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鉄砲を捨てた日本人<ノエル・ペリン 川勝平太訳>

■鉄砲を捨てた日本人<ノエル・ペリン 川勝平太訳>中公文庫 20171007

 1543年に種子島に鉄砲が伝来し、戦国大名たちは競って鉄砲を導入した。名乗り合ってたたかうという戦のスタイルを根本的に変えてしまった。16世紀末の日本は、世界のどの国よりも大量に鉄砲をもっていた。
 それが江戸時代になると、鉄砲製造は幕府の直轄とされ、生産も激減し、職人も減り、進歩が止まった。
 200数十年後、ペリーが来たとき、江戸湾防衛のための大砲の大半は、200年前のしろものだった。この間、欧州は戦争に明け暮れていた。さらに産業革命が起きて社会は大きく変化していた。
 幕末、野蛮な国だと想像して来日した欧米人の多くが、文化の高さに驚いた。衛生状態がよく、チフスなどの伝染病は欧州よりはるかに少ない。江戸の水道網はニューヨークより200年も早く整備された。銅や鉄の技術も高かった。絹織物や農業生産力も充実していた。
「人々はみな清潔で、食料も十分あり、身なりもよろしく、幸福そうであった…」
「村落は、イギリス村落にもたち勝るばかりにこの上なく手入れが行き届いており、観賞用の樹木はいたるところに植えられていた」…などと記した。
 江戸時代の経済成長率は産業革命を経た欧米に比べればわずかなものだったが、きわめて豊かな社会ができあがっていた。日本の歴史的経験は、ゼロ成長の経済と、中身の豊かな文化的生活とが両立しうることを示しているという。
 武器を忘れた文化国家といえば中米コスタリカが注目されているが、江戸時代の日本は大国でありながらコスタリカのような文化国家を実現していたという。
 日本には、アメリカの圧力に負けて軍備を増強するようなことはやめてほしい……と米国人である筆者はつづっている。1980年代のはじめの彼のアドバイスを受けとめた人はどれだけいたのだろうか。
 ちなみに訳者は、現在の静岡県知事・川勝平太だ。

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▽31 1855年当時の日本では「刀が腫瘍にして最上の武器であり、日本刀をもってすれば、相当太い釘でも刃先を寸毫も傷つけることなく簡単に真っ二つに切れる」
▽36 戦国時代の日本の銅は、当時のヨーロッパの銅よりも良質で安かった。
▽38 工業国であり、日本には紙の種類がヨーロッパの10倍はあろうと推定している。ちり紙や鼻紙もあった。…当時のイギリスでは、たいていの人は服の袖で鼻をかんでいた。
…200年間ぐらい日本は世界有数の武器輸出国だった。1483年、中国向けだけで6万7千の日本刀が輸出されている。
「世界で最大の武器供給国だと思う」
▽32 16世紀の日本の人口2500万は、当時のヨーロッパのどの国の人口よりも多い。
 …仏教僧は「大学」を5つもっていた。もっとも小規模の大学でも、当時のオックスフォードやケンブリッジ大学をしのいでいた。
 1543年当時の日本人の識字率は、ヨーロッパのいかなる国よりも高かった、と信じるにたる十分な理由がある。
▽68 朝鮮出兵 鉄砲の威力で、釜山に上陸してソウルを落とすのに18日しか要していない。
 だが出兵2年目になると朝鮮人部隊が自国製の火縄銃を使うようになった…
▽108 1607年から鉄砲は幕府の許可のもとにのみ製造可能となった。
▽133  1690〜92に滞在した医師ケンベル。「習俗、道徳、技芸、立ち居振る舞いの点で世界のどの国民にも立ちまさり、国内交易は繁昌し、肥沃な田畑に恵まれ、……生活必需品はありあまるほどに豊富であり、国内には不断の平和がつづき、かくて世界でもまれに見るほどの幸福な国民である…」
▽138 江戸時代、日本人は平気の発達を完全に止めた。いや後退させた。その間に平気分野以外の多方向にあたって前身をとげた。…
…神田上水の全工事が完成したのは1603年とも1629年ともいわれている。玉川上水は1654年に完成。ニューヨーク最初の水路ができたのは2世紀後の1842年のことだった。
▽143 農業 絹の生産は1600年から1700年の間に2倍となり、1700年と1800年の間には4倍となった。イネの品種は1600年には2千あまりに達した。…郵便制度も。
▽147 
▽189 火薬の用途は弾薬から花火に転じ、…銅は銅銭や寺鐘の材料になった。 〓〓

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