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人間とは何か 実存的精神療法<V・E・フランクル>

■春秋社250628

 強制収容所を生きぬき、妻も親も失っても「生きる意味」をおいつづけたフランクルに魅せられてきた。この本では、フランクルの思想や精神医学者としての「ロゴセラピー」の実践が詳細につづられている。

 フロイトの精神分析は、人間は性的欲動(リビドー)に駆りたてられ、快楽への意志によって支配されているものとみなす。そこでは、「無意識」と現実との間に妥協をもたらすことをめざす。
 アドラーの個人心理学は、そうした精神分析の「適応」を超えて勇気をもって現実を「形成」することを目標とし、他人から認められようとする努力に注目する。人間の現存在は「力への意志」によって規定されているとみる。
 だが心理学主義は単純な名誉欲にこだわり、根源的に自己を永遠化しようという努力には目がとどかない。芸術は人生や愛からの逃避にすぎず、宗教は、宇宙の圧倒的な威力にたいする原始人の恐怖に「すぎない」とされる。
 「人間」の全体像を理解するには、精神分析による「適応」と個人心理学の「形成」にくわえて、「充足」というカテゴリーが不可欠だとフランクルは説く。人生の「充足」は、その人にのみ課されている価値可能性へと方向づけられている。実存分析は、人間の現存性の中枢は意味への意志にあるとみなす。

 動物は環境に順応する知恵(本能)しかないから、自分自身を超えて立つこと(超越的なものを考慮すること)、自分自身と向きあうことができない。動物は「世界」をもたず、ただ環界(環境世界)をもっているにすぎない。
 「動物ー人間」「境界ー世界」の関係から推定すれば「超世界」に行き着く。動物の境界からはそれに優越する人間の「世界」を理解できないのと同様、人間は「超世界」を把握できない。できるとしたら、信仰によってのみである。家畜が、人間が自分をどのような目的で使役しているか知らないのと同様、人間は、世界にどのような超意味があるか知ることはできない。
 人間は、生物学的・心理学的・社会学的に支配されているが、こうした制約に対して態度を選択する「自由」をもっている。実存哲学は、人間の存在を、単に「ある」のではなく、そのつど新たに決断する存在であると位置づけた。ロゴセラピーはそうした実存主義を基盤にしている。
 ロゴセラピーの実存分析では、人間的実存の本質的根拠である責任性を意識にもたらそうとする。責任とは、意味に対する責任だから、人生の意味への問いが中心となる。
 人生の意味は快楽や幸福にあるのではない。快楽や幸福は目標ではなく、努力が実現されたことの結果でしかない。
 人間は幸福であることではなく、幸福であるための根拠をもつことを欲している。だから、人間が快楽や幸福を直接求めようとすればするほど、快楽や幸福は逃げ水のように遠ざかることになる。
 人間のするべきことは、常に、「いま・ここ」で「なすべきこと」という具体的な形で提示される。それぞれの人はそれぞれの瞬間において、ただひとつの使命をもっている。こうした個人の唯一性と状況の一回性は「死」という期限によって強いられたものであり、人生の意味にとって本質的なものだ。
 人生は今まさに撮影中の映画であり、あとから「編集」されてはならず、一度「撮影」されたものは後戻りできない。人生は死ぬまでなにかの「途中」なのだ。
 「創造価値」を生み出せず、美術鑑賞のような「体験価値」を得る機会がない強制収容所でも、「いま・ここ」でどんな対応をするか決断するという「態度価値」は残る。人間は意識があるかぎり態度価値にたいして責任を負っている。
 実存哲学は、人間の現存在を本質的に具体的なもの、「各人ごとのもの」として際立たせた。「人はいかにして自分自身を知ることができるか。それは決して考えることによってではなく、行為することによってである。汝の義務を果たそうと努めよ、そのとき汝はただちに、汝が何であるかを知るであろう。では、汝の義務とは何か。日々の要求がそれである」というゲーテの言葉は実存哲学の本質を示している。
 自分の責任を意識しない人は、人生を「与えられたもの」と考えるのに対して、実存分析は、人生を超越的な審級から使命として与えられたものとして見ることを教える。
 だから、人生の意味は、人間が問うものではなく、人間は人生から問われる存在であり、人間は責任をもって人生に答えねばならない。その答えは、人間が責任を負っている具体的空間における具体的な行動を伴ったものでなければならない。

 モザイクの石の独自性が価値を得るのは、モザイクの全体に関係づけられることによってのみである。それと同様、人間の個人的な独自性が意味をもつのは、その上位にある全体(共同体)との関係においてである。
 共同体の意味は個性によって構成され、個性の意味は共同体によって成立する。一方、「大衆」の意味は、構成する個々人の個性によって妨げられ、個性の意味は大衆のなかで消失する。
 大衆のなかへ逃避した人間は責任性を失う。真の共同体は責任ある人格の共同体である。それに対して大衆は非人格化された存在の集まりにすぎない。人間の自由は、あらゆる制約の只中における自由であり、制約こそが人間の自由の出発点といえる。人間は自由存在であるがゆえに責任存在なのだ。
 個性が共同体と結びつく生業のある共同体(ムラ)は、たとえば災害時にひとりひとりが責任を自覚して行動するから強い。都市の大衆は顔のないアノニマスな存在の集まりだから無力におちいりがちだ。

 強制収容所などで「未来」を失ったとき、ただ現在だけを漫然とすごすことになる。そんな場での精神療法は、生きなければならないということを「未来の相のもとに」見る時のみ可能になる。「もはや人生からなにも期待できない」と自殺しようとしていた男性は、地理学の本を書くという具体的な使命をもつことで意欲をとりもどした。
 収容所からの解放された人々は、もはやこの世で怖れるべきものは神だけだと実感した。多くの人々が、神をふたたび信じることをまなんだ。収容所だけではない。身近な人の死に直面した人間は、超越的なものを実感するようになる。
 ロゴセラピーでは、意志の自由、意味への意志に加えて「苦悩の意味」を柱とする。「死の運命と苦悩が人生からはぎとられるならば、人生はその形と姿を失ってしまう」「人生は本来、それが困難になるほど、それだけ意味に充ちたものになる」「輝くべきものは、燃えることに耐えなければならない」
 愛については以下のように論じる。
 性的欲動の満足は快感を与え、恋愛は喜びを与え、愛は幸福を与える。恋情は人を盲目にするが、真の愛は「永遠の愛」として体験され、人間の目を鋭くする。愛は他者をひとつの独自世界としてわれわれに体験させ、それによってわれわれ自身の世界をいっそう広くさせる。愛は、相手の死を超えて持続する。死によって人格そのものが存在しなくなるのではなく、その人格が自分を表現できなくなるにすぎない。
 死をへてむしろ愛は深まり、愛によって、理性を超越する存在の目から人生をとらえられるようになる。これは実感としてよくわかる。
 愛が永遠であるのと同様、「過ぎ去った」ということは、失われたということではなく、すべてが失われることなく救い出されたことを意味する。一度生じたものは世界から取り除かれることはない。だからこそ私たちは、世界のなかでなにかを創りだしつづけなければならない。

 人間存在は責任存在である以上、人間には意味を充足する(使命にこたえる)責任がある。実存分析が望むのは、自分が責任存在であるという意識へと患者を導くことだ。だが「何について」の責任か「何に対して」の責任かという問いは、精神療法においては未決定のままにしておかねばならない。それらの問いは宗教の領域だからだ。
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□第1章 精神療法からロゴセラピーへ
Aフロイトの精神分析
Bアドラーの個人心理学
A精神分析にとっての神経症とは、「意識性」としての自我の狭小化を意味し
B個人心理学にとっては「責任性」としての自我の狭小化を意味している。
……とらわれのない目で人間存在の根本的基礎に思いをめぐらすならば、意識性と責任性こそが現存在の2つの根本的事実である。人間存在は意識存在であると同時に責任存在である。それゆえ、精神分析と個人心理学は、それぞれの人間存在の一契機だけを見ている。両方があわさったときにはじめて、人間の真の姿が明らかになるのではないか。
・27「孤独な群衆」の国であるアメリカにおいて、精神分析に過度に注目させることになった。しかしアメリカは、ピューリタニズムとカルビニズムの伝統の国でもあって、性的なものは集団的なレベルで抑圧されていた。ところが、汎性欲主義的と誤解された精神分析が、この集団的抑圧を緩和することになった。
・28 個人心理学は、他人から認められようとする努力がいつでも至るところで見出されるものと思いこんでいるのであるが、非常に多くの人間は、この単純な名誉欲よりもずっと根源的な名誉欲、すなわち、現世的な名誉で決して満足しようとせず、もっともっと大いなるもの、なんらかの形で自己を永遠化しようとする努力によって魂を鼓舞されうるということを見逃している。
・30 精神分析は、無意識の要求と地方における現実の要請との間に妥協をもたらすことを目標と設定。個人心理学は、患者に、単なる適応を超えて、勇気を持って現実を形成することを要求する。エスの側から生じる必然に対して、自我の側から生じる意欲を対置する。
・われわれが「人間」の全体像に到達しようとするかぎり、「適応」と「形成」というカテゴリーのほかに第3のカテゴリーが付け加えられねばならない。「充足」というカテゴリーである。生活の形成がいわば外延的な大きさであるとすれば、人生充足はいわばベクトル的な大きさである。方向性をもつものであり、すべての個々の人間の人格に与えられ、その人のために取っておかれ、その人にのみ課されている価値可能性へと方向づけられている。そして、この価値可能性を現実化することが人生においては重要なのである。
・35 本能はなにをなすべきかを告げることがなく、伝統も、なにをなすべきか告げなくなっている。人間はやがて、なにを本当になしたいのかわからなくなるであろう。そのために、他人が彼に欲することを喜んでなそうとするようになる。言いかえれば、権威主義的・全体主義的な指導者や誘惑者にたいして抵抗力がなくなってしまうのである
・53人間は、生物学的・心理学的・社会学的といったもろもろの条件によって支配されている。人間は諸条件から自由ではないのである。人間はそもそも何かから自由であるのではなく、人間が自由であるのは、何かに向かっての自由なのである。すなわち、人間は、あらゆる制約に対して態度をとる自由を有しているのである。この本来的で人間的な可能性こそ、汎決定論が見落とし、忘却しているものなのである。
・55 人間実在の特徴は、人間学的な統一性と存在論的差異性が共存すること。統一的な存在様式と、それが関与する多様な存在様態との共存にある。
・58 人間は「世界開放的」 人間であることは、すでにそれだけで、自己自身を超えてあることを意味している。人間の実存の本質は自己超越にある、と私は言いたい。人間であるということは、つねに、ある物またはある者に向かって方向づけられ、秩序づけられてあること、言いかえれば、その人が専念している仕事や愛している人間、さらにはその人がつかえている神に引き渡されてあるということ。
・61 たとえばドストエフスキーを精神医学の平面からみれば、てんかん患者以外のなにものでもない。
 芸術的な業績などは、精神医学の平面の外部にあるものだから精神医学の平面では描かれない。
・心理学主義の隠された根本態度、秘められた傾向とは……価値を貶める傾向である。その傾向によって、心理主義は精神的内容の仮面をはごうとして、躍起になって正体を暴露しようとし、本質的ではない神経症的動機を探そうとするのである。宗教的・芸術的・学問的といった領域におけるあらゆる妥当な問題性を、内容の領域から行動の領域へと逃避させることによって避けてしまう。……心理学主義とは、認識されるべき豊かな所与と判断されるべき豊かな使命からの逃避であり、したがってまた現存在の現実性と可能性からの逃避なのである
 心理学主義では、いたるところで仮面以外の何ものも見ず、その仮面の背後に神経症的な動機しか認めない。芸術は、「結局のところ」人生や愛からの逃避「にすぎない」し、宗教は、宇宙の圧倒的な威力にタイする原始人の恐怖に「すぎない」、偉大な精神的創造者たちも神経症や精神病質の人としてあっさりと片付けてしまう。
・64 実存哲学が、人間の現存在を人間独自のあり方として解明するのに貢献した。ヤスパースは人間の存在を「決断する」存在と呼び、ただ単に「ある」のではなく、「彼が本質的にあるところのもの」をそのつど新たに決断する存在であるとしたのである。
・人間が自然的な所要にたいして抵抗し、……生物学的なものや社会学的なものや心理学的なものの制約に支配されたり、それらに盲目的に服従することをやめるとき、そのときにこそ同時に、道徳的価値判断の可能性がはじまるのである。

□2章精神分析から実存分析へ
・78 精神分析においては、心理的なものの意識化に努める。ロゴセラピーは、精神的なものの意識化に努める。その際の実存分析としては、人間的実存の本質的根拠である責任性を人間の意識にもたらそうと努める。
 責任とは、意味に対する責任である。それゆえ、人生の意味への問いがつねに中心的な問いでありつづけねばならない。
・88 動物と人間との本来的な相違は、人間の知性は、動物の能力とは決定的に異なって、人間のそれよりも根本的に上位の位階にある知恵−−超人間的知恵—が存在するにちがいないことを、そしてその知恵が人間に理性を与え、動物に本能をあたえたのだということを、洞察することが出来るほど高いということである(メタの存在を洞察〓)
……超意味への信仰は、……精神療法的および精神衛生的にきわめて重要な意義をもっていることは自ずから明らかである。
・92 責任とは、人間がそれに向かって「引っぱられる」ものであり、人間がそれから「逃れる」ものである。……責任とはおそろしいものであり、かつ素晴らしいものでもある……素晴らしいというのは、私の周囲の未来が、なんらかの仕方で、私のそのつどの決断にかかっているということを知るからである。
・93 人生のすべての意味は本来ただ快楽にあるのだ、と単純に主張される。人間のすべての行為は快楽原則によって規定されているという誤った事実認識を根拠にしている。
……しかし、快楽は総じて、われわれの努力目標ではなく、努力が実現されたことの結果なのでアル。(快楽は行為の目標ではなく、行為の後からついてくる〓)
……快楽が人生の意味で在るとすれば、人生はいかなる意味もなくなってしまうであろう。
・99 喜びはつねに、ある対象を志向している。シェーラーは、「快」を非志向的感情、「常態的」感情であるのにたいして、「喜び」は志向的感情であると述べている。
 喜びは、ただ価値認識的な行為を遂行することのうちにのみ、価値把握という志向的行為の遂行のうちにのみ実現されうる。
 キルケゴールは、幸福に入る扉は外側に向かって開く、と述べている。……無理やりに幸福になろうとつとめるものは、そのことによって幸福への道を自分で塞いでしまっている。
・103 あらゆる当為はつねにただ具体的にのみ人間に与えられ、彼が「いま・ここ」でなす「べき」こととという具体的な形で亜画得られているのであろう。この日々の課題の背後にある価値は、ただ課題を通してのみ志向されうるように思われる。
 人間の人格の独自性と、生活場面の一回性に、一人の人間のそのつどの具体的使命が関連しているのである。それぞれの人間はそれぞれの瞬間において、ただ一つの使命を持つことができるだけである。しかし、まさにこの唯一性こそが、その使命の絶対性をなしているのである。
・111 「創造価値」「体験価値」「態度価値」
 創造的に実りあるものではなく、また体験においても豊かなものはなくても、なお第3の価値カテゴリーによってなお根本的に意味に満ちたものであることが証される。人間が自分の制限された生活にたいしてとる態度によって実現される。ここでは、人間が変えるこのできない運命にたいしてどのような態度をとるかということが問題だから。
 人間の生命は「最期まで」その意味を保持している。人間に意識があるかぎり、態度価値にたいして、責任を担っているのである。
▽123 人生の使命的性格についての洞察から帰結されるのは、人生は本来、それが困難になるほど、それだけ意味に充ちたものになる、という洞察である。
・124 使命は各人ごとにー各々の人格の唯一性に応じてー変化するだけではなく、時間ごとに、そのつどの1回性に応じても変化する。
……現代の実存哲学の功績はーかつての生の哲学の漠然とした生概念とは反対にー人間の現存在を本質的に具体的なもの、「各人ごとのもの」として際立たせたことにある。いまやはじめて人間の生は、その具体的な姿において責任制を獲得した。実存哲学が人間の現存性を唯一的かつ一回的なものとして表現することには、その唯一的で一回的な可能性実現せよという訴えかけが含まれているのである。
 ゲーテ「ひとはいかにして自分自身を知ることができるか。それは決して考えることによってではなく、行為することによってである。汝の義務を果たそうと努めよ、そのとき汝はただちに、汝が何であるあるかを知るであろう。では、汝の義務とは何か。日々の要求がそれである」
・129 自分の責任を意識していない人間は、人生を単に与えられたものとして受けとるのにたいして、実存分析は、人生を課された(使命として与えられた)ものとして見ることを教えるのである。
……かれらは、その使命の出所である超越的な審級(委託者)をも体験する。
・131 人生そのものの意味への問いは無意味である。……人間が問うのではなく、人間は人生から問われているものであり、人生に答えねばならず、人生に責任を持たねばならないものなのである。そして、人間が与える答えは「具体的な人生の問い」に対する具体的な答えでしかありえない。人間は実存そのものにおいて彼固有の問いに対する答えを「遂行する」のである。
・宗教的人間とは、語りかけられる者として語り手を体験する人間であり、したがって非宗教的人間よりもいわば聴覚の鋭い人間である。人生の使命と共にその使命の委託者もが、彼の意識と責任性に対して与えられている人間である。
・133 私は衝動によって駆りたてられる一方で、価値によって引きつけられる。私は価値の要求に対してイエスともノーとも言うことができ、どちらも決断することができる。
・136精神分析は知らず知らずのうちに、患者が受け身になってしまう傾向を助長しており、自分自身をもはや決断力ある者として理解しないように、困難に対して責任を有する者とみなさないようにばかり患者をそそのかしている、という。
 「実存的アプローチは、決断と意志をふたたび問題の中心に据えなおすのである」
・精神分析理論 ホメオスタシス平衡の回復
 ……人間が必要としているのは、どのような緊張もない状態ではなく、むしろある一定の、健全な量の緊張なのである。たとえば、人間がなんらかの意味によって要求され、呼び起こされてくるような緊張である。
▽146 責任は個人の唯一性と状況の一回性とともに生じる。唯一性と一回性は、人生の意味にとって本質的なものである……死によって、われわれは、みずからの人生の時間を余すところなく理容し尽くすように強いられ、そのつど一回的である機会を利用しないまま過ぎ去らせないように強いられているのである。
……自分の人生は今まさに「撮影中」の映画。あとから「編集」されてはならず、一度「撮影」されたものは後戻りできない。
(人生はいつもなにかの「途中」である〓)
・152 「輝くべきものは、燃えることに耐えなければならない」「燃える」とは苦悩することを意味しているであろう。われわれはさらに、それが燃えー尽きること、「最後まで」燃えることに耐えなければならない、と言うことができるだろう。
・154人間の個人性の意味、人格性の意味は、つねに共同体に向けられ、関係づけられている。モザイクの石の独自性が価値を得るのは、ただそれがモザイクの全体に関係づけられることによってのみであるのと同じように、人間の個人的な独自性が意味をもつのは、それあgその上位にある全体に対して有する意義によってのみであるから。人間の実存の意味、人格の意味は、それ自身の限界を超えて、共同体へと差し向けられているのである。
・155 共同体の意味は個性によって構成され、個性の意味は共同体によって成立する。一方、大衆の「意味」は、構成する個々人の個性によって妨げられ、個性の意味は大衆の中で消失してしまう。
・157 大衆の中へ逃避することによって、人間はもっとも本来的なもの、すなわち責任性を失ってしまう。……真の共同体は本質的に責任ある人格の共同体である。それに対して単なる大衆は非人格化された存在の習合にすぎないのである。
・160 人間の自由は、真空のなかを漂うような自由ではなく、あらゆる制約の只中における自由なのである。しかしこの制約こそが、彼の自由の出発点なのである。自由は制約を前提とし、制約へとさしむけられている。
……人間存在は、自由存在であるがゆえに、責任存在である。ヤスパースの言うように、「決断する存在」。……人間はつねに、諸々の可能性の中から選択することを強いられており、人生の一瞬たりともそれから逃れることはできない。
・166 過ぎ去ったということは、失われてしまったということではなく、むしろ、すべてが失われることなく救い出されているということなのである。一度生じたものは、何ものも世界から取り除かれることはない。それだけに、何であれ、世界の中へと創りだされることが重要になる。
・167 運命的なもの=生物学的なもの、心理学的なもの、社会学的なもの(制約)
・175 神経症的な宿命論が意味しているのは、唯一性と一回性が人間に課する責任からの逃避であり、類型的なものへの逃避、類型に属しているという見かけ上運命的なものへの逃避なのである。
 性格類型だろうと、人種の類型だろうと、階級の類型だろうと。言いかえれば、心理学的制約だろうと、生物学的制約だろうと、社会学的制約であろうと。
・186 どの強制収容所にも、自らの無感動を克服し、苛立ちを抑制することができた少数の人々がいたのである。それらの人々は自分自身のためにはなにも求めず、こちらでは優しい言葉をかけ、あちらでは最後の1切れのパンを手渡していたのである。
・188 人間が「自分の未来」を失ったときには、内的時間、体験時間もその全構造を失う。トーマス・マンが「魔の山」で描いた結核患者たちの生活のように、ただ現在だけを漫然とすごす生き方になる
……人間が自分の仮の生活の終わりを予測できなくなったときには、その瞬間に、人生に何の目標もたてられず、何の使命も見出すことができなくなる。(収容所)
・191 収容所における精神療法を試みるとすれば、未来における目標に精神的支えの照準を合わせたときにのみ、すなわち、生きなければならないということを「未来の相のもとに」見るときにのみ、可能になることは明らかである
……「もはや人生からなにも期待できない」と自殺しようとしていた男性2人…… 人生の意味はそもそも問われうるものではなく、むしろ人生とは、その具体的な問いに答えねばならないもの。……それぞれの人生がまったく具体的な使命をもって彼らを待っていることがあきらかになった。1人は地理学のシリーズ本を書いていた……
・193 解放後 体験したすべての苦しみから見れば、最早この世で怖れるべきものは、彼の神を除いてーなにもないという得がたい感情が彼の心を占めるのである。多くの人々が強制収容を通して学んだことーそれは神を再び信じることであった。
・197 愛し、そして失ってしまった一人の人間を悲しむことは、その人間を何らかの仕方で生きつづけさせるのであり、罪を犯した人間の悔恨は、彼をその罪から解放し,何らかの仕方で立ち直らせるのである。……愛や悲哀の対象は、経験的時間においては、失われてしまったとしても、主観的には、内的時間においては、保存されているのである。つまり、悲哀は、その対象を現在化するのである。これにたいして悔恨は、道徳的な再生へ……。
・198 苦悩は人間を無感動から、すなわち心理的硬直から守ってくれる。われわれは機能において成熟し、苦悩によって成長するのである。
・199悲哀の感情を抑圧したからといって、悲しい事態がなくなるわけではない。悲しむ人間は、睡眠剤のような無意味な処方につねに異を唱える。それによって眠れとしても、それでは自分の涙が向けられている死者は浮かばれないであろうと思うからである。
・201 苦難と死、運命と苦悩が人生からはぎとられるならば、人生はその形と姿を失ってしまうであろう。
・206 人生の意味は問われるべきものではなくて、答えられるべきものである。われわれは人生に答える責任を負っている。答えは、行動を伴った答えであり、日常の具体性における答えであり、人間が責任を負っている具体的空間における具体的な答えなのである。
・220 死は、その生涯を充実させなかった者にとってのみ恐ろしいものになりうるのである。このタイプの人間は、自分自身には何ごとも起こりえず、死や破局はつねにただ「他人たち」にのみ起こることだという妄想に逃げ込むのである。
・221 創造価値がつねに共同体(家族も含む)に関連づけられた活動の形で実現される。人間の活動が向けられている共同体こそ、人格の唯一性と一回性に初めて実存的意味を与える。
 愛されるという道によって、自分の行為や「功績」がなくても、自己の唯一性と一回性の実現のうちに存するあの充足が人間に与えられる。
……愛する人間は、価値の豊かさに対する人間的な共感性を高める。愛する者にとって、宇宙全体はいっそう広く深い価値を有するものになり、……
・223 性愛ー恋愛ー愛 = 身体ー心理ー精神
・226 愛は、相手がまったき一回性と唯一性をもった存在であることをわれわれに気づかせるような人間相互の関係である。
 愛は、人間の根源的現象である。それは副次的な現象なのではない。「性欲の昇華」などではない。
▽228 愛は死よりも「強い」。愛される人間の無比の本質は、時間を超えたものであり、過ぎ去ることのないものである。愛する人間が直観するこのような「理念」は超時間的な領域に属している。
・231 愛は、愛される者の身体性をほとんど問題とせず、そのために愛はその人の死を超えて持続し、自分自身の死まで存続するのである。
……死は、人格そのものがもはや存在しなくなるということを意味するのではなく、むしろせいぜい、その人格がもはや自分を表現することができなくなるにすぎない、と言ってもよいだろう。というのは、この表現には身体的ないし生理的な表現機能が必要だからである。
 真の愛の思考や他の人格そのものへの志向は、他者の身体的存在から独立している。
 精神的なものは、身体的なものと心理的なものにいて表現されており、表現されることを求めている。
・240 人間は、創造することによって自分の唯一性と一回性を外に表現し、愛することによって相手の唯一性と一回性を自分のうちに受けとる。
……真の愛を体験するその瞬間に、われわれはそれを永遠に妥当するものとして体験するのである。経験的時間のなかで継続する愛も、それを「永遠の愛」として体験されるのである。
・247 単なる恋情は人間を盲目にする。しかし、真の愛は人間の目を鋭くする。愛は他者をひとつの独自な世界としてわれわれに体験させ、それによってわれわれ自身の世界をいっそう広くさせるのである
・性的欲動の満足は快感を与え、恋愛は喜びを与え、愛は幸福を与える。
・一方の志向的・「生産的」感情と、他方の「非生産的」な単なる感情状態を区別。志向的で創造的な悲哀も、単なる感情状態にすぎない非生産的な不機嫌に対立する。
・256 意識しないでおこなわれている行為に対して、それに観察の目を向ければ、それだけでその行為は妨げられる。
 入眠障害「寝ようと」と意図したら内的緊張状態が生じて入眠が不可能になる。
・259 幸福を追求するあらゆる努力は見当はずれ。人間は本来幸福であることを欲しているのではまったくない。むしろ、人間は、幸福であるための根拠をもつことを欲している。このことは、人間の努力が、そのつどの志向の対象から志向そのものへそれること、努力目標(幸福であることの「根拠」)から快楽(目標達成の結果)へそれることが、いわば人間の努力の歪んだあり方である。この歪んだあり方に欠けているものは直接性なのである。
……人間が快楽をとらえようとすればするほど、ますます快楽をとらえそこなうのである。
・266 人間的実存の自己超越 自己自身を超越する程度に応じてのみ、人間は自己自身を実現する。人間は、ある事柄への従事またはある他の人格への愛によってのみ自己自身を実現する。
・267 愛は、相手を単にその人間性の全体においてとらえるだけではなく、それを超えて、その人の一回性と唯一性においてとらえるのである。
・276 人生の可能性をふいにしてきたため、これまでの生存が無意味に思われる。人生についての良心の呵責から死が恐れられ、この死の恐怖は抑圧される。それにかわって、「自分はがんでかならず死ぬ」といった個々の機関の疾病がおそれられる……
・284
・304 ロゴセラピーの技法としての逆説志向
「心臓発作で死ぬ」という恐怖に苦しむ患者に「すくなくとも毎日3回は心臓麻痺で死ぬために全力を尽くしなさい」。 
・332 ……精神病においてすらも、この病気に対する患者の自由な態度のうちに存在する自由の余地によって、患者は常に態度価値を実現することが可能なのである。この自由の位置を患者に示すのがロゴセラピーの役割である。(〓死ぬ間際まで……)
・345 統合失調症患者は、すべての行為や志向、それらの心的作用が、あたかも受動態に転換してしまったかのように体験する。彼は注目「される」のであり、思わ「れる」。心的作用の体験的受動化が生じるのである。
……患者と意思疎通する際に重要なのは、音の抑揚だけであって、言葉の選択ではけっしてないのである。
・348 自分のもの、自分の内部を、あたかもそれが見知らぬもの、外部から聞こえてくるものであるかのように体験し、あたかもそれが一つの知覚であるかのように体験すること、まさにこれこそが幻覚にほかならないのである。(そうなのかぁ)
・369 カントは「実践理性批判」において、神の実在、人間の自由、魂の不死を、道徳的義務を果たすにあたって不可欠の前提と考えられる3つの原理として立てた。(超越した存在、選択の自由と責任、命は有限だけど魂は不死……かぁ)
□第3章 心理的告白から医師による魂への配慮へ
 精神療法には根本的な補完が必要。その補完とは、心の治療の領域に精神的次元を取り入れるという意味。
……精神療法、とりわけ精神分析が求めていたものは世俗的告白であった。しかし実存分析が求めているものは魂への配慮である。
・387 人間存在は責任存在であると定義されうる以上、人間には意味を充足する責任がある。だがこの場合「何について」の責任か「何に対して」の責任かという問いは、精神療法においては未決定のままにしておかねばならない。
(それを超えるのは宗教の領域。「意味を充足する責任」というだけでも超越者を前提としている以上、宗教的なものをかんじたけど……)
・396 実存分析がのそむのは、自分が責任存在であるという意識へと人間を導くことにほかならない。
……患者が、自らの責任を徹底的に体験するところまで導くことで十分であるし、それで満足せねばならない。(それ以上は宗教に)
▽404

□総括
▽423 意味への意志は、力への意志や快楽への意志と対置される。……快楽への意志は、自己矛盾であることがあきらかになる。われわれは快楽を追い求めれば追い求めるほど、同時にすでにそれをとらえそこなうのである。(幸せも)
▽427 逆説志向は、できるだけユーモラスに表現されるべきであろう。結局ユーモアとは本質的に人間的な現象であり、人間があらゆるものから距離をとり、自分自身からも距離をとり、自分を完全に手に入れることを可能にするのである。この本質的に自己距離化の能力を活性化させることこそ、われわれが逆説志向を摘要するときにいつも心がけていることである。
▽433 ロゴセラピーの理論体系を支える第3の柱として、意志の自由、意味への意志に加えて苦悩の意味があげられる。
□人格についての10命題
・441 修理不能になった有機体は、いかなる利用価値もないという理由で、安楽死させることもいとわない。そのような人は、修理不能などということに左右されない人格の尊厳については何一つ承知していないのだから。
・445 人間は人格として、事実的存在ではなく、自由意志的存在なのである。人間は、そのつどの自分自身の可能性として実存しており、その可能性を選び取るか取らないかを決断できる存在なのである。人間は「決断しつつある」存在である。……決断する存在として、人間存在は、精神分析が主張するような、欲動に駆りたてられる存在とは正反対のところに立っている。人間存在のもっとも深い究極的意味は、責任があること(責任存在)なのである。
・精神分析とは反対に、実存分析の観点においては、人格は欲動によって決定されるのではなく、意味によって方向づけられている。精神分析の見方とは対照的に、人格は快楽を求めるものではなく、価値を求めるものである。
 人間は性的欲動(リビドー)に駆りたてられているとする精神分析の考え方や、人間は社会的拘束(共同体感情)に縛られているとする個人心理学の考え方には、いずれも一つの根源的現象が欠落しているように思われる。それは愛である。愛は、1人の我と1人の汝との関係である。
 精神分析では、人間の現存在は快楽への意志によって支配されているものとみなされ、個人心理学では「力への意志」によって規定されているものとみなされるが、実存分析は、人間の現存性を意味への意志によって主宰されているものとみなす。
・449 精神的人格は活動的なもの……「実存する」とは、自分自身からでることであり、自分自身に立ち向かうことである。精神的人格としての人間が心身的有機体としての自分自身に立ち向かうということである。
・動物は人格ではない。動物は自分自身を超えて立つこと、自分自身と向きあうことができないということからしてすでに、人格ではない。動物はまったく世界をもたず、ただ環界(環境世界)をもっているにすぎない。
「動物ー人間」「境界ー世界」の関係を延長して推定すれば「超世界」に行き着く。……動物がその境界からはそれに優越する人間の世界をおよそ理解できないのと同じように、人間は超世界をおよそ把握できないであろう。もしできるとしたら、それはただ予感しながら超越していくことによって、つまり信仰によってのみ可能なのである。
 動物は、人間が自分をどのような目的で使役しているかについて知らない。とすれば、全体としての世界にどのような超意味があるのかをどうして人間が知りうるであろうか。

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