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明日ぼくは店の棚からヘイト本を外せるだろうか<福嶋聡>

■dZERO 20240401
 「ヘイト」をめぐって「うちはヘイト本はおきません」と宣言する書店はある。共感しつつも、それがどれだけの意味があるの? とも思っていた。
 ジュンク堂につとめる筆者は、ヘイト本を徹底的に批判しつつも、書店から「はずす」ことはしない。書店から「見えなく」なっても、世間に広まっていることはかわらない。むしろ、「悪」の証拠として書棚に「さらす」。 書店は言論のアリーナであるという。
 ヘイトについて考察する膨大な本をよみこむことで、そういう立ち位置をとるようになった理由をあきらかにしていく。
 冒頭、大阪の下町の路地裏にかくれるように存在する「MoMoBooks」の話からはじまる。
 多くの書店がつぶれるなか、「独立系書店」が増えている。共通しているのは1冊1冊店主が本を選んでいること、展示やトークイベントを開催していること。書店業界が失ったのは「発信」への情熱だったのではないか、という。
 筆者自身、書店で数々のトークイベントをひらき「発信」してきた。
 ヘイト本批判の特集をすれば、当然クレームもくる。でもその対応はいやではなかった。彼らと話すとき、自分の考えや立場をはっきりと述べることができたからだ。
 多くの書店が書棚からはずした、サルマン・ラシュディの「悪魔の詩」や 「イスラム・ヘイトか、風刺か」、地下鉄サリン事件後のオウム出版の本などもならべつづけた。
 民主主義は本来「主義」ではなく、たえず相対する意見を議論しつづけるありかたそのものだ。そこでは、「敵」の本を読みその論理をつかむ必要がある。快くかんじることだけを「知りたい」と考える人たちは、ゆがめられた「事実」しか知り得ない。だから多くの人が「不快」と思う本も書店にならべてきた。
 異論の排除はデモクラシーとは相容れない。最近の共産党の「除名」問題と、ヘイト本の排除とはそういう意味で似ているのかもしれない。
 では、排外主義やヘイトはどうしてなぜこれほど拡大したのか。
 高度成長期の「大きな物語」がおわり、「戦後日本人」という「アイデンティティ」がゆらぐなか、1980年代に「アイデンティティ」ブームがおきる。
 消費者は、みずから物語を創出しなければならなくなり、そうした強迫観念が「自分探し」「占い」「前世探し」につながる。消費することの意味・物語を教えるマニュアルとして、「もてる男の子、女の子」という物語を軸にした「ポパイ」「JJ」といった若者向け雑誌が全盛期をむかえる。「ホットドッグプレス」はデートやセックスの仕方を教授するマニュアル雑誌だった。
 一方、マニュアルどおりに生きることへの不満が生じて、「本当の自分らしさ」をもとめる「自分探し」ブームがおきる。そのブームの拡大が「日本人」という「アイデンティティ」に行き着く……。
 また、1990年代は知識を安直に手に入れるためのムックなどがはやり、薄っぺらい知識とサブカルチャーが融合し、主流とは一線を画して斜に構える歴史修正主義がかっこいいという風潮が醸しだされた。
 出版物の総売上は1996年にピークをむかえた。インターネット普及の契機となった「Windows95」は1995年に発売された。「ガス室はなかった」という論文をのせ廃刊になった「マルコポーロ」の発売日に阪神大震災が起きた。2カ月後、「地下鉄サリン事件」がおき、97年に「新しい歴史教科書をつくる会」設立される。1995年は時代の大きな曲がり角だったという。
 ネトウヨや極右が警戒されるが、実は、「中立」の立場から差別する過激中道「エキストリーム・センター(エキセン)」こそが問題だと指摘するのは酒井隆史だ。
 エキセンは、極右・極左を排除し「穏健」を自称するが、「テクノクラート的発想」が浸透し、経済的リベラリズムと権威主義的行政府主導政治を志向する。エキセンとファシズムには親和性があるという。
 ネトウヨ的な動きを「反知性主義」と位置づけることに酒井は異をとなえる。
 アウトロー・不良・つっぱりの肉体言語のようなものが「蒼白き文化系」になにがしかの畏怖を与え、そいこにみずからの思考を挑発する課題がみいだされていた時代はそれほど遠いものではない−−といった指摘は、ぼく自身中学時代、暴走族にこわさとあこがれをいだいたからよくわかる。
「おまえさしずめインテリだな」という車寅次郎のセリフは、「インテリ」が不信と警戒を示すべき代名詞となる民衆文化の分厚い層があったことをしめすという。
 むしろそうした反インテリ的な民衆文化が衰退してきたところに、ヘイトスピーチが芽ばえてきた。
 差別の攻撃的言語は「出典」「引用」をあげ、敵にもそれを要求する。ある種の「知的論戦」のようなみせかけになっている。「反知性主義」どころか、だれもが「賢明」であることを競いあっている一面があるという。
 では、排外主義やヘイトにたいして、私たちはなにができるのか。
 MBSのディレクターで「愛国と教育」などのドキュメンタリーをつくった斉加尚代は、ヘイトの攻撃のやり玉に自分もあげられるだろうと予測し、「伝えるために満身創痍になってもいい」と自分を「餌」にした。SNS上の自分への攻撃の分析を専門家に依頼したところ、「ボット」の関与がうかびあがった。「敵」と対峙するには、身をさらし、舞台に上がる覚悟が重要なのだ。
 「独り」であることも重要だという。
 薬売りの行商をする被差別部落の人々を「朝鮮人とまちがえて」虐殺した「福田村事件」を見ても、生き残った子を助けた警察官は「独り」で判断した。対照的に自警団は、「集団」だったから、独りなら決して考えも実行もしないであろう凶行に走ってしまった。
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▽ 在特会と同じスタンスの青林堂
▽25 2014年のトークイベントでの鈴木邦男。「自分の考えが崩される、自分の思いこみが崩れると、うれしい。……異質なものに出会うために本というものはあるんですよ。自分と違う考え、自分とはまったく反対の……考えが、なぜそうなるのかを知るために、本というものは読む必要がある」
▽32 クレームの相手をしているうちに、その対応をすることが、じょじょにいやではなくなってきた。彼ら彼女らは、ともかくもぼくのフェアに最初に反応してくれた人たちであり、また、彼らと話すときには、自分の考え、立場をはっきりと述べることができたからである。
▽55 出版物の総売上は1996年にピークを迎えた。
 1995年に発売された「windows95」は、ネット利用を急増させた。……「本離れ」を促進した。
▽58 ムックなど……90年代は知識を安直に手に入れるためのツールが大量に提供され、薄っぺらい知識とサブカルチャーが融合し、歴史修正主義的な言説が主流のものとは一線を画していて、かつ斜に構えてものを見る雰囲気がかっこいいという風潮が醸しだされた(「歪む社会」)
 つまり出版業界は、排外主義や外国人ヘイトの責をインターネットの普及に押しつけることはできないのである。初期においては主犯と名指しされてもおかしくない。……安田浩一がある編集者に歴史修正主義的な本、嫌韓本、反中本を出す理由をただしたところ、「コストパフォーマンスがよい」という答えだった。
▽84 GAFAらの超富裕層は、保守主義者ではない。系譜としては、ニューレフトとカウンターカルチャーにつづくと見るほうが正解だろう。
▽94 岸本聡子「水道、再び公営化!  欧州・水の闘いから日本が学ぶこと」
▽103 民主主義とは、政治の仕組みや方向性ではなく、ましてゴールではなく、個々の成員の意見をまずは尊重するという、議論の前提なのではないだろうか。「書店が民主主義である」とし「民主主義的であるべき」としなかったのあ、「的」をつけると、無謬の「正義」と化し、ゴール・目標となって、敵対者や夾雑物を拒否または無視してしまうからである。
……議論が対立しているときのほうが、人は考える。考えるためには、書店の本は、大いに賛同できる本……から、にわかには信じられない本、さらには絶対受け入れられない本まで、多様であるほどよいといえるのではないだろうか。 
 そのとき、本同士も、大いに対立し、対決姿勢にある。そんな緊張関係をもった棚が、魅力的な書店の棚ではないか。〓
▽107 書店員の経験による判断は、縮小再生産に向かう。だからぼくは、「こんな本、売れない、などということはけっして安易に言うな」と言いつづけてきた。
……人文書の世界では、それまでの価値観をドラスチックに変化させる本が、画期の本となってきたからだ。
「オリエンタリズム」、「帝国」(ネグリ=ハート)、「ブルシット・ジョブ」……それまで出たことのない本であり、それゆえ売れたこともなく、売れたという記憶を書店員に植えつけることができようもない本なのだ。
▽111 ……「あ、ここには、このジャンルにくわしい担当者がいるな」と、すぐにわかる。「すぐには読者を見つけられない本」を探しつづけてついに出会った読者は、早晩その担当者と親しく語りあう関係になるだろう。
▽113 ほとんどの書店が棚から外したオウム出版の本を棚に置きつづけた
……当時から、「理論武装」の必要は感じていた。他人とは違うことをした場合、この国ではかならずバッシングの対象となる。社内からの批判もあるかもしれない。
▽118 書店員人生ではじめて「置く・置かない」の決断を迫られた本は、サルマン・ラシュディ「悪魔の詩」である。
▽123 「イスラム・ヘイトか、風刺か」 店頭に置くか置かないかの判断は、個々の書店がする。「取り次ぎの大阪屋から要請があったので、イスラム……を返品せよ、とのメールが営業本部から送信されてきた。ぼくはすぐに「刊行出版社からの連絡や司法関係からの指示もなしに、取り次ぎが商品の返品を要請するなど、聞いたことがない。憲法第21条をご存じ? と問いたい」と返信し、第3書館に追加出荷を依頼する注文書を送った……本はどこかで買えなければならない。
▽136 左派がネトウヨ顔負けの攻撃性を持つことも。2018年9月「新調45」を休刊に追いやった。杉田水脈論文。……有力な著者たちが新潮社への作品の提供を拒否しはじめたことが休刊につながったらしい。
▽139 ノンフィクション作家にとって、取材の途中経過を、連載という形で掲載できる雑誌は、資金源なのだ。雑誌はノンフィクションの揺籃なのである。その場が失われる。
▽142 「日本国紀」 歴史書ではなく物語。
▽150 百田が敵意を抱くのが新聞。515の犯人らの減刑を訴えて、結果的に226事件を誘引したのも新聞であり、満洲事変から太平洋戦争まで国民を扇動したのも新聞だというのだ。度を過ぎた新聞批判は、2015年の「沖縄2紙は潰さないといけない」などの発言までつづく。
▽163 植民地の独立運動によって帝国がほろんだフランスやイギリスとは異なり、帝国日本は敗戦で瓦解した。これによって、「中国人ではなくアメリカ人に負けた」という認識、「東アジア地域おいて日本帝国主義が及ぼした問題や脱植民地化の問題」が、敗戦と非武装化に「ひとまとめにされた」
 ゴジラは日本のアメリカ観の象徴。破壊者として出現したゴジラは、いつしか人間の側に立って別の怪獣と闘うようになる。
▽173 北朝鮮ー韓国 北ベトナムー南ベトナムの二対は、東西冷戦の楕円のふたつの焦点だったのである。
▽180 壊滅的打撃を与えられ、人命と土地を奪われた沖縄 基地建設の特需に期待がよせられる。……復帰の1972年、基地関連収入は県民総所得の15.5%を占めていたが、その比率は年々減り……従業員数も72年の1万9980人が、09年は9014人と半減した。
▽186 ジュンク堂難波 2022年、「おきなわ本」フェア。「関西沖縄文庫」の金城馨さんが登壇。
……親たちの世代は、苗字の読みをかえ、カナグスク→キンジョウ→カネシロ 漢字まで変える人も「いた 金城→岩城 具志堅→志村 比嘉→日吉
▽193 沖縄に基地が集中したのは、「本土」から沖縄に基地が「県外移設」された結果です。日本人が沖縄人に基地を押しつけてきたのです。1950年代は「本土」に9割の米軍基地があり、沖縄は1割でした。
「基地引き取り運動」
▽202 1995年、「ガス室はなかった」の掲載誌「マルコポーロ」が廃刊に追い込まれた。その発売日は阪神大震災のその日。2カ月後、「地下鉄サリン事件」。97年に「新しい歴史教科書をつくる会」設立。
▽205 ドイツでもフランスでも1970年代にホロコースト否定論が影響力をもちはじめる。
▽207 サルトル「ユダヤ人」岩波新書
 「ユダヤ人」は「反ユダヤ主義者」によって定義される=存在する。ある人を「ユダヤ人」であると判定する客観的、決定的な証拠はもはやないのである。……イスラエルの「ユダヤ人」は、アフリカ、アラブ、東西ヨーロッパのさまざまな民族の混淆であって、もはや血統的正統性は存在しない。言語的出自もさまざまで、だから「国民語」として、すでに使われなくなって久しいヘブライ語をほりおこして「現代ヘブライ語」をつくりあげなければならなかった。
▽214 1980年代に広汎に「アイデンティティ」の追求がおこなわれるようになった。「戦後日本人」という「アイデンティティ」が揺らぎ始めたからである。
 人々は手頃な「アイデンティティ」に安易にすがりつき、……「アイデンティティ」に固執することが、さまざまな差別を生み、「アイデンティティ」に振りまわされることが人を惑わせる。立川健二がめざすのは、帰属意識に頼るのではなく、「実存」「単独者」としての「個人」を生きる実践である。
▽223 われわれは高度成長期のように「大きな物語」に支えられながら自らのアイデンティティーをもつことはできない。(だからこそ、「最後の絆」として愛国心と歴史教育の復権が声高に叫ばれる)今や消費者は、自ら物語を創出しなければならなくなったのである。(三浦展「脱アイデンティティ」)
 そうした「自らの物語」創出への強迫観念が「自分探し」と呼ばれ、占いブームや「前世探し」ブームへとつながったのではないか。
▽223 消費することの意味・物語を手取り足取り教えるマニュアルが生まれる。こうして80年代、「もてる男の子、女の子」という物語を軸にした「ポパイ」「JJ」といった若者向け雑誌が全盛期をむかえた。「ホットドッグプレス」はデートやセックスの仕方を事細かに教授するマニュアル雑誌として人気を集めた。
……マニュアル通りに生きることへの不満が生じて、「本当の自分らしさ」への希求をますます強めるという循環構造が生まれ「自分探し」ブームが拡大することになる。そのブームの拡大が「日本人」という「アイデンティティ」に行き着いたのではなかったか。「つくる会」の誕生は1997年である。
▽244 アイヒマン「自分の仕事は……国家指導者の命令に応じて移送列車の運行計画を立てるという、全くの技術的な問題でした」と弁明する。
 アーレント「悪の凡庸さ」にこそ「悪鬼」よりも大きな危険性を見出したのだ。
▽245 かつて「ガロ」をだしていた青林堂は、「ヘイト本」量産で経営改善をはかった。
……ヘイト本をかくすより、そのモチベーションを多くの人々に根づかせてしまう由来と構造を、明らかにすることが重要なのだ。
……そもそも「満員電車」に乗りこまなければならないという思いこみが、大きな社会システムにしばられているのだと知ることである。
……満員電車のなかで身動きのとれないことの不合理と不条理を改めて感じとり、その状況からの脱出を図ることこそ、今の人間と社会双方にとって、重要な課題なのではないか。
▽262 1948年、文部省が教科書「民主主義」。「政治上の制度としての民主主義ももとより大切であるが、それよりももっと大切なのは、民主主義の精神をつかむことである……つまり、人間の尊重ということにほかならない」
東京五輪 大手メディアが政府の方針に追随し、開催を当然のように報道しつづけた・・・緒方竹虎の講演があかしている太平洋戦争時のありようと変わらない。
▽273 沖縄本島北部のヘリポート建設に抗議する住民たちに大阪弁で「どこつかんどんじゃ、このボケ、土人が……」という機動隊員の差別発言。松井知事も鶴保も機動隊員の肩をもつ。
……斉加尚代 ヘイトの攻撃のやり玉に自分もあげられるだろうと予測し、自分を「餌」にした。「今回は伝えるために満身創痍になってもいい」と。
 SNS上の自分への攻撃の分析を専門家に依頼したところ、「ボット」の関与がうかびあがった。
……「敵」と対峙するには、身をさらし、名を名のり、舞台に上がらなければならない。その覚悟の重要性こそ、斎加に教えられた最大のことである。
▽327 朝鮮学校への「スパイの子ども!」 2013年には「在特会」などが、鶴橋周辺で「いつまでも調子にのっとったら、南京大虐殺じゃなくて鶴橋大虐殺を実行しますよ!」。2021年には「ウトロ放火事件」
▽364 せいかくレイシストが動かぬ証拠を残してくれているのだ。「証拠隠滅」して、どうする? むしろ「晒す」べきではないか? あってほしくない本を排除して自ら管理する空間を「無垢」なものに保つよりも、「敵」の存在を明らかにし、批判してたたかうべきではないか」
▽376 「賢人と奴隷とバカ」 造語「エキセン」ExtremeCenter「過激中道」 「対立自体を拒否する」、そのことによって「デモクラシーそのものに対立的」
極右・極左を排除し「穏健」を自称する「エキセン」は、「テクノクラート的発想が浸透している」と酒井は言う。
表向きは「穏健」だが、経済的リベラリズムの原則と権威主義的行政府主導の政治を志向するものだ。エキセンとファシズムの親和性には注意する必要がある。
……スターリニズムが、革命の「中道化現象」であったことは示唆的。
▽「言論のアリーナ」であるべきというのは、以前より見えにくくなり、それゆえにさらに陰湿・強靭となった差別構造の存在、そしてそれを支持する、利用する人たちがいることを白日のもとにさらし、批判・糾弾するためなのだ。
▽386 「日本においてもアウトロー、「不良」「つっぱり」の「肉体言語」のようなものが「蒼白き文化系」になにがしかの畏怖を与え、そいこにみずからの思考を挑発する課題がみいだされていた時代はそれほど遠いものではない」「おまえさしずめインテリだな」という車寅次郎のセリフ。「インテリ」が不信と警戒を示すべき代名詞となる民衆文化の分厚い層があった……と酒井は指摘。
……ヘイトスピーチをまきちらす言説もまた「抑圧に資する知」を武器としている。
……差別の攻撃艇言語が「出典」「引用」をあげ、敵にもそれを要求する。ある種の「知的論戦」のようなみせかけをつることもみのがすことはできない。
……「反知性主義」どころか、だれもが「賢明」であることを競いあっているというのが現代日本の風景であるようにおもえてくるのだ。
▽412 福田村事件を書いた辻野彌生も、「独り」でいることの大切さを見ている。 「独り」だから自分の力で考えることができた。対照的に自警団は、「集団」だった。独りなら決して考えも実行もしなかったであろう凶行に走ってしまったのだ。
▽434 朝来市に移転するまで堂島にあった「本は人生のおやつです!!」に何年も通い……
▽435 ジュンク堂京都店は、はじめて兵庫県外に進出し、書店の群雄割拠する四条河原町に乗りこんだ店だった。駸々堂京宝店、丸善京都店、京都書院、オーム社などの大型店にくわえ、アテネ書房、海南堂、萬字堂、そろばん屋などの個性的な店が林立していた。その後、京都書院の閉店を皮切りに、20世紀終わりをはさんでどんどん姿を消していったとき、生き残ったジュンク堂が一人勝ちしたわけではなく、2店めの京都BAL店を足しても、ライバル店がひしめいていた時期の売り上げんはけっして届かなくなっていた。
▽ 「AIによる需要予測にもとづいた仕入れ」愚策である。そんなものに振りまわされて新しいものを提供することはできない。どこに行っても同じような本の並びしか見えなければ、読者の足は書店そのものから遠のく。

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