■弦書房 20240415
かつて江戸時代は封建的な遅れた体制だと評価されていたのにたいし、最近の江戸ブームでは、江戸時代の近代に通じる部分をとりだして「実は意外に近代的だった」と評する。どちらも近代を基準に過去を評価している。
渡辺は、江戸は、もう二度と引き返せない、明治以降の日本人が滅ぼしてしまった世界であるからこそおもしろい、という立場だ。
失ってしまった江戸の姿を「逝きし世の面影」では外国人ののこした文献をもとにえがいたが、この本は江戸時代の人びとがのこした記録によってえがいている。
温泉宿で自分の部屋がきまると、両隣の客にあいさつにでむき、おなじ宿の客はみな友だちになった。人びとは赤児のように純真きわまりない感情をもち、旅先で病人を見かけるときまって声をかけ、知的な障害者にも生きる空間を与えた。江戸人の情愛の深さは、昭和になっても庶民の心情のうちにのこっていた。
たとえば能登のお接待や、人へのやさしさはそのなごりだろう。「精薄」とか「きちがい」とかよばれる人が昭和40年代までは近所を歩いていた。ステテコに腹巻きで歩く人もふつうで「裸」も許容されていた。それらはたぶん「江戸」のなごりだったのだろう。
幕末の外国人は、日本人の宗教心の薄さ、とくに武士階級の「無神論」に注目した。だが迷信・俗信は否定する一方で、よほど知的な人であっても、狐狸などの超自然的現象を疑うことはなかった。近世の科学的探究心は、あの世とこの世が交流するような心性を排除するものではなかった。江戸時代の人びとにとって世俗化とは、不思議と驚異にみちたコスモスの発見でもあった。
江戸時代の人びとには、中世のように死と生を徹底して見すえる態度はなく、死を気軽なものとみなし、とことんはぐらかしていた。「野暮天」がはぐらかしのためのキーワードだった。小西来山(17世紀後半の俳人)の辞世は「来山はうまれた咎で死ぬるなりそれでうらみも何もかもなし」だった。 明日を思い煩うゆとりもなく、その日を無事に過ごして、ただ一合の寝酒があれば満足する。そして最後は、観念したようにさっぱりと死を受け入れた。
仕事は労役ではなく生命活動そのものだった。家業は近代の「職業」とは異なる。運命にあたえられたその人の存在形態であって、家業に精を出すのは生命活動そのものだった。
だから「家」はおのれの生命活動によろこびをあたえる根源だった。家が存続するというのは、生命が継がれるということだった。
鈴木牧之は、生涯6人の妻をめとり、4人を離別した。
江戸期にはあらゆる家は家業をもち、家が経営体である以上、嫁という新加入者は審査され教育される。あわなければ離婚した。当時、離婚歴は再婚の障害にはならなかった。庶民の女の場合、一度の結婚で自分の運命をきめるのではなく、いくつか試みて、自分に合った家に落ち着くというのが賢明で自主的な生き方だった。 結婚を人格的結合とみなし、その核心に情熱的な恋愛を仮定するのは近代の発見であり、それゆえに近代人は愛の幻想にとらわれて苦しむことになった。
村尾嘉陵は50歳すぎに妻をなくしたあと諸国を歩きまわり、72歳のとき、薄明から午後6時までかかって60キロを歩き通した。平均時速5キロだ。「歩く江戸の旅人たち」という本に「多い日は1日60~70キロにも歩いた」「旅人にとって無理のない歩行距離の上限は50キロ程度」と書いてあったのを思いだした。現代ならばアスリートなみの健脚だ。
旅の記録の筆者は地域ごとの風俗のちがいにおどろいている。「娘小児に至るまで裸にて、近郷の一里ばかりある所へ用事ありて行くにも裸身にて……」。京の女が立ち小便することに江戸からの旅人は驚いた。
性のタブーは今よりよほど少なかった。
岩手の胆沢郡小田代にある十一面観音菩薩の祭は、若い男女たちが自由に交わることが許された祭りだった(菅江真澄)で、「出羽の温海では、娘のいる家ではみな娘を遊女に出すのを習いとして」いた。
天草では、男は外にでて、老人と女子ばかりだから、他国の船がよれば、女が家につれていった。男鹿半島の戸賀の浦では、老若を問わず、女たちが暗闇の船宿に入って相手をした。
実はそれに似た世界は昭和50年ごろまで残っていた、と能登半島で聞いたのを思い出した。
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▽26 江戸 斬殺があたりまえ。それが18世紀後半になると泰平に。天明年間の世の中を「堯舜の御代」にたとえる橘南谿
▽30 羽目をはずした奇行、乱行。そういう男をおろそかにしない時代だった。
▽35 幕末に来日した欧米人 当時の人びとの陽気さ、無邪気さ、人なつこさ……に深い印象を受けた。
▽41 本居宣長の養子の旅日記 有馬温泉 自分の部屋がきまると両隣の客に挨拶に出向くのが作法で……
▽44 江戸時代の人びと 赤児のように純真きわまりない感情を流露する人びとであった……江戸人の情愛の深さは、昭和になっても、僻地や底辺の庶民の心情のうちにその残照をとどめていた
▽52 旅先で病人を見かけると、そのままにはしておかなかった……事情のありそうな者を見かけると、きまって声をかけた。そうせずにはおれぬ情愛の深さがあった。……精神薄弱者にも生きる空間を与えた……
▽59 幕末の外国人は、日本人の宗教心の薄さと、とくに武士階級の「無神論」に注目。
その反面、天変地異や妖怪変化にいちじるしい関心を抱き……迷信・俗信は笑って否定しながら、奇譚や怪異を信じた。奇瑞や怪異は実在としてこの世に包摂されるものだった。……近世の科学的探究心は、聴診前的ものが実在と混淆し、あの世とこの世が交流するような心性を排除するものではなく……
▽69 キツネにせよ狸にせよ……人間との距離はよほど近かったのである。
▽75 仏教・神道といった組織された宗教が威信を喪った状況が、西洋の教会的信仰の視点からすれば無宗教に見えたのに過ぎない。……もっとも原初的な宗教的感情は、江戸時代の人びとにはたっぷりすぎるほど保有されていた。江戸時代の人びとにとって、世俗化とは同時に不思議と驚異にみちたコスモスの発見でもあった。
▽81 いつでも死ねる。死をいたって気軽なものとみなした。
明治のはじめ、日本人は火事で焼け出されてもニコニコしていると評判だった。
出生児10人のうち6歳に達するのは7人以下、16歳まで生存するのは5,6人。従容として死を迎えるのが普通であったようだ。
▽86 中世のように死と生を徹底して見すえる視線は消失した。江戸の面白さは徹底を回避して、とことんはぐらかすところに生まれる。
▽91 喧嘩で人を殺した者は自分の命も捨てねばならぬというのは、人の道の根本であった。人の道は命より重かった。……引き回しになるというのは、死罪人の最後の見栄だったようで……
▽100 仕事が決して労役ではなく、生命活動そのものだった。……家業は近代でいう職業ではない。運命が与えたその人の存在形態であって、家業に精を出すのは生命活動そのものにほかならなかった。
……それゆえ人びとは家を重んじた。家はおのれの生涯に意味を与え、おのれの生命活動によろこびを与える根源だった。家が存続するというのは、おのれの生命が継がれるということあった。
鈴木牧之 生涯6人の妻をめとり、4人を離別した。……江戸期にはあらゆる家は家業をもっていた。家が経営体である以上、嫁という新加入者は審査され教育される。
……離婚があまりにそっけなく、功利的である……個人の自由にもとづく今日の離婚ばやりと違って、あくまで家業の経営という要請が背景にあるだけに、現実的な分別がいっそう強くにおう。
▽109 西欧的な霊的恋愛を青くさい感傷、偽善として軽蔑するわが近代文学者の感覚は、江戸期の日本人の心性と通底している……
われわれの場合、結婚は家という経営体の新人採用ではなくて、個人間の性的結合であり、その結合に永続性が要請される以上、人格的な愛に関する何らかの幻想は最低限度必要なのである。
……結婚を人格的結合とみなし、その核心に情熱的な恋愛を仮定するのは近代の発見である。だがそれは愛の幻想にとらわれて苦しむことでもあった。
▽130 町内が小宇宙で、暮らしが完結していた。源空寺門前という町内には、床屋が1軒、湯屋が1軒、そば屋が1軒というように数が制限され、……床屋は町内の寄合所だった。客は通りの方を向いて座っていた。
▽135 明日を思い煩うゆとりもなく、その日を無事に過ごして、ただ一合の寝酒があれば満足するような生活。万事町内で用が足り……そしてその時がくると、観念したようにさっぱりと死を受け入れた生涯。
▽141 嘉陵72歳のとき、薄明から午後6時までかかって60キロを歩き通した。70翁でありながら時速5キロを維持できた。50歳あたりで妻を失い、それより山水を楽しんで諸国を遊歴すること29カ国。
▽148 女だけで旅をできた。関所も江戸後期にはほとんどタテマエに近いまでに形骸化していた。裏道を通り……手形はカネを払って調達し……
▽153 菅江真澄 岩手の胆沢郡小田代にある十一面観音菩薩の祭をしるす。若い男女たちが自由に交わることが許された祭りだった。
▽売春 出羽の温海では、娘のいる家ではみな娘を遊女に出すのを習いとしており……
遊郭も遊女も、それほどさげすむべきものではなかった。
……天草 男は外にでて、老人と女子ばかり。他国の船がよれば、女が家につれていき……男鹿半島の戸賀の裏では、老若を問わず、女たちが船宿に入って相手をする。暗闇とし、そのなかを女たちは探り寄ってきて男のふところに身をまかせる。互いに顔を見合わすことができぬので……
▽171 鈴木牧之〓文政11年、越後の秘境といわれる秋山郷を尋ね、壁も塗らぬ茅屋や、夜着もなく着たきりで囲炉裏に暖を取って寝る習慣や、アワやヒエの常食で、硬くなったもちのような豆腐に辟易はしたけれど、「日々を楽しみ、何一つ放埒もなく、天然を楽しむ」せいか、この里の人びとが老いてもなお壮健で、長寿者が多く……
髪はざんばら首筋は真っ黒というこの地の女たちにたじたじとしたし、……太股まであらわにして蚤かしらみをとっている若い女には、目のやり場に困った。だが女たちのなかに美人がいるのを彼は見逃さなかった。
菅江真澄は、……たとえ暮らしぶりが貧しいものであっても、その貧しさをただちに悲惨さと解さず、むしろそのうちに含まれる何らかのゆたかさや充溢を読みとろうとするまなざしの持ち主だった。
▽178 奥州のいたるところで、名も知れず得たいもしれぬような神々が祀られているのを見た。……このような神々や旧蹟が、里人の暮らしに歴史という厚みを加え、品位と優雅とゆたかさを添えているのだということを。……神々も昔の貴人も武人も一体となって織りなす物語の界域に人びとは生き、そして死んだのである。それが真澄の見た世界だった。
▽189 武士とは町人にとって、一定の限界内で挑戦可能な存在であり……
▽202 大名家の側室であった者が田舎の農家の嫁となる。……養子という家の継ぎ方があって、家の永続と繁栄を主とする考えから、跡継ぎを血のつながりによってよりも、当人の才器によって選ぶという習慣が、多くの庶民の子の社会的上昇を可能にした。しかも旗本・御家人の株は金銭によって購入できた。
……幕末になると、多くの庶人が士分に登用された。ずっと以前から、庶民の子が学者となり、幕府に召されていた。青木昆陽は魚問屋の子。
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