■<武蔵野美術大学民俗資料室編 加藤幸治監修>誠文堂新光社 20250630
民具はおもしろいが、それをどう生かせるのかは見えてこない。民博で開かれた「民具のミカタ博覧会」は、「液体を運ぶ」「おろす」「酒をシェアする」といった身体性で民具をならべたり、信仰や怖れを表現する「見立てと表象」という切り口で紹介したりしていて興味深かった。
「博覧会」の企画者である加藤幸治さんが監修したこの本は、まさに、「博覧会」の切り口で民具を一覧するカタログになっている。おそらくこの本の発想をもとに「博覧会」が企画されたのだろう。
近年、アーティストやデザイナーが、聞き書きや現地踏査といったフィールドワークをして、土着性や風土のなかに表現のヒントを求めるようになってきた。
「生活文化から生じるもの」であるヴァナキュラーは、特定集団に独自の文化や言語を生みだす源泉とされる。文化を均質化していく(資本主義的な)力に対し、個性や多様性を認識させるカウンターカルチャーとして、生活の場でヴァナキュラーが生じつづける。宮本常一は「民衆の造形力というのは、その生みだす日常に即して生まれたものである」と言った。
−−民具のデザインを「先人の知恵」といったおとぎばなしに押しこめるのではなく、人間の文化変容のプロセスを知ることができるアーカイブとして、あるいは私たちの身体技法に通じる労働や動作のインデックスとして、再検討してみる価値がある−−というのがこの本のスタンスだ。
□1章 かたちと身体性
藁やスゲ、シュロの皮、海藻などでつくった蓑を雨具としてつかうのは「小さな森で身を包む」思考だった。男鹿のナマハゲでは、面と藁蓑をつけた異形異装の来訪神が登場する。蓑は、労働や旅の道具でありながら、神や神の使いをもイメージさせた。
嬰児籠(えじこ)は、フカフカの底と壁で囲まれ保温性に優れる。藁櫃は、飯を入れた木製の丸い櫃を納め、保温するためのもので、保温機能つきの炊飯器が発明されるまでつかわれた。嬰児籠も藁櫃も卵籠もいたわりながら扱うものをいれる。湯湯婆(ゆたんぽ)は、温もりと睡眠の幸福感から穏やかな丸みをおびる。介護や看護につかう尿瓶も同様だ。いずれも優しい形状の「愛あふれるデザイン」となっている。
魚籠は、体と一体になるようにくびれと丸みがある。体に寄り添うデザインは絶妙な曲線を生みだす。古代ギリシャは人間の裸体に美を見だしたが、体の曲線を反映した民具にもギリシャ彫刻とつながる美をかんじられる。
□第2章 ユーモアと図案
貧乏徳利(貸し徳利)は、酒屋が客に貸し出して、必要量の酒を注いで販売した。徳利に屋号や銘柄、電話番号が書かれて広告にもなった。大正末以降に硝子瓶が普及するまで、醤油や油などの容器としても利用された。
膳は、ちゃぶ台や椅子、テーブルが普及する以前、家族がそれぞれの膳で食べるのがあたりまえだった。民具を通して「暮らし方」や家族のあり方の変遷が明らかになる。
□第3章 見立てと表象
夢を具現化した縁起物である宝船は、縁起のよい初夢を見るためのものだ。その造形は、人々が夢の世界の実在を疑わなかったことを示す。盆に先祖をつれてくる藁馬、人をかたどった「流し雛」も、そこに神や精霊を託せるという確信から生まれている。
鳥取張子の「青のはなたれ」の面をつけた者は、祭りでだれの悪口を言っても許された。生活を拘束する秩序をひっくりかえし、祭りの場を日常から切り離す「青のはなたれ」は、ハチャメチャで自由な存在だ。そういう存在を神仏の名のもとにくみこんでいた。
祭礼や信仰と結びついた民具は、超越的な「見えないもの」を具現化したり、身のまわりの「見えるもの」を依り代にしたりする。それらはたんなる「シンボル」ではない。その造形の豊かさは、神や精霊の世界が「見えて」いたことを示すのではないか。「遠野物語」は、カッパや妖怪を実際に人々が「見た」から生まれたのだ。
内山節によると、日本人は「キツネにだまされる能力」を1965年ごろを境に失った。なにを意味するのか。
ーー伝統的なムラでは、個体としての生命と全体としての生命というふたつの生命観が重なりあって展開してきた。通過儀礼や年中行事を通して、人々は、自然の神々や死者とも結ばれているとかんじてきた。キツネにだまされる人間の能力とは、共有された生命世界の能力だった。人々が、自然や神々、歴史とのつながりを感じる精神を衰弱させて、キツネにだまされなくなってしまった(概略)ーー
この本で紹介されている民具は、生業(なりわい)の場において経験と工夫を積み重ねた機能と同時に、目に見えないものを形あるものにする想像力にあふれている。
だがムラの衰退ととおに。村人の大半はサラリーマンとなり、居住の場/生業の場だったムラは、生業の場としての要素を失った。同時に「もうひとつの生命観(キツネにだまされる能力)」も失われた。
もう豊かな民具は再現できないのかもしれない。
でも少しだけ民具に希望を託したい。
1970年の大阪万博で太陽の塔に世界の民具を収集する際、岡本太郎は「人間の生きる知恵のずっしりした重さ」を民具で表現しようとした。民具の「ずっしりした重み」の再評価は、現代の閉塞感を打開するヒントになるのかもしれない。
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・ヴァナキュラーは、地域性や特定の集団に独自の文化や言語を生みだす源泉とされている。常に更新されつづけていく生活文化であるから、過去と現在を地続きにさせる。文化を均質化していくようなあらゆる力に対し、個性や多様性の大切さを認識させるカウンター・カルチャーとして、生活のあるところには常にヴァナキュラーが生じつづける。
・宮本常一「民衆の造形力というのは、その生みだす日常に即して生まれたものである」 民具のデザインの素となるものを、生活文化や土着性(ヴァナキュラー)に見いだしていった。
・民具の分類にもとづいて構成されるのが一般的である。資料を整理分類する博物的思考と、地域の民俗文化を相対的に捉える民俗誌的思考から、民具研究では分類を重視してきた。民具学独自の方法を模索した宮本常一は、分類の軸を道具が持っている機能に求める機能分類を提唱した。「農耕容疑、漁労容疑……食料加工用具、煮焼・料理用具……運搬用具……信仰用具」
□かたちと身体性
・日本人のレインウェアは植物素材の蓑でした。そこにあるのは「小さな森で身を包む」思考。素材は、スゲや藁などが一般的ですが、西日本ではシュロの皮、東日本ではマダと呼ぶシナノキの樹皮、東北地方では海藻ももちいられます。
……小正月行事の男鹿ナマハゲ、遊佐(山形)のアマハゲ、吉浜のスネカなどでは、面と藁蓑をつけた異形異装の来訪神が登場……蓑は、日々の労働や旅の道具でありながら、人ではない神や神の使いをもイメージさせるものなのです。
・背負い梯子
梯子に車をつければ荷車になり、自ら背負えば背負い梯子となります。身ひとつではできない仕事を、道具の使用によって可能にする。背負い梯子は身体の拡張のもっともわかりやすい例といえます。【用の美、まさに民芸】
・嬰児籠(えじこ)
ぶつけても壊れない弾力性があり、内部はフカフカの底と壁で囲まれ、保温性に優れています。
藁櫃は、飯を入れた木製の丸い櫃を納め、保温するためのものです。(保温機能つきの炊飯器ができるまで)
嬰児籠、藁櫃、卵籠……は、大切にいたわりながら扱うものが入ります。その形状は優しい「愛あふれるデザイン」となり、それ自体の存在感もかわいらしい……
・湯湯婆(ゆたんぽ) 布団にいれるものは保温に優れた陶器でつくられました。温もりという身体性や睡眠の幸福感から、丸く穏やかな曲線の造形が生まれました。「優しさのデザイン」
それが発揮されたのが尿瓶です。介護や看護の道具であり、その造形はいたわりと慰めのデザインとなるのです。
体に寄り添うデザインは、絶妙な曲線を生みだします。魚籠は、体と一体になるようにくびれと丸みのある形状が工夫さており……
・背中当て
寒い地域に造形的なおもしろさが表れるのは防寒にも役だったこともうかがわせる。
雪国では結婚に際して花嫁が婚家に持ちこむ婚礼道具を運ぶための背中当てが作られてきました。祝いバンドリなどと呼ばれ、運搬という機能以上に「めでたさのデザインであり……民芸運動でも注目は、生活から生みだされたデザイナーなしのデザインの典型。
・行火(あんか)・置炬燵
熱を生かす、逃がす。
蒸籠 登り窯のような発想で上に積みあげていくため「連続的なデザイン」そのものは実に機能的です。
・箕(み)
・頭がけ背負い籠
額や頭に幅のあるひもを引っかけ、背中で籠を背負うという、もうひとつの頭の使い方は、アイヌや薩摩、琉球から東アジア全般、アフリカ、ヒマラヤ南部、インド北部、ネパール高地などに見られる習俗でした。……頭がけ背負い運搬は、忘れられた運搬法ですが、小中学生が無意識にしてしまうほど、実は効率的な運搬法といえます
・手提げ運搬具 把手
酒瓶や醤油瓶の運搬には、アケビのつる籠
クバの葉でつくられた使い捨ての鍋
・ワッパ
スギやヒノキの薄板を曲げ、桜皮でとめてつくる。半分食べたらふたに味噌と水を入れ、焼き石を入れて即席みそ汁も作れます
▽コラム
「造形物から学びはじめることが、考え方の土台をつくる」と宮本の考えのもと、学生と共に全国で民具の収集をはじめた。
日本観光文化研究所 1989年に閉鎖。収集された民具を民俗資料室が受け入れた。
□ユーモアと図案
・万祝着
着物は着てこそ完成するデザインですが、風呂敷もまた包んでこそ完成します。
・まなぐ凧
顔を正面から描く絵画表現は、日本人にはなじみの薄いものです。……凧に描かれた真正面から見た線対称な顔は異形の表現へと通じています
・貧乏徳利 別名を貸し徳利、通い徳利。かつては酒屋が徳利を客に貸し出して、そこに必要な量の酒を注いで販売していました。これによって得意客を囲い込めるだけでなく……徳利に屋号や銘柄、電話番号が書かれていて広告にもなった。大正末以降に硝子瓶が普及するまで、酒をはじめ、醤油、油などを入れる容器として利用された。
・物語と遊び バラモン凧
鬼というモチーフは、人間に対する脅威の象徴として、いつの時代もさまざまに描かれてきました。……郷土玩具に見られる鬼の造形は、鬼そのものを描くというより、鬼と対峙するヒーローとの戦いの熾烈さによって描かれてきました。子どもが喜ぶ玩具に鬼の表現が見られるのは、その恐ろしさを描くだけにとどまらず、それと戦うヒーローの存在を暗示しているからでしょう(〓怪獣やショッカー)
・虻凧
凧の起源には2つの説明の仕方があります。ひとつは情報伝達用具として空に掲げるものがおもちゃになったという説。もう一つは、空を飛ぶ生き物、撮りや虫の姿をまねてつくられたという説。とりわけ後者は、人間の能力にはない「飛ぶ」ということへの憧れから生みだされたという意味で、好奇心や創造性から具現化されたデザインと見ることができます。
□見立てと表象
・ダルマ 群馬県が全国シェアの80%を占めるとされる
・宝船 憧れの造形
宝船は夢を具現化した縁起物です。縁起のよい初夢を見るために、宝船を描いた木版画を枕の下に敷くというまじないから広がったとも言われています(〓夢を形にする想像力)。
初夢の縁起物といえば、一富士、二鷹、三茄子(茄子は成すに通じる)
夢も遊びに変えてしまう、日本人のユーモアを見てとれます。
・宮城県の松川だるま 下半分には波に乗る宝船が配され、その上には縁起物の米俵、松が積まれている。ふたつの縁起物を組み合わせている。
・模(かたど)りの造形 藁馬
盆に先祖を連れてくる精霊馬はその代表例……人を模ったものとして流し雛があります。
模りの造形は、そこに神や精霊を託すことで行事の意味を形として表現するものとなっているのです。
・福箕・熊手
ものをすくったり、集めたりする道具。目に見えない運や福、幸せなどを確実に集めたいという欲望と結びつき、願いを形にする見立てにもちいられます。
身近な道具である箕や熊手に、かき集められるだけの縁起物を装飾し、これを神棚などに掲げることで商売繁盛や家内安全を願うのです。
・底抜け柄杓
底がない柄杓で水をすくうと、とどまることなく流れるように、お産も滞りなく終わるように祈りをこめた。
・防ぎの草鞋 疫病や悪霊がムラの中に入ってこないように、またはムラの中にある災厄を外に追い出すため、草鞋などを村境に吊す行事。
・立(たち)絵馬
もともと馬は神の乗りものとして神聖視され、なにか特別な願い事に際して神馬として生き馬が献上されたのです。それを略して馬形の木の板を立てるものにかわり、次第に扁額に描いた大絵馬や、庶民の現世利益を願った小絵馬が主流になっていったのです。
……現代は歴史的に見て絵馬リバイバルの時代といえます。初詣だけでなく、安産祈願、初宮参り、七五三、受験合格祈願、病気平癒など、さまざまな場面で絵馬を掲げる機会があります。絵馬は、古代から現代まで地続きに営まれてきた生活文化の歴史を感じさせてくれる、なじみ深い民具といえます。
・エビス 幸福のイコノグラフィー
エビスは、あの世から冨や福をもたらしてくれる存在です。金烏帽子、福耳、化粧、狩衣に袴姿、ずんぐりした体型、釣り竿と鯛などが幸福を象徴するエビスのイコノグラフィー(図像学)といえます。
得た福の大きさの表現として、鯛を誇張する方向に展開していったのもおもしろい点です。
・面(めん・おもて)
ひょっとこは、東北地方では火吹き竹で火をおこす顔をした「火男」とされ、竈の神、すなわち家の守り神です。
……面に動作をかんじるとき、その表情はまったくちがったものとなるのです。
・獅子舞には、獅子をあやして鎮める役を演じるものが登場し、その代表的なものが猿田彦である。
・鳥取張子 「青のはなたれ」をつけた者は、祭りのあらゆる場においてだれの悪口を言っても悪態をついても許されたという。生活を拘束しているあらゆる秩序をひっくりかえし、祭りの場を日常から切り離すことができる青のはなたれは、人間社会にも神仏の世界にも縛られない自由な存在を表現している。
□おわりに
民具の地域性や分布、発展段階などを考える民具研究とは異なる観点で企画……
民具のひとつひとつが、人々の日常から生まれる固有な造形=「ヴァナキューな造形」への想像力をかき立ててくれる。
日常生活に育まれる誰かが設計したわけではない造形は、経験の積み重ねによる理にかなった機能や、目に見えないものを形あるものにする想像力にあふれている。使った人の労働の痕跡や長く使うためのつくろいも見られ、工夫や仕事の向上のための努力もかいま見られる。(〓生業と異世界のどちらも失われた)
民具の魅力は、実物をよく観察し、手にとってこそ見だすことができる。
民具の「デザインの素」は熟覧によってのみ得られるのである。
民具は、独特な造形に着目する新たな目で生かすことができるのではないだろうか。
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