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日本の伝統の正体<藤井青銅>

■柏書房20240518

 日本の伝統っていうけど、実はこんな程度やで、という本。
 商売柄けっこう知っていたはずだけど、知らない「伝統の暴露」もあっておもしろかった。

 七五三は、徳川綱吉が、嫡男・徳松の健康を願った祝いをした1681年11月15日がはじまりという説が有力だが、全国で一般的になったのは明治37年に最初のデパート三越ができてから。お中元・お歳暮もデパートによって全国でひろがった。
 恵方巻は1989年、セブンイレブンの広島の一部店舗で「関西ではこういうことをやってます」と売りだし、1998年に「丸かぶり、恵方巻」とはじめて「恵方巻」と名づけて全国のセブンイレブンで発売した。
 バレンタインデーは昭和11年にモロゾフが英字新聞に「バレンタインデーにチョコレートを」という広告を掲載。それを参考に昭和33年、東京のメリーチョコレートが「バレンタインデーに女性から男性にチョコを贈ろう」とキャンペーンをしたが売れなかった。1960年代末から1970年代にかけて急速に定着した。1980年に「ホワイトデー」が誕生した。たしかにぼくらが小学校のころはホワイトデーなんて聞いたことがなかった。
 バレンタインデーにつづいてハロウィンが、東京ディズニーランドがおこなった1997年から話題になりはじめた。
 明治になってキリスト教の結婚式が行われ、その影響で1892年に最初の仏前結婚式、1900年、当時の皇太子(大正天皇)がはじめての神前結婚式をおこない、翌年神宮奉齋会本院が「模擬結婚式」を開催して、神前結婚式の様式を定めた。三三九度は武士が客をもてなす作法で、結婚とは関係ない。いろいろな伝統を寄せ集めて神前結婚式の「古式」は20世紀につくられた。
 夫婦同姓も、江戸時代は庶民には姓はないから関係ない。。1875年、「平民苗字必称義務令」で義務化されたが、1876年の太政官指令で「他家に嫁いだ婦女は、婚前の氏」とされ、「夫婦別姓」だった。
 1889年に「大日本帝国憲法」、1898年に民法が成立してはじめて「夫婦同姓」が制定された。
 鍋に不可欠な白菜は1875年に政府が中国から種をもちこみ、日清・日露戦争で中国に行った兵士たちがもちかえって広まりはじめた。栽培に成功したのは大正、普及したのは昭和にはいってから。
 卵かけごはんは卵が安くなり、洗浄され清潔になった昭和30年代以降、一般的に。
 除虫菊は、1885年、アメリカ人の植物輸入業者が有田のみかん農家に「日本の珍しい種と、私が持っている西洋の植物の種を交換して」ともちかけてもたらした。1890年、線香に練り込んだものをつくったのが世界初の蚊取り線香になる。その後、とぐろを巻いたヘビを参考にして渦巻き状にして1902年に発売した。昭和18年ぐらいまで、日本は世界一の除虫菊生産国になった。
 喪服は古代以来、明治まで白だった。文明開化で西洋の喪服文化の影響をうけ、1878年の大久保利通の葬儀には、多くの人が黒の大礼服で出席した。大正から昭和にかけて、一般にも黒が定着した。重なる戦争で葬儀が多くなり、汚れの目だたない黒になっていったのではないか、とも言われる。
 告別式と葬式はちがう。無神論の中江兆民。葬儀のかわりに、青山墓地でおこなわれたのが、日本初の「告別式」だった。葬式は僧侶が主導するもの、告別式は葬儀があろうとなかろうと、別れを告げてあいさつするもの。
 江戸時代は平和がつづき、実態とかけはなれた忍者・忍術が、1760年代あたりから活躍しはじめる。ひとめで忍者だとわからなくてはいけないから、黒装束の忍者がはじまる。明治末から大正にかけて「立川文庫」が流行し。猿飛佐助や霧隠才藏があらわれる。ここまでは「しのび」「忍びの者」だったが、「忍者」となったのは昭和30年代のようだ。
 皇紀はさらにいいかげん。神話では神武天皇即位は「辛酉の年」となっている。「辛酉革命」「甲子革命」は60年1周りで大きな変革が起きる。それが21回で「一蔀(ぼう)」。60×21=1260年。神武天皇の即位の年は大変革だから、「西暦で換算できるく辛酉の年から1260年さかのぼればよいのではにか」。そこで、推古天皇が斑鳩宮を築いた601年は大変革だからそこからさかのぼり、BC660年となった。
 1873年=明治6年=紀元2533年。ここから公式に使われることになった。紀元元年の1月1日を、新暦に直した1月29日を「紀元節」として祝うことにした。ところが、国民は「紀元節とは旧正月のことか」と思った。これではいかんと、政府は「計算をし直し」て2月11日を「紀元節」を定め直した。
 明治のはじめ、エドヒガンザクラとオオシマザクラを交配してできたのがソメイヨシノ。すべて接ぎ木か挿し木で増えるクローンだから同時期に咲き、いっせいに散る。ソメイヨシノ以前の花見は、いろいろな種類の桜が次々に咲いていく様子を1カ月にわたって楽しむことだった。
 橿原神宮=1890年、明治神宮=1920年、白峯神宮(京都)=1868年、吉野神宮(後醍醐天皇)=1892年、湊川神社=1872年、豊国神社 「天下統一しながら幕府を開かなかったのは尊皇の功臣である」と明治元年に再興。「建勲神社」(織田信長)=1869年創建。
 靖国神社 もとは競馬場がありサーカス興業がり、……西洋的な公園と祝祭の場所をあわせたような空間だった。1879年、靖国神社と改称し、正式な神社に。
 神田明神 大己貴命と将門が祭神だった。明治になって、将門は朝廷にさからった逆賊だからということで、境内の小さな末社にうつされ、そのかわりに常陸から少彦名命(えびす)の分霊を迎える。江戸っ子の信仰は将門にあったから、人々は例祭に参加しないようになった。本殿には賽銭をいれず、将門の小さな祠には参拝者が相次いだ。昭和59年、将門は本殿にもどった。
 三味線は16世紀末、琉球貿易によって中国の三弦が伝えられた。昭和30年代、民謡ブーム。それまで「津軽もの」などとよばれていた三味線音楽を、三橋美智也らが「津軽三味線」という名前で一般的にした。
 「よさこい」座敷歌だったが、昭和29年に踊りをつくって「祭り」に。最初は盆踊りスタイルだったが、サンバ調、ロック調、フラメンコ調……と自由にアレンジ。平成になって、北海道の大学生が高知のよさこい祭りに感動し、平成4年から「YOSAKOIソーラン祭り」をはじめた。
 演歌は自由民権運動や政府批判からはじまった。昭和40年代、フォークソングとグループサウンズが登場。旧世代で洋楽色の弱い歌は、自らの特徴をアピールしなければならない。昭和44年、藤圭子がデビュー。ファーストアルバムは「新宿の女/演歌の星・藤圭子のすべて」。このあたりから、演歌は「日本人の心の歌」というポジションを得た。
 1970年代、演歌は「新ジャンル」となって生まれ直した。すると、それまで「民謡調歌謡曲」や「日本調歌謡曲」だった歌手たちは、自らのスタイルを意識的に「演歌」によせていく。新ジャンル「演歌」は80年代を謳歌したが、日本経済が長い低迷に入るのに合わせるようのよう勢いを失う。
 新ジャンルのフォークも、初期はプロテスト色があったが、都会派の洋楽色を打ち出したニューミュージックへと名前を変えた。それも古くさくなり、J-POPになった。
 木彫りの熊 八雲の徳川農場。ヨーロッパで買いこんださまざまなペザント・アートをみせ「つくってみなさい」とすすめたのがはじまり。昭和初期には道内各地で売られるようになる。戦後、徳川農場が閉じられて、昭和30年代には木彫りの熊の7割は旭川製になった。
 マトリョーシカ 江戸時代、箱根で、「十二卵」という土産物が誕生。明治にはいって、七福神の入れ子人形に。それをロシアにもちかえってできあがったのがマトリョーシカ。そして1900年のパリ万博で大評判に。
 ハワイでは19世紀、宣教師が服を着ることを教え、ムームーが生まれる。 サトウキビ産業がおこり、各国から労働者がきた。アメリカ人たちが着ていた「1000マイル着ても破れない丈夫なシャツ」がハワイ風にアレンジされ「パラカ」という標準作業着になった。
 日本人のハワイ移民が1885年からはじまる。日本からもっていった着物を再利用してパラカを作ったという説と、着物生地を見た現地の人が「そのきれいな布でシャツをつくってくれ」と頼んだという説、さらに、売れ残った日本の着物生地で中国人商人がシャツを作ったという説がある。いずれにせよ日本の着物生地・浴衣生地がハワイの地でシャツになった。
 明治18年の最初の移民のなかに宮本長太郎がいた。東京出身のシャツ職人だった。明治37年、ホノルルにオーダーメイドでシャツを仕立てる店「ムサシヤ」を出した。1930年代にはすでに、派手な和柄のシャツは「アロハシャツ」と呼ばれていた。最初は日本の着物柄だったが、次第にポリネシア風のデザインが増えた。1950年ごろのハワイの産業は、サトウキビ、パイナップル、アロハシャツが3本柱になったほどだ。

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▽39 
クリスマスイブ(1950〜60年代)~
バレンタイン(1970〜80年代)
ハロウィン(1990〜2000年代)
▽49 江戸時代は庶民には姓はない。1870年、「苗字を名のってもいい」という「平民苗字許可令」。1875年、「平民苗字必称義務令」で義務化。
 1876年には太政官指令で「他家に嫁いだ婦女は、婚前の氏」とされた。最初は「夫婦別姓」だった。
 1889年に「大日本帝国憲法」が交付され、1898年に民法が成立。ここではじめて「夫婦同姓」が制定された。
……民法制定時、世界では「夫婦同姓」としている国はいくつかあったが、現在、世界では選択制や、別姓などさまざま。夫婦同姓を「義務づけている」のは日本だけ。
▽62 卵かけごはん 1872年、文献上のはじまり。卵が安くなり、洗浄され清潔になった昭和30年代以降、卵かけごはんが一般的になったという。
▽76 告別式と葬式はちがう。無神論の中江兆民。葬儀のかわりに、青山墓地でおこなわれたのが、日本初の「告別式」。
 葬式は僧侶が主導するもの、告別式は葬儀があろうとなかろうと、別れを告げ、参列者・社会にあいさつするもの。告別式は葬式の一部ではないのだ。
▽86 「江戸しぐさ」のウソ。「一杯のかけそば」の作者の詐欺疑惑。
▽94 江戸時代は平和がつづき、実態とかけはなれた忍者・忍術が、1760年代あたりから活躍しはじめる。ひとめで忍者だとわからなくてはいけないから、黒装束の忍者がはじまる。
 明治末から大正にかけて「立川文庫」が大ブームに。そこで猿飛佐助や霧隠才藏などがあらわれる。ここまでは「しのび」「忍びの者」だったが、「忍者」となったのは昭和30年代のようだ。山田風太郎、白土三平。
▽98 都をどり 1872年「第1回京都博覧会」その前あおりとして、祇園・松の屋で開催された。
▽104 万願寺とうがらし。舞鶴市万願寺地区で、大正末期から昭和初期にかけて、伏見系のとうがらしと、カリフォルニア・ワンダー系のとうがらしを交配して誕生。
▽108 讃岐うどんの名の定着は1960年代。1974年には加ト吉が、冷凍讃岐うどんを発売し、讃岐うどんの名が全国区に。
 2011年には香川県は「うどん県」を宣言してしまう。
▽124 皇紀
 神話では神武天皇即位は「辛酉の年」となっている。「辛酉革命」「甲子革命」は60年1周りで大きな変革が起きるそれが21回で「一蔀(ぼう)」。60×21=1260年。神武天皇の即位の年の大変革のはずだ、だから、「西暦で換算できるく辛酉の年から1260年さかのぼればよいのではないか」。そこで、推古天皇が斑鳩宮を築いた601年は大変革だからそこからさかのぼり、BC660年となった。
 1873年=明治6年=紀元2533年。ここから公式に使われることになった。紀元元年の1月1日を、新暦に直した1月29日を「紀元節」として祝うことにした。ところが、国民は「ああ、紀元節ってのは旧正月のことか」と思った。これではいかんと、政府は「計算をし直し」て2月11日を「紀元節」を定め直した。
▽130 相撲は国技? 戦前の両国国技館→昭和29年に蔵前国技館→1985年に両国国技館。
▽134 万葉集には梅が約110、桜は40。古今和歌集は桜70、梅は20に逆転。
▽136 明治のはじめ、駒込・染井村には園芸業者が多かった。そこで、エドヒガンザクラとオオシマザクラを交配してできたのがソメイヨシノ。すべて接ぎ木か挿し木で増えるクローン。同じ時期に咲き、いっせいに散る。
▽153 京都三大祭りのうち「時代祭り」は平安神宮。1895年に創建された。とびぬけて新しい。平安遷都1100年にあわせて内国勧業博覧会を誘致し、そのときに造営されたのが平安神宮。
▽156 橿原神宮 1890年創建。
 明治神宮 1920年。
 白峯神宮(京都)1868年
 吉野神宮 1892年 才人は後醍醐天皇
 湊川神社 1872年
 豊国神社 「天下統一しながら幕府を開かなかったのは尊皇の功臣である」と明治元年に再興。
 「建勲神社」織田信長。1869年創建。
 靖国神社 もとは競馬場がありサーカス興業がり、……西洋的な公園と祝祭の場所をあわせたような空間だった。1879年、靖国神社と改称し、正式な神社に。
 伊勢神宮 1868年、明治天皇が参拝したのが、在位中の天皇としてははじめての参拝。
 天皇の皇族の霊は平安時代以来、宮中の御黒戸にまつられていた。仏壇にあたるもので、位牌がおかれ、仏式だった。
 神式になったのは明治元年の孝明天皇3年祭から。
 神田明神 大己貴命と将門が祭神だった。明治になって、将門は朝廷にさからった逆賊だからということで、境内の小さな末社にうつされ、そのかわりに常陸から少彦名命(えびす)の分霊を迎える。
 江戸っ子の信仰は将門にあったから、人々は例祭に参加しないようになった。
 本殿には賽銭をいれず、将門の小さな祠には参拝者が相次いだ。
 昭和59年、将門は本殿にもどった。
▽165 御朱印帳
▽167 ○○音頭
▽173 民謡「○○節」
▽177 三味線 16世紀末、琉球貿易によって中国の三弦が伝えられ、日本の三味線になった。……昭和30年代、民謡ブーム。それまで「津軽もの」などとよばれていた三味線音楽を、三橋美智也らが「津軽三味線」という名前で一般的にした。
▽181 「よさこい」座敷歌だったが、昭和29年に踊りをつくって「祭り」に。最初は盆踊りスタイルだったが、サンバ調、ロック調、フラメンコ調……と自由にアレンジ。
 ……平成になって、北海道の大学生が高知を訪れてよさこい祭りに感動し、平成4年から「YOSAKOIソーラン祭り」をはじめた。
▽198 ……昭和40年代、フォークソングとグループサウンズが登場。旧世代で洋楽色の弱い歌は、自らの特徴をアピールしなければならない。……五木寛之「艶歌」という小説(1966年)
 昭和44年、藤圭子がデビュー。ファーストアルバムは「新宿の女/演歌の星・藤圭子のすべて」。このあたりから、演歌は「日本人の心の歌」というポジションを得た。
 1970年代、演歌は「新ジャンル」となって生まれ直した。すると、それまで「民謡調歌謡曲」や「日本調歌謡曲」だった歌手たちは、自らのスタイルを意識的に「演歌」によせていく。
 青江三奈も八代亜紀も前川清も、デビュー以前は、ジャズあオールディーズをうたい、そういうジャンルのほうが好きだったのに、だ。
 新ジャンル「演歌」は80年代を謳歌したが、日本経済が長い低迷に入るのに合わせるようのよう次第に勢いを失う。
 新ジャンルのフォークも、初期はプロテスト色があったが、都会派の洋楽色を打ち出したニューミュージックへと名前を変えた。それも古くさくなり、J-POPへと名前を変える。
 ……21世紀になると、「昭和歌謡」という大きなくくりのなかに、80年代までの歌謡曲もアイドルソングもフォークもGSも演歌も入れられてしまう。
▽206 木彫りの熊 八雲の徳川農場。ヨーロッパで買いこんださまざまなペザント・アートをみせ「つくってみなさい」とすすめた。
 民芸運動がはじまる時代風潮もあって、……出品する木彫りの熊の数が増えてくる。昭和初期には八雲の製品は道内各地で売られるようになる。
 戦後、徳川農場がしめられたことで、昭和30年代には木彫りの熊の7割は旭川製になった。
 ……八雲には「木彫熊北海道発祥記念碑」がある。
▽209 けん玉の発祥 ヨーロッパから長崎へ入ったのではないか。ヨーヨーも江戸中期に中国から長崎にはいって大流行した。
▽212 マトリョーシカ 日本が起源。江戸時代、箱根で、「十二卵」という土産物が誕生。明治にはいって、七福神の入れ子人形に。……それをロシアにもちかえってできあがったのがマトリョーシカ。そして1900年のパリ万博で大評判に。

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