきました」
▽200 安東氏は南部氏に攻めたてられ…1443年に渡島といった松前に落ちた。安東氏と関わりの深い小豪族のうち蠣崎氏がのちに勢力をのばす。松前と改姓し徳川藩政下の大名に。
▽204津軽には、強固な共同体的氏神はない。人々が心をよせているのは地蔵たちと、岩木山であるかに見うけられた。ごみその宣告のまま熊五郎稲荷を拝みつづけた女のように、また年ごとに洗い清める賽の河原のちいさな地蔵たちのように、よりそう人々の愛と信仰に支えられて、それは地吹雪の野に象徴的に生きているかに思える。
…十三湊が米や木材の積み出し港として北前船に応じきれなくなった江戸期に、深浦についで鰺ヶ沢および青森が開港した。西廻り航路の主要港となった鰺ヶ沢に対して、青森は、東廻り航路で江戸回米を運んだ。

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