■天皇とマッカーサーのどちらが偉い? 日本が自由であったころの回想 <室謙二> 岩波書店 20160715
終戦の翌年に生まれた筆者は、戦争に懐疑的だった両親をもち、学生時代はベ平連にかかわり、その後、アメリカに渡って国籍を取った。アメリカの自由と平等にひかれながら、帝国主義的な一面に反発する。そんな視点で日本とアメリカの歩みをたどることで、日米の比較文化論になっている。
筆者の父は英語教師で戦時中は数学を教えさせられ、戦争の敗北を予言していた。戦後はGHQにつとめ、アメリカの出版会社にもかかわり、早稲田大の教授をつとめた。
両親や兄姉にとって終戦は「解放」だった。アメリカによる占領は、日本人にとっては、抑圧と解放が組み合わされたものとしてあった。
米兵の犯罪で反米感情が爆発し、憎むべき帝国主義のイメージも高まるが、60年安保時でさえも米国は日本人のあこがれの対象だった。
筆者が生まれ育ったのはモダニズムを代表する同潤会江戸川アパートだった。共同浴場や社交室、理髪店、スチームによる暖房設備もあり、建設された1934年には東洋一の規模だった。鉄筋コンクリートだから空襲でも生き残り、鴨居が低かったからGHQに接収されなかった。そこには、なだいなだや丸山ワクチンの丸山千里らの文化人が住んでいた。戦争が終わって、「自由の気分」が復活し、社交ダンスがブームになっていた。
日本の教育改革に影響を及ぼしたアメリカ教育使節団報告書の理想主義は、必ずしもアメリカの教育理念ではなかった。現実のアメリカの教育は地域によっては保守主義がはびこっていた。報告書は、アメリカのリベラルな教育者たちの夢を投影したものだった。
そんな理想主義教育のなかで、女の子と男の子は隣同士に座らされ、フォークダンスは「楽しみながら男女交際と民主主義を教える」ものとされた。女の子と手を握るドキドキ感は私もおぼえているが、筆者の世代にとってはそれは「アメリカ」だった。だが、アメリカの初等教育ではフォークダンスが教えられた形跡はないという。日本でもいつからかフォークダンスは教えられなくなったという。
ジーンズは、アメリカ的な自由の象徴だった。女性がジーンズを着るようになったのは、軍需工場への動員がきっかけだった。デニムのオーバーオールやデニムのズボンという男の作業着を身につけるようになり、それが工場外へ広がった。1950年代には前開きの女性用ジーンズは抵抗があり、ブラウスも後ろ開きが多かったが、まもなく階級差や性差、人種の違い、都市と田舎を飛び越えて着られるようになった。世界の人間がジーンズをはいて「自由」を感じた。
戦後しばらくは、アメリカは日本人の理想でありつづけた。
だが実際のアメリカはそんなに甘い社会ではなかった。
1950年代前半、ひたすら明るく踊り狂うミュージカルが人気を博していたころは、リベラルと左翼を弾圧する非米活動委員会の時代でもあった。ローゼンバーグ夫妻は、ソ連に原爆情報を渡したという容疑で、無実を主張していたのに死刑になった。仲間の名前をあげること(naming names)を拒否したために、ハリウッドでの職を失う人が続出した。
「真昼の決闘」は、たった1人で体制の側から正義を実行する物語で、常軌を逸した反共主義に対して一人でも戦うという背景があったが、保安官を、一人で共産主義と戦うマッカーシー上院議員になぞらえることもできる。だから、アイゼンハワーとブッシュ(息子)、クリントンというイデオロギーが異なる大統領が愛する映画となった。恐怖に駆られても体制の側から一人でも正義を実行することが重要だったのだ。
一方、その時代の日本では、軍隊そのものが悪なのだということが日常的信条になっていた。
ベトナム北爆の時点(1965年)では、敗戦から20年しかたっていない。人々は北爆を自らの空襲体験と重ね合わせたから、自発的な北爆反対のデモが各地で起きた。それを支える思想が平和憲法だった。
筆者は、アメリカの黒人の非暴力直接行動が、南部の人種隔離政策と連邦政府の政策を変えさせるのを目の当たりにして、「非暴力とは暴力を行わないこと」ではなく、暴力に対抗し暴力を囲む力ともなることだと知った。そして「直接行動の裏打ちのない非暴力の理念は、政治的な力を持たずタテマエとして棚に飾られる」という小田実の考えに共感し、9条を棚に飾るのではなく、歴史と政治の運動によって、たえず新しい意味を加え、修正するべきだと考えた。「民主主義はデモなどの政治的非暴力直接行動の助けがあってはじめて機能する」「非暴力の直接的政治行動なしには憲法9条は機能しない」と主張する。
================
▽ジャズ
▽45 父マサル、神田の古本屋街でGHQのチャールズ・E・タトルと出会い、GHQで通訳としてつとめる。タトルはGHQをやめ1948年に「タトル商会」設立。そこにマサルも雇われた。今も、アメリカにTuttle Publishing、日本にタトル・モリ・エイジェンシーが存続している。
▽62(タトル商会で)海水浴に行くと、砂浜がアメリカ人用と日本人用に金網で仕切られていた。砂浜はアメリカ人用の方が広々として清潔だった。後年になって、1960年代まであったアメリカ南部の黒人隔離政策を知った。バスからレストランからトイレまで、白人用と黒人用がわかれていたが、そのときに、日本人隔離政策がどおから来たのか知ったのである。
▽64 マッカーサーと天皇の写真 2人の目線と大小の体が写った写真は、多くの日本人に衝撃を与えた。恐れをいだかない支配者と、まるでアメリカの新聞雑誌に描かれるカリカチュアのような、眼鏡とちょびひげの日本人であった。この写真は、占領下の日本の支配構造を日本人に知らせて、多くの日本人は屈辱とあきらめを感じた。
▽66 疎開から解放されたシゲル(兄)にとっても、爆撃の恐怖から解放されたミドリ(姉)にとっても、軍部を恐れずに考え、ものを言え、行動することができるようになったマサルとユキコ(父母)にとってもそれは解放だった。
アメリカ軍による占領は、日本人にとっては、抑圧と解放が組み合わされたものとしてあった。
▽72 妻の叔父のマルコム 神戸の令嬢に恋して、置いてもなおその恋の話を筆者にする。(恋愛はいつまでも忘れられないものなのだ)
▽81 ジラード事件 薬莢を拾いに来た女性に「ママサンダイジョウビ」と声をかけ、射殺した事件。日米どちらが裁くか問題になり、日本が管轄したが、軽い執行猶予つきの判決が出て、ジラードは日本人花嫁を連れて帰国した。
反米意識が刺激されて燃え上がり、アメリカ側は日本の法廷で裁くことになったことについて「兵士は日本のオオカミたちに与えられた」「卑怯なことが証明されている国家に売り渡した」と反発した。
だが、実際ジラードは知能指数が低く、殺すつもりもなく、いたずらで空の薬莢を詰め込んで撃った。殺人罪にならないのは冷静な判断ともいえた。
…翌年にオタワのジラードの家を訪ねた朝日新聞の松田ふみ子によれば、ペンキが剥げ落ちいたが腐っている二間の狭い家…。
▽87 アメリカ教育使節団報告書 日本の教育改革に影響を及ぼしたことになっている。格調高い理想主義は本物のアメリカの教育理念かと思ったが、現実のアメリカは教育は地域によって異なり、保守主義がはびこり、偏狭なキリスト教理念、非科学主義、教師の無能力もあり、この文章から創造されるような美しい姿ではなかった。アメリカには国家が統一的に全国の教育をコントロールするシステムなどなかった。報告書は、アメリカの理想主義教育者たちが日本に投げかけた彼らの夢だった。
…私のうけた教育では、女の子と男の子はかならず隣同士に座るように強制されたし、男の子が女の子の上に立って威張ったりしたら、クラスの女の先生にこっぴどく怒られ…
…フォークダンス。今の小中学では踊らなくなったらしいが(〓いつから?)、ウィンフィールド・P・ニブロが初等中等教育に最初に採り入れた。彼がフォークダンスを日本に紹介した佐世保では、ニブロ記念フォークダンス・フェスティバル〓が開かれるし…
…フォークダンスを教える目的として「外国のフォークダンスをおぼえ、楽しみながら男女関係の基礎をつくる」。
…私たちは女の子と手を握ったり、体がちょっと接触したり、顔を見合わせたりして、それがうれしくて、しかしまたちょっと不安だったり、だけど同時に興奮していたのである。
…「アメリカからきたフォークダンス」、「民主主義と男女の交際を教えるフォークダンス」は、アメリカの初等教育で力を持っていたかどうかはまったく疑わしい。
▽95 赤狩り ローゼンバーグ夫妻は、ソ連に原爆情報を渡したというスパイ容疑で、無実を主張していたのに死刑になった〓。
夫人エセルの弟グリーングラスの偽証を使ったフレームアップだった。50年後にグリーングラスは、自らの証言がうそであったことを告白する。
(逆のファシズムの時代)
ローゼンバーグ夫妻はアメリカ共産党員で、スターリンのソ連を支持していた。
▽103 …仲間の名前をあげること(naming names)を拒否したために、ハリウッドでの職を失い、逮捕される可能性もあった。その級友は次の日から学校にこなくなり、親と一緒にハリウッドから消えた。それはレッド・ダイパー・ベイビーが経験したことだった。
▽105 戦前の父は共産主義・社会主義の読書会ぐらいだったが、その中の一人が警察に逮捕されると、あわてふためいて関係の本を捨てたらしい。しかし、プハーリンがスターリンに処刑されたことが、ソ連にたいして疑いを持ちはじめるきっかけだった、と言っていた。
▽108 レッド・ダイパー・ベイビー 「外の世界に対してある種の緊張を保ち、粗相的少数者の誇りを内側に持つ」こと、その訓練を子どもの時からつんできたのだから。
…私が自分でつくりだす日本への緊張感と、そこから生まれるアメリカへの親近感がこの本を書く一つのエネルギーであったことは疑いない。
▽113 同潤会江戸川アパートがGHQに接収されなかったのは、鴨居が低かったからだと聞いている。
ふすまの高さは五尺八寸(175センチ)だから敷居もその高さで、頭をぶつけるような場所は住居として接収に値しない、ということだった。
…6階建ての1号館と4階建ての2号館が中庭を囲みロの字のように建てられていて、共同浴場、社交室、食堂、理髪店、遊び場など。スチームによる暖房設備、交換台とオペレーターによって外線と内線につながる電話などが完備していた。部屋数は全部で257室、同潤会によって建てられた当時の1934年には、450人が住む東洋一の規模のアパートだった。
…スチームによる全館暖房も戦時中に中止になり、…
▽117 住人たちのなかに、時代に連動した、戦争が終わり全部新しくやり直しであるという「自由の気分」があった。江戸川アパートが作られて、人びとがそこに入ってきた当時の開放的な気分が復活したのである。
…なだいなださんや映画監督の増村保造さん、丸山ワクチンの丸山千里先生…いろいろな医者もいるから病院には行かなかった。「文化人」
▽123 江戸川アパート。「文化人」たちがお互いに講義をしていた。
▽124 アメリカとの戦争の間、公の場所で体を寄せ合って踊るようなことは許されなかった。…社交ダンスのブームは、いまから考えられないほどの肉体の解放だったのである。
▽129 大正時代に本女子大を出た母ユキコは、断固たる反封建主義者・反家族主義者・反権威主義者にして、見合いが嫌いだった。
娘のミドリの見合いの朝、母ユキコは「こうしてやる!」と叫んで、ミドリに飛びかかり、パーマネントをかけてセットした頭に手を突っ込んでむちゃくちゃにしてしまった。これでその日の見合いはなくなった。
▽139 「反米」と「アメリカに親しみを感じること」。1960年の世論調査でも、好きな国としてアメリカをあげた人は47.7%で、嫌いな国としてアメリカをあげた人は5.9%だった。ソ連が嫌いな人は50.4%で、好きな人は3.3%だった。反米気分が強かった1960年安保闘争の時でさえ、人びとはアメリカのホームドラマを見たり、ハリウッド映画を見て…
…1950年代前半の「雨に唄えば」などのミュージカルは、ひたすら明るく、幸福に踊り狂う。だが、「南太平洋」(58)になると人種問題がすべりこむし、「ウエストサイド物語」は人種問題がテーマで、サウンドオブミュージック(64)はナチから逃げるストーリー。
しかし、50年代前半のあの明るいミュージカル時代は、リベラルと左翼を弾圧する非米活動委員会の、緊張した時代でもあった。明るい映画の背景にはそういう問題があった。
▽143「真昼の決闘」アイゼンハワー、ブッシュ(息子)、クリントンのもっとも愛するウエスタン映画。たった1人で体制の側から正義を実行する物語。クリントンは、保安官が、恐怖を感じながらもしなければいけないこと(正義の戦い)を、たった一人で実行する事への共感と感動を語る。たった一人でも、敵に対する恐怖を持っていても、体制の側からの正義を実行する、ということが歴代大統領の3人が、これをもっとも愛するウェスタン映画とした要素なのである。
…常軌を逸した反共主義に対して一人でも戦う物語を背景に持っているのだが、保安官を、正義を体現して一人で共産主義と戦うマッカーシー上院議員になぞらえることもできる。つまり保安官は、反共の赤狩りに立ち向かう正義でもあるし、共産主義に立ち向かう正義でもある。恐怖に駆られても一人で正義を維持するために悪に立ち向かうことが重要なのだ。だからそれぞれイデオロギーの異なった大統領が、自分の気持ちを読み込むことができたのだった。
新妻のクエーカーとしての平和主義・非暴力主義は、この映画では悪の暴力との戦いでは通用しない。彼女は最終的には、宗教的信念を捨てて、拳銃の狙いをさだめて一人を撃ち殺す。平和は暴力で守られるという思想である。
…1950年代のアメリカの観客もこの映画を、悪をやっつける自国の戦いを正当化するものとしてみていた。この時期、ソ連は水爆実験を成功させた。
…当時、軍隊そのものが悪なのだということが思想としてよりも感覚として感情として、日本人の心にしみていた。平和憲法はそのような日本人の心情に裏打ちされていた。確固たる日常的信条になっていた。…平和憲法の信念、それを支える日常意識は、絵物語の戦争平和論より圧倒的に強かった。絶対非暴力平和論を内側にもちながら、戦争平和論の物語に喝采をおくるのは、論理的には矛盾のように思えるが、当時の日本人にはアタリマエのことのようだった。
▽151 SNCC(スニック) 公共施設やバス、トイレ、カフェなどで黒人が白人の場所に入り座る、という非暴力直接行動。けがをしても監獄に送り込まれても、やりつづけた。白人の暴力によって、1960年代初めの数年で、活動家20人が白人に殺され…警察官におそわれ、警察犬にかまれ…
…州をまたぐ長距離バスに乗り込み、北部のワシントンから南部の州に向かう「自由乗客運動」
▽157 非暴力直接行動参加者のための訓練マニュアル「どうやって殴られ、蹴られるか。どうやって物理的苦痛に耐えるか」という文書。
▽159 非暴力の直接行動が、南部の人種隔離政策と、それを暗黙のうちに認めるワシントンの連邦政府の政策を変えさせるきっかけを作った。現実の政治で成果を獲得した。「非暴力とは暴力を行わないこと」ではない。暴力に対抗する力であり、暴力を囲む力ともなり、同時に現実の政治として成果をあげる、ということに感動したのだった。
▽163 北爆の時点(1965年)では、日本に空襲があってから20年しかたっていない。(〓そんな近い時代だった!)私は人びとが北爆を自分が爆撃されたときの体験と重ね合わせて感じているのを身近に見ていた。自分の経験と重ね合わせて感じていたからこそ、各地で自発的な北爆反対のデモが始まったのである。それを支える思想的なものは、平和憲法であった。
▽166 ガンジーがイギリスと「言葉だけによる交渉」をしていただけでは、政治の力にはならなかった。直接行動の裏打ちのない非暴力の理念は、政治的な力を持たずタテマエとして棚に飾られる〓〓。9条は棚に飾られた非暴力・平和なのだろうか。
▽168 小田実は加害者意識をその反戦平和論に持ちこんだ。戦争被害者で同時に加害者であるという考え方は、それまでの一国的な受動的な平和論を、インターナショナルな平和論に作りかえた。そこでは9条も、国際的な意味をもつ。
▽172 私は、憲法問題を「決まり文句」を使うのではないやり方で議論すべきだし、「軍と戦争」を単に否定するだけではなくて「軍と戦争」と国家の意味を議論すべきだと考えていたが、その考えを議論しないで否認された。
日本は戦争で他の国の人びとを傷つけ、自分たちも傷ついた。戦後、平和をうったえる戦争放棄の憲法を持った…などという「決まり文句」は何も意味しないと私は考えていた。
私は憲法第9条は、歴史と政治のなかでくりかえし新しい意味づけをされなければならない。運動によって修正されなければならない点と考えていた。しかし平和運動のなかでは憲法改正は禁句であった。
…小田実から学んだ「民主主義はデモなどの政治的非暴力直接行動の助けがあってはじめて機能する」という思想をいまでももっている。非暴力の直接的政治行動なしには、憲法9条は機能しない。9条がそのような直接行動によって、くりかえしつくられつづけることを望んでいるし、それに参加したい。
▽176 ジーンズの普遍性 ジーンズが体現するアメリカの価値とは、労働とその階級を蔑視しない社会、階級が曖昧になっている社会、多人種社会、性差をあまり問題としない社会…それらの諸価値がアメリカのアイコンとしてジーンズに埋め込まれているから、世界の人間はジーンズをはいて「自由」を感じる、ということだろう。
▽178 母ユキコは若い子が振り袖だけで外を歩くのは下品だと言っていた。羽織も和服コートも着ないで、おしりの形があらわに見える姿で街を歩くのは、下品な新ファッションとしか見えなかった。あれではおしり丸出しである、と何度も言っていた。
ましてやジーパンは…性的なことをあらわにしていると思えた。
▽179 女性ズボンは初期はすべて横開きか後ろ開きだった。1950年代に前開き女性用ジーンズを発売したときは抗議が上がった。ブラウスも後ろ開きが多かった。女性が前を開くことは抵抗があったのである。
▽185 女性の軍需工場への大動員が女性の作業着を変えた。デニムのオーバーオール、デニムのジャケット、デニムのズボン(ジーンズ)をはきはじめた。それは工場から外へ広がっていった。それらは従来男の作業着だった。
…ジーンズは、階級差、性差、人種の違い、都市と田舎を飛び越えて着られるようになった。
…日本のもんぺもまた、アメリカとの戦争の間に一般にはかれるようになった。戦前からあったものだが、戦時中に強制された。
▽193 脱走兵支援 自分のことと自分のアパートが読売新聞の社会面トップに。
▽233 アメリカ脱走兵は、国家体制を絶対視しない当時のカウンター・カルチャー(対抗文化)の文脈から出現した。アメリカを訪れた小林泰彦さん「反戦平和運動、学生運動、ヒッピー、マリファナ、麻薬っていう時代だった」
▽244 アメリカの地方紙検索は Newspaper Archive(www.newspaperarchive.com)、日本語のオンライン知識データベースとしては、小学館のJapanKnowledge がきわめて有効だった。
コメント