MENU

谷川雁 永久工作者の言霊<松本輝夫>

■平凡社新書 240613

 谷川雁は1960年前後、吉本龍明とならびたつカリスマ的思想家で、「連帯を求めて孤立を恐れず」というフレーズの生みの親であり、「原点」という言葉を普及させた。
 筆者は東大の学生時代に筑豊で雁とであった。柳田国男と折口信夫について「二人の著作には炭鉱の若い者たちや女たちとつきあっていく上での知恵やヒントが無尽蔵にある」ときき、エロスにみちた雁の源泉に柳田と折口があったことを知る。その後、雁が専務をつとめるラボに就職した。
 雁は敗戦後、西日本新聞社にはいるが、共産党で活動したため解雇される。1958年、子どもがいる既婚者の森崎和江と筑豊・中間に移住し、上野英信らとともに「サークル村」を創刊する。政治革命や社会革命よりも前に文化革命があるべきだと考え、その基礎単位としてのサークルの横のつながりの構築をめざした。
 だが、サークル村運動に対する日本共産党による「谷川雁の修正主義的偏向」攻撃がおこり、上野英信が雁との「壁一重ごしの隣人生活」にうんざりして福岡市に越してしまい、サークル村は3年で自壊した。
 共産党を脱退後に力を入れた鉱山労働者の大正行動隊は、「日本民主主義の諸悪の根源ーーいわゆる「民主集中制」のいかさま」を批判し、自由連合的な組織論をかかげた。
 多数決と民主集中制が建前だった全学連が形骸化したあとに生まれた全共闘の組織論は、基本的に大正行動隊の自由連合的組織原則を継承するものだった。
 大正鉱山は廃鉱になるが、退職者を企業組合に組織した。その後、路線対立や森崎との仲違いがあって雁は筑豊を去り上京。1965年にテック(ラボ教育センター)入社する。
 ラボはたんなる英語塾ではなく、「物語」を活動の中心にすえ、物語を介して子どもたちの心と言語(英語)との距離を近づけようとした。雁は詩人としての能力を発揮する。古事記を物語化した「国生み」の出だしは「がらんどうがあった。大地はまだなかった。がらんどうしかないけれど、もんなかはあった。そのまんなかを見あげると、高いなあという感じがあった」。
 物語は「よみがえりの構造」をはらむものであり、人生もまた物語である。人間だれしも、みずからの物語を生きるのだから、可能なかぎり物語を豊かに彩りたいと雁は考えた。
 テック(ラボ)では雁は経営者側として、労組を弾圧した。「テックは独自の言語教育運動体なのだから、主旨に同一化できない社員は排除しても可」と考え、異常に大幅な査定をして、テックの理念への同化がとぼしいとみなされた者は干された。現在もNPOやボランティア団体によくある問題だ。
 社長との路線対立もあって57歳で雁はラボを追い出される。
 その後は、宮沢賢治に傾倒する。
 宮沢賢治は、文学史に適切に位置づけられない。北原白秋のあとの詩人と位置づけても落ち着かず、鈴木三重吉ら童話作家のそばにおいてもはみだす。「孤立させて、ぽつねんと置くよりほかに方法が」ないから「源流」であるとする。
 そして賢治を「縄文の心」の近代的表現者であり、現代文明に対する文化的・思想的なブレーキ役と位置づける。縄文のゆるやかでまっとうな生活者の心が、ある時点から崩壊しつづけてきた。賢治が発信する縄文の心はそうした一方的な管理主義に対するブレーキになりうるのだという。
 賢治をとおして見た縄文は、高度な精神性をもち、共同性が保たれる世界だった。縄文は「暗黒のみちるところ」ではなく、「万有の母がある」「初発のエネルギー」にみちた時代だった。
 「下部へ下部へ、根へ根へ」とうたった雁の「原点」は縄文にむすびついていたと筆者は考える。

 雁は、新左翼を代表する思想家でありながら、「日本の村のつくりだしたものにくらべられるような思想的達成は、まだないのではないか」とまで「村」を評価していた。彼の原点は、民衆のなかに地下水脈のように流れる土着的な共同体志向、農民と部落民に共通する「前プロレタリアートの感情」「前プロレタリア的思想」だった。「小さな諸共同体」こそが、支配者により変質を余儀なくされながらも、「有効な抵抗の土台」となるとし、「この破片と記憶をめざめさせて新しい共同体の基礎にしなければならない」と説いた。村における民衆の共同性から出発することなしに社会・文化・政治の革命などできるわけがないという発想だった。
 だが縄文以来1万年かけてつくりあげてきた、人類史的な宝ともいえる日本の村は、1960年代前半からわずか10年間の高度成長によって壊滅・変質した。この変化をもたらした点では高度成長の方が敗戦より罪深いと、雁は見ていた。
 雁は共産党オルグ時代は、農村や被差別部落へ、石炭産業が解体される局面では筑豊の炭鉱へ、高度成長から「消費資本主義」にむかうころには、子どもたち、女たちとの共同活動や、ことばと物語の深層に下降していった。
「下部へ下部へ、根へ根へ」と下降し、「万有の母」「存在の原点」を縄文に見だした。縄文以来の共同体の破片と記憶をめざめさせることをめざすのが雁の人生だった。

 雁が評価してやまなかった「村」の共同性が今でも強くのこっているのが能登半島である。地震で孤立化していまだに水道もないムラに通い、「山に行けば自由、海にくれば自由」と笑顔をふりまくおばあさんの自由さにひかれる。「能登のやさしさや土までも」という言葉は、もしかしたら縄文以来の村落共同体がはぐくんできたやさしさなのかもしれない。

===
▽7  谷川健一(〜2013)の弟。
▽16 書棚には柳田国男と折口信夫の本がならんでいた。
「二人の著作には炭鉱の若い者たちや女たちとつきあっていく上での知恵やヒントが無尽蔵にある」……このころの左翼系知識人で柳田や折口を読んでいる者など皆無であった。
「エロスと喚起力にみちた雁の発送とことばの源泉には柳田と折口があったのか」
▽21 「下山の時代」の先駆者。……言語学者の鈴木孝夫、30年以上前から「下山」認識の必要性を説きつづけた。
「地球環境保全と経済発展の両立」「持続的な安定的経済成長」などは言語矛盾そのものであり、まやかし、妄想でしかないという洞察力が際立っている。
 鈴木と雁はテック草創期に共同で仕事していた。
▽40 敗戦後、西日本新聞社へ。共産党にはいり、解雇処分。結核で阿蘇中央病院入院。1958年、森崎和江と筑豊・中間に移住。
▽雁の詩文の「難解」な理由。メタファーの多様には、暗号化の意味。共産党員や活動家のことを「大地の商人」と隠喩。
▽67「原点」をふつうにつかうようになったきっかけのひとつが雁の「原点が存在する」
▽70 日本の村へのオマージュ……原点とは、日本の民衆のメンタリティの底部に地下水脈のように流れる土着的な共同体志向、「東洋の村の思想」の根にあるものと見ておけばまちがいない。さらには農民と部落民に共通する「前プロレタリアートの感情」「前プロレタリア的思想」とひびきあう。
……上級の共同体(国家)の下部を構成する「小さな諸共同体」「下級の共同体」に着眼し、この共同体こそが、支配者により擬制化され、変質を余儀なくされながらも、「有効な抵抗の土台となり、アジアの諸芸術発生の震源地ともなった」と評価している。
その上で、「この破片と記憶をめざめさせて新しい共同体の基礎にしなければならない」と力説した。
 当時、日本の村は時代遅れの典型のようにいわれていたなかで、雁の主張は共産党をはじめ多方面からの反発を招いたが……
▽74 鶴見俊輔「日本の村のつくりだしたものにくらべられるような思想的達成は、まだないのではないか」……と雁からきいた。
▽76 当時、封建遺制とみなされていた日本の村落共同体に根ざした民衆の共同性、共同体感情に立ち返り、そこから反転するエネルギーに点火し、組織することなしに日本の社会・文化・政治革命などできるわけがないという雁ならではの発想。
▽81 1958年、中間町に森崎和江とともに移住。「サークル村」創刊。1960年、共産党を脱退、「大正行動隊」を結成。61年、行動隊の一員による強姦・殺人事件。……「サークル村」休刊。62年、大正鉱業退職者同盟結成。63年、筑豊企業組合発足。65年に上京、テック入社。
……森崎にアプローチ。森崎も夫の了解を得て、雁といっしょに中間へ。しばらくは夫の住む家と「二人の子を連れて往復」していた。
▽90 サークル村は、3年で自壊した。途中から、サークル村運動に対する日本共産党による批判。「谷川雁の修正主義的偏向」攻撃。……上野英信が雁との「壁一重ごしの隣人生活にうんざりして、福岡市に越してしまった。
(でもサークル村から石牟礼道子が育った)
▽96 大正行動隊 「日本民主主義の諸悪の根源ーーいわゆる「民主集中制」のいかさま」を圧倒すべく……自由連合的な組織論。……多数決原理、民主集中制を建前として運営されていた全学連が形骸化するなかで、それにとってかわった全共闘の組織論は基本的に大正行動隊の自由連合的組織原則を継承しており……そうした相関もあって、東大闘争時、安田講堂に「連隊を求めて孤立を恐れず」という雁のことばからの引用キャッチフレーズが垂れ幕となってかかげられたのであろう。
▽116 森崎とすさまじいやりとりをへて、雁は筑豊を去る。
▽123 大正闘争にあっては、「革命運動」がそのまま自己解放運動の日々でありえた。
▽128 1965年、テック(ラボ教育センター)入社。
▽142 ラボ・パーティー。チューター。外国語を媒介にする精神活動。「ことばがこどもの未来をつくる」母語である日本語をたいせつにした活動。物語を命とするラボ・テープの開発。
物語を活動の中心にすえることを通して、ことばの本質に迫る。英語優先主義を超えることによって、逆に物語を介して子どもたちの心と言語、英語との距離を近づけ、密に結びつけることを可能にした。
▽163 幼児は、ラボ・パーティーを主宰する童神……子ども、とりわけ幼児に神性を認めてともに歩み続けたからこそ……
▽173「国生み」のでだし がらんどうがあった。大地はまだなかった。がらんどうしかないけれど、もんなかはあった。そのまんなかを見あげると、高いなあという感じがあった。
▽196 物語は「よみがえりの構造」をはらむものであることを雁は見ぬいていた。
 さらに、雁にとっては実人生もまた物語であるほかないのであった。人間は物語的存在というのが雁の根本認識でありつづけた。よみがえりの構造は、したがって、実人生をも貫く構造なのであり、誰しもがこの世に生をうけた以上は己が物語を紡ぎながらいきていくほかない。そうだとすれば、可能なかぎり物語を豊かに彩りたいところであろう。
▽201 榊原陽社長と専務の雁が対立。教育活動の主軸を物語の深化におくか、多言語の会話力にかえるかの対立。労組を弾圧。「テックは独自の言語教育運動体なのだから、主旨に同一化できない社員は排除しても可」とする労務政策。
全体として低賃金な上に異常に大幅な査定を実行。テックの理念への同化がとぼしいとみなされた者は干された。
 悪しき意味での日本企業によくみられた「同化型共同性」を過剰に規範化する愚をおかした。
▽215 源流としての宮沢賢治 1980年に榊原社長とともにラボを退社。
▽230 縄文以来1万年かけてつくりあげてきた世界に冠たる文化財ともいうべき日本列島の村が60年代前半からのほんの10年間の高度成長によって壊滅し、変質したと言うのである。
戦争と敗戦をとおしても不変だったものが高度成長によって変わってしまった、この悪しき変化をもたらした点では高度成長の方が敗戦より意味が大きい、その完成が70年代中盤だと断言しているのである。
……高度成長の方が戦争よりも敗戦よりも日本社会と日本人の意識構造を変える上では決定力が強かったという史観はたぶん雁以外からは出てこないのではないか。日本の村とそこに醸成されていた共同性を何よりも高く評価し、人類史的な宝とみなす独自のまなざしを確立してきた雁ならではの時代認識であろう〓〓
▽232 明治廻国以後の近代化過程、その強引な「成功」の果てでの戦争と敗戦をへてもまだかろうじて原基をとどめていた日本の村を一気に壊滅させた高度成長という「土石流」への憤怒とやるせなさ、そしてそれに内発的に同調していくほかない「大衆の転向」への屈託と違和……1960年代半ばに雁の胸底に宿った時代との向き合い方は死ぬまで続いたとみていい。ここが、こうした時代変化を高く評価していった吉本龍明とは対照的なところでもある・
▽235 宮沢賢治を「源流」と表現。明治以来の文学史に適切に位置づける場所がない。北原白秋のあとに詩人と入れても落ち着かず、鈴木三重吉ら童話作家のそばに置いても大きくはみだしてしまう。「孤立させて、ぽつねんと置くよりほかに方法がありません」……「まさに一個の源流であることの証明です」
賢治をエゾ、縄文と結んで語り、しかもそこに日本の閉塞を内破する可能性を探ろうとする。……「山男の4月」をはじめ、賢治作品に縄文系と思われる山男が少なからず登場することに雁は注目していた。
▽238 あの縄文のゆるやかな時間の中で続けられていたまっとうな生活者の心が、ある時点において崩壊し、それ以来人間の歴史は崩壊に崩壊を重ねてきたというふうにも言えるわけです。……縄文の心に戻っていこうとする心の動きは、こうした一方的な管理主義に対してのブレーキになりうると思われます。
▽「縄文の心」の比類なき近代的表現者が賢治なのであり、そこにこそ雁は「源流」を直観していたのではなかろうか。現代文明に対する文化的・思想的な至高のブレーキ役としての賢治に思いを寄せていたのではなかったか。
……賢治をとおして改めて見つめ直した縄文とは、未開の低レベルの社会どころか著しく精神性の高度な文化、共同性が保たれている世界だったのである。だからこそ賢治作品は集団創造にも適合するというわけでもあろう。
……「下部へ、下部へ、根へ、根へ」とうたった雁にとっての「原点」もまたはるか「源流」としての縄文とも響き合っていたのではなかったか。
縄文とは発展段階説からすれば「花咲かぬ処」「暗黒のみちるところ」であったろうが、実は「万有の母がある」時代であり、「初発のエネルギー」にみちた世界であることが雁には幻視しえたからである。
▽243 柳田が「常民」という用語を駆使しつつ、古来日本の村や山に生きた生産活動に関わる人々、上半身(国家)とは異なる下級共同体に生き死にした人々の生活や民間伝承の研究をとおして「大衆のエネルギーに接着」可能な道をさりげなく豊富に開示してくれた先達として、高く評価していた。
……エロスなき乾いた言語と闘いばかりが大手をふるっていた時代に柳田に深く学びながら運動そのものの現状打破をめざしていたのである。いわゆる左翼本などよりはるかに革命的であり、役にもたつというふうに。「もっともあざやかな精神下降の軌跡」という柳田賞讃の辞は、まさに雁の人生と仕事を形容する最適のフレーズである。
……共産党オルグ時代は、農村や被差別部落へ……石炭産業が解体される局面では筑豊の炭鉱へ、高度成長から「消費資本主義」全盛期にむかうころには、子どもたち、女たちとの共同活動、ことばと物語の深層に下降していった。
「下部へ、下部へ、根へ、根へ」と下降しながら、「万有の母」「存在の原点」を探究する試みとして一貫していたのである。
▽243 縄文以来の村を破壊し尽くした高度成長期以降の日本社会には「虚空」しか見えないとニヒルに断言しているのである。
▽248 戦争と敗戦によっても基底部はかろうじて残りつづけた日本の村と自然生態系、そして「前プロレタリアート的感情」「無政府的な魂」が、高度成長によってトドメをさされて一挙に解体したこと
▽252 「下山の時代」の進展は、社会全体が「広く深く液状化・流体化」していく道であり、「だれもが難民としての自分をみつめる」ことが必須の時代となるが、この方向もまた楽しからずや……だろう。
▽253 「私の尊敬する人」(講談社、1990年刊行) 原爆投下がほかならぬ(隠れキリシタンが住みつづけた)浦上地区になされたことについて「浦上に落ちたから、まだよかったのですよ。信仰のない人たちだったら、なかなかこらえきれんでしょう」と語ったというお婆さんをあげている。しかも「まわりのお婆さんたちも口々に『そうだ、そうだ』とうなずいた」……
……お婆さんたちのことばは、そこをくぐりぬけて出てきた、透きとおった感情の一滴です。それにしても何というひろやかさ、何というあかるさでしょう。宗教をもたない私にも、原爆をのりこえる名もない人間の力があることを教えてくれます。
(上大沢のおばあさん「山に行けば自由、海にくれば自由」〓村の心)
……敗戦直後、行き倒れとなった若き「オルグ」の雁をむしろ助け、励まし、支えてくれた貧農や部落の人たちの「前プロレタリアート的感情」と響き合い、さらにはるか「縄文の心」に根ざすものでもあろう。雁の「原点」。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次