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季刊民族学165 岡本太郎の民族学

■20240518

 「芸術は爆発だ」というヘンなおじさん、というのがぼくらの子どものころの岡本太郎のイメージだった。
 戦前にマルセル・モースに師事して民族学をまなび、帰納的で具体的な姻族学と、演繹的で抽象な芸術の双方で創的な世界をつくりあげた天才だったということがよくわかる。
 太郎は戦前のパリで抽象芸術の運動にかかわる。
 人間の思考、とくに芸術は、自分の主観からこうだ、と自己中心的に演繹的に決めていく。一方、ミューゼ・ド・ロンムでであった民族学は、自分を捨てて主観的な判断を排除して、ひたすら帰納的に結論を導きだす。太郎は、世界観を帰納的に見直してつくりあげることに感動した。芸術の演繹と、民族学の帰納という2つの精神的な方向のぶつかりあいのポイントに、自分の本当の生き方を発見すべきではないかと直観する。
 岡本は辛気くさい日本の伝統文化に興味をもてなかったが、1951年に東京国立博物館で見た縄文土器に仰天し、「たんに日本、そして民族にたいしてだけでなく、もっと根源的な、人間にたいする感動と信頼感」を感じる。
 大阪万博の際、太郎の発案で太陽の塔の地下に人類の原点を示すという狙いから、世界の民族資料約2500点が収集展示された。京大の梅棹忠夫と東大の泉靖一と協力して1968から69年にかけて収集した。そのコレクションはその後、民博に寄贈された。
 岡本は、万博の準備段階から「人類は進歩していない」と公言してはばからなかった。
「近代主義的な機械でつくったようなものばかりならべて、得意になって、「進歩と調和」とかいっていた。ぼくは……人間は進歩していない、逆に破滅にむかっているとおもう。調和といってごまかすよりも、むしろ純粋に闘いあわなきゃなあないというのがぼくの主義で、モダンなものに対して反対なものをつきだした」
 それが、丹下健三がつくった巨大なモダニズム建築の神殿に穴をあける「太陽の塔」のコンセプトだった。1970年当時、万博の主役のひとりは丹下健三であり、岡本は脇役もしくは道化でしかなかったが、半世紀をへて、丹下の神殿は消え、太陽の塔は2018年に内部をととのえ復活した。両者の役どころは逆転したのだった。
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▽岡本太郎と民博 吉田憲司
・万博の際、岡本太郎の発案で太陽の塔の地下に人類の原点を示すという狙いから、世界の民族資料約2500点が収集展示された。1968から69年にかけて収集。そのコレクションは民博に寄贈。
 岡本は収集の計画を、京都大学の梅棹忠夫と、東京大学の泉靖一にもちかけた。……生活用具もふくまれていたが、重点をおかれたのが「仮面と神像」だった。
・岡本は、万博の準備段階から「人類は進歩していない」と公言してはばからなかった。
・万博当時、研究者の側に、伝統的なものこそ真正の民族文化だという思いこみがあった。……しかし世界の民族の文化は、常に外部の世界と接触をもちながら、変化してきたはずである
……当時のコレクションは日本の研究者の視点で収集し、展示したモノであった。……人類学の研究や民族学博物館の活動は今、文化の担い手との協同作業のなかで進めることが基本になってきている。
……2009年のアフリカ展示。現地研究者にアドバイザーになってもらい……同時代人としての共感をはぐくむ展示。

▽岡本太郎と梅棹忠夫の対談
岡本 人間の思考は演繹的なわけね。芸術などはとくにそう。自分の主観からこうだ、と決めてくる自己中心的なものだけど、民族資料のもっている意味、ぜんぜん自分を捨てちゃって、ものから帰納的に世界を見直す。世界観を帰納的に見直してつくりあげるという反対の状況にぼくは感動した。ただ芸術家としていい気になっているんじゃなくて、もっと現実のものそのものから、ずっとこっちにひきよせ、こっちもひきよせられるということに情熱を感じて、民族学をやった。
岡本 万博は、近代主義的な機械でつくったようなものばかりならべて、得意になって、「進歩と調和」とかいっていた。ぼくは……人間は進歩していない、逆に破滅にむかっているとおもう。調和といってごまかすよりも、むしろ純粋に闘いあわなきゃなあないというのがぼくの主義で、モダンなものに対して反対なものをつきだした。
梅棹 歴史民俗の博物館と民族学博物館をいっしょにすることはできないかという話はあったんです。民族学博物館としては、これはどうしてもいっしょになりません。別のものですとことわった。実際やってみると、民族学博物館がさきにできたわけ。
▽私と人類学 パリ大学民族学科のころ
 ミューゼ・ド・ロンム 芸術は孤独の場から演繹的にイメージを繰りひろげる。だが民族学は主観的な判断を一切排除して、ひたすら帰納的に結論を導きだそうとする。この2つの精神的な方向のぶつかりあいのポイントに、自分の本当の生き方を発見すべきではないか。
・日本 当時のすべての陰湿な灰色の絵ばかり、思わせぶりな味だとかムードにひたる職人芸の世界に、衝撃的な原色をぶつけた。対極主義だとか実存的な弁証法を身をもってつきつけた。
▽岡本太郎の「仮面」 貝瀬千里
・仮面をかぶった人が神や霊そのものとなったと感じられる瞬間がある……仮面をかぶる人も「自分」と「仮面の自分」というふたつの意識の狭間におかれている。
 ……恍惚の最中んも、仮面をかぶる人と見る者は、二重の意識に引きされる。「仮面」と「私」の間でゆられながらこの祭りの時間が終わる事実も忘れない。陶酔しながらどこかさめた目をもっているという岡本の指摘。
・日本の伝統文化に興味をもてなかった岡本が、仰天したのは、1951年の冬に東京国立博物館でであった縄文土器だった。
▽戦後日本社会と太陽の塔
 博物館・美術館における古代史ブームは、東京オリンピックを境にして一服し、下火に。だが、原色美術本という形で盛んに。
・登呂遺跡や岩宿遺跡が関心を集めたのは、太古の時代にすべに日本には誇るべき文化が存在していたということが明らかにされ、敗戦で打ちひしがれていた日本人の精神を奮い立たせたから。
……東京五輪のころから、都市に住む一部の人たちが達成した近代化の度合いを測るための他社、対極をしめす指標としてあつかわれた。
……GNPが世界2位になると、失意にあっては民族の誇りとして古代をもてはやし、得意にあっては古代を他者として遠ざける。……バブル崩壊後、日本人がすがりついたのが、たとえば日本語である。1990年代から2000年代初頭にかけて日本語ブーム。
……平成の終わり……日本の伝統や日本人らしさなどという、あいまいな言葉に救いを求めようとする動きも一部に見られる。
……モダニズム建築の伝道師、丹下健三が進歩という神に献げるべく設計した壮大な神殿はもはや跡形もない。1970年当時、万博の主役のひとりはたしかに丹下健三であり、岡本は脇役、もしくは道化でしかなかったかもしれないが、半世紀をへて、両者の役どころは逆転している。
▽土偶としての太陽の塔 誉田亜紀子
・岡本太郎のいう四次元とは超自然的存在のことである。可視化はできないけれど、感じる存在であり、確かにいると思える存在である。縄文人たちの暮らしにおいては、すぐそばにいる存在であり、逆にいてくれないと困る存在でもある。彼らの生活がすべて呪術で彩られていると考えるならば、縄文人と超自然的存在は運命共同体と考えてよいのではないか【真脇遺跡〓】
・縄文土器にふれたときの気持ちを岡本はこう書いている。「たんに日本、そして民族にたいしてだけでなく、もっと根源的な、人間にたいする感動と信頼感」
▽二つの極、二つの学の総合 沖縄文化論 安藤礼二
・モースの手で体系化されたフランスの民族学と柳田国男の手によって体系化された日本の民俗学。
 民族学は、比較を方法として、空間的な他者を、客観的な対象として研究を進めていく。
 民俗学は、反省を方法として、時間的な事故ー現在まで残存している過去の無意識的な習慣ーを、主観的な対象として研究する。
 民族学は、他者の文化を記録した文献に頼り、民俗学は、自己の文化の痕跡を実感する調査に頼る。
・「贈与論」のモースの叔父が「宗教生活の原初形態」をまとめたデュルケーム。

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