■弦書房250201
渡辺京二の人物論や文学論は、渡辺自身がその人と同調して、なりかわって自分の内側から自分の思想として論じてきた。著者の三浦もまた、渡辺に直接会ったのは数えるほどしかないのに、作品を通じて渡辺になりきって内在的に渡辺の思想を読み解いていく。
渡辺は、水俣の運動をつくりあげたリベラルな人というイメージだったが、右派の三浦が描く渡辺は、どろどろした土着の世界と庶民の幻視する「もうひとつこの世」という根っこをもつ、ドストエフスキーのような人物として浮かび上がってくる。三浦の描く渡辺だけが渡辺だと思うと、ちょっと危険が気もするけど、ついついひきこまれてしまった。
日清・日露戦争においては、「世間に顔出しができぬ」という「部落共同体に対する古風な義務感」が国家への忠誠につながっていた。
1930年代、伝統社会秩序が崩壊し、大衆社会が出現した。伝統的な共同体が解体され、個々人が疎外され、「共同性への飢え」をもたらした。 中間イデオローグの右翼的言説に導かれ、疎外感からの解決を「天皇制共同体」の幻想に求めていく。「このような病的な飢渇感は、かつてこの国の伝統にはなかったもの」であり「この飢乾は天皇制共同体神話とのあいだに、おそるべき共鳴を引き起こした」
支配エリートが民衆支配の道具として天皇制イデオロギーを基層生活民に注入し、それで培養された天皇制的共同体幻想を中間イデオローグが右翼ナショナリズムのイデオロギーに変形して支配エリートを脅迫するという形になった。支配エリートや知識人は、基層民の共同性への飢餓感と、「正義」を求める声に応えることができず、支持を得られなかった。
現在、世界はふたたび、「リベラリズム」と市場優先のグローバリズムに対する「反動」的民衆の対立という図式が生じている。ポピュリズムに対してリベラル派が無力なのは、排外主義的に見える民衆の欲求に内在する民衆共同体の夢を理解しないからだと筆者は言う。
戦後、渡辺は共産党の活動家になるが、4年間をすごした結核療養所での患者=民衆との出会いによって、民衆は政治運動家の啓蒙によって「覚醒」するような存在ではないと知り、共産党の「前衛」理念のむなしさを悟った。共産党が武装闘争路線を転換し、資本主義体制のなかにスターリン主義の村社会をつくり「平和共存」する路線を選ぶとともに渡辺は離党した。
「軍国少年から共産主義者へ変身した私は、なにも変わっていなかった、…天皇制的政治理念を最高の真理と信じ……軍国少年であったように、スターリニズム的政治理念を最高の真理と信じ、歴史は共産党という前衛が指導する世界変革の方向へ進むと理解したからこそ共産主義者であった」
渡辺にとってのスターリニズムとは、超近代国家の権力が、民衆にイデオロギーを注入し、生活共同体を破壊して民衆の精神をも支配しようとするものだった。近代国民国家が前近代民衆を「国民」として統合することと本質的に変わらなかった。中国の文革を「国家をのりこえたコミューン」と考えていた毛沢東主義者に対しては「党権力によって指導される政治的反対派の追放運動を、人民そのものによるコミューン運動と見誤るほどに幼稚」と冷静に批判した。
1950年代から60年代、吉本隆明と谷川雁に出会う。とくに吉本隆明は師のような存在だった。吉本から学んだのは、「……人は育って結婚して子どもを育てて死ぬだけでよいのだ、そういう普通で平凡な存在がすべての価値の基準なのだ」ということだった。
日本読書新聞社を退職して熊本にもどると、山本周五郎の小説を読みまくり、「義理人情とは日本の伝統的な民衆の共同性への見果てぬ夢」ととらえる。
渡辺にとって水俣病闘争とは「義理人情」の地点から、チッソに代表される日本近代に挑むたたかいだった。
渡辺は、「公害問題」としての裁判闘争は利害調整行為にすぎないから興味を覚えなかった。彼が水俣病闘争にのめりこんだのは、患者たちの運動に「基層民」の自立した闘争が垣間見えたからだった。
近代社会が最後まで浸透できないもっとも基本的な民衆の心情や論理を残す人々を渡辺は「基層民」と呼んだ。基層民の「人間的道理」の次元においては資本制の常識も論理も通用しない。
石牟礼道子の描く「生きとし生けるものが照応し交感していた世界」は、近代化によって徹底的に破壊され、破滅と滅亡に向かって落下していく「小さきもの」(患者)=基層民たちの世界だった。患者たちは、現実の村共同体からも疎外されており、現実の村への回帰によっては救われない。現実には存在しない「もう一つのこの世」ににじり寄るしかなかった。
水俣病闘争はしだいに「市民運動」の枠内に撤退していく。1973年の第一次訴訟判決のころには、弁護団や市民会議と、告発する会との間には距離ができ、患者同士の対立も生じていた。渡辺にとっての水俣病闘争は裁判の「勝利」とともに終わった。
渡辺は、地方と都会の対立を思想めかして語り、「辺境」に近代資本制の重積した圧力と矛盾を見出そうとする井上光晴流の視点は根拠がないとみなした。70年代後期から80年代にかけ、日本左翼の一部は「第3世界民族解放闘争論」「辺境論」(世界の辺境にこそ革命の基盤があるとする論理)にすがりついた。私も学生時代ニカラグア革命に希望を感じていた。渡辺はそうした左翼のロマンチシズムも否定した。
ではなぜ、ドストエフスキーや北一輝らの右翼の流れを評価したのか。
19世紀ロシアでは、西欧近代の価値観と、民衆を「市民」「国民」に改造するシステムが「民衆の存在形態」を解体する危機にあった。ドストエフスキーはこの危機意識と近代への違和感を受け止めていた。19世紀のロシア民衆を見るドストエフスキーと、水俣病闘争における漁民の声をきく石牟礼や渡辺は共鳴しあっていた。
西郷隆盛は、明治維新後の近代化に抵抗し、鹿児島に帰郷後は、土地は村コミューンが所有することを唱え、「共同体農民の国家」を夢想した。彼の描いた兵農一致国家は毛沢東思想と共通するものがあった。
近代とのたたかいは、西郷が原点になり、宮崎滔天や北一輝がひきついだ。
北は、明治維新を家長国から民主国への革命とみた。民主国は「法律的公民国家(ブルジョワ市民国家段階)」をへて「法律・経済両面における完全な「経済的公民国家(社会主義社会段階)」に発展すると考えた。日本帝国は法律上において社会主義の理想を掲げているのだから、社会主義の実現は啓蒙活動や普通選挙権獲得によって可能だとみなした。だからせっかく生まれた民主国を、国体論によって家長国に引き戻そうとする思考を拒否し、教育勅語批判を通して、国家権力は個人の内面を支配してはならないという原則を打ち出した。一方、社会を個人の集合にすぎないとする市民主義も拒否した。社会は有機的な共同社会(コミューン)でなくてはならなかった。
外国人の視点から江戸時代の社会を描いた「逝きし世の面影」で渡辺は有名になった。だが「日本はよかった」「日本ばんざい」的な読まれ方をきらい、「日本人のアイデンティティなどに私は興味はない。私の関心は近代が滅ぼしたある文明の様態にあり、その個性にある」と言う。
幕府権力は年貢徴収などの国政的レベルの領域外では、民衆生活や共同体の自治には干渉しなかった。近代的な意味での自由や自治ではなく、「村や町の共同体の一員であることによって、あるいは身分や職業による社会的共同体に所属することによって得られる自由」だった。そうした前近代的共同団体の自治権は明治の革命によって断絶した。
「これほど学問なさってさえも善い人であったのに、もし学問なさらなかったら、どれほど善い人であったかなぁ」という老婆の言葉は、学問や知識などと無縁で近づきもせずに、しかも幸福に生きることが可能だったことを示す。「かわいらしい人物」に好意を抱き、世間離れした言動を愛した時代でもあった。
「いつでも死ねる」という、あっけらかんとした明るい諦観も特徴だった。
「16歳にならぬうちに花魁を買う」「出会い放題に性交する」「死ぬまで鰒を食う」という博多っ子の資格をあげ、江戸の面白さは徹底を回避して、とことんはぐらかすところに生まれたと指摘する。……こだわりを捨ててこそ「粋」なのだ。しかしその「はぐらかし」は思考の停止・放棄につながり、深みのある文学は生み出せなかった。
江戸時代の「豊かな」生と「自由」とは、共同体内の存在として自らを規定することから生まれた。近代は、個々人を疎外し、心の垣根によって人々を隔てた。だがそれは「個であることによって、感情と思考と表現を、人間の能力に許される限度まで深め拡大して飛躍させうるということだった」
近代を経験した私たちは前近代の世界にもどることはできないのだ。
日本の近代文学は、近代化がコスモスと共同体を解体するとき、そこに生まれた孤絶感を近代的な自我に即して描く道を選んだ。前近代の感性を捨て去ったため、農民・漁民世界の表層しか描けなくなった。石牟礼文学は「その孤絶感を、近代と遭遇することによってあてどない魂の流浪に旅立った前近代の民の嘆きと重ね合わせた」。それによって文字なき民のコスモスが再創造された。
石牟礼は前近代の感覚をもつ人だった。能登の出会ったおばあさんたちの海や山と交感する言葉もそうした前近代の感性の名残りなのだろう。
網野善彦らの「中世」研究を「読めば読むほど腹が立つ……」とまできらっていたことはこの本ではじめて知った。
鎌倉幕府末期から南北朝、戦国時代にいたる「乱世」を、網野らは、民衆による「自由」で「自立」した空間が「無縁」社会として存在したと評した。一方、豊臣政権から徳川幕府にいたる統一国家出現は、自由を抑圧し、自立した空間を「悪所」に封じ込める抑圧体制の完成と見た。
渡辺は、中世の「自由」が「弱肉強食の自由」であり、中世社会は、現代の「新自由主義」をさらに推し進めた、「自力救済原理」「当事者原理」に貫かれていたと指摘した。武装した農村が互いに用水や山林の権益を巡って衝突し、相手に暴力をふるっても罪とされなかった。豊臣以後の統一政権が各集団の暴力紛争を禁止し、犯罪者を処罰したことを渡辺は評価した。
網野は共同体を脱出した人々が、寺社、楽市、自由都市などで、社会的束縛から解放されて自由に生きる空間、「無縁」社会が存在したことを描き出した。
網野が「自由な空間」とみたものは、各集団の武装衝突が激発するなかで、犯罪者が復讐を恐れて逃げ込む[「縁切り寺」、「商売のために手打ちして生まれた休戦地域」としての「楽市」、大商人に寡頭支配され、ハリネズミのように武装した「自由都市」にすぎなかった……と渡辺は批判した。
そうした乱世に生まれた親鸞の浄土真宗は乱世の現実を正面から引き受け、人間には徹底して救いがないことを原点とした。「人間はどんなに努力精進しても自力では救われぬ、と絶望の果てでつぶやいた人」と親鸞のことを渡辺は評する。「絶望のないところに救済の要請があるはずはない。救われぬからこそ、救われねばならぬのである。他力とはこのこと以外を意味しない」
現実が絶望に満たされているからこそ、逆にすでに救済されている「もう一つのこの世」を親鸞は感知した。それは石牟礼が水俣病患者という絶望のかなたに、美しい自然と精霊たちが行き交う「もう一つのこの世」を見出した姿勢にも通じるという。
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▽22 澤田謙 現代が大衆の時代だからこそ英雄が必要であると説く。ムッソリーニもヒトラーも、大衆時代の英雄たちだった。1930年代は、第一次大戦と世界恐慌による、従来の伝統社会秩序の崩壊と大衆社会出現の時代だった。民主主義と資本主義のいきづまりを、人々はファシズムと共産主義、さらには戦争による国際秩序再編成に求めていた。
▽26 大連 本国の日本以上に近代化、西欧化。世界の最先端を行くモダン都市が築かれていく。……人工都市大連は、民衆の生活と歴史が重積する「共同体」から切り離された空間である。……共同体なき世界には、弱肉強食の階級対立も生まれかねない。
▽31 「満洲事変以後の昭和は健康そのものの時代であった。……社会派精神的な靭帯で結びつけられた共同体であり、そこでは正義はかならずあらわれ邪悪はかならず裁かれ、一人の小さきものといえども悪の犠牲となることがないような状態」」……学校教育の場では、軍国主義と同様、朝鮮人や中国人も同胞であり差別してはならないという教育も徹底されていたと指摘する。「五族協和」という理念が、市民社会を超えるユートピア幻想として、少年たちに純粋なまま受け止められていたことを示している。
▽48 共産党へ……結核に。1949年から4年半入院。20歳。共産党活動。2人の女性との出会いと別れ。
▽61 療養所で、自らの観念的な「民衆像」を、患者=民衆との出会いによって完膚なきまでに打ち砕かれる。……民衆は外から啓蒙され、政治運動家に先導されて「覚醒」するような存在ではない。……共産党の「前衛」理念のむなしさを悟った。
▽64 1953年、朝鮮戦争が終わり、スターリンや徳田球一が死ぬと、共産党はあっさり方針を変えた。六全協で 資本主義体制のなかにスターリン主義の村社会をつくり「平和共存」する路線を選択した。渡辺は離党。
「軍国少年から共産主義者へ変身した私は、なにも変わっていなかった、……天皇制的政治理念を最高の真理と信じ……軍国少年であったように、スターリニズム的政治理念を最高の真理と信じ、歴史は共産党という前衛が指導する世界変革の方向へ進むと理解したからこそ共産主義者であった」
▽67 渡辺が60年代の新左翼運動から、80年代のポストモダン、現在にいたる様々な思想の「流行」にまったく影響されることがなかったのは、この母子の死に答えうるいかなるものもそこに存在しなかったからである。
▽72 1950年代から60年代、吉本隆明と谷川雁に出会う。
▽76 谷川雁 「生活語で組織語をうちやぶり、それによって生活語に組織語の機能を合わせ与えること」が新しい言葉への道であり……土着した大衆の存在に対する畏怖の念と、彼らが近代資本により解体されていくことに言葉によりどう抗うかという視点が貫かれている。
▽78 師と呼びうる人がいるとすれば……吉本隆明
「師というのは、大事な一点を教えられそれが生涯揺るがぬ北極星となったからこそ師なのだ」「その1点とは……人は育って結婚して子どもを育てて死ぬだけでよいのだ、そういう普通で平凡な存在がすべての価値の基準なのだという一点である。」
▽81 資本主義化によって伝統的な共同体が解体され、個々人が疎外されていくことへの恐怖感は、「共同性への飢え」をもたらした。……天皇を中心とした共同体国家というイメージをニヒリズムからの脱却、共同体復活のために熱烈に求めた。
「このような病的な飢渇感は、かつてこの国の伝統にはなかったもの」であり「この飢乾は天皇制共同体神話とのあいだに、おそるべき共鳴を引き起こした」
【共同体への飢えが会社人間を生みだし、その会社が失われ、また国家が?〓】
▽83 日本読書新聞社を退職して熊本にもどる。山本周五郎の小説を読みまくる。民衆の倫理感覚としての「義理人情」を極限的な形象として描き出した作家だった。
「義理人情とは日本の伝統的な民衆の共同性への見果てぬ夢」
渡辺にとって水俣病闘争とは、「義理人情」の地点から、チッソに代表される日本近代に対し挑んだ戦いだった。
▽84 人と人とが何らつながることができず、自分がいつも居場所を見つけられない世界に石牟礼は育ち、だからこそ、患者とその家族たちに「自分の同族」を発見したのだと渡辺はいう。
▽85 石牟礼が夢見ていた「生きとし生けるものが照応し交感していた世界」……このような世界と感性は、チッソに象徴される近代化と、不知火海に流された有機水銀のために徹底的に破壊されていた。……「破滅と滅亡に向かって落下していく」「小さきもの」であった患者たちが、たとえ状況に殺されていくしかないにせよ、それに全力であらがう闘いに向かったのが、水俣病闘争だった。
▽87 「公害問題」裁判闘争とは利害調整と妥協点を探る行為にすぎない。自分が全面的にかかわる思想的な意義は見いだせない。……
渡辺が水俣病闘争にのめりこんでいくのは、患者たちの運動に「資本制社会の当然の常識」からかけ離れたところで生きている「基層民」の自立した闘争がそこに垣間見えたからだった。
近代社会が最後に取り残した、浸透できない最も基本的な民衆の心情や論理を残している人々=基層民。基層民たる漁民の「人間的道理」の次元においては資本制の常識も論理も通用しない。自分の息子が隣の息子にけがを負わせたら、まず詫びと見舞いに駆けつけねばならない。「第3者機関」も裁判所も入る余地はないのだ。渡辺はこの基層民の決起に共感したのだ。【能登も基層民では〓念仏で原発を退ける】
患者たちは、現実の村共同体からも疎外されていた。患者たちの救いは村共同体への回帰によっては得られない。決して存在しない「もう一つのこの世」に向かってにじり寄ることしか残されてはいないのだ。
▽90 チッソ本社に乗り込み、本社中枢の廊下を占拠。……だがこの運動が次第に従来の市民運動の枠内に撤退していかざるを得なくなることもまた必然だった。
1973年、第一次訴訟判決。すでに弁護団や市民会議と、告発する会との間には距離ができていた。より深刻なのは患者同士の対立。当初から戦ってきた患者たちからは、新認定の患者を一緒にしてくれるなといわんばかりの態度も出てきた。渡辺にとって裁判の「勝利」とともに、水俣病闘争は終わったのだ。
▽94 渡辺は、70年代初頭の政治状況の変化にほとんど動じなかった。三島事件について……軍国主義の危険をさわぎたてる政党や「良識」に対して醜悪だと吐き捨てている。三島の死を愚行、狂気とみなす点では自民党と共産党は「めだたき一致」を勝ち取っている。
▽99 渡辺にとってスターリニズムの本質とは、共産主義という超近代国家の権力が、民衆にイデオロギーを外部から注入し、生活共同体を破壊して民衆の精神をも支配しようとするところにあった。近代国民国家が前近代民衆を「国民」として統合していくことと本質的に変わらない。共産主義革命は、個と共同体のさらなる統合をめざすところから、すべての民衆に「政治的覚醒」を強制する。専制帝政の時代は、まだしも民衆は政治から離れたところで自分たちの生活を営み、精神生活を守ることができた。
大衆を共産主義者に「改造」し、それを拒否する人たちを収容所に隔離していく、それがスターリニズムの本質である。近代国家が民衆を「国家国民」に改造していくのと本質的に同じ構図にあり、……
▽100 文革を国家をのりこえたコミューンの出現と考えていた毛沢東主義者たち……「党権力によって指導される政治的反対派の追放運動を、人民そのものによるコミューン運動と見誤るほどに幼稚であった」
吉本隆明も「毛沢東の思想のなかには、国家を超えるものなどまったく見あたらない」と否定した。
▽113 ドストエフスキーの本質は、知識人と民衆との本質的な乖離を見ぬいていたこと、その上で民衆を実体としてではなく、ある一つの客体として捉えようとしていたこと。
▽119 19世紀ロシアで「民衆の存在形態」を解体させる危機をもたらしたものは、西欧近代の価値観、民衆を「市民」「国民」に暴力的に改造するシステムそのものだった。ドストエフスキーはこの危機意識と近代への違和感を、自らの思想の根底で受け止めた。
▽122 「民衆が……再生産しつづけてきた幻は、国家あるいは市民社会のあらゆる上昇する文明的疎外感と無縁な、彼らの日常の沈黙の中ではぐくまれてきたものであり」「国家と市民社会を止揚せずにはおかぬ根源的な志向を秘めているからである」
……19世紀のロシア民衆と水俣病闘争における漁民たちの声が時空を超えて近代への根源的な違和感を唱和しており、……2人の知識人がその声を「思想の根底に包摂」していたからにほかならない。
▽136 西郷隆盛 葦津珍彦は、西郷の本質は明治維新後の近代化への抵抗であり、それを推進する明治政府との対立であったことを見ぬいた。
橋川文三は、「西郷は……もっとより徹底した革命を、もっとより多くの自由と平等と文明をさえ夢想していたのかもしれない」 「より多くの自由と平等」の意味を南島体験に見出そうとした。
▽145 鹿児島に帰郷後 土地改革の必要性は認めたが、私有化には反対で、土地は村コミューンが所有することを唱えた。西郷の国家像は「共同体農民の国家」。
兵農一致国家は毛沢東思想と共通性のあるものとする。
▽146 西南戦争こそ、近代と闘い続けた人々の原点となる。宮崎滔天も北一輝も、西郷の申し子だった。
▽宮崎滔天
▽北一輝 (二二六を指導した右翼思想家というイメージ。講義は聴いたことがあった。なぜ北をとりあげるのかわからなかった)
▽163 社会主義革命を、個と共同性の統一とみなした点では初期マルクスと同じだった。……解放されるべき民衆を抑圧しているのは、明治専制政府と国体論イデオロギーだとして戦いを挑んだ。
▽166 家長国を打倒して民主国へ。民主国は「法律的公民国家(ブルジョワ市民国家段階)」をへて「社会主義革命によって、法律・経済両面における完全な「経済的公民国家(社会主義社会段階)」に発展すると考えた。
……革命により生じた民主国を、万世一系などの「復古主義的革命主義」つまり国体論によって家長国に引き戻そうとする思考を断固拒否した。
教育勅語批判を通して、国家権力はいかなる場合でも個人の内面を支配してはならないという原則を明確に打ち出した。
▽170 近代に反発する民衆の新たな共同体の夢を理想化したコミューン主義。……北は社会を個人の集合にすぎないとする市民主義を拒否した。社会は、利害を異にする個々人が契約によって成り立たせるものではなく、有機的な共同社会でなくてはならなかった。
▽173 日本帝国は法律上において社会主義の理想を掲げているのだから、社会主義活動は啓蒙活動や普通選挙権獲得によって可能だとみなした。
……市民社会になじもうとしない基層民の深層に漂う、共同的なものへの憧憬を感じとる能力に北は欠けていた。
▽174 アジアにおける革命は、カリスマ的指導者による革命的専制の過程を経ねば、その前近代性を克服しえない、と。中国の未来を毛沢東の出現まで見すえていたことを意味する。
▽178 民衆が夢見た戦争共同体
大東亜戦争を悪夢のような侵略の時代とみなし、戦後民主主義・平和主義社会を戦前からの断絶として評価する言説を、歴史の自然過程を無視したイデオロギー的な議論にすぎないとした。
……戦争を求めたのは、この国の基層的住民、近代化のなかで苦悩していた「小さきものたち」であったと断定した上で……民衆の熱狂を戦争に向けて誘導・組織したのは中間イデオローグである。支配エリートは、国家理性の立場から、生活民の戦争に傾く情念を何とか抑制しようとしたが、失敗に終わった。……支配エリートが民衆支配の「装置」として作りだしてきたはずの天皇の存在が、中間イデオローグにより、革命の原理として逆用された……【顕教と密教】
▽180 日清・日露戦争においては、村落共同体の倫理が国家への忠誠とほぼ一致していた……「世間に顔出しができぬ」という「部落共同体に対する古風な義務感」と読み解いている。
……だが、村落共同体が解体されてからは……共同体から市民社会的現実の中に投げだされた個々の民衆は、中間イデオローグの右翼的言説に導かれつつ、社会への疎外感からの解決を「天皇制共同体」の幻想に求めていく。
▽182 支配エリートが天皇制イデオロギーを基層生活民になげかけ、それで培養された天皇制的共同体幻想が中間イデオローグに思想的発条を提供し、中間イデオローグはそれを右翼ナショナリズムのイデオロギーに変形して支配エリートを脅迫するという、基本的円環が存在した。
▽187 支配エリートや知識人たちは、軍の弾圧に屈したのではない。基層民の共同性への飢餓感および、、政治・外交に法論理を超えた正義の実現を求める声に応えるすべがなかったことから、無力にならざるを得なかったのだ。
……ポピュリズムに対し、リベラル派がなぜ無力なのか。一見排外主義的に見える民衆の欲求に内在している民衆共同体の夢を理解せず、彼らを無知でで蒙昧な存在としかみなささないからである。その意味で、今世界はふたたび、擬制的な「リベラリズム」と市場優先のグローバリズムに対する「反動」的民衆の対立という図式が生まれつつある【?基層民の共同への飢餓感というより、顕教の効果ととらえたほうが説得的では。今の「反動」は孤独への対応……ファシズムをそう形象してよいのか?】
▽193 地方の消失 地方と都会の対立を思想めかして語り、「辺境」に日本近代資本制の重積した圧力と矛盾を見出そうとする井上光晴流の視点は根拠を失ったとみなした。
▽195 70年代後期から80年代にかけ、日本左翼の一部がすがりついた「第3世界民族解放闘争論」「辺境論」(世界の辺境にこそ革命の基盤があるとする論理)への批判。【たしかにニカラグアに希望を感じていた】
▽201 1984年、水俣病闘争と絶縁する。旧態依然の左翼的言説に依存する運動にもはや意義は見いだせなくなった【本当か?】
▽206 西欧近代文学に見られる、人間の精神や想像力をどこまでも拡張していくような作品は江戸時代にはなかった。西洋人が、日本の美術品や装飾品を賛美しつつ、真の芸術作品がないと言っているのも、この文脈で理解しなければならないと、渡辺は「近代」の価値を正当に評価する。
▽208ヨーロッパ近代は、人間性を共同体から解放した。しかし、解放がもたらした社会は、人間が人間にとって狼であるような競争とだましあいの世界、具体的には資本制と法律による、個の利害の調整機関という社会システムをもたらした.……仰天せざるをえないような反人間的論理を内蔵していたわけです。
▽210 あらゆる価値の相対化を唱えるポストモダン思想に対し、渡辺は、さまざまな「反動的思想家」の同士とともに戦いを挑むことになる。
▽213 渡辺は、資本システムの世界支配は……このシステムが共同体から個を自由にしたからだと評価する。
……共同体解体に抗するあらゆる反抗は空しい敗北に終わったことを歴史の事実として指摘する。
▽219 「人間は群を求めるくせに、一方では群れから離れたい」という衝動をもつと……
コスモスと人間との交感や、共同体への夢といった概念を、根本的に否定する立場をとったのが、ポストモダン思想の先駆者ソシュールと……ソシュールは人間は言語をもつことによって、世界を概念化し、それによって本能を喪った存在であり、他の生物とまったくちがう世界認識を持つ。言語には実在から自立した自動的な世界組織作用があると考えていた。【〓そういうことか。言語は真実から離れる。そもそも真実はない、と】
▽239 イリイチが学校制度や病院制度を批判したのは、人間の「自らの生活空間を自力でつくりだし」力をこれらの制度が奪い、世界を主体的に把握することを不可能にするから。
……イリイチの資本主義・産業社会批判とは、自立と共生がともに実現するような共同体が破壊され、企業や専門家集団の提供する商品やケアに依存しなければ人間が存在できなくなることにあった。
▽石牟礼道子 日本の近代文学は、前近代代の民の精神社会から離脱していたため、農民の表層しか描けない。……渡辺はここに、近代的な個を追求するあまりに前近代の精神社会を見失ってしまった近代文学の宿命的な貧しさを見ている。
石牟礼文学は、近代的知識人には思いもよらぬ豊かさと深さを持っている……
▽247 近代文学者は、近代化がコスモスと共同体を解体するとき、そこに生まれた孤絶感を近代的な自我に即して描く道を選んだ。しかし、石牟礼の場合は「その孤絶感を、近代と遭遇することによってあてどない魂の流浪に旅立った前近代の民の嘆きと重ね合わせた」文字なき民のコスモスはこのなかから再創造された。
▽252 石牟礼が描くヴァナキュラーな世界 このような世界に人々を導けるのは、共同体の外部から訪れ、その周縁に住む客人たちなのだ。
▽253 「椿の海の記」を最高傑作と認識。
▽255 天草の乱を描いた「春の城」 「行き所のなくなった民が、いっしょにどこにもない世に行きましょう」という物語であり、「どこでもない世」とは「人が互いの情を信じて生きていける」「もうひとつのこの世」なのだ。
▽261「私の関心は日本論や日本人論にはない。ましてや日本人のアイデンティティなどに、私は興味はない。私の関心は近代が滅ぼしたある文明の様態にあり、その個性にある」
▽266 「ある文明の特質はそれを異文化として経験するものにしか見えてこないと…」【能登も、だからか。藤平さんは外の人だった】
▽273 幕府権力は年貢徴収、切支丹禁圧などの国政的レベルの領域外では、民衆生活や共同体の自治には干渉しない方針を貫いた。これは近代的な意味での自由や自治ではない。「村や町の共同体の一員であることによって、あるいは身分や職業による社会的共同体に所属することによって得られる自由なのだ。」
「日本の前近代的共同団体の伝統的な自治権は明治の革命によって断絶し、その結果、わが国の近代市民的自由は……生活のなかではなく知識人の頭脳のなかで培養された」
▽275 外国人をおどろかせたのは……江戸は都市と自然が一体になるような空間だった。都市が田園によって浸透され、気づかぬうちに都市から田園へ、田園から都市へと風景が移り変わることだった。
▽278 西洋人たちが陥りがちだった過ちは、仏教や神道の教義のなかや、現実の寺院などの宗教組織の活動実態のなかに日本人の信仰のあり方を探ろうとしたことだと分析する。この時代の日本人の宗教感情の真髄は、欧米人や、近代化を急ぐ明治知識人が、迷信や娯楽にしか見えなかったもののなかにあった。
(お盆の行事……)esんぞすうはいの概念を超えて、魂の永劫不滅と、現世をこえ、しかも現世とつながっている霊的世界の存在を体感している人々の姿を現したものだと読み解く。
▽280 「これほど学問なさってさえも善い人であったのに、もし学問なさらなかったら、どれほど善い人であったかなぁ」と老婆。……学問や知識などとまったく無縁で、理解どころか近づきもせずに、しかも幸福に生きることが可能だった、そんな時代が確かにあったのだ。
……江戸という時代は、「かわいらしい人物」に格別の好意を抱き、その世間離れした言動を愛した時代だったことに感嘆する。
……水俣漁民をはじめとする、かろうじて60年代までは存在していた「民」への哀惜を込めた思いを感ぜずにはおれない【能登には今も】
▽287 児童10人のうち16歳まで生きるのは5,6人にすぎず、人間はいつ死ぬかわからぬというのが当時の実感だった。しかしそれは同時に「いつでも死ねる」という、あっけらかんとした明るい諦観をもたらした。
……博多っ子たる資格は5つあって、16際にならぬうちに花魁を買う、…生命構わずに山笠をかつぐ、出会い放題に××すること、死ぬまで鰒を食うこと……
渡辺はここに江戸という文明の美点とともに、その限界、現代の私たちが決してこの価値観にもどれない理由を指摘している。……江戸の面白さは徹底を回避して、とことんはぐらかすところに生まれた。……こだわりを捨ててこそ「粋」なのだ。しかし江戸の思考の根本的な問題点がここにあることも見逃さない。
ただ黙々と日常を引き受け、無言のうちに死んでいく生活者の姿は、現代の我々から見ても千坊に値する。……しかし、その覚悟を知識人が「文学」として表出するとき、それは「はぐらかし」つまり思考の停止・放棄にほかならない。
……近代を通過した私たちは、人間を「たかが知れた存在」とみなすのは、個を共同体に埋没させ、自己と他者との間に垣根を設けない世界の発想であることを知ってしまった。
……江戸時代の豊かな生と、近代とはことなったいみでの「自由」とは、共同体内の存在として自らを規定することから生まれた事をあきらかにしている。私たちは西欧近代との出会いによって、個としてのたしかな自覚と、共同体からの自立を求めるようになった。江戸時代、人々の心の垣根はほとんどないに等しかった。それは……人間はしょせんは同じ「たかが知れた」存在だという共通認識があったからだ。
「近代は、個々人を疎外し、心の垣根によって人々を隔てた。だがそれは同時に「個であることによって、感情と思考と表現を、人間の能力に許される限度まで深め拡大してひやくさせうるということだった」
……私たちは前近代の世界にもどることはできない。だからこそ、江戸という文明は、常に近代を相対化し、私たちの現代の基盤の脆弱さと共に,譲り渡せぬ達成をもまた自覚させてくれるのだ。
▽291 戦国時代についての研究業績に目を通すと……「読めば読むほど腹が立つことが多く……」
戦国時代=日本の中世を「民衆の自由や自治」の可能性が拡大した時代として美化した論者たちのあまりに恣意的な論考への怒りである。
鎌倉幕府末期から南北朝を越えて戦国時代にいたる「乱世」の時代は、網野善彦らによって、民衆による「自由」で「自立」した空間が「無縁」社会として存在していたと評価されてきた。
網野は、豊臣政権から徳川幕府にいたる統一国家の出現は、自由を抑圧し、自立した空間を「悪所」に封じ込める抑圧体制の実現にほかならなかった。この歴史観が戦後左翼の単純な自由礼讃・反権力志向に根ざした錯誤であることを的確に暴き出した。
……戦乱のなかで踏みにじられる人々の悲しき運命を直視し、中世の「自由」が「弱肉強食の自由」であったことを鋭く指摘している。中世社会は、現代の「新自由主義」をさらに推し進めた、「自力救済原理」「当事者原理」に貫かれていた。武装した農村が互いに用水や山林の権益を巡って衝突し、相手には暴力的に攻撃を加えても罪とされないのが、中世農村の「自律」だった。
渡辺は「……おのれの権利を排他的かつ暴力的に主張しあうというのは、けっして夢見るに値する自由なのではない」と記し、豊臣以後の統一政権がこのような各集団の暴力紛争を禁止し、犯罪者を処罰したことを評価している。
……網野は共同体を脱出した人々が、寺社、楽市、自由都市などで、社会的束縛から解放されて自由に生きる空間、「無縁」社会が存在したことを描き出した。……渡辺はこの「無縁」もまた、戦後左翼の反国家主義やアナーキズム幻想にすぎないことを暴露している。
網野が「自由な空間」とみたものは、各集団の武装衝突が激発するなかで、犯罪者が復讐を恐れて逃げ込む[「縁切り寺」、「商売のために手打ちして生まれた休戦地域」としての「楽市」、大商人に寡頭支配され、ハリネズミのように武装した「自由都市」にすぎなかった。]
▽296 親鸞の浄土真宗が、乱世の日本中世に出現する。親鸞の思想は、人間には徹底して救いがないことを原点にする。乱世の現実を、正面から引き受けたところに生まれてきた理念である。すべての人間が、日常的に他者に対し加害者であり同時に被害者であるような時代に救済などはあり得ない。親鸞は「人間はどんなに努力精進しても自力では救われぬ]と絶望の果てでつぶやいた人だと渡辺は読み解く。
……「絶望のないところに救済の要請があるはずはない。救われぬからこそ、救われねばならぬのである。他力とはこのこと以外を意味しない」という「特異な救済の自覚」を導き出した。
▽298 現実が絶望に満たされているからこそ、逆にすでに救済されているもう一つの救済の世界を感知できる人。親鸞が見ていた者は、……石牟礼が水俣病患者という絶望のかなたに、水俣の美しい自然と太古から息づく精霊たちが行き交う「もう一つのこの世」を見出した姿勢にも通じる境地にほかなるまい。
▽299 一向一揆を批判。権力化した本願寺の勢力拡張や織田信長への政治的対抗意識から生まれたものに過ぎないことを論証。
「引退く足は無間地獄の底に沈むと思いて」退却などするなと扇動した僧侶たち、また、その戦いをまるで解放闘争であるかのように美化する現代の研究者を批判。
……信長から家康にいたる「平和]の実現は、民衆に求められていたからこそ実現したのだ。
▽300 自由民主主義は、一方では新自由主義に象徴される「経済における乱世」による格差に悩まれるとともに、伝統的価値観や共同体を「自由な個人」を抑圧するものとして否定してきたことによって、社会の公的価値観を見失い,道徳規範亡き価値相対主義に陥った。その反動として現れてきたのが、ポピュリズムを掲げる政治家たちによる、心情的かつ排他的な、国家と共同体を同一視する言説である。
今や世界は、伝統的な共同体を内部に失い、なんらかの「敵」を外部もしくは内部に置くことでしかを外部もしくは内部に置くことでしか国民を統制し得ない「乱世型国家」による対決に向かいつつある。この時代に、賢い公的権力による、乱世に秩序回復をもたらす努力が実を結び、かつ、親鸞のような真に世界を救済しうる思想的営為をおこなう思想家や宗教者が生まれなければ、人類史は危機に直面するだろう。
「自由とはそれほど結構なもので、これからも人間を呪縛しつづける規範であらねばならぬのだろうか」
▽303 松前藩は唯一、石高制ではなく、アイヌとの交易経済によって成立していた。「異形の商人領邦国家」。
幕府も松前藩も、蝦夷地全体の制服に乗り出す発想はなかった。松前藩はアイヌ社会に対して基本的に不干渉でアリ、交易のみを目的とした。
▽312 「バテレンの世紀」は、キリシタン禁制を、従来の弾圧政策としてではなく「文明の防衛」「流動化した世界の秩序回復」の視点から再評価。
▽314 イエズス会「戦闘的布教組織」 イエズス会士は、寺社仏閣を破壊すべき異教としかみなかった・……宣教師たちが改宗した大名や信徒を扇動し、寺社仏閣を破壊……。
▽316 組織の大目的への献身、そのための自己改造、目的のためには強弁も嘘も辞さぬ点において、イエズス会は共産主義前衛党のまぎれもない先蹤といわねばならぬ。
▽318 秀吉が問題にしたのは、キリシタン信仰する領土が、領民と同じ信仰を強要し、領地内での寺社仏閣の破壊をおこなうことだった。
……家康は布教と交易を切り離しさえすれば、宣教師の存在や静かな信仰には目をつぶるつもりもあった。しかし、17世紀最初の10年で信者は37万人に達した。
▽321 共産主義であれ、消費資本主義であれ、「人権」「民主主義」であれ、ある理念やシステムが一元的に社会を支配し、その価値観に人々の精神を従属させるとき、個人の内面もそれを支える共同体も破壊されてしまう。鎖国とはその意味で、グローバリズムに対する最初の政治的・思想的闘争でもあったのだ(なるほど〓、でも「人権」を相対化するのは右派の論に近い)
▽323 2022年12月25日、渡辺京二は92年の生を閉じた。前日まで何ら変わることなく執筆をつづけており、卓上には最後の原稿がクリアファイルに整理されておかれていた。
▽332 自由民権運動は、近代化をめざす方向性においては明治政府とそう異なっていなかった。三島庸は、「開発独裁型」の政治家だ。彼はたしかに民衆や民権運動家は弾圧したが、近代的な改革のためには上からの土地開発やインフラ整備が不可欠だという信念であり、三島の治世はそれなりの成果をあげている。これに反抗した自由党過激派も、革命によって急激な近代改革を実現するという点では方向性は変わらない。三島に真に対峙し得たのは、農民の立場から近代的な改革そのものを疑った田中正造のような人たちだった。
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能登の念仏 水俣病闘争
土俗の世界を描けるのはそこにいる人ではない。共同体の外部から訪れ、その終焉にすむ客人たち 藤平さん ▽266 「ある文明の特質はそれを異文化として経験するものにしか見えてこないと…」【能登も、だからか。藤平さんは外の人だった】
……水俣漁民をはじめとする、かろうじて60年代までは存在していた「民」への哀惜を込めた思いを感ぜずにはおれない【能登には今も】
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