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天皇陛下萬歳 爆弾三勇士序説 <上野英信>

■天皇陛下萬歳 爆弾三勇士序説 <上野英信> ちくま文庫 20110418
 「爆弾三勇士」という名前は聞いたことがあるが、私の世代にとっては、ちょっと読みにくかった。「三勇士」騒ぎを実感としてわかる世代の人ならば体で理解し、彼らのたどった悲惨さや家族の思いを実感できたことだろう。
 日中戦争初期、上海を舞台にした中国軍との戦闘で、相手陣地の柵を壊すために爆弾とともに散った3人の兵士は「爆弾三勇士」として勇名を馳せ、出身の炭鉱では「自分たちの英雄」となった。教科書にも載った。3人とも貧しい家の出身だ。筆者はそのうちの一人の元炭鉱労働者の人生をたどる。
 あれほど称揚され、「軍神」化を求める声もあったのに、けっきょく神にはならなかった。なぜ?
 3勇士の1人、作江上等兵が息を引き取る間際に「天皇陛下万歳」と言った、と教科書には書いてあるのに、ほかの記録にはその記述がない。なぜ?
 さらに、3人のなかに被差別部落出身者がいるという噂が流れた。被差別部落の人々はそのことを誇りに思い、一方で、「あんなやつらが勇士だなんて」という差別も広がる。天皇陛下のために死んだ勇士であっても差別を免れることはできなかった。
 部落の内に向かっては部落民大衆を「聖戦」にかりたてる融和主義者の武器となり、外に向かっては、逆に部落差別意識を煽って殉国精神を強要する武器として巧妙に使い分けられた。
 「陛下」に忠誠を尽くす天皇制と、部落差別とは合わせ鏡のようなものではないか……と、感じさせられる。
 「天皇陛下万歳」と本気で唱えた世代の一人として、上野はこの本を書き、その思いを丹念にたどり追悼した。ファシズムへの単なる批判ではなく、天皇制を内面化した人間の一人として共感している。加藤典洋や大岡昇平に近い弔いの感覚だろうか。

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▽17 「三勇士の遺骨を天皇陛下のお膝もとに祭ってあげよう」と、はるばる東京からきた万年山青松寺の坊さんたちの魂胆は、四七士の墓所として有名な泉岳寺の繁栄にあやかって……という話もききました。……西本願寺大谷御廟のかたわらに立つ三勇士の墓所について、京都のある呉服店の女主人は「戦争中はお非人さんの名所でございました」と話していました。
▽26 
▽38 1933年生まれの「サクラ読本」が、次の第5期の「アカイアカイアサヒアサヒ」の「アサヒ読本」にかわったのは、1941年だった。この年の3月、国民学校令が公布され、尋常小学校の名も国民学校と改められ、教科は国民科、理数科、体錬科、芸能科に統合され、なかでも「皇道教育」を中心とする国民科に重点が置かれた。
▽40 国語読本に軍が目をつける……嘱託という名義で文部省図書局へ出向する。
▽66 三菱の相知炭鉱は、近代的。「選炭婦がモンペをはくごとなったとも相知炭鉱が始まりたい。色気ざかりの若い連中が恨んだもんだい」「ほかのヤマのごと、労務係が暴力をふるうということは、絶対になかったな。そのかわり規則にふれるようなことをすれば、すぐに警察へ渡しよった」「相知にいってみれば、お殿様の屋敷のようなパリパリの畳敷き」
▽72 読み書きのできない炭鉱の子 「いちばん弱ったのは軍隊に入ってからです」 伍長に昇進するとき、誰よりも恐怖し嫌悪したのは、本人だった。下士官になれば宿直日誌や戦闘日誌を書かねばならない。
▽82 三勇士の墓 五条坂の西本願寺大谷本廟前。
▽87 恐慌。炭鉱も。「背に腹はかえられず、泣く泣く、娘を淫売屋に売った」 1928年18万人を超していた九州の炭鉱労働者は、30年に16万、32年に10万まで減少したといわれる。自殺者が相次いだ。石炭産業が蘇生するのは、上海事変の起きた1932年後半に入ってから。その前年に満州事変。
▽96 一触即発の危機で重光公使は、日中関係をこれ以上加熱させまいと苦慮した。しかし、中国各地に在留する邦人たちには、重光の態度は腰抜けの日和見主義としか映らなかった。(民の右傾化)
 内山完造「日本人の教養の低いことは被うことはできないもおのである。まさに国家主義教育の低さであった。それをまたいかんなく発揮したのが上海在留邦人であった」
 「陸軍が北方において強硬なる手段にいずるときは、これと競争するかのごとく、上海における海軍の態度は硬化する……」
▽102 帝国海軍の「隠忍自重」を当時の日本人は陸軍の「勇猛果敢」な活躍ぶりと比較しては「戦わざる巨艦」とののしっていた。その権威回復の場として、上海ほど晴れの舞台は考えられなかった。
▽115 
▽140 火野葦平の転向。
▽143 深夜、大量の死体を駆逐艦で運び、日本を監視する各国の軍艦が見えない奔流で流す作業
▽171 「三勇士饅頭」「銘酒三勇士」竹人形「三勇士」……遺族に寄せられる義金の額も陸軍始まって以来の最高記録。
▽173 ……社会は、星だ、菫だ、ジャズだ、共産思想の出現……実は日露戦争のころが最高頂で、その後は降り坂となり、むしろ弱兵に成り下がっているのではないか……憂国の人士たちが、深刻な危機感にとらわれていた。この危機意識こそ、「壮烈なる爆死」を比類なく美しい英雄的行為として、神格化させる原動力であった。
「所謂、モボ・モガに至るまで、烈士の忠誠を称え、利己や淫靡の弊風一掃せられて……」 貧しい労働者・農民の赤化対策こそ、じつは、三勇士を際限なく美化しようとする運動の目標であったことを見逃してはなるまい。
▽190 石炭戦士としての三勇士精神が強調される。経営者にとってはなによりの「天佑神助」だった。どの炭鉱事務所にも天皇の写真と並べて、三勇士の写真が掲げられた。
▽192 江下武二は、自分たちの中から生まれた、自分たちの神様だと。差別と迫害に呻吟しつづけた人間の無限の歓喜と絶望が……
▽203 「護国の鬼」と化した三人の兵士の中に、被差別部落民がいるという、うわさ。
▽204 日本山妙法寺の天崎啓〓ほか4人に対する殺傷事件。「中国人をそそのかして日本人僧侶を襲撃させ、日中関係が発火点に近づきつつあった上海で、事件発生のマッチをすった」
▽209 三勇士の取材。ひとたび「三勇士」という言葉を耳にしたとたんに、人々はあたりを憚るように声をひそめて「ああ、あの部落民の……」とつぶやくか……。国亡び、教科書絶えて、なおかつ国民の脳裡より忘却せしめることのなかったものは、「三烈士の事績」ではなく、その「部落」説だった。ほかの部分が古ぼけるほど、そこだけがなまなましく原色に輝いてくるのだろうか。
……国家に対する死の忠誠こそが、部落差別の迷夢から同朋を醒ます証であると信じて、どれほど多くの若者たちが屍をさらしたことだろう。
▽218 井元麟之は福岡の部落を中心に調べ、一般民の戦死者は15,6世帯に1名であるのに対し、部落の場合は6,7世帯に1名にのぼっていると説いている。
「軍隊も世間も、まったく差別に変わりはありませんでした。三勇士がどんな大手柄を立てようが、これだけはぶち破れんということでしょうか……」
▽220 「同年兵がみな星二つになっていくのに、われわれ部落民だけは相変わらずの一つ星。……それだけに、三勇士の中に部落の仲間がおるということを聞いたときは、鬼の首を取ったような気がしました。世間のやつらはオレ達を四つ足扱いしやがるが、俺たちの中から日本一の軍神が生まれたではないか……わが親、わが子のように自慢したものでしたが……」と語る老人も。
▽226 「軍人だけは救いがたい。とにかく二言目には「統帥権」をふいりかざすのですから、話になりません。水平社の「直訴」は、せっぱつまって「統帥権」の大本に訴える以外に方法がないところへ、軍隊が追い込んでいったのです。」(花山清)
▽228 三勇士こそは、部落の内に向かっては絶好の融和主義の武器として、外に向かっては、逆に部落差別意識を煽っての殉国精神強要の武器として巧妙に使い分けられつつ活用された。……一網打尽に部落民大衆を「聖戦」にかりたてようとする融和主義者どもが、骨のずいまで三勇士をしゃぶりつくした。
▽231 1942年、全国水平社は解放闘争の幕を閉じて、悲劇的な「自然解消」をみずからに宣告。最後まで狂暴な軍閥ファシズムに抗して闘いつづけた運動の火の埋没。
▽232 井上清は、当局よりの「慫慂」を沈黙をもって拒絶した点を評価し「全水のえらいところは、決してみずから解散しなかったことである。旗は巻いた。しかし進んで旗をなげすてはしなかった。それは中央委員長の松本治一郎の不屈の闘魂に負うところが大きかった」
▽264 「天皇陛下万歳」を唱えることによってでなかえれば救済がなく、三唱すれば忽ち救済される、日本人の思想の根こそ重要だろう。
▽解説281 兵士の死は天皇と結びつかぬかぎり実体をもちえなかった。個人が自分の死をしぬことができず、自らの死をなんらかのもので意味づけねばならない構造がいつから烏AMれたのか。個人の行為が社会・国家との関連のなかでのみ評価されるこの国の構造はどうして生まれたのか。日本近代社会において個人とは何だったのか。

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