■新曜社 20240401
東日本大震災の被災地での学生のフィールドワークをもとにした本。
石巻市や気仙沼市のタクシードライバーに聞き取り調査をすると、幽霊をのせる経験をしている人が少なくなかった。。
石巻市は保守的で、ほとんど相手にしてくれなかったが、気仙沼は大きな漁港があり、異文化を受け入れてきたためか、よく話を聞いてくれて、話してくれた。幽霊の多くは子どもか若者だった。霊魂が会いにきた、と感じ、こわさはなかった、という。
一般に慰霊碑は、死者のためだけでなく、残された人たちが悲しみを乗り越えるために必要とされ、「追悼」や「教訓」の意味が大きかった。
名取市閖上(ゆりあげ)の慰霊碑はちょっとちがう。
閖上地区は住民の6分の1にあたる750人が死亡し、40人が行方不明になった。貞山堀を越えて津波はこないという口頭伝承を過信し、津波を想定した避難訓練をしてこなかった。
震災後まもなく閖上中学校遺族会が発足した。自宅や墓が流失し、わが子がこの世にいたという証拠がなくなっていた。4カ月後に慰霊碑が完成した。
「平成23年3月11日 午後2時46分 東日本大震災の津波により犠牲となった生徒の名をここに記す」と、犠牲になった子どもたちの名が刻まれているだけで、「追悼」や「教訓」の内容はない。
献花台や焼香台をあえて設けず「子どもは神様じゃないから、拝んでもらう必要はない」と述べた。わが子を「記憶」するための碑だった。
碑のちかくのプレハブ小屋「閖上の記憶」では、震災の資料や映像を展示し、来場者のガイドや、月2、3回の「語り部の会」を開いている。それによって、子どもたちの記憶が第三者にも共有可能になった。「慰霊碑をたててからはこの世にひとつ形を残したなということで自分の支えになった……」と遺族は語った。碑は、子どもたちの記憶を伝える意味に加えて、遺族自身の追憶の秩序を守る働きがあった。
震災遺構のあつかいの差も興味深い。
子どもの犠牲をふせげた山元町の中浜小学校や、川内市の荒浜小学校は震災遺構になったが、気仙沼市の打ち上げられた大型漁船「第18共徳丸」は、住民アンケートで7割が「保存不要」とこたえて撤去された。だが、近隣の「復興マルシェ」という商店街では売り上げが激減し、観光客も10分の1に落ちこんだ。
南三陸・防災対策庁舎は12㍍を越える津波におそわれ、3階建て庁舎で43人が犠牲になった。助かったのは佐藤町長ら10人だけだった。
保存の可否についてまっぷたつに割れるなか、「20年間の県有化」を県が提案した。保存か解体かを早期に決断するのではなく、十分に議論を重ねるための猶予期間をもうけたのだ。
震災から5年近くたち、まわりのがれきはすべて撤去され、防災庁舎だけが取り残され、いつしか「南三陸といえば防災庁舎」といったイメージが外部の人びとのなかでつくられていった。
原爆ドームも、米国から撤去の圧力があり、住民からは生活の復興を優先してほしいという要望があった。限られた予算を有効に使うため、生活再建が優先され、原爆ドームは放置された。1966年にようやく永久保存が決まったという。
津波で墓石や遺骨まで流され、多くの人が亡くなった人をしのぶ場を失った。
山元町の坂元地区にある徳本寺の中浜墓地は壊滅した。檀家さんの大半はほとんどが移転に賛成した。遺骨が見つからない人たちは、もとのお墓の場所の砂を拾って新しい墓におさめたが、まだ先祖の霊がいると感じるもとの場所もお参りをしたかった。その場所に慰霊碑「千年塔」がたてられ、住民が手を合わせる重要な存在になった。
お墓と慰霊碑のどちらにも先祖の霊がいると感じ、ふたつの場で合掌することで心の安定化をはかっている。「遺骨」はとても大事にされている。遺骨が重視されるようになったのは念仏が広がって以降だと記憶している。
母は自宅で「ボロ雑巾のように」横たわり、震災から半月後に見つかった父の眼には砂がいっぱいつまっていた。母のときは周りの遺体はシートでくるまれていたが、父の遺体を確認したときは腐敗を遅らせるためか遺体はすべてむきだしだった。
一度仮埋葬した遺体を掘り起こし、火葬による改葬をした葬祭業者。
仮埋葬から掘り起こされたご遺体の状態は、血液や体液が混じった液が棺からしみ出していた。
葬儀業においては、遺族の気持ちに寄り添い人情味をにじませつつ、感情移入せずに確実に職務を遂行する感情管理が不可欠だ。
苛酷な作業のあいまの休憩時間には、あえて業務からかけ離れた話題で笑い合うようにして、お互いの感情をケアした。
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▽名取市閖上(ゆりあげ)
慰霊碑 歴史的に見て、死者のためだけでなく、残された人たちが「悲しみ」「苦しみ」を乗り越えていくために必要とされてきた。人間社会には「悲しみ」「苦しみ」を「忘れたい」という気持ちと、「忘れてはならない」という思いとが相反しながら共存している。碑はそのバランスをとるための「装置」であるとも言える(社会学者の岩崎信彦)
貞山堀を越えて津波はこないという先祖からの口頭伝承を過信した。
1960年のチリ津波にも、堀から東の海側に住居を構える住民だけが西の内陸側に避難する程度。閖上の人々は津波を想定した避難訓練をしてこなかった。
▽31 丹野さんは、中学校から持ち出した机にメッセージを記し、わが子が「生きていた記憶」として社会に働きかけを始めた。ほかの遺族にも声をかけ、閖上中学校遺族会が発足。4カ月後に慰霊碑完成。
お墓のかわりとして利用したのではない。子どもたちを社会の記憶にとどめるための働きかけとしてつくった。
自分たちの記憶を保持する働きかけ。わが子を記憶しつづけるために、遺族会は慰霊碑をたてた。
「立ててからはこの世にひとつ形を残したなということで自分の支えになったし……」 慰霊碑を建てたことには、子どもたちが生きていたという事実を伝えるという意味に加えて、遺族自身の(追憶の)秩序を守る働きがあった。
……死者をまつりあげるのではなく、わが子を抱きしめるような感覚が閖上遺族会には存在している。
▽49 南三陸・防災対策庁舎 保存の可否で町を二分。
12㍍を越える津波におそわれ、3階建て庁舎で43人が犠牲に。助かったのは佐藤町長ら10人だけだった。
山元町の中浜小学校、川内市の荒浜小学校は震災遺構に。
気仙沼市の「第18共徳丸」 打ち上げられた大型漁船。住民アンケートで7割が「保存不要」とこたえ解体撤去された。だが、近隣にある「復興マルシェ」という商店街では売り上げが激減し、観光客も10分の1に落ちこんだ。
南三陸の防災庁舎「20年間の県有化」を県が提案。保存か解体かを早期に決断するのではなく、十分に議論を重ねたうえで最終的な結論を下すまでの猶予を設けるということ。
……5年近い月日がたち、まわりのがれきはすべて撤去され、防災庁舎だけが取り残され、いつしか「南三陸といえば防災庁舎」といったイメージが外部の人びとのなかで生成されていった。
▽69 埋め墓・詣り墓
津波で墓石や遺骨まで流された。亡くなった人に語りかけ、しのぶ場を失った。
山元町の坂元地区中浜。震災後、お墓の再建が重要視された。ご先祖様がいるからこそ今の自分がいるという心情。
徳本寺の中浜墓地は壊滅。檀家さんの個人情報から連絡先を調べ、今後のお墓への意向を尋ねるアンケートを送った。ほとんどが移転に賛成。
「契約会」(東北地方にみられる村組、集落組織として発達)によって形成された地域コミュニティ。昔から冠婚葬祭などは契約会によっておこなわれ、強い関係性が築かれていた。金銭の貸借も契約会内でおこなわれていた。助け合いの関係が構築されていた。
中浜の人々は元のお墓の場所の砂を拾った。骨は土にかえるという考えがあったからだ。
……遺骨が見つかっていない人にとっては、まだ元の場所にご先祖様の霊がいると感じられ、お参りをしたいと思っていた。そうしたところに慰霊碑「千年塔」がたてられた。非常に重要な存在になった。
「日本人の考え方として何もない土地に手を合わせるより、何か手を合わせる対象が欲しいと思うものですしね」
▽81 お墓と慰霊碑という異なる場でご先祖様に祈っている。ふたつの場で合掌することで心の安定化をはかっている。どちらにも遺骨があり、先祖の霊がいると感じている。(〓骨の重要性 いつから 念仏聖以降?)
〓遺骨を大切にする考え方
▽90 自宅でボロ雑巾のように横たわる母。……遺体が安置所に収容されたのはそれから5日後。……震災から15日後、父親を見つけた。かたくつぶった眼には砂がいっぱい詰まっているが、白髪に見覚えがあった。……母親のときは周りの遺体はすべてシートでくるまれていたが、このときは腐敗を遅らせるためか遺体はすべてむきだしだった。
▽99 千年に1回の大災害というものさしで被災の重さを測ってしまう。……それぞれの被災者にとって、災害は人生では最大の体験であり、その意味づけに大小はつけがたく、すべてその人だけの経験のもとで、災害は平等なのである。この地平に立ってはじめて、被災者は硬く閉じた口を開き、語りはじめるのではないだろうか。
▽101 埋めた遺体を掘り起こした葬祭業者。仮埋葬と、掘り起こして火葬による改葬。
▽111 仮埋葬から短期間で掘り起こされたご遺体の状態は、想像をはるかに超えていた。……体液と地下水が混じった、液体ともなんとも区別がつかない物質が棺からしみ出しているものも。血液や体液が混じった液体があふれ……
▽112 葬儀業における「感情管理」「深層演技と表層演技」という特別のスキル。
……遺族の気持ちに寄り添い人情味をにじませつつ、感情移入せずに確実に職務を遂行する葬儀業者は、まさに感情管理のプロフェッショナルといえよう。
▽122 感情を管理するうえで笑いは重要。……休憩時間……には、あえて業務からかけ離れた感情を形成し、共有する異。休憩時間は他愛なく笑い合い、お互いの感情をケアする。
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