■ブックショップマイタウン20240410
円空の木像は独特の魅力がある。天台宗の僧で修験道の修行者なのだけど、仏像だけでなく、柿本人麿、両面宿儺、青面金剛などなど、不気味ささえただよわせる神像や彼オリジナルの像もきざんでいる。
「仏僧」の枠にとどまらない人だ。
大阪でひらかれていた「円空 旅して、彫って、祈って」という企画展を見に行ったとき、この本を偶然見つけて買った。
円空仏は北海道から近畿までに5300体ほど残されている。
とくに生国である美濃と尾張に多い。
この本によると、円空の仏像を芸術作品として論考したのは昭和30年代、岐阜大学の土屋常義が最初という。企画展では、昭和6年に橋本平八が千光寺で円空仏を「発見」したのが再評価のはじまりと書いてあった。
円空は仏僧であり修験者だが、筆者は愛知の荒子観音が所蔵する「千面菩薩厨子」に1024体の木端仏がおさめられていることに疑問をかんじ、謎解きをはじめる。
円空の故郷の尾張・美濃は信長がキリスト教布教をゆるした最初の場所だから信者が多かった。尾張藩のとりしまりもゆるく、寛文初期までは隠れながら信者として暮らすことができた。その後、幕府主導の弾圧が吹きあれ、数千人の切支丹が斬首された。尾張藩が3000人近くを処刑した年、円空は37歳だった。
円空は切支丹迫害の最多発期に、多発地域で宗教家として生きていた。彼の神仏像には「切支丹」の痕跡はないが、数千人が斬首されることに平気でいられるはずがない。当時は合戦も疫病の記録もなく、1000人を超える人の死亡事件は切支丹の迫害しかなかったからだ。
円空は、乙護童子や十五童子、歓喜天……などとペンネームを駆使し「心の分身」をつくることで、ひとり二役の活動をつづけた。
円空の像のなかには、「千面菩薩」「「千面観音」「護法神」といった仏経典にはでてこない創作の偶像が多い。「千面菩薩」は1024体の木端仏をおさめた厨子で、「子守の神」の意味を帯びる。聖母マリアをも示唆するという。
ふつう十一面観音は頭上の化仏が十一面あるが、円空作では、化仏が十一面に満たないものがある。あえて十一面観音と区別し、「千面観音菩薩」として円空が創造したと筆者は考える。千面菩薩は、切支丹の礼拝も拒まない無宗教の融合神仏として円空がつくった像であるという。
飛騨の千光寺には「両面宿儺」像が4体あるが、3体は両面が背中合わせになり、手には剣や槍をもつ。円空作の1体だけは両面とも前を向き、両手で斧を握りしめる。背面には「功徳天・十五童子」との円空自筆がある。
この像は1人2役で活動してきた円空自身をきざんだものだと筆者は推測する。
「96億」と書かずに「96オク」と記したり、わざと文字をまちがえたりする例も散見される。「仏像12万体造顕を発願」というが、12万体もできるわけがない。
円空は、天台密教の経典を理解できた知識僧であり、修験道の修験者、和歌を詠み絵画を描く文化人、仏像を彫刻する工芸家という超人的な人物だ。そんな才人が「誤字」をあちこちにしるすわけがない。
「如意野会所」は「如意之会所」と書くべきなのに、「野」をいれたのは野会所を「ヤエソ」「ヤソ=耶蘇」を読み込むための偽装文字ではないか。
また、「96オク」などの記述は、かけ算や割り算をつかったなぞかけだと筆者はみる。
当時、「掛けるを因、自乗は自因、割ることは帰」 という遊びがあった。帰を「かえる」と読めば、「12は4と3で割れる→4と3で帰る→よみがえる」となる。
「96オク」 は、9×6=54 → 5×4=20 20=4×5 →「苦労しても死後に返る」と読める。
そうやって暗号をつかうことで、切支丹の犠牲者の鎮魂・供養をはかった……。
円空は修験の行者として修行し、天台宗の僧侶として弥勒寺を再興し仏教の布教した。しかしそれ以外に、切支丹禁制の社会で苦しむ人々の心の救済に心を砕いてきたのだ。
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▽20 寛文5年から7年、松前で商売をしていた近江商人の要請で、北海道・東北へ2年ほどの作仏の旅へ。
帰国した尾張・美濃の村では切支丹の迫害があって多くの犠牲者をだしていた。円空は秘密裏に追悼の千体仏を制作した。
千面菩薩の功徳を世に広める決意をして心に分身をつくり、乙護童子と命名した。修験道行者と乙護童子の一人二役をして2つの心で異なる仏像を制作した。10年間ほど。
▽22 1632-1695 松尾芭蕉や井原西鶴が同時代人。
▽29 かけ算や割り算をつかったなぞかけ。「掛けるを因、自乗は自因、割ることは帰」 帰を「かえる」と読めば、「12は4と3で割れる→4と3で帰る→よみがえる」
「仏像12万体造顕を発願」 これもそうやってよみとける。
「96オク」 9×6=54 → 5×4=20 20=4×5 →「苦労しても死後に返る」
▽39 尾張・美濃は信長がキリスト教布教を許した最初の地域だったので、信者が多かった。尾張藩のとりしまりはゆるかったようで、寛文初期のころまでは隠れながらも信者として暮らすことができた。その後、江戸幕府の主導のもとに、寛永時代から数千人の切支丹が斬首された。尾張藩が2800人?ほどを処刑したとき、円空は37歳。
円空は切支丹迫害の咲いた最多発期に、多発地域社会で、人々の心を救う宗教家として生きた。
寛永から寛文の切支丹迫害がおこなわれた地にいて、迫害のなかを生きた。鎮魂・供養のために仏像をつくったにちがいない。
▽48 天台密教の経典を理解できた知識僧であり、修験道の修行をする修験者、和歌を詠み絵画を描く文化人、仏像を彫刻する工芸家、旅を愛するロマンチスト……という超人的人物像がうかぶ。そのうえ頓知があり、律儀で論理的。
▽53 松前・津軽 金の採掘の作業者のなかに切支丹がいた。……労働者を処刑して金の産出を減らすわけにはいかない。幕府から命じられた寺請け檀家寺制度を整備するため寺の建築が必要になっていた。北海道で円空仏が奉納されている寺は24あり、そのうち10カ寺は寛文5年の建造とされている。寺の建築ラッシュとなり、そこにまつる仏像が必要となって、仏師の円空が招かれた。
……切支丹禁制の体制整備のために仏師として招かれた。
▽60 寛文13(1673)には吉野郡天川村栃尾観音堂に法能。志摩郡阿児町片田 当時、航海の安全祈願のため、大般若経は漁師たちの必須の品とされていた。片田漁協と志摩町立神薬師堂の2カ所が大般若波羅密多経600巻を所蔵していた。円空はこの修理をおこなった。
▽69 美濃・尾張では数千人の切支丹犠牲者が出たとされる。迫害をのがれた切支丹やその親族らの心を救おうと工夫し、活動をつづけてゆくことになり、これが裏の活動になっていった。
▽78 「如意野会所」正しくは「如意之会所」と書くべき。「野」の時をいれたのは野会所を「ヤエソ」「ヤソ=耶蘇」を読み込むための偽装文字ではないか。
▽80 円空の思想は「死者の追悼」から「社会の不安を鎮めよう」という社会的思想に発展してきたのでは。
▽83 千面菩薩 千面観音など仏教経典にはない。厨子の中では菩薩が子守の神にすりかわる。聖母マリアをも示唆する。
木端仏を厨子に入れ隠して子守の神に変身させる知恵。
幕府の政策にさからわないで生きる知恵をつめこんで制作した創作仏が千面菩薩。
千面菩薩は、万民に愛されるように創作された(無宗教の、もしくは宗教宗派にこだわらない)融合神仏である〓。……1024体の木端が入る厨子を閉じると一体に収斂して子守之神像のイメージが現れる。
▽87 柿本人麿 聖人は神になれる。聖母マリアは聖人なので神になれる。荒子観音所蔵の円空作諸像のなかに人麿像があるのは、これから類推せよという円空の配慮ではないか。
……1024体は「籠もる神」になり、転じて「子守之神」が出現する原理では。
▽89 護法神という名前の神様はいないので、円空が考えた神様と同じ意味の普通名詞。坐像の実態は円空自身の姿(自刻像)ではないか。
▽110 千光寺 両面宿儺「寺には4体の両面宿儺像があり、うち1体が円空作である。3体の両面宿儺像は両面が後合わせになっており、手には剣や槍を持っている。円空作の両面宿儺は両面とも前を向き、両手で斧を握りしめている。円空作の彫像は独創的な造様である」
その背面には「功徳天・十五童子」との円空自筆がある。
▽116 両面宿儺は2役をもつ円空自身の姿であり、円空は荒子観音から2役を担って行脚していたことも明らかになった。
「男童子は十五童子」という結論から、「乙護童子は十護童子で円空のこと」と謎かけで伝えた。
▽123 身の危険をかえりみずに千面菩薩を創作し、58歳まで2役を演じてきた。
▽130 十一面観音は頭上には十一面あるが、円空作で、化仏が十一面に満たない観音は千面観音菩薩ではないか。
①千面菩薩は万仏とことなる宗教のホトゲである。
②千面菩薩は頭上化仏の数が十一面とは異なる多面観音である。
▽134 千面菩薩は、切支丹の礼拝も拒まない円空独創の宗教の仏像である
▽144 円空と「心の分身」 心の分身は、表社会の円空とは異なる役割を果たしてきた。
▽148 円空の千体仏は、愛知県津島市の地蔵堂と名古屋市守山区の竜泉寺におさめられ、1600体ほどの木端仏が知られる。……当時は合戦も疫病の記録もなく、千人を超える人の死亡事件は切支丹の迫害しかない。円空による千体仏供養は、切支丹迫害犠牲者の供養と推定してよいのでは。
▽150 村井早苗によると、切支丹禁制になってから民衆の宗教は次第に庚申会などにむかったとある。円空も青面金剛神を何体も制作している。
▽152 千光寺の円空自刻像(両面宿儺像)自分は1人二役をはたしていると表現した。
円空は修験道の行者として修行し、仏像を制作した。天台宗の僧侶として弥勒寺を再興し仏教の布教模した。しかし、それ以外に切支丹禁制の社会で苦しむ人々の心の救済に心を砕いてきた。
法に抵触しないように巧妙な仕掛けを考え、宗教間の垣根をはずして万民をとりこむ千面菩薩を創作したのである。
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