■岩波現代文庫250713
柳田国男がつくりあげた民俗学の実践は、農山漁村の民俗そのものの再発見以上に、ローカルな民俗をいかにしてナショナルなるものに接続させかが課題だった。柳田は、全国各地の民俗学徒を総動員して「日本」を語る共同体をつくりあげた。
そうした「日本の本質という物語」を追うのは刺激的だが、それによって失われたものがあるのではないか。アエノコトはその典型ではないか、ということを筆者は出発点とする。
アエノコトは、毎年12月に田の神様を家に迎えて御馳走や風呂でもてなし、2月にまた田んぼに見送る農耕儀礼だ。
アエノコトが最初に登場する文書は「七浦村志」(1920)で「田祭」「田の神さま」と表記された。「鳳至郡誌」「珠洲郡誌」では「田の神様」という表記が5例、「田の神の祝」「田神の祭礼」「あえのこと」「よいのこと」「あいのこと」が各1例だった。
柳田が当初アエノコトを論じるためにつかった基礎資料は上記と小寺廉吉の報告だけだ。小寺は「田の神の行事」「アイノコト」と呼んだ。
柳田は1934(昭和9)年にはじめてアエノコトに言及した。「あいのこと」は「秋祭と正月の中間」という意味だという説が有力だが、柳田は「私の想像ではアエが正しく、神を饗するアエでは無いかと思ふ」と説いた。たった1例しかない「アエノコト」の表記で、この行事の名称を代表させ、「アエ=饗」「コト=祭」という儀礼像を創出してしまった。
さらに柳田は「田の神は本来的には山と田を往復したものであり、その神格は祖霊である」と論じた。上記の資料にはそんな記述はない。これもまた、日本人の神は祖霊だとする柳田の「固有信仰論」にもとづく「想像」だった。
柳田は「分類語彙」と総称される資料集を刊行する。そこに、「アエノコト」の名を載せて「饗応の祭典」と説明した。全国の資料を集積した柳田が編成した「分類語彙」は、民俗学徒が全国の民俗を比較検討することを可能としたが、一方で、固有信仰論にもとづく柳田の想像物にからめとられることになった。民俗学ではいつしか「アエノコト」が一般名となり、「アエ=饗応」とされた。
戦後、三笠宮と柳田らが主導した「にひなめ研究会」は、民間の農耕行事と宮中の「新嘗祭」の間の稲作民族としての共通性を追求した。アエノコトは両者をつなぐ「民間の新嘗祭」と位置づけられた。そのイメージは奥能登にも環流する。
「とーともかーかも……田んぼで働くだけの人やった。生きているときに、天皇さまのまつりに似ていると知ったら、もったいないと、ありがたがったろうに」
柳田の「至って漠然たる私の仮定説」がいつのまにかアエノコト像となり、それに導かれて調査がすすむことで柳田の言葉を追認した。儀礼像を修正するのではなく、その像を再生産することになった。「日本の本質」という物語を志向することで、地域を見る目を大きくゆがませてしまったのだ。
アエノコトの最初の写真は昭和26年、輪島高校の社会科教諭・四柳嘉孝によってもたらされた。野本吉太郎が祝詞を読みあげる姿だった。この写真は、撮影年も村名も記されないまま多くの雑誌に掲載された。
吉太郎は、柳田の神社の氏子総代だった。神主が戦争に行ったため、小さな神事では吉太郎が神主を代行した。その影響で、神主につくってもらった祝詞をアエノコトで読むようになった。戦争による神主不在という状況が野本家のアエノコトを神道化させた。さらに有名になった写真は、陸軍演習場の落成式にやってきた軍人のために昭和18年に演じた際に撮影されたものだった。
あえのことは昭和51年に「国指定重要無形民俗文化財」になり、61年に「植物公園」の移築古民家で実施されるようになる。本来は夕方の行事だが、テレビ局に合わせるため午前中から催した。
各家の行事は、ブリ1匹は高いから切り身になり、豆腐や油揚、甘酒、里芋などもスーパーで購入する。翌年用の種籾をつめた俵が重要な役割を果たしてきたが、農協が苗の販売をはじめたため、種籾から苗を育てる農家が激減してしまった。
昭和26年の調査時は日取りがまちまちだったが、昭和53年には、12月5日に田の神迎え、2月9日を田の神送りとする日程に収斂した。両日に集中するマスコミ報道や研究者の記述の影響だった。
最近では、棚田ブームやユネスコ無形文化遺産(2009年)指定、「能登の里山里海」の世界農業遺産登録(2011)でアエノコトを集落レベルで復活させる例もでてきている。
戦後、民俗文化財保護制度が整備され、昭和50年に無形民俗文化財の指定制度が確立された際、宮本常一はそれに異を唱えた。「日本民衆の自律的な領域であった民俗への国家的保護」を否定したのだ。「国」の物語づくりを求めた柳田とは正反対だった。だから今も宮本に惹かれるのだろう。
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▽3 近年の柳田論 第1に彼の創始した民俗学におけるナショナリズムとコロニアリズムに対する告発。第2に柳田のテクストから誘発される方法的可能性を積極的に読み込む動向「創造的誤読」。第3に……
そのうち第1の動向 植民地主義を隠蔽する「治癒の場」としての沖縄を見出すあり方を断罪。一刻民俗学のあり方への批判。……近代が見失ったものを常民の世界から照射する「近代の批判者」柳田民俗学は、近代との共犯関係を糾弾される側に立たされた。
▽7 「表象の危機」サイードのオリエンタリズム批判は、他者を表象しようとする営みの認識論的・権力論的な危うさを根底的に開示し、他者理解をその学的営為の中心に据えた人類学の存在理由そのものを直撃するに至った。
……これまでの人類学の記述が、圧倒的な力関係の不均衡の下に行われてきたこと、西欧が一方的に非西欧を「発見」し、その「非西欧」の純粋な形を記述野中に「保存」してきたことを解き明かし、そのようなあり方がグローバルな社会変容の結果、根底的な行き詰まりを見せていることを提示した。
▽13 民俗学の実践が、農山漁村に伝承されている民俗そのものの再発見である以上に、そのローカルな民俗をいかにしてナショナルなるものに接続させうるかという問題をめぐる実践だったことは本書の前提となる。
……柳田民俗学の最大の特徴は、日本をつくるパズルゲームに全国各地の民俗学徒を総動員することによって、日本を語る共同体をきわめて広範な形で実現したことにある。
□第1章 闘争の場としての民俗文化財
▽26 民俗のあり方に大きな変容をおこしたものとして、文化財保護制度。昭和29年、重要有形民俗資料の指定制度と、無形民俗資料の選択制度が成立、50年改正による有形無形民俗文化財の指定制度の設立は「民俗」の名のもとにその保存・活用を図るという点で、民俗のあり方に影響を与えた近代的諸制度のなかでも特筆すべきものだろう。
▽35 アチックの人脈と経験の蓄積が、民俗資料保護制度の起源となっていく。
▽38 美術工芸のような一点豪華主義とは異なる埋蔵文化財の性質が、民俗資料と近親性をもったため、埋蔵文化財関係者が民俗資料部門に助言を与えた。
▽41 有形民俗資料は「指定」だったが、無形は「選択」だった。無形のものをそのまま保存するのは意味がないから、記録保存の措置で足りる、という判断だった。
▽44 昭和29年の改正によって、民俗資料は有形文化財から独立した。美術工芸品からの差別化によって果たされたものだった。民俗資料は有形無形両面にまたがる「一般国民」の「日常生活」に根ざした文化財であり、身近に偏在する文化財であり、それゆえ「一般国民」の努力によって保存されるべき文化財なのである。
▽44 民俗資料は、一点一点の個体的価値より、収集された系列的価値に重きが置かれる、という文化財。そこで広範囲にわたる実態調査を実施し、代表的典型的なものを抽出するための比較研究が必要とされた。分布状況の全国的把握が要請された。だが、地方の文化財関係者に民俗資料に関する知識が徹底しないため、分布確認が容易に進まなかった。
▽47 昭和37年、ようやく全国レベルの実態調査が実現。「民俗資料緊急調査」
▽54 「有形は指定」「無形は記録保存」というやり方に疑問が生じる。無形の民俗資料の保護という課題が明らかに。
▽55 昭和43年、保護委と文部省文化局を統合する形で文化庁が発足。
▽62 昭和50年の改正で、従来の民俗資料に無形文化財として扱われてきた民俗芸能を統合する形で民俗文化財が新設され、無形民俗文化財の指定制度が確立された。
……宮本常一は疑問を唱えた。日本民衆の自律的な領域として見出される民俗に、国家的保護が行われること自体を否定した。
▽67 法改正を求める声は、神社本庁によって組織された。同じ信仰に起源をもつ民俗芸能と祭礼行事は同等に扱われるべきだというレトリックは、民俗学者の受け入れるところとなり、昭和50年に有形無形民俗文化財の指定制度導入にいたる。
▽73 民俗文化財保護制度が、「地域文化」を「国民文化」に読み替える新たな回路を回路を設定した。
□第2章 あえのことのこと
▽91 アエノコト研究は、両墓制研究と比肩する戦後民俗学の二大業績の一つとされている。
▽柳田が最初にアエノコトを語ったのは昭和9年。
▽小寺廉吉 地理学研究者で朝日新聞勤務。
▽106 明治天皇が天狗に命じて「木にとまるな」「禿山に止まれ」と命ぜられた。それ以来、大木を伐っても罰が当たらない。そして若山村に大木がなくなった。
伐採という開発の起源を「明治天皇」による「天狗」への命令に求めるこの発言は、「近代」が現地の想像力の次元でいかに把握されたかを示唆するものである。
……小寺はアエノコトの行事を一貫して「田の神の行事」「アイノコト」と呼んでいる。
……神棚のところで主人は「サーサーお風呂にお入りください」といって裸体となり、目隠しされる。それから縄を伝って風呂場に行き入浴する。(主人自身が入浴するというのは聞いたことがなかった)……
▽111 アエノコトに関する最初の記述は「七浦村志」(1920)「田祭」「田の神さま」と。
……行事の名称、郡誌では 「田の神様」が5例、「田の神の祝」「田神の祭礼」「あえのこと」「よいのこと」「あいのこと」が各1例。「田の神様」がもっとも一般的な名称なのである。
▽115 柳田は、「鳳至郡誌」「珠洲郡誌」の2冊のみからアエノコト像を抽出。その後、柳田は「間の事で秋祭と正月の中間に行ふ説もあるが、その正月9日の祭を、アエノコトといふ村が有るらしいから信じ難い。私の創造ではアエが正しく、神を饗するアエでは無いかと思ふ」
「アエノコト」は唯一大屋村で報告されたに過ぎない。そのたった1例しかない「アエノコト」の名称で奥能登に伝承されるこの行事の名称を代表させ、……古語の知識を挿入させることによって「アエ=饗」「コト=祭」という儀礼像を創出しているのである。
柳田のアエノコトへの期待に、多分に直感的な思い込みがあったことを認めないわけにはいかないだろう。
▽117 もっとも一般的な行事名称が「田の神様」で、小寺は現地調査にもとづいてこの行事を一貫して「アイノコト」と表記した。にもかかわらず、柳田は、大屋村の報告例しかない「アエノコト」の名称を使いつづけ、その名称でこの行事を代表させたのである。「アエノコト」とは、体系的な調査と分析の産物であるはるか以前に、柳田の想像力そのものの飛翔なのである。「コトは祭典の義でありアエは即ち饗応であらうと思ふ」
▽121 祭主が神に成り代わって供物を食べることに「祭主=神主=神」という神人合一の姿を見出そうというのである。柳田はいう。「これらも能登半島のアエノコトと同様に、祭主が神にかわってただちに食べてしまわずに、一つ一つ大きな声でその供物の名を唱える風があったのを、いつの頃より神は御目が悪くまたはお耳が遠いからと、解するようになった結果かと思われる」。問題は、この本来的な解説が、プレテクストとはまったく無関係に、「固有信仰論」の立ちあげという文脈の要請によってのみ成し遂げられた点である。アエノコトは柳田の想像力の内に、着々と成長を遂げていたのだ。
▽122 日本人の神は祖霊だ。固有信仰論の主張は究極的にはそう要約できる。
▽123 柳田のアエノコトについての解説を支える資料は、2冊の郡誌と小寺報告のみ。
なのに、それらとは無関係に、田の神は本来的には山と田を往復したものであり、その神格は祖霊であると論じるのである。(〓創造力、作り話)
▽124 収穫後に主人が田の神様を家に迎え入れ、御膳と風呂でもてなし、翌年農耕開始前に同様の行事をもって田の神を田に送り出す行事。御膳と風呂は神人共食、神人合一の境地を具現。田の神は山の神であり根源的には祖霊に帰一。これが柳田の創出した儀礼像である。〓
……柳田はきわめて限定された文献資料からアエノコト像を生みだした。その儀礼像は、調査報告よりはるかに多大な影響を「固有信仰論」を立ちあげる柳田自身の想像力から与えられた。飛翔する柳田の想像力の内に、アエノコトは変幻自在なその姿を出現させた。そしてその儀礼像は、……全国の民俗学徒に供給された。以上がとりあえずの結論である。
▽126 四柳嘉孝 輪島高校の社会科教師。
戦後、新たに社会科が新設され、その教育目標に、生活に密着した知識、社会生活の総合的理解、建設的な批判能力といった課題をかかげた。これらは柳田が民俗学的実践に与えた課題そのものである。社会科の担い手となった教師たちが、柳田の民俗学に手がかりを求めていった。
▽143 戦後、宮中祭祀としての新嘗祭の日は勤労感謝の日にその名を変えた。
「にひなめ研究会」は、「民間および宮中に伝わる農耕に関係する儀礼」に共通性を発見することを媒介として、天皇制を民衆的基盤の上に想像/創造しようとする、きわめて特殊な戦後社会状況に規定されたものだった.
▽151 9学会連合能登調査は昭和28年もつづけられ、アエノコト像を決定的に刻印する調査報告が生みだされる。堀一郎「奥能登の農耕儀礼について」。 堀は宗教学者で柳田の娘婿。不動寺の新出家のアエノコト行事を写真と録音におさめた。
▽154 騎馬民族説は、皇室と国民の一元性を否定するものであり、柳田には承服できないものだった。……日本の農耕儀礼のアーキタイプとしてのアエノコト像を起動し、その儀礼像は三笠宮を迎えた、にひなめ研究会を席巻し、さらに9学会連合能登調査を媒介して奥能登へと貫入していったのである。
▽156 国民と皇室を結ぶ稲作民族としての共通性を、その具現としての新嘗を語る。……アエノコトを日本の農耕儀礼のアーキタイプ以外のなにものかとして感知する可能性は、決定的に喪失されたのである。
▽157「分類語彙」と総称される資料集の刊行。その一環である「歳時習俗語彙」によって、その時点でたったひとつの記述例しかない「アエノコト」の名称が選択され、「饗応の祭典」という意味で付与された儀礼像が起動される。全国の資料を集積し通観する柳田の特権的な視点から編成されたこの「分類語彙」は、全国の民俗学徒に全国的な視野で民俗を比較検討することを可能としたが、それはどこまでも柳田の視線に融合された平面における作業だった。……柳田の立ちあげる「固有信仰論」の理論的要請からなされた、柳田の想像力内部における儀礼像の飛翔だった。
▽158 ……どれほど多くの記述が、この行事を「アエノコト」という名辞のもとに言及し、「アエ=饗応」という柳田説を踏襲し、そして「民間の新嘗祭」としてこの行事を認識していったのだろう。
……新嘗祭は、原始と現在の時代差を超え、日本各地の地域差を超え、皇室と民間の社会的差異を越え、あらゆる差異を超越して「日本」の根源的同一性を保証する。そしてその結節点に浮上するのが、アエノコトなのだ。
……柳田の言葉に導かれた調査が柳田の言葉を追認したのだ。
▽160 民俗学の二大方法概念たる周圏論と重出立証法。
▽163 「とーともかーかも何も知らず、ただ、田んぼで働くだけの人やった。生きているときに、天皇さまのまつりに似ていると知ったら、もったいないと、ありがたがったろうに」 柳田の紡ぎ出した稲作民族の物語は、めぐりめぐって奥能登の農民の現実を規定していた。(上杉と御陣乗太鼓も)
▽164 「民間の新嘗祭」日本農耕儀礼のアーキタイプ、1950年代前半、にひなめ研究会の活動によってアエノコト像は民俗学者の脳裏に固着した。アエノコトをそれ以外のなにものかとして感知する可能性は、少なくとも民俗学者にとっては決定的に喪失された。
□第3章 民俗と写真のあいだ
▽187 「新興写真」大正末から昭和初期にかけての新潮流 「芸術写真」を克服へ。近代工業技術の浸透に伴う美術界全体の革新運動たるドイツのバウハウス運動の日本への紹介。
リアリスティックな病者を主眼とする動きと、モンタージュ、ソラリゼーションといった機械性を生かした技巧の追求との、2つの方向性。
リアリズムを思考する木村伊兵衛や伊奈信男などの「報道写真」と、シュールな作風を思考する野島、中山などの方向性に分解。前者は「写真報国」という形で翼賛体制への協力へとつながり、後者はまったくの沈黙を余儀なくされた。
▽201 柳田の写真へのスタンス 写真の対象を可視的な有形文化財の記録にとどめず、言語芸術、心意現象といった無形文化に広げようとしている。
その際、演出を排除。
▽205 武田久吉 アーネスト・サトウの息子。
……支那事変が始まって以来、旧慣打破の行きすぎた奨励の行われたムラもある。……あれを止めさせよう、これも禁じてみようと……うっかり写真機を携行してとがめられることも稀ではない。携行しているというだけで怪しまれたり……密告されたりするから、農村も安心して歩けぬ時代となった。
▽209 野本吉太郎の「アエノコト」の写真が、多くの刊行物で「石川県(鳳至郡)」のアエノコトの写真として掲載された。撮影時期も村名も家名も記されていない。野本家の写真は、脱個性化・脱時間化・脱文脈化され、原初の農耕儀礼を実証するビジュアル・イメージとして登場したのだ。
▽212 柳田区長をつとめていた吉太郎は、柳田の白山神社の氏子総代も務めていた。神主が戦争に行ってしまったので、小さな神事、吉太郎が神主代行として執り行うようになった。このとき、神道式神祭の作法を神主から学んでおり、アエノコトの祝詞もこの神主に作ってもらったものだ、とのことである。つまり、戦争による神主不在という状況が、野本家のアエノコトを神道化させたのである。
……野本家のアエノコトは、奥能登に残存する原初の農耕儀礼の姿などではなかった。……祝詞を読みあげる吉太郎の写真は、故意か無意識か、出版物を媒介して民俗学界に流通することになったのである。
▽215 芳賀日出男の違和感 「祭壇の作り方、御馳走の飾り方、家のなかの儀礼が神道に非常によく似ている。民間信仰の素朴さがなく私は疑問を感じたので経歴を訪ねてみた。神道に対して尊敬の念があついのは、神主さんの代行をやったことがあり、今でもそれを非常にほこりに思っているためだった」
吉太郎は祝詞という文字文化をもちいて自らの儀礼を再構成する能動的な伝承者だった。その行事の変化は、神主の出征という戦時体制の余波によってもたらされ、その写真は演習場の落成式という戦時体制の1コマとなる出来事をきっかけに撮影された。(軍人の求めでやってみた昭和18年〓)
▽222 対馬・能登につづく9学会連合の奄美大島の共同調査に参加。
芳賀が参与観察の技法を学んだ。ノロやユタは、男性を嫌う。まず、家族や親戚の男性で、自分の仕事に誇りをもって働いている人物を探し、その人の仕事ぶりから撮り始める。それからノロやユタの家庭の子どもたちの写真を撮り、1カ月後には、家族にかこまれたユタを彼女の家のなかで捕ることができた……神がかりまで撮ることができた。
長期滞在による被写体との相互理解が、芳賀の撮影スタンスの基本となる。そのため、盗み撮りという手法は排除される。
▽226 「日本人を理解する鍵」を、消えゆく稲作儀礼のうちに求めようというのだ。芳賀の民俗写真の起点が、エントロピックな本質主義にあることを確認しておこう。
▽229 芳賀は、近代の浸透により人々が変容することは必然であり、……芳賀の写真は自覚的かつ周到な操作から基層的な民俗の姿を浮上させる。一方、芳賀の言葉は、近代がもたらす変容を生きる人びとの姿を捕捉する。指向性を異にする写真と言葉の微妙なバランス。「田の神」はその微妙なバランスの上に提示されたのだ。
▽235 「民俗写真の第一人者」へ。
戦前から写真界には1作品を2度売りするのは恥だとする慣例があった。ところが、昭和32年に日本写真家協会会長に就任した渡辺義雄は、写真家の地位向上をめざし「よい写真は何度でも売れる」と主張し、慣例がとりはらわれていった。発表媒体の増加がその背景にあった。
▽238 柳田らの民俗学の本流は、写真には消極的だった。
柳田の写真に対する貧困が端的にあらわれたのが、野本家のアエノコト写真である。にひなめ研究会の開始された昭和26年7月、四柳嘉孝によってもたらされた写真は、アエノコトの待望のヴィジュアル・イメージだった。それ以後、「民間の新嘗祭」を実証するイメージとして提示された。しかし、この写真に写されていたのは、戦争による神主の出征を機に神道化された行事であり、その撮影自体も演習場落成式の際の軍人の来訪を機としていた。二重に「戦争」が刻印された野本家の写真に、民俗学者から疑義がはさまれることはなく、それをおこなったのは駆け出しの「民俗写真家」芳賀だった。〓〓
▽240 固有信仰論を中核とした民俗学の言説は、文字的な平面に構築され、受容されたのでは。アエノコトは有名な儀礼でありながら、当初はだれも見たことがなかった。にもかかわらず、柳田の言葉を通じて儀礼イメージは普及し、その文字的な認識枠組みの上に後からビジュアルが滑り込んできた。そのビジュアルはリテラルを相対化する契機というよりは強化する契機となった。
▽それぞれの民俗学徒が、柳田の語る視感性の豊かな文体、を通じて、柳田の語る「日本」を容易に想像することを可能とした。……民俗学徒が個人的に感知する民俗のヴィジュアルは、柳田の繰り出す豊かな情景描写を透過して、「日本」という同一性へと融合されるのだ。……民俗学確立期においてヴィジュアルが捨象されたことは、きわめて重大だった。
▽246 野本家に関して、神道の影響を唯一指摘していたのは西山郷史(1986)。特異な事例として指摘していた。
□第4章 農の心の現在 原田正彰とあえのこと保存会
▽253 あえのことは昭和51年、国指定重要無形民俗文化財に。
▽255 柳田村史の編纂 輪島市史、珠洲市史、内浦町史などの編纂にも参加。
▽258 「奥能登のあえのこと保存会」設立。
広範囲にわたる個々の家々ーしかも伝承に関して横のつながりがまったくないーに対する保護方法はまったく蓄積のない分野だった。……
保存会会長には輪島市長・大向貢が就任。活動の実質的な中心は、保存記録編纂委員長に就任した原田だった。
▽263 柳田による民俗学の言説がアエノコトに与えた属性は、「田の神」であり、「山の神」であり、「祖霊」であるという重層的神格である。その重層性ゆえに天皇家をも含めて各地に伝えられた民俗の地域や社会差を超越して共通性を抽出することに成功し、日本人の稲作農耕儀礼のアータイプへと融解させることが可能となった。
ここに原田は「太陽神」という属性を附加したのである。
太陽神を媒介として、「アエノコトを皇室の祖神たる天照大神へと直結させ、さらに世界各地の古代文明へと展開させる原田のレトリックを見るとき、皇国史観と関わった経歴を想起しないわけにはいかない。
原田が生みだした物語が、太陽神信仰、皇室崇拝、物質文明批判、農本精神主義といった要素をあわせもったものだった……
▽272 昭和51年、柳田村初の近代的宿泊施設「能登やなぎだ荘」
昭和61年「植物公園」 民家「合鹿庵」が移築され、ここでアエノコトが実施されるようになった。……田中家では夕方におこなっていたが、植物園では昼間に行っている。
▽285 金沢の「江戸村」 国立歴史民俗博物館
昭和60年、歴史民俗展示「日本人の民俗世界」の一般公開開始。その中核の展示にアエノコトが選ばれた(2013年のリニューアルで消えた)。……珠洲市若山町火宮・田中福松家のアエノコトが選ばれ、展示に再現された。(能登半島地震で倒壊し更地に)
▽301 柳田村十郎原の梅勝二 通常2神のところを3神の田の神様を饗応する。
……以前はブリ1匹を供えた。米1斗で物々交換することができた。今では1万円以上するから切り身をスーパーで買っている。宇出津の魚が遠くまで出荷されるようになって、値段が10倍にはねあがった。
田の神様のお下がりのブリは、1年の農作業に就かれた人々の滋養に役立った。
……梅さんがアエノコトをつづけている理由として一番説得力があるのは「やめて何かあるとイヤだから」。いわばジンクスとしてつづけている
▽306 町野町徳成の中谷省一さん
豆腐、油揚、甘酒は以前は自家製だったが、昭和30年ごろから購入するようになった。依り代となる大根や……御膳の里芋、人参、ゴボウなども、今はスーパーから購入する。
翌年にもちいる種もみをつめた俵が重要な役割を占めていた。ところが、農協が苗の販売をはじめたため、種籾から苗を育てるというプロセスが不要になった。多くの農家が行事を止めてしまった遠因のひとつがここにある。中田にさんはそれに抗して、未だに種籾の準備と苗代の育成をつづけている。
中谷家 以前は夕方におこなっていたが、現在は午前中からはじめている。テレビ局が夕方のニュースに合わせるためだった。
……中谷さんも保存会の活動には批判的。補助金は保存会の記録作成に費やされ、伝承者には「一銭も来よらん」ということになってしまった。会員のステッカーを配布されたのみで、実質的には何もなかったという。
▽315 本質主義=民俗という概念に囲い込まれた文化的実践の収集と比較から超歴史的な「日本人」の「本質」なるものが抽出可能であるとする幻想。
……本質主義というスタンスそのものが、学知や文化財制度やマスメディアといった近代の諸制度に埋めこまれ、その近代性を条件としてのみ、生産され、流通され、消費されるものなのである。
▽321 昭和26年の四柳の調査時は日取りがまちまちだったものが、昭和53年の「奥能登のあえのこと」では12月5日に田の神迎え、2月9日を田の神送りとする日程にほぼ収斂している。西山はこれを、12月5日、2月9日に集中するマスコミ報道や研究者の記述による影響と想定している。
□終章
▽329 柳田のつくった民俗学において、同時代の政治権力性と詩的想像性は、テクストの表層にとどまらず、アエノコトという個別事象の分析に至るまで浸透していた。調査と記述という営為は、儀礼像を修正する以上に、その儀礼像を追認し再生産する契機だった。
〓(ゴジンジョ太鼓と上杉の関係も)
▽333 商品経済の浸透や、マスメディアとの口承や、文化財行政との対応の過程で変容をくり返すアエノコト……。
▽335民俗誌に埋めこまれた詩学と政治学の問題を再三にわって指摘してきた。……だからといって、その帰結は民俗誌無用論ではありえない。
□あとがき(2001年)
▽歴史家の集まりでは「自分を出しすぎている」、人類学者の集まりでは「自分が出ていない」と、およそ正反対のコメントを頂戴した。表象を限定する詩学と政治学の問題は、目の前の事実だということを再確認させていただいた。
□文庫版のあとがき(2025)
▽374 市町村合併 地域からカネとヒトと経験値を吸い上げ、東京一極集中を推し進めただけ。地方創生とは真逆の結果だったのではないか。
▽梅勝二さんの孫、梅佳代さんは写真家としてブレイク。
三井町の萩野夫妻の「まるやま組」
乗光寺の副住職兼染織アーティストの落合紅さんからも、葬墓制から原発反対運動まで、ご教示をいただいた。
棚田ブームのなかアエノコトが復活するという珍事に遭遇。(2007)
アエノコトがユネスコ無形文化遺産に(2009年)
能登の里山里海が世界農業遺産登録(2011)
「輪島の海女漁の技術」が国重要無形民俗文化財(2018年)
▽376 SNS環境がフェイクとヘイトを悪魔的なまでに増殖させた。……未来への投資を怠り、既存のストックを食い荒らしつづけることに終始した悪政の帰結に思えて仕方がない。選択と集中の名のもとに、効率化と管理を自己目的化し、人が学び成長するための環境を度外視しつづけたことの結果が、社会の停滞をもたらしているし、その傾向は今後ますます加速するだろう。
……一人ひとりが日々の暮らしのなかで直面する課題や困難、不満や不安を、声に出し、社会に刻み込んでいくことしかないのではないか。……病状は隠すのではなく、向き合うことによってのみ、快復への道を模索できる。
□解説 佐藤健二
▽382 「柳田説の普及と氾濫にだれよりも苦慮していたのは、実のところ、柳田自身だったのかもしれない」ことに気づく。
▽柳田の「至って漠然たる私の仮定説」の一部が、戦後民俗学においていかに定説化し、固着してしまったかを検証している。
▽383 アエノコト「発見」史年表
第1の層は「郡誌」1920年代における郡制度と郡役所の廃止は、各地に「郡誌」という郷土史編纂の動きを生みだす。「田の神の祭り」が「七浦村誌」「鳳至郡誌」「珠洲郡誌」に記載される
第2の層は、1934年にはじまる郷土生活研究所の「山村調査」で、小寺廉吉の調査。……「饗応、直会、山の神、祖霊、稲霊」など多様な属性を読み込むことができる。アエノコトという名をもつ「おこない」が注目される。
第3の層 「神道」と「稲」をめぐる問い直し。「にいなめ研究会」の稲作論……を媒介しつつ、「民間の新嘗祭」という特有のアエノコト認識が確定していく。柳田もまた稲作伝播の経路を問う「海上の道」(1961)へと進んでいく。
民俗学の言説における理論的要請が、「アエノコト」のイメージを立ちあげ、「その像に導かれる形で調査と記述が遂行された」「柳田の言葉に導かれた調査が柳田の言葉を追認した」そのなかで「アエノコトを日本の農耕儀礼のアーキタイプ以外のなにものかとして感知する可能性」が失われていったのだ、と説く。
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