■作品社250330
日本の宗教は多神教文化で、その根幹には神々の融合や統合がある。大国主神が古事記で5つの名をもち、日本書紀で7つの名をもつのはそのためだ。
4つのプレートと寒流・暖流がぶつかりあう複雑な自然が、異質な他者を結びつける多様な「神神習合」をつちかった。単なる「文化複合」ではないのだ。
自然災害が多いことで、自然の底知れぬ「むすひ」の威力に対する畏怖・畏敬の念が強化された。古事記の造化三神のうちタカミムスビノカミ(高皇産霊神)、カミムスビノカミ(神産巣日神)の「むすひ」は、自然生成力への畏怖・畏敬を表現している。
「むすひ」への畏怖畏敬から発した神道は、「詩」によって世界といのちを物語的にとらえる。
ラフカディオ・ハーンは「神道には哲学はない。体系的な倫理も、抽象的な教理もない」とのべたが、「場」「道」「美」「祭」「技」「詩」のなかに「潜在教義」が脈打っており、そのような神道の生命線を「生態智」と筆者は呼ぶ。
神道の特性は、感覚宗教、芸術宗教、物語宗教(詩的宗教)、生態智宗教であり、「伝え型」の伝承宗教、畏怖の宗教と位置づけられる。神道はたんなるアニミズムではなく、身体や感覚で「伝える」ある種の体系があるのだとみる。
一方、本来の仏教は「悟りの宗教」である。ブッダは生存世界を形づくる神道的な「生態智」からあえて距離をとり、それが生みだす輪廻から抜け出す道を示した。神道(カミ)と仏教(ホトケ)とはある意味で正反対なのだ。
ところが日本では、悟りを得たわけではない死者もホトケと呼ぶ。まったく異なる原理をもつ二つの神聖概念が、「神仏習合」という接合によって仏教の「日本化」が起こった。日本書紀には、最初の仏像は霊木から彫った木彫仏だったとしるされている。円空は木の中の神性を、木喰は木の中を仏性を仏像の形で彫りだしたという。これもまたホトケをカミとして二重崇拝していたことをしめす。
「魂=むすひ」は、万物の根源的な生成力・生命力をあらわす。それにたいして、仏教的存在観・現象観は「無常」ととらえられる。創造性にアクセントを置いたのが「むすひ」で、その破壊・崩壊・消滅にアクセントを置いたのが「無常」であり、双方を包みこむ語が「いのち」である。
神神習合・神仏習合の宗教文化の根幹には「言霊」があるという。
古くは自然のあらゆる存在が発する「こえ」を聴き取る態度があった。こうした言語生命観は、祝詞や歌謡や和歌などに定型化されることで言語呪術を生みだし、それらのうえに万葉集で言霊観念が生まれた。
この「言霊」観念が基盤となり、空海の「真言」思想に接ぎ木されることで、和歌即陀羅尼説などの神仏習合的な和歌・言霊=真言思想が生みだされた。真言密教が神道と仏教との接合部となり、天台本覚思想の「草木国土悉皆成仏」につながっていった。
本居宣長は、「雅の趣」「もののあはれ」を知ることがすべての知と行動の前提になるとし、日本の国がらを「詩人の国」とした。古事記も源氏物語も伊勢物語もその核心部分はすべて歌で表現されている。歌こそが日本文化のアイデンティティの根幹をなすものだと考えた。
西行は、歌を詠むことは仏像を造ることと同じで、歌を詠むことは瞑想であり仏道の修行であると説いた。
「歌」や「もののあはれ」の大切さは、まさに「センス・オブ・ワンダー」だ。自然と感応し、自然のなかに歌を見出す人は、豊かな人生と死を味わうことができる。それは能登のおばあさんを見るとよくわかる。本居宣長や西行は現代にまでつながる日本人の本質をついていたようだ。
人間は死を前にしたとき、「嘘をつけない身体」(=死に向かって衰弱していく身体)」と「嘘をつけない魂」(=見て見ぬふりをできない自分)のあいだで揺れ動く「嘘をつきたがり、見栄を張りたがる自分の心と行動」に気づく。
「死」への「移動」の際、「ことばは詩であり、動作は舞踊、音は天楽、四方はかがやく風景画」とかんじながら「行く」ことができるかが問われる。
「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」と紀貫之が書いたように、人は歌によって生きる、舞踊によって生きる。音楽とともに生きる。輝く風景のなかで生きる。そういう気づきこそが「嘘をつけない魂」に近づく道程なのだという。古事記や紀貫之がしめす人間観もセンス・オブ・ワンダーだったのだ。
アメノウズメ以来の「神楽」や「能」は神々や諸霊を鎮める霊的パフォーマンスだった。平安時代の貴族は、「物の怪」を祓うために莫大な精力を費やした。
江戸時代、仏教や儒教以前の日本人の心を研究する国学がおこる。なかでも「霊異」「霊性」に関心を寄せたのが、上田秋成と平田篤胤だった。
秋成は、「妖怪」を否定する儒者の合理性では、わが国の「神」も「幽霊」も理解できないと言った。篤胤は、大和心を固めるには死後の霊魂の行方を知らなければならないと、霊的世界を研究した。篤胤のもののけ・妖怪・幽冥界研究は、のちの民俗学に影響を与えた。
「遠野物語」が出版された明治43年は、ハレー彗星到来で世界中でパニックが起きた。正常な酸素を吸えなくなると信じられ、洗面器に水を張って長く息を止める練習がはやった。鈴木大拙訳によるスウェーデンボルグの「天界と地獄」など、神霊研究やオカルト研究書が次々に出版された。東京帝大の研究者が念写や超能力を研究し、柳宗悦は心霊研究の成果を「新しき科学」と称した。
20世紀後半のアメリカの「ニューエイジ運動」 「新霊性運動」の象徴的人物がシャーリー・マクレーンで、日本の「スピリチュアル・キー・パーソン」は美輪明宏だ。人間はこの地球という学校に「修業」しにきている霊的存在だと考え、「信じ仰ぎ自分を高める」「信仰」を評価する一方で、「宗教」は利潤を追求する「企業」と見ていた。龍村仁監督の「地球交響曲」もまた「霊性=スピリチュアリティの目覚め」を喚起した。
死生観の新しい体験的探求として、ジョアン・ハリファックスが考案したGRACEがある。仏教的実践の中核にあるコンパッションにもとづいて、ケア者自身のあり方や死生観を深めるプログラムが脳科学などの成果を取り入れながら考案された。ハリファックスは、人は死に向かいながらもさらに生き生きすることができ、死に向かいながら力強さや知恵や優しさが生まれると説く。…死の受容の過程で、自分自身との和解、他者との和解、自然・生命・宇宙との和解がおき、「ごめんなさい。ありがとう。愛している」と心の底から言えるとしたら、死の受容は穏やかでピースフルなものになる、という。
柳宗悦は「私たちは健康な文化を築かねばなりません。日本を健康な国にせねばなりません。それには国民の生活を健全にさせるような器物をうみそだて、かかるものを日々もちいるようにせねばなりません」と言った。柳の「健康」とはスピリチュアリティ(霊性)と言い換えられる。もののなかにモノ(霊)が宿るさまが「健康」なのだ。
物質消費文明の破局が露わになるなか、新しい「もの」の見方が必要とされている。柳らの民芸運動を21世紀の新たな感覚論や身体論や存在論として再編し、「ものづくり」や「ものがたり」に生かすべきだという。
輪島塗的などの漆器や、各地の焼き物の豊かさへの新たな霊的な気づき……につなげるにはどうしたらよいのだろう。
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死生観をかたるのになぜか安部公房と三島由紀夫からはじまる。
安部公房にとってすべてが「仮設」だった。どこにも実体はないから、「心」「内面」「主体」もありえない。「近代的自我」がなりたたない。
三島も同様だ。彼は民俗学を「奥底にあるものをつかみ出す」学問として徹底的に批判した。形あるものをそのまま受け取らず、常に「裏」や「奥底」を探り当てずにはいられない「はぎ取る」思考に頽廃と下品と虚無を感じとった。
ニーチェ主義者だった三島は「私には無意識はない」と豪語。「奥底」ではなく表面の「フォルム=形」に執心した。
▽54 梅原猛と三島由紀夫は同学年。三島は東京帝大法学部、梅原は京都帝大文学部哲学科。三島を徹底批判。
▽63 江戸時代の円空や木喰の一木彫 なぜ日本人は一木仏にこだわってきたか。木の中にいのちを、気を、魂を、霊性・霊威を感じとってきたからだ。
▽66 スピリチュアルブーム 1995年の阪神淡路大震災とオウム真理教事件 破壊と混迷と不安の時代のはじまりの象徴。98年以降、自殺者数は3万人を超えた。
…不安の高まるなかで、人々は空虚な穴ではなく、つながりの回路としての孔を求めている。この世の関係性と因果律で説明しつくすことのできない異次元回路の孔の物語によって心の空虚を埋める。
▽67 日本列島に独自の文化形態が生まれたのは縄文時代で、その期間は1万年以上におよぶ。
▽68 巨大建造物をつくるという行為がもつコスモロジカルな転換「縄文革命」があった.三内丸山の大型掘立柱建物跡、真脇の環状木柱列。
能管の八つ割返し竹製法 真竹を割ってあえて裏返しにして8本を貼り合わせる。繊維の固い部分を内側にすることで、、吹いたときに高い張りのある音を出せるようになる。
能管の奇妙な音は、縄文遺跡から出土する「石笛」とよばれる石が生みだす音と酷似している。
縄文の巻貝型土製品 ほら貝は縄文時代から食され、演奏していた可能性も。…仏教の影響で奏されるようになったのではなく、縄文時代からの音の霊性感覚が仏教伝来と共にいっそう強化され、それが修験道の法螺貝の独特の響きや節回しとして結実したと考えられないか(〓法螺貝と八百比丘尼の関係)
▽73 真脇のウッドサークル 「円満虚無霊性」 宇宙そのものの模造、ミメーシス。宇宙のコスモス全体、つまり100%の「円満」を具体的に表す象徴物である。
▽78 日本書紀 日本で最初につくられた仏像は木彫仏で、…神木、霊木だった。ホトケをカミとして二重崇拝していることになる。
▽79 〓樹をきって船をつくり「枯野」となづけた。…老朽化したら「塩を焼き」、焼け残った部分から琴をつくった(海洋学者の本にはカヌーとしていた。)
▽85 源氏物語の紫式部は、「物の怪」現象が単に物語の世界だけではなく、宮廷の日常生活の節々にしんとうしているさまをつぶさに観察していた。
…「物の怪」をおそれ、ちょうふくのためにありったけの精力と財力を使う貴族の心と行動が生々しく描かれている。
祟りも怨霊も呪いも横行していた不安の都が平安京の真の姿だった。
▽89 猿女の祖アメノウズメは、「俳優(わざをぎ)」の祖にして「鎮魂」「神楽」の祖となる…能は神々や諸霊の怒りや悲しみを鎮めとく「神楽」的な霊的パフォーマンス。
▽95 江戸時代になると、仏教や儒教によって影響をうける前の日本人の心と文化を古言を通して研究しようとする思想運動が国学として展開されてくる。そのなかでも「霊異」「霊性」にもっとも強い関心を寄せたのが、大阪出身の上田秋成と秋田出身の平田篤胤である。
秋成は、「妖怪」現象を否定する儒者の合理性や「善悪邪正」を判断する道徳律をもってしては、わが国の「神」も「幽霊」も憑きもののことこともよくわからない…江戸儒学的な人間「中心」主義はない。
篤胤は、大和心を固めるためには死後の霊魂の行方を知らなければならないとし、幽冥界すなわち霊的世界の研究に精力を注いだ。妖怪の存在証明は、そのまま神および幽冥界の存在証明と連動していた。
…篤胤のもののけ・妖怪・幽冥界研究は、民俗学の成立に影響を与えることになる。
日本民俗学の確立とは新しい「日本霊異記」の編纂と解析でもあったといえるだろう。
…「遠野物語」が出版された明治43年は、ハレー彗星が到来することで世界中がパニックが起きた。日本では、彗星到来時に正常な酸素を吸えなくなると信じられ、洗面器に水を張って長く息を止める練習が流行ったほとである。…熊楠は神社合祀反対運動を展開。…鈴木大拙の翻訳によるスウェーデンボルグの「天界と地獄」…など神霊研究書やオカルト研究書が矢継ぎ早に出された。東京帝大の福来友吉は、念写や超能力の研究を進めたが、物理学者からの批判で帝大を辞職。柳宗悦は「白樺」を創刊し、心霊研究の成果を「新しき科学」と称して論考を発表した。
…大本教の出口王仁三郎 宗教・宗派を超えた「霊性」研鑽の場たることを主張。
「芸術は宗教の母」と主張し、芸術生活運動を展開。…出口にとって最高最大の芸術化は「神」である。宇宙全体が「天地間の森羅万象を含む神の大芸術」であると捉える。
▽105 アメリカの「ニューエイジ運動」 「新霊性運動」の象徴的人物がシャーリー・マクレーン。
日本でシャーリーに匹敵するスピリチュアル・キー・パーソン」は美輪明宏。自分を天草四郎時貞の生まれかわりであると自覚する。…日蓮聖人は「南無妙法蓮華経」という言葉を、宇宙の神々すべてを一声で呼び表す言葉として考え出した。
…美和によれば、人間はこの地球という学校に「修業」しにきている霊的存在で、…美=文化=霊性という理解。
「信仰」は信じ仰ぎ自分を高めていく作業で高く評価する一方で、「宗教」は利潤を追求する「企業」として厳しい見方をする。「神さまと人間のあいだに立ちはだかって、それにはこういう方法も、こういう拝み方もありまっせ、こういうグッズも売ってまっせ、という問屋さんみたいな流通機構の役目をしているのが宗教なんです。だから、宗教というのは企業です」 「宗教は神聖でも神秘的なものでもありゃしません」と明言する。
「法王」「教え主さま」と呼ぶのは言葉の粉飾詐術で、企業らしくみな「会長」と呼べば言いと主張し、「大僧正」「枢機卿」とかの怪異も「専務」「常務」と同じ…戸別訪問で勧誘する人は「営業部員」であるという。
▽109 2006年、高野山大学で「スピリチュアルケア学科」が日本ではじめて開設された。2006年度から「密教に特化した大学に進化」し、密教学科とスピリチュアルケア学科の2学科だけに改組した。2010年にスピリチュアルケア学科の学生募集を停止したが、東日本大震災後のスピリチュアルケアの重要性の高まりから2014年に別科スピリチュアルケアコース、15年に大学院臨床宗教教養講座を開設。2017年にはスピリチュアルケア師の資格などに関する教育課程を統合し、高野山大学密教実践センターを開設した。
▽112 別の局面から「霊性=スピリチュアリティの目覚め」を喚起したのが龍村仁監督の「地球交響曲」である。
「霊性の芽ははぐくまなければ開花しない」
▽115 分子生物学者のジョン・カバット・ジン ストレス低減法として仏教色を廃して医療的観点から再編・処方された「マインドフルネス瞑想」が流行
…現代における死生観の新しい体験的探求の一つとしてGRACE。ジョアン・ハリファックスが考案した死にゆく過程とともにあるBeing with Dyingのプログラムを研究し実践する集まり。仏教的実践の中核にあるコンパッションにもとづいて、ケア者自身のあり方や死生観を見つめ深めていくプログラムが最新の脳科学や認知科学の成果を取り入れながら考案されている。
マインドフルネスの3つのカギ。①気づき②リラックス③手放すこと。
ハリファックスは、人は死に向かいながらもさらに生き生きすることができると言う。そこから力強さや知恵や優しさが生まれてくると言う。
…死の受容の過程で、自分自身との和解、他者との和解、自然・生命・宇宙との和解。一言で言えば「ごめんなさい。ありがとう。愛している」ということを心の底から言えるかどうかである。素直に言えるとしたら、死の受容は穏やかでピースフルなものになるだろう。
▽119 宗教の根本3要素は神話と儀礼と聖地である。
神話は、人間のアイデンティティの根幹を支えている物語で、世界と人間についての物語的説明と言語表現である。私たちは生きていく上でなにがしか、そのような根源的な物語を必要としている。
…聖地は、超越世界への孔・通路・回路・出入り口。
▽122 死を前にしたとき、否応なく嘘をつけない自分自身に直面する。「嘘をつかない体=死に向かって衰弱していく身体」と「嘘をつけない魂(霊性・スピリチュアリティ)=見て見ぬふりをできない自分」の間で揺れ動く「嘘をつきたがり、見栄を張りたがる自分の心と行動」に気づくことだろう。
▽124 死は、宇宙の微塵となって…「時間の軸」の「移動」であることにまちがいない。その「移動」の際に、「詞は詩であり、動作は舞踊、音は天楽、四方はかがやく風景画」のような詩や舞踊や音楽や絵画とともに「行く」ことができるかが、この世における「各別各異」の人生修行になる。その生き方にごまかしはきかない。
人は何によって生きるか。歌によって生きる、舞踊によって生きる。音楽とともに生きる。輝く風景のなかで生きる。…「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」(紀貫之)であるが、それは「嘘をつけない魂」に近づいていく道程だといえるだろう。
▽125 東日本大震災 諸宗教・宗派の連携を促した。「臨床宗教師」という新しい公共的な宗教家が生まれてきた。
…「心のケア」が問題となった阪神淡路大震災後の臨床心理学や精神医学の隆盛に対して、東日本後においてはそれに加えて、スピリチュアルケアや宗教的ケアが前景化してきている。
▽132 古事記における「むすひ」の神々の自然生成力への畏怖・畏敬の心の芽生えが、「草木国土悉皆成仏」という天台本覚思想などを生みだした。自然災害が多発するということは、言いかえると、自然の奥深い底知れぬ「むすひ」の威力に対する畏怖・畏敬の念が強化され堆積されていくということ。「自然」や「むすひ」への認識なしに日本での「スピリチュアルケア」を実践することには根本的な不足や欠落があるということになる。
…国生み神話も国来伝承も龍蛇図や鯰絵もみなプレート的流動性や噴火・地震・造山活動の生成と関係していると解釈できる。
▽142 本居宣長は、人としての根幹・大事は「雅の趣」をしることにあると。それが「もののあはれ」を知ることであり、すべての知と行動の前提になるのだと。…歌を詠むことはうまい下手が規準ではなく、あくまでも「もののあはれを知る」ことが規準なのである。日本の国がらを「詩人の国」と考え、そのような詩的人間の形成こそが道学びの第1階梯であると断固主張するのである。(自然と感応する能登のおばあちゃんの心〓)
源氏物語も伊勢物語もその核心部分はすべて歌で表現されている。古事記もしかり。
歌こそが日本文化のアイデンティティの根幹をなすものであり、国学がその歌の研究から出発したことの意味を確認しておく必要があるだろう。
▽149 聖地と歌との関係。歌垣 歌会が筑波の岳でおこなわれた(常陸国風土記) 沖縄のモーアシビは満月の夜、海辺で歌が歌われるという風習があった。
▽150 祈りが捧げられる祭りの場所を古語で「齋庭(ゆにわ)と言った。(〓大斎原)
▽153 熊楠の神社合祀反対運動は、日本人にとっての「神社」という様式をとった「聖地」の意味と意義を余すところなく示している。
▽ 「延喜式神名帳」927年完成 3132座。神社数としては2861。「大」の社格の社は492座、小の社格は2640座。
▽155 日本で最初の本格的都城は藤原京。三輪山を見渡すことのできる大和三山のなかにつくられた。
平城京にとっての聖地は春日山と御蓋山 東大寺・西大寺と興福寺
平安京においては、比叡山と貴船・鞍馬山が重要だった。日吉大社、上賀茂、下鴨神社が鎮護拠点として重視された。
▽157 三輪山は、奥津磐座、中津磐座、辺津磐座の高中低層の磐座群があり、低層の辺津磐座は磐座神社として祀られ、少彦名神を祭神としている。…三輪山北西麓には檜原神社。崇陣天皇の世に最初にアマテラスをほうさいした場所、すなわち元伊勢のはじまりとされる。
▽158 三輪山北西麓に3世紀以降に大規模古墳が築造されたのはなぜか。この一帯に大和王権が確立されたからである。卑弥呼の墓という説も。
▽161 大物主とセヤダタラヒメの間に生まれた子ども。神武はその「神の子」である娘を妻とした。天の神の子孫である神武天皇が大物主神という地の神の子孫ホトタタライススキヒメと結ばれることによって、酋長的に天と地、天下を統合したということである。
▽165 天智天皇は、近江朝の守護神じゃともいうべき日吉大社の主祭神として、三輪山から大物主神を勧請し、東本宮の祭神として丁重に祀ったのである。
▽171 出雲大社より東南東500メートルのところに「命主社」(神魂伊能知奴志神社)という小さな神社がある。延喜式内社。造化3神のうち「神産巣日神」を祭る。奥には巨岩の磐座があり・・・高さ約20メートル、太さ約6メートル、枝張り19メートルの樹齢1000年の椋の大木がそびえている。
…出雲大社の主祭神の大国主神は、古事記では一番多い異名をもつ神である。
…「魂=むすひ」は、天然自然万物の根源的な生成力・生命力を表す言葉。それにたいして、仏教的存在観・現象観は「(諸行)無常」としてとらえられるが、ともに生成変化する存在の裏表をなす感覚である。創造性のほうにアクセントを置いた後が「むすひ」で、その破壊・崩壊・消滅の方にアクセントを置いた語が「無常」。そのような「むすひ」と「むじょう」の両方を包みこむ語が「いのち」である。
▽179 神道の起源 縄文・弥生・律令・平安・鎌倉 5つの説。
縄文説は、神道的思考の根源にあるものをアニミズムや自然崇拝に認めようとするもの。
弥生説は、稲作農耕と神道の成立を結びつける考え。
律令説は、律令体制が確立してくる時代に神道の制度の骨格が定まったという考え。
平安説は、奈良時代から平安初期に、仏教精力とは距離をおく神仏が分離がおいこなわれたと考える。
鎌倉説は、神道思想や神道教義が確立したころを神道の成立と考える立場。
①古代以前〜神神習合時代
②古代・中世・近世〜神仏習合時代
③近代〜神仏分離時代
④現代・未来〜神仏諸宗共働時代
▽ 神仏習合が成立する基盤に「神神習合」があったと私は主張してきた。「神神習合」は、縄文時代以前、旧石器時代や新石器時代からのユーラシア大陸北東部や日本列島の形成期の歴史のなかで培われた神観が生みだした初期文化形態であると仮説した。
神神習合や神仏習合を支えているのは、列島の地質学的・地理学的条件であると指摘した。複雑で多様な列島の自然風土が、異質な他者を結びつける複雑で多様多彩な習合文化をつくりあげていく土壌になった
…プレートと海流と文化・文明の十字路の上にあるのが日本列島である。これは「神仏多様性」を生みだすことになる条件であり、土壌であった
▽192 古代の言霊思想の発生
①はじめに、自然のあらゆる存在が言葉を発する言語意識や言語感覚が、あらゆる自然の物音を「こえ」として聴き取る態度があった。
②そのため「語(こと)問ひ」には得体の知れない霊力があると恐れられた。
③原初的な言語生命観は、祝詞や歌謡や和歌などの定型化された詞章を唱えることによって神威に祈請し、…言語呪術を生みだした。
④それらのうえに「万葉集」で言霊の観念が生まれてくる。
⑤ほぼ同時期に、古事記や日本書紀において「事(言)代主神」など言葉を司る神々の存在が物語られるようになる。
▽194 「万葉集」時代に顕在化した「言霊」観念が基盤となり、空海が招来した真言宗の「真言」思想に接ぎ木されることによって、やがて和歌即陀羅尼説などの神仏習合的な和歌・言霊=真言思想が生みだされていく。
五大皆有響
十界具言語
六塵悉文字
法身是実相
この空海の真言密教が神道と仏教との最大の接合部となった。天台本覚思想の「草木国土悉皆成仏」にまでつなぐ糊しろだった。
▽196 「草木言語」といういのちの言葉の感覚が「言霊」という言語観念を生みだし、やがて仏教と融合して「草木国土悉皆成仏」という命題や和歌即陀羅尼思想を生みだした。
▽200 遠藤周作 汎神論的な感覚 「唯一絶対」を限りなく相対化して、八百万のワンノブゼムに溶かし込んでしまう。
▽206 木喰上人の仏像を高く評価したのが、柳宗悦だった。
円空は木の中の神性を、木喰は木の中を仏性を彫りだした。
神のよりつく樹、魂宿る木から仏がほりだされた。カミからホトケを彫りだした。神を仏として二重崇拝した
▽209 「民芸」「私たちは健康な文化を築かねばなりません。日本を健康な国にせねばなりません。それには国民の生活を健全にさせるような器物をうみそだて、かかるものを日々もちいるようにせねばなりません」。柳の言う「健康」とはスピリチュアリティ(霊性)とも言い換えることができるだろう。もののなかにモノ(霊)が生き生きと宿りはたらくさま、それが真の「健康」なのだと。
▽210 日本の最初の「ものづくり」は、天岩戸の前でおこなった神事のための祭具をつくることから始まっている。
▽212 「りんごはなんにもいわないけれど リンゴの気持ちはよくわかる」多くの人が共感したのは、「リンゴの気持ちがわかる」たくさんの人がいたから。これこそが「もののあはれを知る」という感覚の発露ではないか。
▽近代以降の物質消費文明の破局が露わになるyなか、新しい「もの」の見方が必要とされている。上述したような「モノ学」を21世紀の新たなる感覚論や身体論や存在論として再編し、それを「ものづくり」や「ものがたり」に生かす回路を見出したい。(〓モノとしての輪島塗 民芸とのつながり)
▽216 日本は歌の国、詩の国、すなわち「言霊の幸はひ、助くる国」(万葉集)となっていった。
▽日本の宗教文化は多神教文化である。…その根幹に「神神習合」つまり神々の融合や統合を含んでいる。「古事記」では「大国主神」は5つの名をもち、「日本書紀」では7つの名を持つと記されているが、「神神習合」の典型的事例である。
…4つのプレートの「習合」列島。その地質学的特性が文化的特性としての「神神習合」や「神仏習合」をいっそう強烈に促進したのである。地球科学的かつ生態学的な諸条件に根ざして発展したのであって、単なる文化複合ではない。自然複合と文化複合の複雑微妙な絡み合いのなかで、古き地球の記憶と記録が諸伝承となって保存されてきたのである。
▽219 歌を一首詠むことは一体の仏像を造ることと同じである。そして、その一首のなかの「一句」を詠み思うことは秘密真言を唱えることと同じである。こうして、歌を詠むことは瞑想であり、詠歌は即仏道であるということになる。歌を詠むことが仏道の修行なのである(西行)。
▽224 多くの神社人は、神道で一番大事なのは「掃除」だと言う。そこにこそ、生命の原初形態、純粋始原を賛美し慈しむ心と感覚があるということである。
…「朝日に匂ふ山桜花」に象徴される純粋自然の始原性を本位とする「潜在教義」に裏打ちされている。神道とはこうした「潜在教義」をもった「感覚宗教」であり「芸術・芸能宗教」である。その感覚性や芸術・芸能性が「祭り」という身心変容儀礼のワザとなっていく。
▽226 「詩」によって世界といのちを物語的に捉え、祭りの回路を通して再受肉する。神道は「詩の宗教」であり「物語宗教」である。教え型の宗教にして悟りの宗教としての仏教に対して、神道は伝え型の宗教にして畏怖の宗教であるといえる。
…ラフカディオ・ハーンが述べたように、「神道には哲学はない。体系的な倫理も、抽象的な教理もない」だが、その神道の「あらわれ」のなかに「場」や「道」や「美」や「祭」や「技」や「詩」を通して神道の「潜在教義」が脈打っている。そのような神道の生命線を私は「生態智」と呼んでいる。
…神道の特性を、感覚宗教、芸術宗教、物語宗教(詩的宗教)、生態智宗教とし、伝え型の伝承宗教、畏怖の宗教と位置づけることができよう。
(たんなるアニミズムではない〓、理性ではなく、身体でうけとめる体系をつくっている、とみるのか〓〓)
▽228 ブッダとは生存世界を形づくる「生態智」からあえて距離をとり、それが生みだす輪廻の鎖から抜け出す道を指し示し、自らその道を成就した知恵ある人間であり「ちはやぶるカミ」と呼ばれる地からある諸存在(自然・動植物・英雄・先祖)とはまったく異なる存在である。
ところが日本では、死者のことも「ホトケ」と言ったりする。「ホトケ」の領域が、悟りを得たわけではない死者をも指すまでに拡張されていく。これは、本来のブッダ観からすれば、完全な逸脱、逆転ともいえる転倒である。本来、「カミ」と「ホトケ」はまったく異なる存在形態だからだ。
「生態智」思想からあえて離れたブッダの実践がさらなる洗練された「生態智」思想に回帰した日本仏教の変成した姿である。
▽229 「神は在るモノ/仏は成る者」「神は来るモノ/仏は往く者」「神は立つモノ/仏は座る者」
神と仏は180度異なる存在である。まったく異なる原理や志向をもつ二つの神聖概念が、日本列島のなかで「神仏習合」思想ないし文化という接合形態が生まれ、ぞうしょくしつづけた。はなはだしい仏教の「日本化」が起こった。「一仏成道観見法界、草木国土悉皆成仏」と命題化された天台本覚思想はその極致である。
日本という「自然風土」のなかで形成されてきた「神道」と、その影響もしくは濾過作用によって変容しつづけてきた「日本仏教」。そして両者の習合形態としての「修験道」。
その日本の宗教文化の根幹に「言霊」の感受とはたらきと思想があるのである。
▽248 明治13年の神道事務局神殿建設の折「大国主神」の合祀を巡り、神道界は真っ二つに割れた.千家尊福は、幽界の大国主と顕界の天照大神を共にまつるべきだと主張した。元薩摩藩士で伊勢神宮大宮司だった田中頼庸が真っ向から反対。この論争では収集がつかず、…明治14年、祭神は、天照大神は祭られたが、大国主神は祀られなかった。
▽250 日本再生に結びつけるには、「天つ神」と「国つ神」の再結合・再構築、「神合わせ・国合わせ」が必要。その根幹には、愛といのちの讃歌の歌心と出雲3種の神器の「命主」の息吹が、また、能登の真脇遺跡や青森の三内丸山遺跡のスピリチュアリティが蘇らなければならない。
そのような息吹の生成を取りもどしてこそ、「超少子・超高齢社会の日本が未来を開く」が可能となり…
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