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小さきものの近代1<渡辺京一>

■弦書房 241226
 これまで読んだ著者の作品とくらべると、微に入り細をうがちすぎてわかりにくい部分があるが、江戸時代に生まれた日本人と、明治以降の教育でそだった日本人とは異民族といえるほど文化や習俗が異なることや、尊皇攘夷や維新の評価などがあいかわらずおもしろかった。

□維新
 「維新」の評価は、明治も後期になれば「革命」とは考えられず、右翼の北一輝らも「挫折した革命」とみていた。ところが1980年代、国家的自尊心回復の潮流によって明治天皇制国家は偉大な変革者とされるにいたった。司馬遼太郎らの影響が大きいのだろう。
 諸藩を解体し、地租改正、徴兵制、国民皆教育制を実現したその急激さ、徹底性はたしかに世界史に稀に見るほどだった。チェンバレンが「古き日本は滅んだ」と書いたように、明治維新は270年持続した文明を滅ぼす変革だった。しかしその徹底性・急激性は、中央集権的近代的な国民国家を創出するためのものであり、民主主義や人権を確立するものではなかった。
 中央集権国家は近代的兵力を養う必要がある。そのためにはカネが必要だから「富国強兵」が維新変革の至上の目的となった。維新が突き進んだ近代国民国家建設のゴールは1945年の敗戦だった。
 大日本帝国憲法では、天皇の統治権を「憲法ノ条規ニ依リ之を行フ」として「凡テ法律勅令其ノ国務ニ関スル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」とすることで制限していた。
 天皇の絶対化・神聖化は、明治20年代の民権派との闘争のなかで浮上したとみられ、明治23年公布の教育勅語がその仕上げとなった。教育勅語には大臣の副署はなかった。
 政府は、天皇を1個の国家機関として統治権を制限しつつ、一般国民に対しては天皇の神聖化に努めた。陸海軍の統帥については天皇専権と認め、内閣の容喙を許さなかった。伊藤、山縣ら強力な指導者の権威によって軍部が統制されているうちはそれでよかったが、統帥権の独立をふりかざす者が軍部に現れたとき、それに対抗することが不可能になっていった。

□徳川社会
 アメリカ人日本研究者スーザン・ハンレーは、江戸時代の日本はヨーロッパと比べて生活水準は劣っていなかったと言い、「17世紀中頃から19世紀中頃にかけて、首都の公衆衛生は、給水の量についても、ごみ処理についても、日本のほうが西洋より上であった」と評した。
 農民の抵抗により新たな検地が困難になり、田畑のみならず、綿作などの非農業生産の比重が増大して生産性が向上することで、年貢の収穫に対する割合は低下し、五公五民どころか、幕末には2割台まで下落していた。
 江戸時代の経済や生活の変化は、中国・朝鮮から輸入されていた綿・生糸の国産化が大きかった。
 従来、苧麻(からむし)から麻布を織っていたが、繊維をとりだして糸をつむぐのに布1反分で2カ月、さらに1反織るのに40日かかった。女性は着物をつくるのに精一杯で、田畑の手伝いなどできなかった。木綿は、製糸・織布の工程が麻の10分の1ですむから、女たちは田畑で働けるようになった。
 木綿が爆発的に普及することで、18世紀初頭の大坂平野郷では田畑の62%に木綿が植えられた。木綿は商品化するから、高価な肥料を投入できる。それで関東の干鰯生産が増大し、のちには北海道の鰊が干鰯の名でもたらされる。木綿の導入が、「商品経済を発展させ、経済の在り方そのものを大きく構造的に転換させた」
 17世紀末から砂糖の輸入が急増するが、19世紀初頭には讃岐・阿波を中心に白砂糖が国産化し、天保期には輸入の必要はなくなった。
 識字は4割くらいで、同時代1850年頃のイングランドの6割台におよばないが、イタリアの2割台よりずっと高かった。
 庶民の政治参加も明治よりも進んでいた。民衆からの役所への訴願や訴訟も多く、一定程度それがうけいれられた。明治時代には民衆の訴願を政府がうけれて政策を立案したことなど一度もなかった。

□開国と攘夷
 「幕府無能無策説・アメリカ軍事圧力説・極端な不平等条約説」という通説は、明治10年代以降、明治政府による政治的キャンペーンによってつくられた。
 幕府がペリーと結んだ条約は「敗戦条約」ではなく、戦争を伴わぬ「交渉条約」だった。それによって独立が保たれた。
 幕府はペリーに対して、将軍に拝謁することを許さず、老中にも談判させず、首都の江戸にくることも拒んだ。粘り腰の交渉だった。
 攘夷戦争さえ起こせば全国が奮起するといいうのが、尊王攘夷派志士の究極的な論拠だった。攘夷戦争を戦い抜くことで独立を保つという理屈は、二重に誤った狂信だった。上海が植民地のようになったのは、攘夷戦争をおこなわなかったからではなく、死力を尽くしてそれをやって敗北した結果だった。
 そういう現実を、 藤田東湖も吉田松陰も高杉晋作も理解できていなかった。
 長州の攘夷主義者は「国土を灰にするとも、徹底抗戦せよ」と叫んでいたが、わずか3日間の戦闘で砲台を占拠されただけで降伏し、下関での通商さえ承認した。

□女の力
 徳川期の離婚率は非常に高い。何度か結婚して,互いに気に入ったところで落ち着くというのが常態だった。明治になっても変わらず、宮本常一は対馬で18回結婚したという83歳の老女に1950年頃会っている。
 離婚する際、女は子をつれず単身で家を出る。単身だからすぐ再婚できた。夫が別れる妻に渡す「三行半」は再婚認可状だった。
 遊郭の遊女は身請けされるか年季が切れれば堂々と結婚できた。荒畑寒村の妻は女郎出だった。
 かつての日本は、キリスト教国のような性の罪悪視はなく、春画が公然と店先で売られ、年頃の娘が人混みのなかを歩くと、尻がつねられてアザだらけになった。宮本常一によると、対馬には6つの観音様があり、巡礼者たちが宿に泊まると、ムラの若者たちが行って歌のかけあいをする。男は女に体を賭けさせた。そんな習俗は明治の終わるまでつづいた。
 一方、明治以降の教育を受けて女学校を出た女性は、新婚初夜の性行為に驚愕した、と記している。大正6年になると、明治以来の教育による「処女」が育っていた。
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▽20 天皇の絶対化・神聖化は明治20年代の政府の民権派との闘争のなかで浮上した現象のようにみえる。明治23年公布の教育勅語がその仕上げと言ってよい。大日本帝国憲法は、天皇の統治権を「憲法ノ条規ニ依リ之を行フ」として「凡テ法律勅令其ノ国務ニ関スル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」とすることによって制限していた。教育勅語に大臣の副署はなかった。
……新政権は、実際の憲法運用に当たっては、天皇を1個の国家機関としてその統治権を制限しつつ、一般国民に対してはひたすら天皇の神聖化に努めたのである
……この憲法は、陸海軍の陶酔については天皇専権と認め、内閣の容喙を許さなかった。軍部が、伊藤、山縣ら、強力な指導者の権威によって統制されているうちはそれでよかった。……しかし軍部内に、この統帥権の独立をとっこにとって、国家をわが意に従わせようとする者が現れたとき、それに対抗するのが不可能に……
□徳川社会
▽28 アメリカ人日本研究者スーザン・ハンレーは……生活の質ー健康、福祉、寿命ーを判断の基準にするなら、ヨーロッパと比べて生活水準は決して劣っていなかった、と言い、さらに「17世紀中頃から19世紀中頃にかけて、首都の公衆衛生は、給水の量についても、ごみ処理についても、日本のほうが西洋より上であっ」たと。
▽29 農民の抵抗により新たな検地が困難になり、生産性が向上することで、年貢の収穫に対する割合は年々低下し、俗に言われる五公五民どころか、幕末には2割台まで下落する状況にいたった。田畑の生産性向上のみでなく、綿作をはじめ商業作物の生産が多様化し、非農業生産の比重が増大したからである。
▽33 訴願や訴訟も頻繁に役所へ持ち出された。……明治時代には、民衆が役所に向かって訴願し、政府がそれをいれて政策を立案したことなど一度もなかったのである。
▽36 幕府と藩の財政逼迫は、商工業を放置したからで、米価下落・諸色高値の状況下で、財政が逼迫した。
 ……とくに注目すべきは、中国・朝鮮から輸入されていた綿・生糸の国産化に成功したことである。
 従来、麻の一種である苧麻(からむし)から麻布を織っていた。繊維をとりだして糸をつむぐのに布1反分でふた月くらいかかる。さらに1反おりあげるのに40日かかった。家族中の着物を間に合わせるのに精一杯。とても田畑の手伝いをする暇がなかった。しかも麻布はごわごわして保温性に乏しい。染色もままならない。それに対して綿布は染色も容易。柳田は木綿の普及以後、人々の姿が柔らかくあでやかになったと言ったのはよく知られている。木綿は、製糸・織布の工程が麻の十分の1ですむ。女たちは田畑に立つことができるようになった。
 木綿は16世紀から本格的に国産化されるが、爆発的に普及したのは徳川時代。18世紀初頭の大坂平野郷では、田畑の62%に木綿が植えられていた。
……木綿は商品化するから、高価な肥料を投入できる。それで関東の干鰯の生産が増大し、後には北海道の鰊が干鰯の名でもとらされる。木綿の導入が、「連鎖的に商品経済を発展させ、経済の在り方そのものを大きく構造的に転換させた」
 17世紀末から砂糖の輸入が急増するが、19世紀初頭には讃岐・阿波を中心に白砂糖が国産化し、天保期には輸入の必要はなくなる。
……識字は4割くらいで、同時代1850年頃のイングランドの6割台におよばない。それでもイタリアの2割台よりずっと高い。
▽44 一揆の要求は大部分認められることが多い。ただし、指導者は処罰される。
▽47 頭取死罪とわかっているのに、一揆を導いた人々が多数いた。彼らは処刑にあたっても潔く、ほとんど思い残すことがなかったように見える。安丸良夫はその「淡泊ないさぎよさをささえるものは、浄土教系の信仰であったらしい」と言う。

□自覚の底流
▽77 安藤昌益の中核は、直耕する民が統治者を養っているのに、その養われる者が民に対して仁を施すとされる倒錯への容赦のない批判である
▽94 関東各地に富士塚がもうけられた。最初に築造されたのは、1765年……戸塚村(新宿区高田の馬場)。1779年に開山した。富士塚は60に及んだ。1983年の時点で43が現存していたという。(「冨士講の歴史」)

□開国と攘夷
▽101 「幕府無能無策説・アメリカ軍事圧力説・極端な不平等条約説」という通説は、明治10年代以降、明治政府が張った政治的キャンペーンによるもの。(加藤祐三「幕末外交と開国」)
 加藤は、幕府がペリーと結んだ条約が、戦争を伴わぬ「交渉条約」であったことを高く評価する。(「敗戦条約」ではない) もし攘夷主義者が望んだように開戦したら、日米和親条約は敗戦条約となった。「アジア近代史から見れば、和親条約のような交渉条約は稀有の事例である」
▽103 福地桜痴 ペリーに対して、将軍に拝謁することを許さず、内閣大臣たる老中にも談判させず、首都の江戸にくることも拒み、……
▽106 攘夷戦争さえ起こせば全国が奮起するといった議論は、全国の尊王攘夷派志士の究極的な論拠だった。その空論たることは、やがて歴史が実証する。
▽111 吉田松陰 思想家ではなくイデオローグでしかなかった。アメリカにわたったとしても、できるのは、皿洗いしながら学校へ通うくらいだろう。それがスパイをしたことになるのか。アメリカへスパイをしにいくなど全くナンセンスである。
……稀に見る美しい人格の持ち主だった。結局は藤田東湖と同様、「思想」には一片の感心すべきものはないが、人格の流露において忘れられぬ人なのである。
▽113 攘夷戦争を戦い抜くことで独立を保とうという理屈は、二重に誤った狂信だった。上海が植民地のようになっているのは、攘夷戦争をおこなわなかったからではない。それをやって敗北した結果なのである。高杉晋作は現実がまったく理解できていなかった。
 ……長州は四国艦隊に来襲されるや、砲台を占拠されただけで降伏した。戦闘は3日間にすぎなかった。なにが存亡を賭けた攘夷戦だろうか。清国はもっと死力をつくして闘っている。
 奇兵隊も、……幕府軍が攻めてきたからといって、なぜ百姓が銃をとらねばならぬか。百姓には関係ないことである。

□異国経験
▽121 鎖国期漂流が多発したのは、弁才船が沿岸航行用につくられ、外洋航行には不向きだったからである。沿岸航行では優秀だった。
 500石以上の大船建造禁止。
 川をさかのぼるから、船尾の大型の舵は引きあげる構造になっている。暴風雨にまきこまれると、まずこのカジがやられた。あとは黒潮に乗って漂流するしかない。
……ジョン万次郎

□幕臣たち
▽179 勝麟太郎 咸臨丸でサンフランシスコについたとたん、いろいろ指図してみんなから嫌われた。福沢諭吉も嫌った一人。
▽185 川路聖謨 饗応を辞退、付け届けも返却。最初の妻は病死、2度目の妻は離別、3度目の妻も離別、4度目の妻があたった。
……養子制は、幕府の人物登用ルートのひとつだった。
▽195 太平の世が続いて、旗本、御家人は遊民ぶりがはなはだしく、兵は弱かった。第二次長州征伐も、戦闘訓練もなく……。
▽211 

□女の力
▽239 徳川期の離婚率は非常に高い。何度か結婚してみて,互いに気に入ったところで落ち着くというのが常態であったようだ。明治になっても変わらず、宮本常一は対馬で18回結婚したという83歳の老女に1950年頃会っている。
離婚する際、女は子を連れず単身で出る。子は家のもの……女は単身だからすぐ再婚できる。またそのために夫は別れる妻に「三行半」を渡すのである。これは再婚認可状であった。
▽250 郷里に妻がありながら、京都や東京で出世してまた結婚する例は少なくなかったようだ。
▽252 遊郭 京は島原、長崎は丸山を竜宮城のようにみなす伝統があった。遊女は身請けされるか年季が切れれば堂々と結婚できた。
 荒畑寒村は恋人の菅野すがを幸徳秋水にとられて、拳銃で二人を撃ち殺そうと思ったことがあるが、女郎出の年上のおたまさんと結婚して落ち着いた。
▽255 キリスト教国のような性の罪悪視が存在せず……春画が公然と店先で売られ、……年頃の娘が人混みのなかを歩くと、尻がつねられてアザだらけになった……宮本によると、対馬には6つの観音様があり、巡礼者たちが宿に泊まると、ムラの若者たちが行って歌のかけあいをする。男は女にからだを賭けさせる。明治の終わるまでつづいた習俗。
……河内国高向村滝畑の左近熊太のはなし。昭和11年に83歳だった。聖徳太子廟には旧4月に会式があって、「この夜は男女ともに誰と寝てもよかった……はらんだ子は父亡し子でも大事に育てたものである」。この風習は明治の終わりまでつづいた。
▽257 ……の妻は嫁いだ初夜、その行為に驚愕した。夫婦がなにをするのかまったく知らなかった。彼女は女学校出で、同級生もたいていそうであったという。大正6年になると、明治以来の教育はこういう処女を育てていた訳である。

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