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火の国の女の日記(上下)<高群逸枝>

■講談社文庫20230924
 高群逸枝の自叙伝。途中で亡くなったため、48歳から亡くなる70歳までは夫の橋本憲三が逸枝の日記などをもとにまとめている。「最後の人」の橋本は妻につくした聖人のようだが、この本でははじめ清らかな逸枝を翻弄するエゴイストとしてあらわれる。水と油のように異なるふたりが、紆余曲折のすえに一体化していく過程にひきこまれる。

 山の学校の教師の父、母も教養のある人で、同志的で民主的な夫婦だった。
 逸枝は父母から「観音の子」とよばれ、毎月の誕生日には、母の料理でお祭りがなされた。逸枝自身も小学校入学までは自分を観音の子と信じ、いじめる子に「あたい観音さまの子よ」と叫んでいた。
 川原などにすまい、農具や竹細工、桶修繕などをする山窩もいる時代で、「自由で不屈な人々」と思っていた。
 妻問婚が、若い衆の男女関係とし、のこっており、女の家では、顔も知らない忍び男のことを「うちの婿どん」などと黙認していた。そして子どもが生まれそうになるのを機会に嫁入婚となって結ばれた。これは古代の招婿婚のなごりだった。
 師範学校は体をこわして退学し、熊本女学校へ。卒業後、女工哀史のような工場に就職したが校長の娘だとばれて4カ月で退社した。
 父にならって、一生をへき地教育にささげようと教師になってまもない23歳のとき、当時20歳のK(橋本憲三)とであい恋に落ち、「私はあなたへの永遠の愛を誓います。私に不正な行為があったら、あなたの処分にまかせます。あなたのお手紙はたいせつにしまっています。恋しいあなたよ」という手紙を書いた。Kからは茶化した返事がとどいた。
「この世には永遠というものはありえない。瞬間のみがある。まあ行けるところまで行きましょう。あなたがぼくの手紙をたいせつにしてくれるのはありがたいが、手紙というものは時の拍子で書くものだから、あとで恥をかくから焼いてくれ」
 エゴイストのKの言葉に傷つきながら、そんな彼の思いを受容しようと努力する。
 感受性の強い逸枝は、釈迦や日蓮、親鸞のような清い尼になることをねがった。そして貧しい人をすくう新聞記者をめざして1917年に教師をやめて熊本にでるが、野暮ったい服装や鈍い物腰や口の重さをみただけで、ていよく断られてしまう。絶望した逸枝は、過去の自分も憲三への鯉も断ちきろうと、1918年6月、四国巡礼にでる。
 熊本にもどるとKと同棲をはじめるが、Kは、妻との関係は子育てなどの負担だらけで、そこには恋愛はない。真の恋愛にちかいのは娼婦との関係だけだ……とうそぶく。逸枝は、父母のような永遠恋愛、一体化恋愛をもとめるからKと歯車が合わない。
 Kはかんしゃく玉を破裂させて暴力に訴えることも。逸枝は「…さよなら。あなたの小鳥が飛んでいきます。さよなら。私をおゆるしください。私ののこしたものはみんな捨ててください。私は悲しいのです。恋しい人よ」と書き置きして3カ月で実家にもどる。
 「Kをして毒舌を吐かせ、わがままを募らせ、暴力をさえふるわせて、救いがたい堕落的人間と化させ、私をしてはこれまたあらゆる悪徳、醜態を露呈させた……」と、Kを堕落させた自分自身を責めた。
 そのとき逸枝の心に「感情革命」が起き、従来天上的なものとして描いていた恋愛を地獄図としてとらえた。のどかでうつくしい歌ではなく、破調の短歌をつくるようになった。

 吹く風の白、白、白の大揺れに 水は底ひく草木の揺れに
 男がひとりじいとみるその目 千仞の闇うしろに積もる

 「山の乙女の女体は成熟し、その精神は悲鳴をあげて生き悶え……人生のむざんな露骨な現実への苦悩…山の乙女の私は、あるときはか弱く抵抗し、あるときは進んで対応し、…あるときは打ちたおされて死骸となった。常識も、自己防衛も断絶した」
 つまりあらたな恋愛に苦しんだ。
 逸枝は東京にでることを決意すると、Kが旅費100円をもってきた。
 母は「出世しなはりえ」と言い、「出世します」とこたえて出立した。それが父母との永遠の別れになった。
 東京ではどこかに就職しようかと思ったが、偶然、持参していた原稿の出版が決まった。郊外の世田谷の大百姓、軽部仙太郎宅で勉強生活をおくることになった。そこにKがたずねてきて「故郷の南の海岸で1年くらい2人だけでのんびりくらしてみよう」と誘われ、その言葉にほだされて熊本の海辺に8カ月暮らす。妊娠して世田谷にもどったが赤ん坊は死産した。
  Kは1923(大正12)年6月、逸枝の友人の夫の紹介で平凡社に入った。創業者の下中弥三郎が会社組織にあらためた時だった。それから3カ月後の9月1日、関東大震災が襲う。
 逸枝夫婦のすむ郊外の村にも、「横浜を焼け出された数万の朝鮮人が暴徒化し、こちらへも約200名のものが襲撃しつつある」という噂がながれ、「三軒茶屋では3人の朝鮮人が斬られた」「そこの辻、ここの角で,不逞朝鮮人、不逞日本人が発見され、突き殺された」とつたわってくる。隣人からは「朝鮮人があぶないから、いっしょに集まって、戸外に蚊帳を釣って寝(やす)め」といわれる。
  「村の取りしまりたちの狭小な排他主義者であることには驚く。長槍などをかついだり騒ぎまわったりしないで、万一のときは代表者となって先方の人たちと話し合いでもするというぐらいの態度ならたのもしいが、頭から「戦争」腰になっているのだからあいそがつきる。…いわゆる「朝鮮人」をこうまで差別視しているようでは、「独立運動」はむしろ大いに進めてもいい。その煽動者に私がなってもいい……私はもうつくづく日本人がいやになる」と逸枝は日記につづる。

 震災被害がおちつくと、あたらしい家を入手する。2人の生活がはじまると逸枝は期待したが、Kは友人を1人2人と無料で寄宿させた。当時のアナキストの若者たちのあいだでは、だれかが家をもてば宿無しの友人が居候してたかのがあたりまえだった。Kの友人が家にのさばり、逸枝は台所の板の間においだされた。
 炊事や友人たちのよごれものの洗濯、タバコ屋や酒屋へのつかい、小遣い銭の工面……膨大な家事が逸枝に集中した。路地裏的、梁山泊的な生活に不満げにすると、Kは「家を出てゆけ」といってなぐった。
 そして、平凡社が軌道にのり、Kの地位が安定したのをみはからって書きおきをおいて1925年9月19日、居候の青年をつれて家出した。
 「恋の駆け落ち」と報じられ、Kが半狂乱でさがしていると新聞で知ると、逸枝はみずから警察に届け出てつれもどされることになった
 以来、Kは豹変する。夫にとことんまでついてこようとする逸枝の愛の深さを知ることで、逸枝の希望を優先しようと思うようになり、路地裏生活で体をこわした逸枝のために田園に移住しようと提案する。
 1929年に荻窪へ。荻窪の都市化がすすむと東京府荏原郡世田谷町満中在家の軽部家の森にのちに「森の家」とよばれる家をたてた。
「そこは細長い樹木地帯の南端に位置し、南はまるで人通りのない並木道をへだてて畑地、北は森、この森の先は植木園をはさんで稲荷の森につづく。東も森、西は軽部家の1枚にあまる広い畑。その遠近にも森や雑木林が点在し、その間から富士がちょっぴり頭をのぞかせている。
 敷地は間口10間、奥行き20間の200坪。……敷地の北寄りにクリーム色をした方形の建物。2階建て上下各3室、延べ約30坪……」
 新聞雑誌社をはじめ知友には来訪をことわり、過去のいっさいのグループから離れた。
 男女の差が不均等で、婦人が圧迫されるまでの歴史を調べたいと考えて「女性史」にとりくむ。家族制度は国の基だとされ、ごく初歩の民主主義婦人論が、家族制度破壊の名のもとに発売禁止になる状態だった。通説を批判することは国家的反逆とみなされた。
 戦争が近づくと、特高に目をつけられ、出版社を通じて警告される。「高天原は高天原以外の何処でもない」とか「皇室の恋愛に触れてはならない」と指摘された。文部省が「国体の本義」をだして、神話を歴史のように解釈することを強要するようになった。1940年には「部落常会」という隣組が発足した。森の家は、警察署や駐在所にマークされた。
 そんななかでも、逸枝は最低1日10時間の研究というノルマをみずからに課した。玄関には「面会お断り」の標札をかかげ、執筆依頼にも金がほしいときだけしか応じなかった。
 逸枝の研究は家族形態の変化をあきらかにする。 「源氏」のころまでは、男が女の家に結婚後数年通い、その後妻の家に同居していた。その前は、一生男も女も自族にいて、男が通っているだけだった。南北朝(14世紀)ごろまでがそうした招婿婚で、それ以後嫁取式になる。平安時代には嫁姑の同居がないから、嫁姑の民話などは室町以後にしかない。皇室にも江戸末まで「御簾入」婚がのこり、山漁村には今でも招婿婚の遺制がある。
 室町から嫁取り婚になると、嫁姑の悲劇や公娼制がおこり、有夫姦は罪悪とされる。離婚は一方敵な追いだし式となった。
「上代は母を氏族の中心とし……私有財産制の発展にともなって、氏族が崩壊し、国家が成立すると、女性の地位は後退し、男性中心の家父長家族制度になる。女性は家婦か娼婦かのいずれかであるほかないが、どちらにしても「性器」以上のものではなくなる。……家父長的な伝統は、実は室町以後の600年の伝統に過ぎない。その前にはのびやかな母性の時代があった。」
 フルシチョフの新綱領に共感し、「理想社会の到来を確信したもので、巨大な計画規模を示し、人類を鼓舞している」などと社会主義に希望をいだいた。
 逸枝は進歩的でリベラルな人のように思われるが、実はさびしがりで愛情ふかい、よく泣く「女」でもあった。幼いころからの「観音さま」をもちつづけ、60歳をすぎても周囲をやわらかな空気にする「しら玉乙女」のおもかげをのこしていた。
 1943年、49歳のころ、憲三が水俣にいって10日間留守にしたときは、1日に何度も「いまどこだろう」「今ごろ下関だろうか」「今夜は夫が車中だから、私も着のままでやすむことにする」と日記にしるす。夫のぬぎすてたどてらでつくった夫の人形に、お茶をつぎ、陰膳をおいて話しかけ、「ではあなた」と声をかけて電気を消して寝る。
 鶏を飼い、トンコ、ブーコ、タロコ、ジロコ……と名づける。鶏が死ぬと、「ジロコが死んだ。……庭の花という花をとりつくしてなきがらをうずめ、泣きながら埋葬した」。

 純農部落はしだいに住宅が増え、農家もが消え、屋敷に雑木や雑草があるのは森の家だけだ。廃屋同然の森の家は子どもたちから「4丁目の化け物屋敷」とよばれるようになる。
 逸枝は病院ぎらいだったが、1964年5月10日、ついに入院する。
 おしゃれで、身だしなみよく、発病まで毎日の化粧をかかしたことがなかったから、丁寧に髪をくしけずり、クリームをぬり、足にはソックスをはかせた……。
 主治医は病名についてKがたずねても説明してくれないが、百科事典の「腹水」の項からあれこれしらべて、重大な覚悟を要することを察知した。
 完全看護の病院で夜は付き添えないことがKのなによりの後悔だった。
「こんな完全看護制の病院でなくて私がいつでもいっしょにそばについていられるところだとよかったけど……」とわびると、「ここではそれができないのね」と自他をいたわるように逸枝はこたえた。
 6月7日午前8時に入室すると、逸枝の寝顔の美しさに「彼女は神だ」とKはうたれる。
 ヘアトニックを髪にふりかけてブラシですいてやると目をつぶってよろこんだ。また頭部から手や足をさすると、とても気もちがよいという。それから手を握ってくださいとも……
「私がいかにあなたを好きだったか、いつでもあなたが出てくると、私は何もかもすべてを打っちゃって、すっ飛んでいった。私とあなたの愛が『火の国』でこそよくわかるでしょう。『火の国』はもうあなたにあとを委せてよいと思う。もう筋道はできているのだし、あなたは私の何もかもをよく知っているのだから、しまいまで書いて置いてください。本当に私たちは一体になりました」
 私……
「私はあなたによって救われてここまできました。無にひとしい私をよく愛してくれました。感謝します」
 彼女……
「われわれはほんとうにしあわせでしたね」
 私……
「われわれはほんとうにしあわせでした」 
 そう4時30分しるした。夜9時、帰りのあいさつのとき、逸枝はかたく手をにぎり、「あしたはきっときてください」とつよいことばでいった。
 家にもどってまもなく、病院からの連絡をうけ、11時に駆けつけると、「もう彼女の偉大な魂は一生の尊い使命を終え、永遠のねむりにはいっていた」。
 逸枝のとくに最後の姿はぼくにとってはRそのものだった。

【上】========
▽32 私は父母から「観音の子」とよばれ…毎月の誕生日には、幼い私を正座にすえて、母の心づくしのお供え物でお祭りがなされた。私は物心ついてから小学校入学のころまでは自分を観音の子と信じていた。
…いじめる子に「あたい観音さまの子よ」と叫んだ。
▽40 酒はこのころまではほとんど自家で造られていたが、それは明治の法律では禁止されていた。あるときなど「酒官員」というものにつかまった村の顔見知りのおじさんたち10人ばかりが、じゅじゅつなぎにされて、どこかへ引いていかれるのを見送ったことがある。
▽65 「非人」というのは当時の通用語で、大野川原にセブリをかけている山窩たちのことである。…農具や竹細工、桶修繕、鋳かけ、洋傘なおしなどの「手職」をもって、村から村をまわっているものである。…山窩にたいする私の関心は…流浪の民の自由さと不屈さにあった。
▽69 よく人から物を貰い、それを感謝して大切にしている娘だったが、それがどうしたのかひとつひとつかならずどこかへ奪い去られてしまう運命にあるのだった。そのつど、胸にひめる惜別の思いは人一倍の私だったけれど…
 あたいのだいじなかんざしさん 別れのときがきたのねぇ
 いい子だ泣かずに行っとくれ
 というように、周囲の平和と幸福をねがって、送り出すことになるのだった。
▽90 妻問婚も、若い衆の男女関係としては、よくのこっていた。女の家では、顔も知らない忍び男のことを「うちの婿どん」などといって、黙認していた。そしてこのような例の多くは、子どもが生まれそうになるのを機会に嫁入婚となって結ばれた。
▽若者組が青年団にかわる過渡期だったので、それを嫌って闘争した青年たちの姿もみられた。若者組は部落内の一種の王者だったが、青年団に切りかえられると官僚制の御用機関となって、手も足も出ない状態になってくる。…豪の者が「おえら方」「旦那衆」を闇夜に堀のなかにたたき込むといったような芸当をやってのけていた。
▽114 私が住んでいる新村などに現存する通い婚はつまりこの(古事記などの)原始婚の遺俗だということが考えられた。
▽117 質問をひたすらくりかえす癖があった…が、そのころの教師は、子どもの自由発想をきらった。
▽118 感受性の強い幼い私の心は、釈迦や日蓮、親鸞のような清い尼になって、…とねがわずにはいられなかった。…そうした理想の一環として、新聞記者を希望した。新聞記者こそは社会の木鐸であり、社会を救う者だということだったろう。…実行したが挫折した。
▽128 師範学校にはあわず、体をこわし…退学。
 図書館の哲学の本をよんでいたら、「生意気だ」としかられる。
▽150 当時は熊本人も鹿児島人も、自国の方言で押しあるいていた。いまではこうした特権は、大阪人だけがどうやら固持しているようである。〓
▽153 退学通知を境として、高群一家は転落の道をたどることになる。
▽158 それまでの私は大人の世界を信頼し、…それが師範学校でむざんに裏切られた。「人間の孤独」が身にしみて感ぜられた。
 この後私は、あいてには期待せず、一方的に愛すれば足るという態度を確立した。
▽166 熊本女学校へ。
▽184 女工哀史のような工場に就職。時間に不正があり、12時間稼働のたてまえが、15,6時間にもなっていた。朝は3時ごろからたたきおこされた。
▽186 父が「よろしく頼む」という依頼状を書いて身元が知られ、会社の女工募集係が「校長先生の娘がくるところではない」と暗に退社を勧告した。…4カ月余の女工生活だった。
▽202 無垢だった「しらたま乙女」 学問への希望を捨て、…月給取りを志願し、さらに再転して、一生をへき地教育にささげたいという、…「恋愛」という人生の伏兵のあることをも知らないで。
▽208  Kとはじめて会った日、…その直後には「永遠の誓い」
「私はあなたへの永遠の愛を誓います。私に不正な行為があったら、あなたの処分にまかせます。あなたのお手紙はたいせつにしまっています。恋しいあなたよ」…うすきみのわるいような茶化した返事をくれた。
「この世には永遠というものはありえない。瞬間のみがある。まあ行けるところまで行きましょう。あなたがぼくの手紙をたいせつにしてくれるのはありがたいが、手紙というものは時の拍子で書くものだから、あとで恥をかくから焼いてくれ」
自分がものごころついて以来23歳まですこしの疑いもなく持ちつづけていた愛の「永遠」の観念が根本からくつがえって「瞬間」のそれへと切りかえられることには、ひじょうな苦悩と体験、時間などが必要だったとしても…これを受容することを決意して…
▽213 大正6年秋、学校をやめて熊本にでた。(新聞記者になろうと)
▽216 Kを熊本によぶとき、旅館があることを知らせた。…なのにセックスに関係あるとあわてて、彼が上熊本駅にくると、旅館にはつれていかず、高台の草原にみちびいた。1時間もたたないうちにまた、上熊本駅におくってゆき、帰りの汽車に乗せてしまった。2,3日もすると「ばかにするな」といってよこした。
 私は悲観して、ながながと、弁解の手紙を書いた。
▽227 1918年6月、四国遍路の旅に出た。
▽233 伊東老人のお堂に1カ月とどまる。彼は私を観音の化身と観じ、私の供をして四国八十八カ所をまわることに。
▽247 土佐は修行、阿波にはいると内省的な瞑想的な気分がかんじられる。土佐では旅の苦しさを感じたが、阿波では旅の侘しさを感じる。(4つの道場)
▽262 Kの机の上には2つの座右の銘がしるされてあった。
1,食うことは恥辱だと思え
2,恋愛は負担のないものであるべきだ
彼によると、女房との関係は負担だらけで、子どもを生んだり、家庭を維持したりせねばならない。ここにはもう恋愛はない。だから真の恋愛にちかいものは娼婦との関係だけだ。
…ところが私ときては、永遠恋愛、絶対恋愛、一体化恋愛に逆戻りしており、なかなかKとの間に歯車が合わない。心では私は寂しがっている。私は恋愛を結婚関係に生かしたような私の父母を理想像として描いている。
▽282 Kはかんしゃく玉を破裂させて、ついに暴力に訴えたりした。…私は帰郷することにした。
 かきおき
「…さよなら。あなたの小鳥が飛んでいきます。さよなら。私をおゆるしください。私ののこしたものはみんな捨ててください。私は悲しい野です。恋しい人よ」
▽285 Kをしてあらゆる毒舌を吐かせ、わがままを募らせ、暴力をさえふるわせて、救いがたい堕落的人間と化させ、私をしてはこれまたあらゆる悪徳、醜態を露呈させた。……(感情革命、歌もかわる)
▽288 吹く風の白、白、白の大揺れに 水は底ひく草木の揺れに
 男がひとりじいとみるその目 千仞の闇うしろに積もる
(恋愛を描写するにも、天上的なものしてではなく、地獄図としてとらえた)
▽291 球磨から帰ってくると感情革命とともに、山の乙女の女体は成熟し、その精神は悲鳴をあげて生き悶え 人生のむざんな露骨な現実への苦悩…山の乙女の私は、あるときはか弱く抵抗し、あるときは進んで対応し、…あるときは打ちたおされて死骸となった。常識も、自己防衛も断絶した
▽293 陶酔の山の乙女はここにきて冷厳な観照派となり、さらに異様な四次元的な印象的世界へ入りこもうとする気配さえみせはじめた。短歌の定型からはみだし、破調(自由律)の短歌となった。
▽300 東京へ。Kが旅費100円をもってきた。…母は「出世しなはりえ」と言った。私は「出世します」とつつしんでこたえた。出世という言葉は、たぶん父の言葉、母の言葉ではなく、村の言葉、世間の言葉であって、それが母の口をかりて出たのだと思う。やがて私はその道をまがって歩き去ったが、これが父母への永久の別れとなった。
…弟妹をのこして別れ去る私は悲しかった。われわれはこれを境にして、もう昔のだんらんにかえる日はないのだ。
▽305 東京行きは無計画で運命の予測がつかなかった…
 渋谷におりて…道連れになった新設なおかみさんが、事情をきいて、知るべの家につれて行って、そこに泊めさせてくれた。
▽307 出版がきまり…郊外世田谷の大百姓軽部仙太郎のところで勉強することになった。
▽319 Kがたずねてきた。…故郷の南の海岸にいって1年くらい2人だけでのんびりくらしてみないかといいだした。…私は例のように優柔不断となり、曲従するのだった。
▽324 高村智恵子が病床の作品を…夫がくると見せ、夫からほめられるたびにいちいちお辞儀をしていたという気持ちがよくわかる。私とそっくりだ。その後こんにちにいたるまで、私の書いたもので原稿のうちに彼に見せないものは一つもないといっていい。彼はついに毒舌と賞讃とで私の成長をたすけてくれるようになっていったのだった。
▽326(九州の)弥次生活8カ月間 妊娠 世田谷にもどる
▽328 大正11年、世田谷の軽部家で憲平ちゃんを死産した。
 Kは大正12年、私の師範学校時代の旧友美多子さんの夫君志垣寛さんの紹介で平凡社に入った。平凡社は下中弥三郎さんが「やこれは便利だ」というポケット事典を自家出版したのにはじまるが、このときそれを会社組織にあらためて、出版界にデビューしたのだった。
 ところが9月、震災に見舞われ、神田に進出したばかりの平凡社も焼け、社は一応解散となり…
▽342 震災
 2日 横浜を焼け出された数万の朝鮮人が暴徒化し、こちらへも約200名のものが襲撃しつつあると(もちろんデマ)。
 村の若い衆や亭主たちは朝鮮人のことで神経を極度にとがらせている。これはちょうどわが軍閥の盲動に似ている。もどかしい、いまわしいことどもだ。三軒茶屋では3人の朝鮮人が斬られたというはなし。私はもうつくづく日本人がいやになる。
…隣の植六さんらが、朝鮮人があぶないから、いっしょに集まって、戸外に蚊帳を釣って寝(やす)めといいにきた。朝鮮人よりも地震がおそろしいと家人がいうと、六さんは私の夫に
「ねえだんな。地震はもう大丈夫ですね。それより朝鮮人がなんぼか恐ろしいですね」という。
なみ夫人は「朝鮮人がきたら柿の木にのぼろう。私は木登りはうまいから」と真剣な顔でいう。
 それにしてもこの朝鮮人一件はじつにひどいことだ。たとえ200名の者がかたまってこようとも、それに同情するという態度は日本人にはないものか。第1、村の取りしまりたちの狭小な排他主義者であることには驚く。長槍などをかついだり騒ぎまわったりしないで、万一のときは代表者となって先方の人たちと話し合いでもするというぐらいの態度ならとのもしいが、頭から「戦争」腰になっているのだからあいそがつきる。…いわゆる「朝鮮人」をこうまで差別視しているようでは、「独立運動」はむしろ大いに進めてもいい。その煽動者にわたしがなってもいい。
…私は心から200名の無事をいのる。どうか食糧と天の祝福とに彼らがありつけるように。
 3日 もうそこの辻、ここの角で,不逞朝鮮人、不逞日本人が発見され、突き殺されているという。
▽345 9月15日 平凡社では焼け跡に社員20余名を召集して善後策を協議…社の解散が宣告された。
▽346 9月16日 Kが前の晩かえらず……門の前にでて2,3時間もそこに立っていた。……ずぶ濡れになりながら……「南無観世音」を33べん、数十回くりかえした。……私は人間の祈りを信じる。人間が信念をもって祈ればその効果は何らかのかたちできかれることを信じる。……
▽350 新しい家をもったが……Kは1カ月もたたないうちに友だちを1年ばかり寄宿させた。……私の家にはいつも一人か二人の無料寄宿人がいることになり……
 ……背負いきれない家事が私一人に集中し、そのうえKの知り合い連中が、この家を倶楽部のようにしてしまい……
 彼らは行儀が悪く、家中を占領して気ままにふるまい、私を台所の板の間に追い出した。
……だれかが家をもてば、宿無しの友人たちがわんさかとたかってくる。それが普通だったらしい。
 ひとりで炊事はもちろん、全員のよごれもののしまつから、走り使い、小遣い銭の工面まで考えねばならなかった。路地裏的、梁山泊的。〓
 花札常連がきて……客が多くて仕事だめ。……そば屋やたばこ屋や貸家に使いに。
▽355 夫は2人を他人だと言った。夫はまた家を出てゆけともいった。そして私をなぐったので、木田さんがとめた。……
▽359 Kの地位は安定したようだった。この期を逸してはならないと私は決心した。書きおきをおいて、家出することになった。亡児の霊によばれている気持ちで、西国巡礼から高野山におちつき、婦人論の著述に生涯を託するつもりだった。手記に
あたしゃ愛ゆえ家を出る 恋しい人よさようなら……
大正14年9月19日、家出を決行した。しかし、Kが半狂乱で追っかけているということを新聞で知ると、私はたちまち豹変して、自分から熊野街道に出ばってKが乗ってくるだろう自動車を待ち受けたり、警察に届け出たりして、進んで連れ戻される結果となってしまった。
▽368 私が平凡社に入社したのは関東大震災直前の6月で、志垣寛さんの紹介だった。つまり平凡社が会社組織になって新出発をしたときで、その後「現代大衆文学全集」によって大出版社たる基礎をきずいたころまで在社して、いわば草創期の苦難を社長下中さんとともにわかちあった。
▽380 Kが下中に献策し、成功したものがふたつ。ひとつは「大西郷全集」、ひとつは「現代大衆文学全集」
▽391 私の心身は路地裏にあっておとろえて……Kが心配して……田園地に移転して、……健康をとりかえし、懸案の実行にはいれるようにこころみてみようではないかと私を説得するのだった。
……昭和4年3月、荻窪へ。
 Kは、私が自己の欲求をおさえ、彼を本位としてとことんまでついてこようとする私のいわば愛の深さをひとりでに知るようになり、このころになると私の希望を実現させようとする心理状態に変わりつつあったらしい。……私の家出以来、彼はそれを切実に感じて機会を待っていたのだという。
 ……荻窪で初めて、私の待望の2人づれの散歩も実現した。
 だが区画整理の渦中にまきこまれ、……訪問者が多くなり……Kは森の中に研究生活本位の新住居を私のためにつくってやりたいと考えるようになる。それが世田谷の研究所に。
 「婦人戦線」アナキズム系の霧散婦人芸術連盟の機関紙。私が主宰者になることに私はひどく尻込みした。

■火の国の女の日記(下)<高群逸枝>講談社文庫
 37歳から亡くなるまで。
 高群が最後まで書けなかったため、途中から48歳からの記録は夫の橋本憲三が逸枝の日記などをもとにつづっている。

▽11 あなたは私がじゅうぶんな収入をうるようになったときをみはからって私と別れようとしてくるしみ、無理に自分を私から引き裂こうと決意した。……逆上して支離滅裂にさえなり手のつけようもなくなったようなあなたのなかに、あなたの本来の火の国的な炎のような個性や高貴な才能や、あなたの野性的な美貌ーこれら抑圧されていたものが一時に輝き出たことはまさに驚嘆すべき現象だったと思う。
……どんなことをしてもあなたを手ばなしたくなかったのです。
……私はいった。
「……私の希望を率直にいうなら、将来有名学者になることではなく、生涯無名の一坑夫に終わることなの……背伸びすることのない<自分の領域>で<真実>と向かいあいたいことだけがねがいなの……
▽13 Kは……森の中に研究所をたててやりたいと考えていた。
……軽部仙太郎さんは自分の所有林を利用して新築しないかといい、虎ノ門のN宮家の解体資材の一部を自家用に買い入れているものがあるから、それも提供しようといってくれた。
……東京府荏原郡世田谷町満中在家。経堂駅から徒歩20分のところ。
 そこは細長い樹木地帯の南端に位置し、南はまるで人通りのない並木道をへだてて畑地、北は森、この森の先は植木園をはさんで稲荷の森につづく。東も森、西は軽部家の1枚にあまる広い畑。その遠近にも森や雑木林が点在し、その間から富士がちょっぴり頭をのぞかせている。
 敷地は間口10間、奥行き20間の200坪。……敷地の北寄りにクリーム色をした方形の建物ー2階建て上下各3室、延べ約30坪ーがたち……
▽18 新聞雑誌社をはじめ知友には来訪をことわり、自分も過去のいっさいのグループから離れ、文筆生活からもわかれることをあきらかにした。
▽19 男女の社会的地位がひじょうに不均等で、……これは男女生活ないし人類生活において決して幸福ではないとされて婦人運動などがおこっているが、、それなら婦人自体の被圧迫史、婦人がこんな状態となるまでの歴史がわかっているかという、そうでないということに、私は不審と不満とをもっていた。
▽20 家族制度は国の基だとされ……ごく初歩の民主主義婦人論が、家族制度破壊の名のもとに発売禁止になる状態だった。だから右の通説を批判したり、学問研究の対象とすることは、国家的反逆とみなされたので、だれも正面きって研究に立ち向かうものがなかった。
……私が第1に「古事記伝」をとりあげたのは、……国学者は儒仏に対抗する関係からも、日本の特殊性を重視したので、中国の父系にたいして日本の母系、彼の嫁取婚にたいしてこれの婿取婚の存在を発掘しているのが特徴的であった。……ここから研究の手がかりをつかもうと考えたのだった。
▽23 収入はKの貯蓄と私の原稿料だった
▽28 「もっと科学者らしくあってくれ」とKが不平をいう。「でも」と私はつぶやかずにはいられない。私のなかには、やはり科学者とそうでないただの女性とが半分ずつ住んでいるらしかった。
▽33 栄養失調に。めまい、手足がしびれて重く、視力減退、頭痛、歯痛、便秘、尿意頻数、月経異常と……
▽64 特攻検閲からの出頭通知書を駐在おまわりさん伝達。……学問、思想弾圧の深刻化を意味するものだろう。
▽66 原始共同体ー母系氏族共同体ーがだんだんと変質をとげながらも、大化のころまでは原形をとどめたことを、信じるようになった。
……日華事変前後から……学界では京大滝川事件、東大美濃部事件などが相次ぎ、学問研究の自由が奪われつつあり、私自身も特高の訪問を受けたり、……出版社を通じて警告されたりした。脱稿直前には、数条の「特達」が通告されたが、それは「高天原は高天原以外の何処でもない」とか「皇室の恋愛に触れてはならない」とかいうものだった。
……文部省が「国体の本義」をだして、神話を歴史事実の如く解釈することを強要するようになって、歴史は神がかりしてしまった。
 アカデミズムの多くの学者は、神秘的な皇国史観が日本人としての唯一の歴史観でなければならぬと高唱した。
▽82 自分に鉄の規律を課した。労働時間は1日10時間をくだらないこと。……玄関には「面会お断り」の標札をかかげ、扉は鍵をかって閉じたままにし、軽部さんや少数の人達には茶の間のお縁にまわってもらう。執筆依頼には原則として応ぜず、……自分に金がほしいときだけかかせてもらう。また団体や運動にタッチしないことも再確認された。
▽96 昭和15年12月7日、私たちの部落でもいよいよ部落常会が発足した。戦争協力への最下部組織としてのいわゆる隣組だった。
……森の中の一軒家は、少数者をのぞく部落人一般の怪しむところとなり……「女性史研究」そのものまでが疑惑の対象として、所管の警察署や巡査駐在所にマークされ、町会顔役連に警戒されるといったような羽目になった。
▽129 夫が水俣にいって10日間留守。「いまどこだろう」「今どこだろう」と日記にしるす。「今夜は夫が車中だから、私も着のままでやすむことにする」
 夫のぬぎすてたどてらでつくった夫のかげに、お茶をついで話しかける。陰膳をおき、毎夜「ではあなた」と声をかけて電気を消す。帰りを待ちわびる様子。
▽206 日記のなかの彼女の詩は……「ひとがタバコ一服というときに私はこれらの小さな詩を書く」つくろわない生の心が「そのまま流れてインクのシミを」つくったものなので、彼女は生涯これをつづけるのである……
▽207 日本女性にとって、画期的意義をもった新憲法が実施されたのは5月3日だった。われわれはこれを記念して、これまで無名だった森の研究所を、この日から「女性史学研究所」と呼ぶことにした。
……「余裕住宅」として登録せよとの通達に驚いたKは、……区役所には「余裕住宅」ではないと抗告するとともに、その事実をめいじするために看板を出す必要が出てきた。……「女性史学研究所」と。1,2年「余裕住宅」問題が立ち消えになるまで看板はかかっていた。
▽226 わが家は文字どおりの廃屋。近所の子供らがいみじくも名づけた「4丁目の化け物屋敷」だ。
……鶏を飼う。名前はトンコ、ブーコ、タロコ、ジロコ……(ああ、感性が似てる)
 家族になってしまう。亡くなると、号泣する。
▽252 南北朝(14世紀)ごろまでが招婿婚、それから昭和前期までは嫁取式、新憲法後が自主婚(寄合式)、……皇室にすら江戸末まで「御簾入」婚の名でのおり、僻遠の山漁村には今日まで多くの遺制をみることができる。
▽254 「源氏」のころまでは、だいたい男は結婚後数年通い、その後よければ妻家に同居して住みつくというのが原則であった。
 そのずっと前には、一生男も女も自族にいて、男が通っているだけであった。飛騨の白川村にはつい近頃までこの形式がみられた。平安時代もすこし後になると、男は通うことをやめて、いきなり儀式とともに女の家に婿とられ同居することがはじまった。
……嫁姑の同居がないから、嫁姑の民話などは室町以後の所産で……。
▽255 伊豆の利島には、「父子2代の夫婦がカマドを共にしないという原則が今もはっきり守られている」という。貧乏な家出は隠居屋などつくれないから、父夫婦と息子夫婦は部屋をしきってカマドを別にする。この同火禁忌の原因は……招婿婚原理、母系原理のゆえであるとおもっている。その証拠に、女系なら幾世代でもカマドを共にしてよかった。
 室町から嫁取り婚に。嫁姑の悲劇もおこり、……公娼制もこの時期におこり、姦通罪は死罪に価し、離婚は一方的な追いだし式となった。
▽261 招婿婚では最後まで罪悪とされなかった有夫姦が、娶嫁婚にはいってはじめて罪悪とされるにいたる。
 群婚→招婿婚→娶嫁婚→寄合婚
 群れの生活→氏族制→家族制→個人制
 母系→父系→双系
▽271 怒りや憎しみを心に持ちきれないで、泣きながらでもそれを愛に転化せずにはすまされない宿命をもった性格。
……私は、毎朝ひどく夫をさわがすくせがある……「なんぞや」という質問の連発。
▽274 日本婦人は年をとってもきれいなのが特徴であるといわれるが、高群さんはまさにその典型的の一例である。
▽281 軽部仙太郎さんの死去……夫人からのぞまれて、森の家の土地200坪を買った……。逸枝の印税と水俣の援助で支払われた。
▽300 ジロコが死んだ。……庭の花という花をとりつくしてなきがらをうずめ、泣きながら埋葬した。
▽310 上代は母を氏族の中心とし……私有財産制の発展にともなって、氏族が崩壊し、国家が成立すると、女性の地位は後退し、男性中心の家父長家族制度のもとで苦しい立場にたつことになった。この時代になると、女性は家婦か娼婦かのいずれかであるほかないが、どちらにしても「性器」以上のものではなくなる。……家父長的な伝統は、実は室町以後の600年の伝統に過ぎない。その前にはのびやかな母性の時代があった。
▽312 「女性解放に根拠をあたえるものとしての、女性史学の樹立」を目標とするものだった。
▽322 ポポーの実。
 民俗専攻の瀬川清子さんが来訪
 松本清張が彼女を書きたいとのことだったが、これを辞し……
▽340 彼女が雑草の庭にたつと、ぐるりの空気がやわらぎ、その体からなにかかげろうのように匂いたつものがKにはしばしば感じとられた。しら玉乙女のおもかげは66歳のこんにちになっても、彼女からは失われていない。
▽348 昭和36年正月 「ことし1961年はある意味で世界革命の第一段階となろう」としるした。
▽356 フルシチョフの新綱領に共感。「理想社会の到来を確信したもので、巨大な計画規模を示し、人類を鼓舞している」
 ここは満中在家とよばれる純農部落だった。それが30余年後の今日では、代償の住宅群に攻略されて、農家もひとつひとつ消えていき、屋敷に雑木や雑草をもっている家といえば、私のところぐらいになった。
▽395 進歩派と称する婦人グループは、婦人自身の声にきかず、もっぱら進歩派の男性に依存しているが元来それら男性はなんら解答を持たないのだ。彼らはほとんど無知なのだ。
▽406 わが家の愛鶏たちは死期が近づくときまったように逸枝の膝をもとめる。……タロコがなくなり、夫婦だけにもどった。
▽419 K との2人きりの会話のなかでも、人を呼ぶときはかならず敬称をつけた。日記を書く場合にも「さん」づけを忘れない。愛鶏たちにさえそうであった。
▽429 5月10日、病院入りを納得させられる。……彼女はおしゃれで、身だしなみよく、発病まで毎日のお化粧をかかしたことがなかったので、丁寧に髪をくしけずり、……クリームをぬり、……足にはソックスをはかせる。……下肢の浮腫……
▽434 主治医は病名についてKがたずねても、はっきりしたことは何もあかしてくれなかったが、Kは百科事典の「腹水」の項からあれこれとたどっていって、重大な覚悟を要することを察知し……
▽435 彼女は自分にはきびしくても他には底抜けの寛容と謙虚な人柄を発揮して、ここでも、あたたかな世界をつくっていた。そしてKが「こんな完全看護制の病院でなくて私がいつでもいっしょにそばについていられるところだとよかったけど……」といって、自分のあやまちをわびると、「ここではそれができないのね」と自他をいたわるようにいった。
▽436 6月7日、午前8時入室。逸枝の寝顔の美しさにさめるまでみとれていた。また呼吸のやすらかさ。彼女は神だ。
……ヘアトニックを髪にふりかけてブラシですいてやると目をつぶってよろこんだ。また頭部から手や足をさすってやると、とても気もちがよいという。それから手を握ってくださいともいう。……
「私がいかにあなたを好きだったか、いつでもあなたが出てくると、私は何もかもすべてを打っちゃって、すっ飛んでいった。私とあなたの愛が『火の国』でこそよくわかるでしょう。『火の国』はもうあなたにあとを委せてよいと思う。もう筋道はできているのだし、あなたは私の何もかもをよく知っているのだから、しまいまで書いて置いてください。本当に私たちは一体になりました」
私……
「私はあなたによって救われてここまできました。無にひとしい私をよく愛してくれました。感謝します」
彼女……
「われわれはほんとうにしあわせでしたね」

「われわれはほんとうにしあわせでした」 4時30分しるす。
 7時10分に付き添いさんが帰室したのちも9時までいたが、いよいよ帰りのあいさつのとき、逸枝はかたく私の手をにぎり
「あしたはきっときてください」
とつよいことばでいった。
 ……病院からの連絡で11時に駆けつけた。そのとき、もう彼女の偉大な魂は一生の尊い使命を終え、永遠のねうりにはいっていた。
……病名は癌性腹膜炎
▽441 朝日新聞「新・人国記」の「肥後椿」と題した一文を引いておこう。

時のかそけさ
春逝く時の
その時の
時のひそけさ
花散る時の
その時の

▽443 「今昔の歌」「愛と孤独と」などが示すように、ほんとうは、さびしがりやで、鶏を愛し、友人に泣き、自分に泣いた女であった。

▽瀬戸内晴美の解説
・夫の献身と奉仕に助けられ……本格的な女性史研究の道をひらいた。
・正規の受けた教育は,熊本高女4年修業というだけ。
・1917年23歳のはじめごろ3歳年下の20歳の橋本憲三とであう。
・教職をしりぞき、熊本にでて新聞記者になろうとするけれど、野暮ったい服装や鈍い物腰や口の重さをみただけで、ていよく断られてしまう。
・絶望した逸枝は、単身四国巡礼の度へ。過去の自分も憲三への鯉も断ちきれるものなら断ちきりたいと思った。
・憲三との同棲は3カ月でやぶれ……感情革命がおこり、詩が泉のようにとめどもない勢いでわきおこってきた。
・憲三は平凡社に入社。おちついた結婚生活をあじわえると思ったら、常に2人3人の、多きときは4,5人の居候がごろごろして、梁山泊的、どん底の宿的生活がつづけられた。アナーキストの宿無したちは、家を構えている友人知人のもとへおしかけて居候するのを当然と心得ていた。
・大正14年9月、逸枝は家出を決行した。しかも居候の青年を道づれにしていた。新聞はスキャンダルとしてこの家出をあつかい、道ならぬ恋のかけおちと報じた。それを知って憲三が半狂乱になって逸枝を探していると新聞に出ているのを見ると、やはり憲三が哀れで恋しく、自分から警察に届け出て、進んで連れもどされる結果を招くのだった。
・昭和18年、逸枝49歳のころ、憲三が郷里へ帰ったときの留守日記。憲三のぬいでいった下着からどてらをそのまま人形にしたてて、いつも憲三の坐っているこたつの前に坐らせ、それを憲三とみたてて、かげ膳をすえ、その影に話しかけて暮らしている。

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