MENU

死に向き合って生きる<島薗進>

■NHKテキスト250408
 いかに死に向き合うか、詩歌や小説、映画などを通して考える本。
 「死を見つめよ」というメッセージはラテン語の「メメント・モリ」、日本語の「無常」など古くからあった。20世紀前半にはやった実存主義は、死を前にしていかに生きるかという問いとつながっていた。

 最初にとりあげる作品は黒澤明監督の「生きる」。
 やる気がなくミイラのように暮らしていた市役所職員が、がんを宣告されて使命感にめざめて仕事に邁進する。死を前にして、逃げずに「日々をよりよく生きる」ことに答えを見だした作品だった。

 北條民雄はハンセン病で若くして死んだ作家だ。
「意志のないものに絶望などあろうはずがないじゃありませんか。生きる意志こそ絶望の源泉だと常に思っているのです」
 苦難に押しつぶされそうな絶望の淵で、なお希望に生きる道をさぐって「いのちの初夜」を書いた。

 カミュの「ペスト」の主人公は、ペストの流行で閉鎖された都市で、人々を救おうとする医師だ。アウシュビッツや広島・長崎の惨劇を経た時代になお「神」を語りうるのか、という「苦難の神議論」をめぐるテーマが凝縮しているという。
 主人公は「愛というものを(神が与えてくれるとは)もっと違ったふうに考え」「冒涜や祈祷を越えてわれわれを結びつけるなにものかのために、働いているんです。それだけが重要な点です」と言う。
 主人公は無名の「死者」の側にたって現代の「不条理」にあらがう。どんな悲惨な状況でも、愛を求める意志と行動のなかに愛をみる……。だとしたらカミュは、ナチスの強制収容所を生きぬいたヴィクトール・フランクルと似ているのかもしれない。
 
 高見順の「死の淵より」は、食道ガンを発病し58歳で死亡するまでの詩集だ。
 入院直前の電車で出会った若者たちを描いた「青春の健在」では「さようなら 君たちとは二度とあえないだろう 私は病院へガンの手術を受けにいくのだ」
「電車の窓の外」では「……この世ともうお別れかと思うと 見なれた景色が 急に新鮮に見えてきた この世が 人間も自然も 幸福にみちみちている」
「汽車は二度と来ない」は、「まっくらなホームのほこりが舞いあがる 汽車はもう二度と来ないのだ いくら待ってもむだなのだ 永久に来ないのだ…汽車はもはや来ないものであるから レールに身を投げて死ぬことはできない」
 人生最後と覚悟してながめた桜は、「もう一つの世」から花びらがハラハラと降ってくるようにみえた。そんな切なさを描ききっている。
 「おお、人間の中にもある葉よ波よ 海を育てる者は波であるように 人間を育てる者は 人間の中の波なのだ」という言葉は、彼の「生への愛」を示しているという。

 アンデルセン「マッチ売りの少女」の少女は、苦しみと悲しみのなかで死んでいく。アンデルセンの物語は、深い痛みや悲しみの受け止めをうながすからこそ、多くの人々の心にとどいた。どの物語も「死の向こう側」を描く。深い痛みや悲しみを通してはじめて自覚できる「いのちの尊さ」という「真実」を彼の童話は表現しているという。

 夏目漱石は「近代」の自我に悩む人々を描いてきたけど、 1910年、修善寺で臨死体験に近い体験をして以降は、生死の境を超えたことによってえられた安らぎの境地を表現しはじめる。それが「則天去私」であるらしい。
 「明暗」は複数の登場人物の視点から描写することで、ドストエフスキー的なポリフォニー小説という側面もある。「則天去私」は「多元的宇宙」である世界をありのままにみることを促す境地と考えられるという。「自我」の作家から、あの世の視点を得ることで漱石はかわったということだろうか。

 ヘルマン・ホイヴェルスはドイツ人のカトリック神父で、日本文学を学び半生を日本ですごした。
 良寛の辞世の歌「形見とてなに残すらむ春は花夏ほととぎす秋はもみぢ葉」は、良寛が「世の中のものと自分とが、まったく一つのものと感じた」ことを示すという。
「若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、 人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、 弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること 老いの重荷は神の賜物 古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために」(匿名の詩)
 「魂のふるさとへ行く」と信じれば、老いをも神の賜物として受け止められる。無力になり、すべてを失い、無へと向かうのであれば、死は恐れるべきものではなくなる、と言う。

 堀川恵子は「教誨師」の僧侶を取材した。
 (死刑囚にたいして)相手の話に真摯に耳をかたむける。少しでも穏やかな時間を作る。ひとりの人間として向き合い、会話を重ね、時を重ね、同じ空間に寄り添う。
 絶望のなかでも、わずかでも穏やかな時間をつくる大切さは、病院での付き添いで実感させられた。病を癒やすことにはならないのだけど、アニメを見たり、漫画を眺めたり…。「死を前にして、両者が支え合うような「空間」が必要ではないか」。共感できる指摘だった。

 江戸時代は儒学が広まり、来世の実在を疑い、現世的な欲望や快楽を肯定するような考え方も広まってきた。
 芭蕉は宇宙的なものも表現したが、小林一茶は、庶民の日常から遠くない世界で、この世の恨み辛みも表現していた。
 一茶は50歳で帰郷し、52歳で28歳の菊をめとり、54歳で長男が生まれるが1カ月でなくなり、2年後に長女が生まれるが、1年余りで亡くなる。
「露の世は露の世ながらさりながら」
 無常の世、と、思い切れない未練がましさ。
 一茶の「おらが春」はグリーフケアの語りやわかちあいやアート表現に近づいており、宗教儀礼とは別に死別の悲嘆を受け止める方法を提示した先駆的な表現者だという。

 柳田邦男は25歳の息子を自殺で失う。「犠牲」は、「私自身のグリーフワークのために書こうと思ってペンをとった」。脳死や臓器移植について論ずるような場合、通常の三人称の記事ではなく、二人称の視点を忘れてはならないことを強調している。

 太宰治の娘である津島佑子の「夜の光に追われて」は、1985年に長男が突然死した経験とその後をしるしている。
 何年かあと「現実に子供を見つけたのです。その一瞬の安堵感で、私の緊張はたしかにほぐれました」「どんな形で、いつ会えるのか、私が生きている間に会えるのか、死んでから会えるのか、そんなことは一切わからない。でも、いつかは子どもとまた会える。そう信じられるようになりました」「人間として味わうべきこの世の喜びは、ほとんど味わい尽くして、私の子どもはあの世に向かったのではないか、と思いはじめたのです。と言うよりも…この世の人間にとってなにが本当の喜びなのだろう、意味のあることなのだろう、それはほんの小さな頃はじめて知った日の光の暖かさなのではないか、水面を輝かす光の眩さなのではないか、と思い直すようになったのです」
 人間にとっての本当の喜びはたぶん、川縁の満開の花の下で食べたある日の弁当といった、日常のほんのちょっとした幸せ感にある…のだろう。

 ハン・ガンの「少年が来る」は1980年の光州事件とその後を舞台に、少年たちの生と死を描いた。
 「あなたの声を聞いていた私の耳が寺院になりました…君が死んだ後に葬式ができず、私の生が葬式になった。君が防水毛布に包まれ、清掃車に積まれていった後に…」
 光州事件による死者は、関わりを持った者に消え去ることのない悲しみを残した。それは寺院としての生き方、つまり祈りを避けられない生き方を残した。
 絶望の末に肉体的な生命を超える何かであるはずの魂が砕け散るような経験があるということがつづられているという。

===
 1951年には病院での死が9.1%、自宅が82.5%だったが、2009年には病院78.4、自宅12.4。
 ところが1980年代から、自宅で死にたいという人が増えてきている。
 「死を遠ざける近代」を批判し、「死に向き合う」ことを促す動き。世界的には1960年代からめだつようになる。
 日本では1904年に「死生観」という語が用いられるようになり、それに先だって「死生問題」という語も用いられるようになっていた。欧米よりはやくそうした問題意識が共有されはじめていた。儒教と仏教がせめぎあう東アジア的な世界観の併存状況あってのことではないか。
▽黒澤明「生きる」
 がんを宣告された市役所職員。それまでやる気がなくミイラのような暮らしだったのに、使命感にめざめて最後の日々を送る。
「死を前にしてよく生きる」ことについて明確なメッセージを伝えている。その背景に戦争でかけがえのない多くのいのちが失われた経験があることを忘れるべきではないでしょう。死を覚悟して我が身を犠牲にすることを促されたことへの違和感は濃厚に残っていたはずです。敗北後の困難な生活に埋もれ希望をもてずにいることを、ミイラのような生の現実だと感じた人も多かったかもしれません。逃げずに「日々をよりよく生きる」ことに答えを見いだした作品。

▽北條民雄「いのちの初夜」
 ライにかかり、施設に隔離され若くして亡くなる。
「意志のないものに絶望などあろうはずがないじゃありませんか。生きる意志こそ絶望の源泉だと常に思っているのです」
 苦難に押しつぶされようとする絶望の淵で、なお希望に生きる道を語ろうとする。・・・

▽カミュ「ペスト」
 ペストの流行で閉鎖された港湾都市の人々を描く。人を救う仕事に献身する医師リウーが主人公。「不条理」な世界での「反抗」の生き方。
 バヌルー神父 
 「苦難の神議論」をめぐる重要テーマが凝縮。アウシュビッツや広島・長崎の惨劇を経た時代になお「神」、あるいは「神にかわる何か」を語りうるのでしょうか。
 リウーは、「愛というものをもっと違ったふうに考え」、「冒涜や祈祷を越えてわれわれを結びつけるなにものかのために、働いているんです。それだけが重要な点です」。
(どんな状況がひどくても、愛を求める意志のなかに愛をみる?)
 副主人公というべきタルーは最後にペストで死んでいく。リウーの妻も死ぬ。・・・犠牲を通して人が生きる上で忘れてはならない尊い何かが確認される。その一つはそれらを支える穏やかな登場人物たちがいること。たとえばリウーの母親。
 無名の「死者」の側にたち、「天災」の側に与しない、これが医師リウーの生き方です。現代の「不条理」にあらがう生き方。

▽高見順「死の淵より」
 食道ガンで58歳で死亡。発病以来を詩をまとめた。
病院のはいる電車のなかで出会った中学生や若い労働者たちたちを描いた「青春の健在」
「さようなら 君たちとは二度とあえないだろう 私は病院へガンの手術を受けにいくのだ」
「電車の窓の外」
「・・・この世ともうお別れかと思うと 見なれた景色が 急に新鮮に見えてきた この世が 人間も自然も 幸福にみちみちている」
 最後の桜。あの世もう一つの世からはらはらと降ってくるような花びら。
「汽車は二度と来ない」
「まっくらなホームのほこりが舞いあがる 汽車はもう二度と来ないのだ いくら待ってもむだなのだ 永久に来ないのだ・・・汽車はもはや来ないものであるから レールに身を投げて死ぬことはできない」
 「おお、人間の中にもある葉よ波よ 海を育てる者は波であるように 人間を育てる者は 人間の中の波なのだ」
 高見順の信念 生への愛

▽アンデルセン「マッチ売りの少女」
 理不尽な苦しみと悲しみのなかで死んでいく。天使に迎えられる子供も天使自身も。・・・どの物語も深い痛みや悲しみを受け止めることを促す。だからこそ、これらの童話が多くの人々の心に届いた。
 どの物語も死の向こう側を描くことで、深い真実が示される。その真実は、深い痛みや悲しみを通してこそ心の底で納得できるような人のいのちの尊さと関わっているものでは。
死の向こう側を思うことによって、奥深く自覚することができるような真実があることをアンデルセンは人々に伝えようとしたのです。〓

▽夏目漱石「硝子戸の中」「思い出す事など」
 「則天去私」という言葉で述べようとしたことが、「死は生よりも尊い」と述べたことと重なる。漱石が「修行」という言葉で指しているのは、病気で死に直面して「死の向こう側」をかいま見るという経験のことも含んでいるのでは。
 1910年8月、修善寺で臨死体験に近い体験をする。…それ以後、生死の境を超えたことによってえられたある種の安らぎの境地を反復することを好むようになる。
 …生死の境を越える体験をしたあと、漱石はふたたび漢詩の創作をはじめる。
 「明暗」は複数の登場人物の視点から描写することで、「多元的宇宙」を具象化しようとしたもので、ポリフォニー小説では…というとらえかた。漱石は多元的宇宙を論じた哲学者ウィリアム・ジェイムズとポリフォニー小説の大作家であるドストエフスキーの双方に深く共鳴していました。「則天去私」とは「多元的宇宙」である世界をありのままにみることを促す境地だったとも考えることもできそうです。

▽ヘルマン・ホイヴェルス「人生の秋に」
 カトリック神父,日本文学を学び半生を日本で過ごす。
 良寛の辞世の歌
 形見とてなに残すらむ春は花夏ほととぎす秋はもみぢ葉
 「この詩人は世の中のものと自分とが、まったく一つのものと感じました」
 匿名の詩
「若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、 人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、 弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること 老いの重荷は神の賜物 古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くためにーー」〓〓
 「魂のふるさとへ行く」という信仰があれば、老いの重荷を神の賜物として受け止めていくことができるでしょう。無力になり、すべてを失い、無へと向かっていくのであれば、死は恐れるべきものではなくなるでしょう。

▽堀川恵子「教誨師」
 死刑囚と対面してきた僧侶を取材。「死んでから世に出してくださいの」
 拘置所から刑務所まで囚人とともに移動し、そこで最後の別れの言葉を継げることも死刑教誨師の役割。
 死刑執行の本人への告知を前日に通告するのをやめて、当日の朝にするようになったのは1970年代の後半。当日朝の告知がもたらすことの無慈悲さは、死刑囚以外にはなかなか想像しにくいものでしょう。
 …(死刑囚にたいして)相手の話に真摯に耳をかたむけ、「聴く」。少しでも穏やかな時間を作る。ひとりの人間として向き合い、会話を重ね、時を重ね、同じ空間に寄り添う。
【少しでも穏やかな時間をつくる。それがハイジやコナンを見ることだった〓手紙も】
 宗教者らのケアに携わる人も死刑囚も、人間同士として、弱さをわかちあい、安らぎを求める気持ちを分かち合うことも求められています。「救い」の信仰と少しずれるスピリチュアルな経験領域です.死を前にして、その両者が支え合うような「空間」が必要ではないか。

▽小林一茶「おらが春」
 江戸時代には儒学が広まり、来世の実在を疑い、現世でよく生きることに力点を置き、現世的な欲望や快楽を肯定するような考え方も広まってきた。元禄時代から「浮世」という言葉が盛んにもちいられるようになる。
 芭蕉の俳句は宇宙的なものを表すものもあるが、小林一茶の俳句は、庶民の日常から遠くない世界で、この世の恨み辛みも沢山出てくる。
 50歳で帰郷し、52歳で28歳の菊をめとり、54歳で長男が生まれるが1カ月でなくなり、2年後に長女さとが生まれるが、1年余りで世を去ってしまう。
「露の世は露の世ながらさりながら」 無常の世、と、思い切れない未練がましさをうたう。
 「おらが春」は現代のグリーフケアにおける語りやわかちあいやアート表現に格段に近づいています。一茶は、宗教的な儀礼の形とは別に死別の悲嘆を受け止める仕方を提示した先駆的な文学者であり、痛みと悲しみのわかちあいの表現者と言えるでしょう。

▽柳田邦男「犠牲」
 25歳の息子が自殺する。
「私自身のグリーフワークのために書こうと思ってペンをとったものだった。したがって、グリーフワークの重要性が、この本の一つのテーマになっている」
 脳死や臓器移植について論ずるような場合、このような二人称の視点を忘れてはならないと述べています。

▽津島佑子「夜の光に追われて」
 太宰治の娘。1985年に長男が浴室で突然死。
…現実に子供を見つけたのです。その一瞬の安堵感で、私の緊張はたしかにほぐれました。…「どんな形で、いつ会えるのか、私が生きている間に会えるのか、死んでから会えるのか、そんなことは一切わからない。でも、いつかは子どもとまた会える。そう信じられるようになりました。
…人間として味わうべきこの世の喜びは、ほとんど味わい尽くして、私の子どもはあの世に向かったのではないか、と思いはじめたのです。と言うよりも…この世の人間にとってなにが本当の喜びなのだろう、意味のあることなのだろう、それはほんの小さな頃はじめて知った日の光の暖かさなのではないか、水面を輝かす光の眩さなのではないか、と思い直すようになったのです。【荒川の洪水にわくわく 花の下の弁当のおいしさ、幸せ感】

▽ハン・ガン「少年が来る」
 1980年の光州事件とその後を舞台に、少年たちと周囲の人たちの生と死を描いた。
 ここで生きていることの恥ずかしさという考え。
 「あなたの声を聞いていた私の耳が寺院になりました…君が死んだ後に葬式ができず、私の生が葬式になった。君が防水毛布に包まれ、清掃車に積まれていった後に。…」
 光州事件による死者は、関わりを持った者に消え去ることのない悲しみを残している。それは寺院としての生き方、つまり祈りを避けられない生き方を残している。
 絶望の末に肉体的な生命を超える何かであるはずの魂が砕け散るような経験がある、ということが述べられています。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次