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古文書返却の旅 戦後史学史の一齣<網野善彦>

■中公新書20240507
  東海区水産研究所の一室で1949年、全国の漁村の古文書を蒐集・整理・刊行し、文書館・資料館をつくるという事業がはじまる。研究所の月島分室が担当し、日本常民文化研究所に委託した。
 だが1954年度で水産庁は研究所への委託予算を打ち切り、100万点を超す文書が借用されたまま、研究員は四散してしまった。
 網野は1967年に北園高校を辞職し、名古屋大学文学部へ。大量の文書をひきとってくれる大学をさがし、1980年に神奈川大にうつった。文書の返却作業がほぼおわって1998年で神奈川大を退職した。
 その間の「返却の旅」とその過程の調査で見えてきたことを紹介している。

 霞ヶ浦・北浦には、湖の民の巨大な自治組織「霞ヶ浦四十八津」「北浦四十四津」があったが、農業優先の時代のなかで生命力を失い、やがて幕府や水戸藩の下請け組織に退化していった。
 湖にたいする入会の慣習の力を弱め、滅亡にいたらしめたのが、湖辺の村々の農業の利害であり、湖を田畑と同じように漁場、あるいは肥料の藻場として所有しようとする動きだった。農業と土地所有の進展こそ、社会の「進歩」と考えられていた「常識」をゆるがすきっかけとなった。
 愛媛県の忽那諸島の二神島は、鰯網の漁業が盛んで活気に満ちていた。離島の由利島も鰯網漁でにぎやかで、大地震で島が沈下するまでは「由利千軒」といわれる町があったと伝えられていた。二神ではかなりの量の宋銭・元銭・明銭・寛永通宝が見つかった。近世文書によると、寺屋敷、長者屋敷、船頭畑、鍛冶屋の尻など、都市的な小地名があった。ところが二神家文書を返却するために1982年に再訪すると鰯網漁はなくなり、小学校の児童は10人もいない。由利島は、廃屋と神社の鳥居が草木に覆われ、無人島になっていた。
 能登の時国家の文書には1984年からとりくんだ。当主・時国健太郎の母、綾子氏をたずねた。そのころ地元では「能登に古文書がないのは上杉謙信と常民文化(水産庁)が古文書をみなもっていってしまったからだ」といわれちた。1985年から時国家と奥能登の調査が本格的にはじまる。
 下時国家の建築年代が、寛永末年(1644)ごろまでさかのぼりうること、上時国家の住宅・蔵が町野川沿いの「古屋敷」、巨大な原時国家から移築されたことなどが明らかにされた。
 時国家は、多数の下人や農奴を駆使して中世的な名田経営をいとなむ、農奴主的な豪農であり、奥能登は田畑の少ない貧しい地域と考えられていた。
 ところが、時国家は大船をもち、その船が松前で昆布を仕入れ、大津や京、大坂で売却したことをしるす1619年の文書が見つかった。南志見村では鉱山も経営していた。
 さらに、時国家と婚姻関係にあり、廻船交易にたずさわっていた柴草屋が「頭振」だった。時国家の金百両の借金返済を援助する冨をもった「海商」だ。これによって、頭振(水呑)=貧農という、通説を一挙に瓦解させた。
 奥能登最大の都市輪島(河井町村・鳳至町村)は総家数621軒のうち頭振が71%の438軒を占めた。第2の都市の宇出津村も433軒のうち頭振329軒で76%。その新町は頭振100%だった。
 頭振には、土地をもつ必要のない富裕な商人・職人・廻船人などの都市民がかなりの割合でふくまれていたのだ。飯田、中居、曽々木なども同様に都市的集落だった。
 富裕な商人、廻船人、職人などの都市民と、都市的な集落が分布する奥能登地域のなかで、さまざまな生業を多角的に経営する企業家が両時国家だった。
 両家分立以前から町野川の河口近くにそびえ、1831年に現在の上時国家に移築されるまで維持された巨大な原時国家(古屋敷)を、町野川河口の潟とそれに面する湊と結びつき、河海の交通と深い関係をもった居館ととらえることも可能になってきた。
 金蔵の井池光夫氏宅に保存されている曽々木の長尾金蔵家の襖下張文書からは、江戸末期、上時国家の北前船が「北蝦夷地=サハリン」にまで船足を伸ばしていたことをしめす船頭の書状が見つかった。
 「百姓=農民」「水呑=貧農」とする誤りが明確になった結果、弥生時代以来、基本的に「農業社会」と考えられていたのは誤りで、江戸時代の社会はかなり高度な「経済社会」だったことがわかった。
 紀州の海民史もおもしろい。小山家の本拠西向浦が古座浦とかかわりをもち、小山氏が「海の領主」(海賊)の戦闘方法を継承しつつ、古座の鯨方とむすびついて捕鯨に従事したこと、「海城」に拠った「海上警固」が江戸期には異国船警備などの「遠見番所」に受け継がれたこと、さらに古座川沿いの村々が大規模な廻船業に従事したこともわかった。
 宮城の気仙沼・唐桑は、紀伊から新しい漁法を導入し、鮪立の鈴木家も紀伊からこの地に移ったという。
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▽4 東海区水産研究所の一室で1949年に事業がはじまる。全国の漁村の古文書を蒐集・整理・刊行し、文書館・資料館をつくるという。研究所の月島分室が事業を推進。そのトップが宇野脩平。
▽14 研究書をひきとってくれる大学をさがし、1980年に神奈川大に招致された。返却作業がほぼおわって1998年3月で神奈川大学を退職。
▽21 宮本氏から突然、名古屋の自宅に電話をいただいた。「これで自分も地獄からはい上がれる。よろしく頼む」とまでいって、神奈川大への異動を喜んでくださった。まもなく(1981年)宮本氏は逝去した。
▽73 時国家の文書に取り組むことができたのは1984年にはいってから。時国健太郎の母、綾子氏。
▽76 そのころ地元で「能登に古文書がないのは上杉謙信と常民文化(水産庁)が古文書をみなもっていってしまったからだ」という話が広くひろがっていた。
▽77 1985年から時国家と奥能登地域の調査が本格的に開始。
……1985年8月の調査のさい、上時国家のお蔵から大量の文書を発見したときいの喜び……綾子氏の英断で「新し蔵」と母屋2階のお蔵の調査が許された。
▽87 私の不用意な発言のため、ついに下時国家文書の調査・整理を完全に行うことができなかったのは、残念というほかない。(〓「分家」発言?)
▽91 時国家 多数の下人、農奴または奴隷を駆使して中世的な名田経営をいとなむ、名の名前を名字とした農奴主的な豪農という認識だった。
▽93 ……時国家と婚姻関係にあったと推定され、廻船交易にたずさわっていた柴草屋が「頭振」だった。時国家の金百両の借金返済を援助するだけの冨をもった「海商」であり、この事実は、頭振(水呑)=貧農という、通説を一挙に瓦解させた〓。
……奥能登最大の都市輪島(河井町村・鳳至町村)は総家数621軒のうち頭振が71%の438軒。第2の都市の宇出津村も433軒のうち頭振329軒、76%。その新町は頭振100%だった。
……飯田、中居、曽々木なども同様に都市的集落。
▽96 都市的な色彩が色濃く、富裕な商人、廻船人、職人などの都市民と、大小の都市、都市的な集落が多数分布する奥能登地域、そのなかでさまざまな生業を多角的に経営する企業家の風貌をもつ豪家としての両時国家の姿が、次第にはっきりと浮かび上がってきた。
……両家分立以前から町野川の河口近くにそびえたち、1831年に現在の上時国家に移築されるまで維持された巨大な原時国家(古屋敷)を、町野川河口に最近まで広がっていた潟とそれに面する湊と結びつき、河海の交通と不可分の関係をもった居館ととらえることも可能になってきたのである。
……上時国家の襖下張文書から、北前船をすくなくとものべ5艘所持して、蝦夷地と大坂の交易をおこなっていた事実も。
▽99 井池光夫氏のお宅に保存されている曽々木の長尾金蔵家の襖下張文書から、江戸末期、上時国家の北前船が「北蝦夷地=サハリン」にまで船足を伸ばしていたことをものがたる船頭のたどたどしい書状が見出された。
▽109 大量のアメリカ移民を出し「アメリカ村」といわれた和歌山県三尾村。
▽114 紀州は海民史の宝庫。小山家の本拠西向浦が古座浦と深いかかわりをもち、小山氏(古座町)が「海の領主」、海賊の戦闘方法を継承しつつ、古座の鯨方とむすびついて捕鯨に従事したこと、「海城」に拠った「海上警固」が江戸期には異国船警備などの「遠見番所」に受け継がれたこと、さらに古座川沿いの村々が大規模な廻船業に十字したことなどが明らかに……
▽125 気仙沼・唐桑 紀伊から新しい漁法を導入。松前からは金や昆布がもとらされた。鮪立の鈴木家も紀伊からこの地に移ったとされ……
▽135 月島分室 宮本常一らも非常勤の調査員として参加。……月島分室の文書筆写料は、敗戦後の苦しい生活のなかにあった多くの研究者、学生たちのよいアルバイトとなった。
▽152 佐渡 石見から移住し、佐渡の海を自由に漁労しえたという特権をもつ姫津浦につたわる鑑札……
▽154 文書をかすかどうか……年寄り衆が討議して借用が許された。1950年の佐渡では、対馬と同様に、文書はこのようにして、区の年寄衆によって大切に保管されていたのである。
▽158 福井・田烏 若狭の諸浦は、全国的にみても最も豊富な中世以来の漁村・漁業資料を伝えている。
▽184 徳島・海部郡
 紀伊の海部郡と同様に、漁民の根拠地からなる郡。

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