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田中正造 21世紀への思想人<小松裕(ひろし)>

■筑摩書房20230816

 水俣病の原田正純さん、震災被災地の農業をささえた新潟大の野中教授ら、現場からの発想と行動を徹底した人とおなじにおいがする筆者だ。そして、田中正造こそがその原点であると位置づけているようだ。
 正造は伊藤博文とおなじ1841年生まれで、「志士の世代」だった。
 1874年ごろ、上司暗殺の容疑で投獄された獄中で西洋近代思想に接する。「切捨御免」の特権を憎んでいた正造にとって立憲政治とは、権力をもつ人間に「切り捨て」にされない、社会的弱者が泣き寝入りする必要のなくない政治だった。だから立憲政治の骨格である大日本帝国憲法を高く評価していた。
 自由民権運動をへて1880年に栃木県会議員に。県会議長をつとめたあと、1890年の第1回の衆院議員選挙で当選した。
 足尾銅山は1884年から生産が急増し、翌年から魚類の異変や樹木の枯死があらわれ、1889年と90年の大洪水で、農作物が被害をうけてから鉱毒反対運動が燃えあがる。正造は衆院議員として鉱毒問題にとりくんだ。
  人々は大挙して東京で請願する「押し出し」を決行するが、1900年2月の第4回押し出しが憲兵・警察隊に弾圧されることで、反対運動はしぼんでしまう。
 正造は1901年10月に議員を辞職し、2カ月後に直訴を決行する。
 従来の正造像では、鉱毒被害民を救うため一命をなげうって天皇の慈悲にすがろうとした「直訴」がクライマックスだった。ここから正造は「天皇主義者」という説が流布された。
 ところが、毎日新聞主筆・石川半山の日記の研究によって、直訴が、世論喚起と運動活性化のため石川や幸徳秋水とともに計画していたことが1970年代になってわかった。天皇の慈悲にすがる「純粋で衝動的な行動」ではなく、「共同謀議による戦略的行動」だったのだ。
 正造は、弱い立場の人々の権利を守るため、憲法死守し、憲法を最大限に活用するたたかいをつづけた。生存権すらおびやかされつつも、人権のための闘いをつづける残留民たちは「人道の手本、憲法擁護の手本」であり、憲法の「番人」であると位置づけた。
 だが一方で、谷中残留民らの人権を保障するには普遍的真理である「人権」に立脚し、生存権などをもりこんだ「広き憲法」が必要だと考えるようになった。「所有権」を中心にした人権思想から「生存権」への人権思想の成熟は、市民法の歴史における「近代」から「現代」への発展を先取りしていた。
  1896年の大洪水で、毒水は江戸川をとおって東京まで流れこんだ。衝撃をうけた政府は、26-30間あった関宿の江戸川流頭を幅9間強に狭めて、利根川から江戸川への流入量を減らした。渡良瀬川河口を拡幅して、洪水時に利根川の逆流水が入りやすくした。渡良瀬川への「鉱毒押し込め」だった。
 さらに、渡良瀬川下流域の遊水地化計画がもちあがる。埼玉側の2村は反対をつらぬき埼玉県は買収をあきらめたが、栃木県会は谷中村の土地買収費を可決してしまう。県は村会の決議を無視して小学校と村の廃止を決定。1907年には残留民の家屋が強制破壊された。
 下流の谷中村の犠牲によって上流部をすくう露骨な計画によって、「谷中村さえ遊水地になれば自分たちはたすかる」という考えが広まり、谷中村残留民の反対運動は孤立する。
 正造は、利根川水系を「治水行脚」し、住民から洪水時の水位をひたすら聞いてまわった。それによって以前の洪水とくらべて、上流域と下流域では水量が少なく、中流域のみ大洪水になったことをあきらかにし、「利根川流水妨害工事(が原因の)人造ノ大災害タリ」という自説の正しさを確認した。
 若いころは「近代」を肯定し、非科学的なものを否定した正造だが、このころには、エコロジーにちかい思想に到達し、さまざまな宗教、精神修養法にもひかれている。
 政治を通しての救済が困難になったことで直訴の決意をかため、一方ではキリスト教への関心を高めた。
 見て聞いて憐れと思うのではなく、人民と同じ境遇を体験しながら、その苦痛に学んでこそ、「救い」という思想が生まれると考えた。
 正造は当初、社会主義に好意的だったが、しだいに違和感が増していく。「社会主義者は、経済を合理化して…その利益を公平に配分すれば、…楽に暮らせるというが、それは将来の理想であって、我々は目前の人造水害のために潰された谷中を、自然に復活して、麦米のとれるようにすることが大切です」
 運動費調達のための旧友歴訪の「たくはつ」途中の1913年8月2日、吾妻村下羽田の庭田清四郎宅に、人力車から転げ落ちるようにおりると、そのまま床に伏した。正造は、「谷中へ行く、谷中へ行くといって首を振ったり、手をもがいたりしながら、早く谷中へ知らせろ、担架で運ばせろ、と責めたて」たという。
 9月4日午後零時半に息をひきとった。

 正造は、西洋近代思想の受容をへて、日本の「近代」と格闘をつづけるなかで「近代」への失望感が強まり、伝統思想を再評価しはじめる。
 「人道」(ヒューマニズム)を説明するには、孟子の「惻隠の情」をもちだし、治水論や自然観も、中国古来の、あるいは日本民衆に伝統的な内容だった。
 「近代」をも突き抜ける境地に達することをできたのは、正造が、儒教もキリスト教も社会主義思想も、すべて自分にあわせて、自分のこれまでの体験と信念とに照らしあわせて理解しようとしたからである。外来思想への全面的な帰依ではなく、あくまで自分という主体を把持しつつ、自分の生活体験にこだわりつづけた思想家であり、思想の解釈よりも実践を重んじた思想家であった。
 そう筆者は結論づけている。

=====
▽近代日本において、田中正造ほどスケールの大きな思想家は他にいないと固く信ずる。
▽1901年12月の明治天皇への直訴
(1872年12月までの日付は旧暦)
▽3 第一期 上司暗殺の容疑で投獄された盛岡の獄中で西洋近代思想に接し、出獄後西洋近代思想の摂取をはじめる1874年ごろまで。それまでの正造は、儒教や民間信仰、「通俗道徳」など、伝統的思想世界にどっぷりつかっていた。
 第二期は、1898から1900年ごろまで。あるべき「近代」実現のために政治家として奮闘していた時期。しかし、鉱毒事件をとおして「近代」「近代文明」にたいする疑問・懐疑の念が生じはじめる。その象徴が「非命の死者」という言葉。宗教心にも目ざめはじめる。1898−1900年ごろ。
 第三期は1907年ごろまで。谷中村の家屋の強制破壊。天皇に直訴し、1904年谷中村にはいっていくなかでの思想の変化。
 第四期は、強制破壊執行後、真の意味での「谷中学」がはじめられる時期。宗教認識のふかまりとともに、人権・自治・憲法・自然など、さまざまな思想の深化・純化がみられる時期。
▽5 直訴に収斂する従来の正造像は大きな問題をはらむ。悲劇的英雄としての悲壮感のみが強調され、古いタイプの「義人」像の再生産になってしまう。…1925年に「義人全集」が刊行されて「義人」像が確立する。この全集はデモクラシーやマルクス主義などの「思想悪化」を危機的に受け止めた人びとが、「民心作興」「興風富国の教科書」にしようという意図のもとに出版えを計画した。
 晩年の正造とつきあった、島田宗三や木下尚江、逸見斧吉らは「義人全集」の規格に強い不快感をいだいていた。
 全集では、正造の思想は「皇室中心祖国民衆主義」と位置づけられた。「大和民族固有の思想であって、皇室と共に発達し来た処の日本国民として奉ぜざる可からざる主義である」と規定された。天皇制家族国家イデオロギーを支える担い手の1人にまつりあげられてしまった。
…「圧制下に苦しむ農民の代表として、権力に反抗した英雄」から「滅私奉公の臣民の鑑」へと歪曲されてしまった。「熱烈な天皇主義者田中正造」という「義人」像が意図的につくりあげられた。
▽7 ユーモアあふれる田中正造の人間性 同時代の民衆にはよく知られたことだった。
 「奇行家」として記者の注目の的だった。愛すべき人格の持ち主という庶民的な任期が形成された
 生家の裏手には人丸神社。その縁で、正造が生まれた小中村は、昔から和歌が盛んな土地柄であったと言われる。
▽13 正造の「軽み」「剽軽さ」の精神は、自分の弱さを見つめつづけたがゆえに生まれたものではなかったか。
▽16 正造は1841年生まれ。大隈重信は1838年、伊藤博文は同じ1841年生まれ。中江兆民は6歳年下。正造は「志士の世代」に属し、「自由民権世代」よりは一つ上の世代。
 11月3日という正造の誕生日は、明治天皇と同じ。
▽19 佐倉宗吾 家光に直訴し、妻子共々磔の刑に処せられたという、近世前期の代表的「義民」
▽19 六角家騒動で入牢。三尺立方という小さな牢で、体を伸ばすこともできず、…毒殺をおそれ、ひそかに差し入れられた鰹節2本で命をつないだといわれている。
▽20 江刺県(遠野市に本庁をおいた)の役人に。元幕臣で上司の暗殺事件の犯人にしたてあげられた。1871年6月10日に投獄。嫌疑が晴れて出獄したのは1874年4月。
▽23 1880年2月、栃木県会議員に当選。79年に再刊された「栃木新聞」にも編集人としてかかわり、国会開設論を起草して運動するなど、自由民権活動家としても有名になりつつあった。
 県会では、県令三島通庸との抗争する。三島は「土木県令」。沿道の住民に寄付と労力提供をなかば強制した。
…正造は三島の「暴政」を政府にうったえ…そんなとき、自由党急進派による加波山上での挙兵事件が発生し、正造も収監された。三度目の投獄。二カ月後に釈放された。三島は内務省土木局長に転出していた。釈放後の正造は栃木の「ヒーロー」だった。1886年から1890年まで県会議長に。
 1890年7月、第1回目の衆院議員選挙で当選。1901年10月に議員を辞職するまで計6回の総選挙すべてに当選した。
(地元栃木で「選挙の神様」扱いをされている。選挙の年には、藤岡町にある田中霊祠などに詣でる議員が今でも多いという)
▽26 江戸期の足尾銅山の最盛期は1676年から87年。その後衰退。
 古河市兵衛の手にわたったのが1876年12月30日。1881年84年に良質の「直利(鉱脈)」が発見され、産銅量は一気に増加。
 渡良瀬川の魚類の異変が最初に報じられたのは1885年8月12日の「朝野新聞」。「香魚皆無」アユが大量にプカプカ浮いて…
 85年10月31日の「下野新聞」は前年暮れから銅山近くの山林樹木が枯れはじめている事実を指摘。
▽28 農民が立ちあがる契機は、1889年と、90年8月23日の大洪水。…鉱毒水につかった農作物がことごとく腐ってしまった。
 それから鉱毒反対運動が活発化。
▽31 日清戦争に隠れて示談交渉がすすめられた。「永久示談」契約であった。
▽35 「押し出し」
 1900年2月13日 第4回押し出しに出発した一行を、利根川の渡し場・川俣で300余名の憲兵・警察隊が大弾圧をくわえた。
…警官隊は被害民たちを「土百姓」というかけ声とともに、サーベルをつかってなぐり、手ぬぐいに石を包み、ぶんぶん振りまわしてなぐったり……逮捕者100余名のうち51名が公判に送られた。
 1901年10月23日に議員を辞職し、12月10日に天皇に直訴した。
▽37 明治中期ごろまでの正造は「近代」を肯定し…立憲政治の骨格をなした大日本帝国憲法も、刀にたとえれば「村正の如く、正宗の如き善い憲法」と評していた。
 …正造は、とりわけ武士の「切捨御免」の特権を憎んでいた。
 …正造にとって立憲政治とは、権力をもつ人間に「切り捨て」にされない政治のことであった。社会的弱者が泣き寝入りする必要のなくなった政治であったのである。
▽39 正造が「近代」のありがたさを実感したのが、二度目の投獄になる盛岡の獄中においてだ。監獄則(1872年11月27日制定)が適用されることになり、待遇が一片した。
 それまで苛酷な拷問をうけ、まさに「問答無用」の世界。盛岡の獄では、同室の囚人が4人も凍死した。正造は赤痢で亡くなった囚人の衣服を払い下げてもらってしのいでいる。…ところが監獄則が適用され「一夜の間に地獄のかはりて極楽となり」と形容している。冬は暖をとるための火が入り、夏には種々の草花がいけられ、書籍等の差し入れも自由になった。そこで正造は「西国立志編」など西洋近代思想にはじめて接したのである。
▽43 1864年にカツと結婚してから、一緒に暮らしたのは、合計してもわずか3年ほどに過ぎなかった。
▽46 ジョン・ロックは、人権の基本的内容を「生命」「自由」「財産」とした、近代市民法の核心をなしていたのは「財産権」であった。正造は、まさにそういった近代的原理としての「財産権」不可侵の原則をもって政府を追及した。
▽47 1896年秋の大洪水。被害民たちは正造の指示で、詳細な被害の実態調査にはいった。自前で調査活動をして、そのデータをもとに、正造が議会で演説するという関係ができていた。
…毒のために殺された人の数を「1064人」とはじきだし、彼らを「非命の死者」と表現するようになった。非命とは、天命・天寿をまっとうすることなしに事故や災害で亡くなることをいう。「社会的殺人」だった。正造は「鉱毒殺人問題」と呼んだ。
▽52 1907年ごろに顕著になるのは、人権と法律を対比させて述べることである。
「人権亦法律より重シ。人権に合するハ法律ニあらずして天則ニあり」
 麦を収穫するためのささやかな急水留・畦畔工事に対しても河川法違反として破壊する。村会を無視して、第1、第2尋常小学校を廃止し、藤岡町へbの合併を決定する(1906年7月)…谷中村民を追い出すためにあらゆる法を「鉾」として攻め込んで来た。
…正造は、人権に合致したものへと法律を変えていく道を選び取った。
▽54 議員も国民も、人権を抑圧するような法には「服従の義務」がないばかりか、それに「服従」すること自体が人間としての「恥辱」であり…
 生存権(社会権)の前には「財産権」の自由な行使は制限されなければならない、という考え方をはじめて憲法にとりこんだのは1919年のワイマール憲法とされている。社会的生存権は、日本でも借地借家人問題などが浮上してきた大正期に、法曹界でとりあげられるようになった。「所有権」を中心にした人権思想から「生存権」を中心としたそれへの正造の人権思想の成熟は、市民法の歴史における「近代」から「現代」への発展に対応し、それを先取りしたものであったといえよう。
…正造の生命=「生存権」を中心とする人権思想の原型が、幕末からの体験により形成され、鉱毒反対運動のなかで磨き上げられた思想出会った。日本のひとりの「百姓」がその体験のなかから独自に構築した人権思想の結晶がここに存在しているのである。
▽61 「官」にたいする依頼心を徹底して排除し、自分たちの地域の住民のいのちは自分たちの手で自発的に守っていこうとする姿勢  →公立病院廃止・私立病院重視論
▽62  政治を政治家任せにしないこと、つまり、議会や議員の言動を常に監督する責任を強調していた。
▽71 林竹二 名主公選という「自治的好慣例」が谷中村時代の正造の自治思想の原型をなしたと評価する。
「村落自治」の伝統を、アジア固有の「民主主義」の伝統として高く評価する動きはわりあい多い。
▽77 正造は、町村合併の積極的な推進者だった。このころの正造は、自治の単位として「小村落」=「自然村」を適当であるとする発想はもっていなかった。
▽80 正造が町村自治にたいする批判的姿勢を決定的にしたのは、やはり鉱毒問題だった。
 1896年秋の大洪水以降、鉱毒反対運動は、破壊された町村自治の回復運動という性格をあわせもつにいたった。鉱毒→田園荒廃→地方税枯渇…、鉱毒→山林荒廃→洪水→地方税増加。鉱毒問題の解決なくしては町村自治の確立はありえなかった。
…自分たち地域住民の命をまもる仕事もしないで、郡役所から命じられた(徴兵検査・国税とりたてなどの)「他人の仕事」を優先させる役場を、正造は「我が子の肉をきりて隣の犬に食わせるも同じ事」であると表現している(機関委任事務問題〓)
…国政委任事務という名の自治への「干渉」に苦しめられているのは他の「無害地町村」も同じなのではないか。「干渉されることになれ、それが「遺伝の天性」のようになってしまっている国民の側の問題。
▽87 正造が最終的に理想とした町村自治とは、土地所有規模や持ち家の有無などを前提にした自治ではなく、住民=「ただの人」による自治だった。「独立自治の精神」に満ちあふれた「ただの人」が、「徳」を発揮して自発的積極的に地域づくりにかかわっていく…
「町村自治の外、日本を守るものなし」「町村の安危は町村民の意見が即ち主権者なり」
 正造の追求した自治確立の課題は今日の私たちにとっても以前として課題でありつづけている。
▽91 社会的に弱い立場にたたされた人々の権利を守るために、憲法を武器として、憲法を最大限に活用するたたかいをつづけた。その結果、彼は、大日本帝国憲法の限界に突き当たり、それに代わる「広き憲法」の創造を唱えるようになる。
▽95 天皇も、立憲政体の君主として、「憲法上の徳義を守るべき義務」があると考えていた。正造にとって、守るべき至高の価値は「国家」(国家人民)であったのであり、その国家の基本法である憲法を、天皇といえども尊重する義務があると考えていた。
▽97 「神聖ニシテ侵スヘカラス」とされた天皇よりも、憲法を上位のものと考えていた。…制限君主的な天皇観。
▽98 直訴 戦前から1970年ころまでなら、正造は、鉱毒被害民を救うため一命をなげうって天皇の慈悲にすがろうとした、という解釈ですんでいた。ここから、正造は「天皇主義者」であったというイメージが流布されてきた。
 ところが東海林吉郎らによって、直訴像は180度かわる。(1970年代)
 東海林は「石川半山日記」(毎日新聞の主筆)を駆使して、直訴が、石川や幸徳秋水との「謀議」のもとに計画的に実行されたものであったことをあきらかにした。直訴は、世論喚起と鉱毒反対運動の活性化を目的としたもので、天皇の「慈悲」にすがろうなどという気持ちは毛頭なかった、というのである。
 「純粋で衝動的な行動」説が打ち砕かれ「共同謀議による戦略的行動」説を主軸に回転していくことになった。
▽100 
▽102 直訴状をもって天皇の馬車に近づこうとした正造がつまづいて転び、それを遮ろうとした騎兵も落馬するというハプニングのために、正造は殺されなかった。
…直訴を契機とする世論の沸騰は、渡良瀬川下流域に遊水池をつくる案を浮上させることになった。自らがイメージした方向とは逆の遊水池案という鬼子を産み落としてしまったことへの責任をとるかのように、、正造は鉱毒反対運動、遊水池化反対運動に専念していく。
▽103 直訴後、制限君主的天皇観が明確に述べられるようになる。…辛亥革命の感想のなかで「彼の共和、条理におへてよし」のように、共和制を理想とする境地に正造が達した。
(朝鮮観も、谷中村に配流以前は、朝鮮衰退の原因は朝鮮人民にあるかのように認識していたが、1907年ごろから、日本の「危きハ朝鮮より危し」などと、日本の亡滅・朝鮮の復活という歴史的見通しを語ることが多くなる。)
▽105 最後まで憲法死守の姿勢を堅持し、憲法をよりどころとした闘いをやめなかった。
…権力の非道によって、生存権すらおびやかされつつも、人権のための闘いをつづける残留民たちは、まさに「人道の手本、憲法擁護の手本」であり、憲法の「番人」であると、正造によって位置づけられることになる。
▽109 憲法の保護をうける権利すら奪われている人々が存在していることを「理解」。1911年9月以降、「憲法死守」の文脈のなかではありながらも、憲法の不完全さをいうことが多くなっていく。
…谷中残留民のような人々の人権を保障していくには、普遍的真理である「人権」に立脚した「広き憲法」を新たにつくるしかないと正造は確信した。
…社会主義のような舶来の新思想を借りて来ての否定ではなく、憲法を武器とした人権擁護の闘いのはての、亡村谷中という現場から形成された思想であったことを、私は重視したい。
▽111 正造が谷中村にはいったのは日露戦争さなかの1904年7月末、64歳のときだった。
 1896年の大洪水で、毒水は江戸川の堰をやぶり東京まで流れこんだ。鉱毒水の「帝都」流入に衝撃をうけた政府は、1899年に、それまで26−30間あった関宿の江戸川流頭を幅9間強に狭めて、利根川から江戸川への流入量の減少をはかった。さらに、渡良瀬川河口を拡幅して、洪水時に利根川の逆流水が入りこみやすい用にした。渡良瀬川への「鉱毒押し込め策」にほかならなかった。
▽112 鉱毒問題を治水問題へとすりかえ…
 当時の谷中村は「土地1200町歩、戸数(世帯)450、人口2700」とされている。
 三方を堤防にかこまれた谷中村は、明治に入ってからも、ほぼ3年に一度の割合で洪水にみまわれてきた。そのたびに天然の遊水池の役割をはたしていたが、「洪水があれば山間の肥土が流れ込むので、無肥料で作物が倒れるばかりに繁茂し、その上漁獲の収入も多く、実に豊かな村であった」
 (…栃木県や下都賀郡などの行政側からは「厄介村」だったが)
▽113 当初は、利根川と渡良瀬川にはさまれた埼玉県の利島・川辺両村(現在の北川辺町)も予定地だったが、両村民は反対運動にたちあがり、納税兵役の「二大義務」を拒否するとの強い決意で案の撤回を迫ったために、1902年12月27日に、埼玉県は買収計画を断念している。
 栃木県会も、いったんは谷中村買収案を否決した(1903年1月16日)が、政府と県の強い意志に、切り崩された。谷中村じたい、不在地主が村内の土地の3分の1以上を占めていたいわゆる「不在地主型村落」であったため、一致団結した反対運動がしにくいという弱点を内部にかかえていた。こうして、1904年12月10日の夜の秘密会で、栃木県会は、谷中村買収費を可決した。
▽116 1905年に入ると、県は谷中村の買収に着手。荒畑寒村の「谷中村滅亡史」によると、青年を賭博や娼妓買いに誘い、借金をつくらせて家財を売却させたり、日露戦争に従軍した兵士の留守家族を狙い撃ちして、県の役人や買収賛成派が押しかけて承諾を迫ったり、はては「名誉の戦死」をとげた兵士の遺族への400円の一時金までもが、買収に承諾するまではワタされないというように、買収の取引材料に使われたという。
▽117 谷中村会が選出した村長を認可せず、郡の役人を管掌村長として派遣し、1906年3月には、村会の決議を無視して、小学校を廃止した。さらに、村を廃止して藤岡町に合併する案を、村会が否決したにもかかわらず、管掌村長が独断で決定してしまった。7月1日のことだった。
▽119 正造にとって谷中の村人たちはあくまで啓蒙の対象者だった。谷中の人たちなりのたたかいかたとその論理を知ろうとせず、これまで自分が培ってきた運動の論理と方法を押しつけようとしているようにみえる。
 しかしこうした姿勢は、1907年6月29日からの残留民の家屋の強制破壊を契機にゆさぶられる。
 この時点で堤内でとどまっているのは、わずか16戸。
 …ごはんの入った鍋や釜を持ち去られ、空腹をかかえながらも、両手両足をつかまれ屋外に「抛り出」されても、暴力をもって抗うことをしなかった。それどころか、自分の家が壊されているのを尻目に、いつもと変わらない日であるかのように、麦打ちや魚採りに出かけていた。
 …「教える」「聞かせる」姿勢から、「学ぶ」「教えを受ける」あるいは「聞く」姿勢への転回であった。
「聞くと聞かせると」のちがいを「発明」した正造は、一方的に「教えよう」とすることの愚を悟った。…自分にあわせて相手を理解するのではなく、まず相手のありのままを受け入れようとする姿勢を、意識的にとるように努めはじめたのである。
…真の意味での「谷中学」がこうして始まった。
(学びつづける人)
▽124 「読者の長者」「知識人・官吏」批判。実学と経験知の重視。「ねり殺す」初等教育批判。
 知識をどれだけ身につけるかよりも、それをどれだけ現実の生活とその変革のために役だてるか、という点を重視した「実学」、実践の学問であった。
 …大学で法律や経済や政治などの「実学」を学ぶ学生は多いけれど、そこで得た知識は懐を肥やすか人民を虐げるために悪用されるばかりで、「人民を救ふ学文を見ず」と正造は言い切る。支配のための道具であり、国家に奉仕することを目的にしていた官学アカデミズムの本質を射抜いていたのである。(早川教授)
▽128 人民は愚でも正直で常に前後を考へ、百年の計をなすに、官吏…徳に上流官吏等ハ…百年どころか一年の計もなくして只一時一刻欲ばりのみ、其日其日の椅子安全を計るのみ。故に常に姑息なり。(今の官僚と百姓の比較とかわらない)原発事故が起きたとき、大地に根ざして生きる人間ほど逃げ出すことは困難であり、被害を被りやすい。知識ある人々は実に身軽である。
▽130 みずからの体験を記憶し、それを反芻することによって真実をつかみとり、それを抵抗の原基とすることを谷中残留民に期待していた
…自らの「経験、歴史をくり返しくり返し熟思熟考」し、そのことを通じて譲ることのできない「真理」を発見すること。
▽133 「ねり殺す」 今の小学校教育は子どもたちがもっている素質「野蛮の天性」を「ねり殺」し、外見だけあざやかな色をつけて…画一的にして、…卒業させているだけだ、というのである。
▽136 直訴後…遊水池問題が登場。鉱毒問題を治水問題へとすりかえて、強引に最終的決着をつけてしまおうという性格のものであった。正造は、鉱毒問題の利根川改修工事へのすりかえを批判し、根本的解決には、足尾銅山の操業停止しかないことを主張しつつも、一方で、治水策としてみた場合でも、利根川改修計画が「正理」ではないことを論証するため…徐々に治水論にのめりこんでいった。
 1907年8月25日、残留民を洪水がおそった。あらたに渡良瀬川河身改修工事計画がもちあがる。…下流部の犠牲の上に上流部を救おうという性格も露骨な改修計画が発表されてから、渡良瀬川上流域と下流域との利害対立が顕著になり、互いに反目しあい、遊水池化反対運動はさらに困難になっていった。
▽137 正造の治水論。堤防万能主義の「西洋式」ではなく、「日本ノ地形風土ニヨレル治水」。高水法ではなく低水法。川の自然力を信頼して、蛇行させながら水の力を弱め、ある程度以上の洪水は越流させることを前提に自然の遊水池機能を持った土地を開発せずに残しておくという方法。
▽140 関宿の江戸川流頭にもうけられた流入量制限のための「棒出し」撤去をもとめる。「棒出死」間の幅が26−30間あったのが、1899年に、東京への鉱毒水の流入をおさえる目的で、幅9間強に狭めた経緯があった。
 水源地の山林の涵養も要求。
▽141 1896年の河川法制定が「治水革命」。洪水をなだめる方式から、洪水を「押し込める」方式への変化。低水工事から高水工事への変化。
 …低水工事時代の1873年から84年までの年平均被害額が415万9000円だったが、高水工事への移行期である1885年から96年までは2886万1000円、高水工事全盛となった1897年から1911年までは、3440万9000円と試算されている。被害はそれ以前とは比較にならぬほど激増したのである
▽143 利根川を隅田川に流下させることを正造は主張。15世紀以前の古来の姿にもどすことである。=自然の勾配差を利用した利根川南流論・江戸川主流論。
(利根川を銚子方面に東流させたのは、徳川幕府の仕事で、いわゆる利根川東遷事業が完成したのは1654年のことだった。)
▽145 利根川南流論・江戸川主流論は、戦後にいたるまで一貫して存在していた。
 大熊孝は、南流論が省みられなかった最大の理由は、鉱毒問題ではなかったかと推測している。
▽148 1910年8月、未曾有の水害が関東地方を襲った。正造は、利根川水系全体の水位調査を思い立ち、ひたすら歩き、住民から洪水時の水位と被害の模様をひたすら聞いた。自然の真理と、そのなかで生かされている人間とのあるべき関係を見きわめようとする、求道的な「治水行脚」というべき性格のものだった。
…谷中は、利根川の逆流の影響で一面の洪水となり、残留民の仮小屋はどれも水に浸かってしまった。
▽151 元代議士という肩書きやメイセイはふりすて、「ただの人」として生きようと決意していたが、みすぼらしいなりで寒空に一夜の宿を乞うたとき、心は揺れ動いた。身分を言ってしまいたい……という気持ち。なんとか泊めてもらえることになり、宿帳に名前をしるしたら旅館の主人はびっくりして応対が180度かわった。
…聞き取りから判明したことは、1907年以前の洪水とくらべて、上流域と下流域では水量が少なく、中流域のみ大洪水になったということであった。
「利根川流水妨害工事(が原因の)人造ノ大災害タリ」という自説の正しさを足で確認したのだった。
…正造は、歩きに歩いて水を見つめつづけただけでなく、自分の経験に、沿岸住民の「見取り」と「経験知」を合わせ用いることで、前述の結論を得たのである。
▽157 「真の文明ハ山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」
 一瞬の生命にすぎない人間が自然に「干渉」し自然を傷つけ害することを「文明」とは認めない。
▽158 花崎こうへいが「遊行聖」のようと形容。正造は天智自然の永遠性から人間の「私欲」というものを相対化し、「私欲」や「小利」「所有」にこだわる生き方を否定するようになった。「無私無所有」の生き方を理想とするあまり、正造は、残されたほとんど唯一の就眠ともいうべき小石を拾うことすら、「所有」ではないかと真剣に思い悩んでいるほどである。
▽161 人間は生まれながらに「万物の霊」なのではなく、そうしたひとりよがりの思想や態度をすて、万事万物に冷静を認め、それらと調和して生きようと心がけることによって、はじめて霊的存在に近づくのである、と。(〓エコロジー、福岡正信、熊楠)
▽164 1907年ごろから、キリスト教以外のさまざまな宗教、精神修養法…の名が日記に頻繁に書きとめられている。神代復古運動の小林與平(ともひら)、西田天香、岡田虎二郎…金光教、大本教の中山みき子…
▽169 若いころは富士浅間信仰。明治に入って、盛岡の獄中で西洋近代思想に接してその信仰をすててしまう。
…入獄中に妹のリンが
富士山を祈り、無事出獄のあかつきには富士に登山させると願かけていたことを、出獄後に知ったとき、「…一策を案じ富士参詣は旅費を貰ふて東京に遊び書籍を買ふて帰」ったというのである。
 「富士参詣」と「書籍」との対比の妙のなかに、非科学的非合理的なものを潔しとしない「近代人」田中正造の誕生をみることができる。
▽172 日常生活における「正直」や「まこと」の実践。それを照ってした実践を心がけていれば、神は守ってくれる物なのだ。いや、人間はたとえ愚かであっても「正直」の道を忠実に実践さえしていれば、神にも仏にもなれる存在なのだ、と正造が考えていたことがわかる。
▽176 惨状のなかにあって苦闘しながら被害民を「救ふ」ことを追求していくのが今の自分の「神の道」であって、「暖かなる座上」で神の道を説いたり、自分1人だけ高く上がって「神の子」になったとて、何の意味もない。「只救ワルルコト計リヲ急ギテ、救フ念ナキモノハ利欲利己ノ宗教ナリ」と断言している。
▽178 政治を通しての救済の見通しの困難さが、一方では直訴の決意を固めさせつつ、もう一方ではキリスト教にたいする関心の強まりとなってあらわれたのである。
正造にとってのキリスト教への接近は、自己一身の魂の救済や解脱のためではない…最初からきわめて「国家的」「政治的」な性格をおびたものであったことになる。
▽180 正造にとっての「聖人」とは、孔子と釈迦とキリストの3人…しかし、正造が心底求めていたのは、現世を、現在のありのまままるごと救う「聖人」の出現なのであった。それゆえに、様々な宗教家や精神修養家への幅広い関心となったのである。
▽182 内村鑑三は直訴後の1902年暮れにも学生7人をつれ鉱毒地を視察しており…
▽185 人間は愚でも正直でさえあれば、愚直なまでに正直の道を実践して年輪を重ねれば、自然に神になれる存在であるという独特の「神」観念を持っていた。
▽186 正造が一番期待をかけていた「聖人」は、岡田虎二郎だった。岡田式静坐法。都下だけで信徒2万人というブームをおこし、…ただ、病気癒やしや健康法と受け止めた人が多く、1920年に岡田が49歳で死去すると、ブームは一気に萎んでしまったとされている。
▽187 岡田は正造の31歳も年下。でも正造は岡田を「我々の主」と評した。「救世主」岡田に期待していた。〓
▽194 ただ、見て聞いて憐れと思っただけではいけないのだ、人民の「むれ」に入り、同じ境遇を体験しながら、その「苦痛」に学んでこそ、はじめて「救い」という思想が、意識せずとも身体の
奥から自然に発してくるのだと強調している。
キリストのいう「汝の敵を愛せよ」というのもこういうことなのだろうと述べている。
(まさにイエスの受難と同じ。裏切りや孤立も)〓〓
現在を、ありのままに救うという救済観念 。「今日ハ今日主義」。この問題は、とりわけ、社会主義者や、木下・逸見ら政治否認論者にたいする違和感として語られることが多い。
…最初のころの正造が社会主義に好意的であり、谷中村復活闘争への彼らの支援を望んでいた。しかし、その後は、社会主義にたいする違和感のほうが増幅し、社会主義者との「ちがい」を述べることが増えていく。
「社会主義者は、経済を合理化して…その利益を公平に配分すれば、…楽に暮らせるというが、それは将来の理想であって、我々は目前の人造水害のために潰された谷中を、自然に復活して、麦米のとれるようにすることが大切です」
▽197 「目前見るに忍びざる惻隠の心」が「現在を救う」ことへと正造をつきうごかしてやまなかったといえよう。「今日ハ今日主義」とは、いわば正造が自覚的に選択した守備範囲の限定でもあった。
▽199 最も貧しく、軽蔑され、抑圧されていた「最弱」の存在である彼らが、逆に所有欲・物欲・金欲にとらわれた人類を解放するために、最前線にあって活躍することを正造は期待していた。汚濁した人類社会を救済する「救へぬしの1人」になることを期待した。(イエス的な存在〓)
▽201 1913年4月半ばすぎ、カツ夫人のもとに「三晩という長泊まり」をした。「あとで、あんなに長泊りするようではもうお別れに来たのではないかと話していましたのですが、本当にまもなく病みついて、あんなことになったのです」と回想した。
 6月26日…正造の頌徳碑をたてたいという話を伝えたところ正造は、記念碑だとか銅像とかいうものは「大嫌いだ」と言下に否定し、「なに、死ねば川へ流すとも、馬に食わせるともかまわない。谷中の仮小屋で野垂れ死にすれば何より結構でガス」と答えたという。…
 運動費調達のための旧友歴訪の旅「たくはつ」の途中の8月2日、谷中に帰る途中で、吾妻村下羽田の庭田清四郎宅に、精も根もつきはてて、人力車から転げ落ちるようにおりると、そのまま縁側に倒れ込んだ。病臥していても、正造は、「谷中へ行く、谷中へ行くといって首を振ったり、手をもがいたりしながら、早く谷中へ知らせろ、担架で運ばせろ、と責めたて」たという。
 9月4日午後零時半に息をひきとった。胃がんだったといわれている。
▽202 谷中残留民の不当買収価格訴訟は、1919年8月1日に、いちおう原告勝訴で決着がついた。12年もの年月と労力・費用にくらべると、手にした金額は微々たるモノだった。さらに、裁判の決着は、同時に、谷中村が買収され、もはやこの世に存在しないという「事実」の容認を残留民たちに迫ることであった。こうして、残留民や、移住先から舞い戻ってきていた旧村民も、谷中の地を去らなければならなくなった。
▽203 1991年にいたっても、銅山の廃坑から鉱毒が流出しつづけている。…いったん大雨が降れば、松木沢に積みあげられた鉱滓(精錬カス)からしみだした鉱毒や、渡良瀬川の川底に沈殿している鉱毒が攪拌されて流れ出し、環境基準値をはるかにこえるヒ素や鉛さえ検出される状況である。
▽203 「第1の罪」ともいうべき鉱毒事件の教訓に学ぶことなく、戦後、水俣病などの公害の惨禍をくりかえし(第2の罪)、さらに、古河鉱業(古河機械金属)などが出資して建設されたフィリピン・レイテ島バサール銅精錬所で鉱毒問題が発生しているように、アジア各地に公害を「輸出」して、私たちは「第3の罪」を犯しつつある。
▽204 日露戦争開戦前の1903年2月12日に、掛川市ではじめて非戦論を主張。
…日露戦争に勝利した日本だからこそ世界に先駆けて軍備を全廃するのが日本の「権利」であるという…20億の軍事費を全廃すれば、5人家族平均125円となり、10年間無税にすることができる。あるいは、外交費を30倍、300倍に増やして、日本が世界平和の唱道者にならなければならない。、それこそが日本の世界的使命であると主張した。
▽206 正造は、西洋近代思想の受容をとおして、日本民衆の伝統的な思想にあらたな光をあて、その可能性をさらに豊かなものにした。「反近代」型ではなく「伝統=近代」型の民衆思想家と規定できるだろう。
…一度は、「徳」「道義」「正直」といった倫理観をのぞき、伝統的な思想を忘れ去ったが、日本の「近代」との格闘をつづけるなかで「近代」への失望感が強まり、彼の内面において伝統思想の再評価がはじめられる。こうであるはずでなかった「近代」を批判的に相対化するときに、舶来の最新知識を次々に仕入れて思想を構築するわけにはいかない正造のような人々は、慣れ親しんだ伝統的な思想をフルに動員するしかなかった。
…「人道」(ヒューマニズム)を説明するには、孟子の「惻隠の情」をもちだすほうが正造にはしっくりきたし、その治水論や自然観も、中国古来の、あるいは日本民衆に伝統的な内容の者であった。それ自体新しい思想ではないのである。
▽208 明治の人間の思想的な基盤をなしており、ある意味でラテン語に匹敵するような普遍的教養としての側面も持っていた漢学的素養を、そういったものがなきにひとしい今日の私たちを省みる意味でも、重視するべきかもしれない。
▽人権思想にみられるように「近代」をも突き抜けてしまう境地にまで到達することを可能にしたのは、正造が、儒教もキリスト教も社会主義思想も、すべて自分にあわせて、自分のこれまでの体験とそこからつかみとった信念とに照らしあわせて理解しようとしたからである。外来思想への全面的な帰依ではなく、あくまで自分という主体を把持しつつ、自分の生活体験にこだわりつづけた思想家であり、思想の解釈よりも実践を重んじた思想家であった。
 正造の最後の言葉。〓〓

 同情と云ふ事にも二つある。此の田中正造への同情と正造の問題への同情とハ分けて見なければならぬ。皆さんのは正造への同情で、問題への同情でハ無い。問題から言ふ時にハ此処も敵地だ。問題での同情で来て居てくださるのハ島田宗三さん一人だ。谷中問題でも然うだ。問題の本当の処ハ谷中の人達にも解かつて居ない。

9月4日に岩崎佐十を枕辺に呼びよせて語った言葉を、5日朝に木下尚江が書き留め、島田宗三に渡したものである。島田はこの書簡を、自分の死まで公表しなかった。
 あれほど谷中残留民に期待しながらも、最後には「正造の問題」の本当の所をわかっていない、と言わざるを得なかった。正造は絶望して死んでいったのか? 正造はおそらく、自分の「問題」が後世の人に受け継がれ、最後には歴史的に勝利をおさめることを確信して死んでいったものと考えられる。…
 永六輔がいうように「正造を追い、正造を越えなければ」と心がけて生きる。正造を語りつぎ、正造が生涯をかけて追求した「問題」がなんであったかをきちんと認識すること。それらの「問題」が達成・克服された社会を樹立するために、私たち一人ひとりが少しずつ力を割きあう事。
 21世紀の田中正造は私たち一人ひとりの心のなかによみがえられねばならない。

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