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東北学 vol.8 飢えの記憶

■東北学 vol.8 飢えの記憶
□いくつもの日本 特別対談
 「ひとつの日本」というスタンスではなく、「いくつもの日本」によって、地域の多様さをとらえる。それによって「ひとつの日本」が陥りがちなナショナリズム的な思考を回避できる。だが「いくつもの日本」とはどう語ればよいのか。
 人間はまとまりを求める意識から自由になれない。ヨコの次元で欲するだけでなく、タテの次元で、われわれはどこからきたのかという起源を求めてしまう。「ひとつの日本」は、それをわかりやすく提供してくれる。
 日本史という「通史」を書くことは、どうしても一つの流れに沿おうとしてしまい、「ひとつの日本」の像しか提示できなくなってしまう。たとえば通史のなかでは、天皇と縄文という折り合いのつくはずのない性質のものが平然と自分たちの起源として並列されてしまう。網野善彦が「日本社会の歴史」で通史として書こうとして失敗したのは、「通史が不可能な時代に僕らが生きている」と赤坂は説く。
 歴史的にみても「ひとつの日本」は古代か近代しかなかったという。
 古代は陸上交通の制度をつくって「日本」を支配しようとした。だが中世にかけて道の制度はあやふやになって海上交通が主流になる。「日本」の境界を線引きできなくなり、マージナルな領域には多国籍的な海賊がうごめく状況になって「ひとつの日本」を貫けるはずがなかった。その欲望を再編し、今度は「欧米」という外部を意識することで、あらためて「ひとつの日本」をつくりださざるを得なかったのが近代であり、そこで交通体系が海運から陸へと劇的に変化した。

 「歴史的には、低平地から山間地に稲作が拡大するにともなって…」という研究者も記述も、「西」のモデルであって、東北ではむしろ山際から平野部に下りていくのが一般的だった。柳田国男は「木綿以前の事」で、近世に木綿が各地に普及したと書いたが、東北では明治以降であることも少なくなく、下北半島では、近代になって、麻から木綿を飛ばして化繊に移った。近世以降ですらひとつの日本というスタンダードが成り立つとは言えないという。
 「いくつもの東北」から「いくつもの日本」へ、さらに「いくつものアジア」へ。国家に仲立ちされずに、列島のどこか地域からアジアに開いていくやり方を鍛えることも提唱する。

□座談・飢饉をめぐる歴史と民俗<野本寛一、菊池勇夫、赤坂憲雄>
 江戸時代の東北地方を襲った大飢饉では数万、数十万単位の人が餓死した。大量の餓死を「年貢の取り立て」だけでは説明できない。
 ある時期から「売るための米作り」「売るための大豆や雑穀」となり、農民生活も市場経済に巻き込まれていく。飢饉はそうした市場経済の恐ろしさを知らない農民の暮らしの大きな変化のなかで起きたと考えられる。
 多様な品種を栽培することでリスクを分散していたのが、売れる品種の米に集中することで飢饉に弱くなる。昭和9年の東北大凶作でも、「福坊主」という品種が全滅した。
 それ以前の時代はリスク分散ができていた可能性があるという。
 沢内村では、昭和16年でも稲に対して、寒さに強いヒエを8割もつくっていた。山間の棚田に、標高差によって、早稲ヒエ、晩生ヒエ、早稲のもち米、晩生のもち米、うるちの早稲、ウルチの晩生…というように数多くの品種を棚田に栽培していた。ところが近世では、農民の主体性や技術を剥奪し、品種の選択の自由が制限された。暮らしの工夫をこえる大きな社会的要因があってはじめて、飢饉のような現象にいたるのだ。

 では沢内村の例のような、昔ながらの飢饉を防ぐ知恵にはどんな例があるのか。
・高知県にはトウモロコシの種を供える祭りがあり、2本以上の種を持ってお参りにいき、帰りには他人が供えためずらしい種を2本もらってくる、という祭り〓(どこ?)
・大井川の中・上流域では「弘法黍」と呼ばれるシコクビエというアフリカのサバンナ原産の雑穀を植えた。石川県では「鴨足」と呼ばれている。土地を選ばず痩せ地に強く、多収穫性で、長期保存に耐える最高度の救荒性をもつ作物。
・静岡県春野町では、アザミの根やオオバコも食べた、という歌が伝わっている。
・鹿児島県の枝手久島の椎の実は飢饉の時の救荒食だったから、ふだんは人が入ってはいけない場所だった。
・和歌山藩では、薪炭林の伐採を規制するかわりに、民衆にカシのみを拾わせる山を貸与した。
・宮崎県椎葉村では、「オーシ」と呼ばれるキツネノカミソリ。毒抜きが必要。
 カズネと呼ばれる葛の根。(フィリピンのクズの取り組みは〓? 兵庫にもあった)
 これらの活用法が椎葉村に今も伝承されているのは、戦中戦後の食糧難の時代にこれらを食べたから(龍神村のナントか芋も?〓)、縄文時代から伝承されてきた採集植物の調理法が伝承された。トチのみのあく抜きや、彼岸花の処理も。
・伊豆七島では、シイのみとテンナンショウとサトイモ。奄美ではシイのみや蘇鉄。
「ソテツ地獄」という言葉を、飢饉でソテツを食べて死ぬことだという説はまちがい。ソテツの実に毒性があり、調理法を間違えるとたいへんなことになるということから命名された。
 奄美では実を毒抜きしてデンプンをとる。今もナリ味噌という味噌の素材に。粟国島では、幹の芯と芯のまわりの「シティク」という樹肉を食べる。
・松の皮、蕨の根、野老 野老は、親指ぐらいの大きさの根で山芋に似た葉の植物。苦い味がする。石川や新潟、岩手、山形には食べる習慣がある。
・ヒガンバナと集落の関係は有薗正一郎さんが研究〓。ヒガンバナは縄文晩期に稲作とセットで揚子江から持ちこまれたという説を出している。
・甘藷の導入で人口が飛躍的に伸びたと宮本常一。トウモロコシや馬鈴薯も同様だが、あまり手をつけられていない。〓
・初島は、近世からずっと戸数は41戸。次男三男は島の外へ出し、島の娘は絶対に外にお嫁に出さない時代があったといわれる。それほど人口制限に気を配った。
 川根町粟原は、27戸だったが、30戸以上になるとムラが亡びるという古老の伝承がある。
(〓能登の上大沢の例)

□生存のミニマムー山菜・鮭・鱒の実験民俗学<赤羽正春>
▽167 単位面積あたりもっともデンプンを大量に生産して国民を養うことができる作物はサツマイモだった。穀物では水稲だった。1反あたり10俵などという記録が当時は国民への大きな希望として語られた。
▽昭和20年の「ササの実」とり。新潟県各地や山形県最上地方で、60年に一度しか実がならないササの実がなり「天の与えた食」と述懐する人もいた。石臼で粉に挽いてパンを作り、飢えをしのいだ。
▽170 ササの実がデンプン質のすぐれた食糧であることを当時の古老が皆に教えたのだが、60年の記憶・伝承というのは半端ではない。命にかかわる実質的な伝承として大切に伝えていたものであろう。(これに比べれば高度成長期前のムラの記憶はまだ残せる〓)
▽175 朝日山麓大井沢ではエゾノリュウキンカを食べている。春一番の菜だった。
…山形県小国町の滝集落 川の対岸にワラビのデンプン山をもつ。ワラビの根掘りは、田仕事が終了してから雪がくるまでの間。根を水車でつきくだき、2臼つくと麻袋に入れてフネに張った水の中に漬けた。一晩漬けることでクロコとシロコが分離して沈殿した。火棚の上に置いて乾かし粉にする。1日2キロ、30日で60キロくらいとれる。団子にしてきなこをつけて食べた。
▽177 奥三面で焼畑を復元して、樹木環境ネットワークが実験。1反からとれたソバの実は13キロ。家族5人で1カ月分のデンプン。

□インタビュー中野美代子「循環するカニバリズム」<六車由美>
▽264 中野の「カニバリズム論」
▽266 中国人は、どんな事物でも記録する。飢饉の中で、食べるものが何もなくて、飢えの果てに人の肉を食ったという記録は、正史にも載っています。とにかく何でも記録する。歴史的文献を見る限り、中国人はカニバリズムという行為に対して、極端な罪悪視はあまりしていない。
▽268 東北のムラでは、獲ったばかりの暖かいクマの血を飲むそうです。
▽270 「猟奇文学館・人肉嗜食」という本のなかに水木しげるさんがニューギニア戦線で日本兵があちこちで人を食う様子を目撃して、後のインタビューで「そういうふうになりますよ。自然に」とこともなげに語っていることを…
▽271「ゆきゆきて、神軍」で、奥崎の剣幕にやられた元戦友が「(人の肉を)確かに食った」と告白してしまう。
▽277 カニバリズムそれ自体も発展していく構造を持って、最初は表皮の肉だけ切り取って、何の肉かわからないように干し肉にして食べる。だんだん、内臓や脳みそも食べ始める。本能的に塩分を補給しなければ、という欲求のせいでもあるらしいですが。
 アンデスの遭難でも、メデューズ号の事件でも、干し肉から出発しているんですね。中国人などは、その料理法を確立していく。「本草綱目」という博物誌の最後は、人肉をどうすれば薬として食することができるかという記述です。
 …熊の狩猟の場合は、猟師がもっともおいしいといって真っ先に食べるのは内臓なんです。
▽278 三島由紀夫も死んで、時代がどんどんおもしろくなくなりましたね。70年代のある時期までは、連合赤軍事件のようなマイナスの力をも含めて、まだ時代が大きく動いているという実感があったけれど、それ以降は何かだらけた、猥雑な、本当は良識も秩序もないんだけど、つまらない秩序や制度が張り巡らされているような社会になった。
…戦前はひじょうに明快だった。体は借り物で、天皇の御為に生き死にするんだと。イスラムでいう聖戦や、すべてを「将軍様」に捧げる北朝鮮と、同じだったんだなと思っていつも見ているんです。神風特攻隊と9・11テロが、現象としてそっくりであったことに息を呑んだけど、国家による戦争とテロはちがうんだということで、その類似性をタブー化しましたね。アメリカ人は、まず素朴に「パール・ハーバー!」と叫んだけれども。特攻隊に涙した小泉首相の9・11直後の第一声は、「こわいねぇ、テロは…」でした。あきれるほどの鈍感さ、ですね。
▽280 六車 村の人々の生活や生業に実際に触れていると、ああ人間は自然と向き合っているうちは大丈夫かなと、思うときがあります。…自分も殺されるかもしれないと感じるという身体感覚をどこかで得られる場所があるというのは社会に可能性があるということなんじゃないかと思っています。
▽ 莫言は、「魯迅の時代時代よりもはるか以前から国民の体質のなかに頑固に生き続けている腐敗」の例として「胎盤を乾燥させたもの」を強精剤として使ったり、「流産した胎児を食用に」したりという「蛮行」を、「現在、権力に飽かして」行う者がいると語っています。魯迅の「狂人日記」や「薬」において提示された人肉や人血という、具体的な「食品」ないし「薬」のリアリティは、中国人のリアリズムにおいては生きつづけているわけです。

□現代人は人肉食から何を読み取ればいいか 「聖体拝領」モデルと「臓器移植モデル」<中村生雄>
▽294 「アンデスの聖餐」で知られることになった1972年のウルグアイ機遭難事故。
 これは聖体拝領だと考えてくれ。われわれが食べているのはキリストの肉と血だと考えるんだ、なぜなら神がわれわれに生きることを望んで、それを食糧としてわれわれに与えたんだから。
 聖体拝領のイメージを流用することで彼らが獲得した確信と断固たる実行力。
▽299 最初、死体のうちの一つの衣類がはぎとられ、ナイフがわりのガラス片で肉が切り取られ、口の中に押し入れられ、飲み込まれた。喉につかえてのみ込めない場合は、雪をすくって押し入れ、流し込んだ。最初の日にためらったものの多くも、次の日は食べることになった。焚き火の燃え残りの熱にかざした肉が、ほんのりと狐色に焦げ、牛肉よりもやわらかく、味もほとんど変わらないほどに美味であることを知るまでに、それほど時間はかからなかった。
 …はじめは直接人体を思わせるから食べられなかった手や足の肉も、骨から削り取ってすべて食べるようになったし、腐りかけた脳みそや内臓も、それがふつうの肉とちがって刺激が強いからと言う理由で好まれた。ガストロノミーの追求がはじまったのである。
▽303 彼らの篤い信仰心と犠牲的精神が国民的英雄としてもてはやされる一方で、彼らが最初に「肉の贈り物」について告白したときに人々や家族が見せた困惑や恐怖の表情は、彼らの心の傷となって残った。
…食べられたものの肉親がいだくそのような感情は、ある新聞に、雪中に転がっている半ば食われた脚などの写真が掲載されると、いっそう深刻なものとなっていった。
▽306 当初は美しい信仰物語であるかに見えた「アンデスの聖餐」を、最終的に崩壊させ、失敗に導いた。

□大凶作・三枚の写真の真実<山下文男>
▽310 南部・盛岡藩では、3,4年に一度は凶作で、16年に一度は飢饉に苦しむという歴史をくりかえしてきた。
 昭和6年の凶作。プロレタリア作家同盟の評論家として凶作地を巡歴した若き日の大宅壮一も、この「飢饉」は、今回の凶作による急進的なものではなく、地主的な搾取など、長年にわたる封建的な搾取形態がそのまま温存され、生産力と文化の発達が著しく遅れたことによって堆積さあれてきた慢性的なものであると指摘。「…地主の子どもを除いて、全校児童が欠食児童のようなもので、昼食をぬくぐらいのことは普通のことであり、別に凶作の今年に限ったことでもない。彼らの窮迫は、昨年の天候不良による急性的なものではなく、ずうっと古い、慢性的なものなのである」
▽313 大根をかじる学童の写真。飢餓の象徴のようにとりあげられたが、よくある風景でしかなかった。「娘身売の場合は当相談所へ御出下さい 伊佐沢村相談所」という掲示板も、身売りを促すものではなく、なんとか堅実な働き先が見つかるよう役場が相談にのります、という善意のものだった。
 「身売り」は、子守奉公や製糸女工などもあったのに、当時のジャーナリズムは醜業婦に売られていくみたいな雰囲気で報道した。
▽321 時の政府は、ひたすら侵略戦争に向かって突っ走り始めていたため、東北大凶作にともなう救農事業も昭和9年の大凶作の年を最後に国庫補助金が打ち切られてしまう。…欠食児童への学校給食も自治体財政の逼迫で長くはつづかなかった。すべては軍事予算の犠牲であった。
 …政府は農山漁村の「経済更生運動」などといった、予算的な負担のともなわない、精神運動に問題を丸投げしてしまう。自力で解決せよというのであった。

□家船の民俗誌 船に住む豊島の漁民<金柄徹>
▽380 1998年現在、広島県豊浜町豊島には310隻の漁船があり、そのうち200隻以上の漁民がいまだに(夫婦が1年中船上ですごす)「船世帯(家船)」生活を送っている。
…豊島漁民の家船生活は伝統的家船の「残存」ではなく、近代以降「新しく形成」された。
…豊島では「夫婦船」「所帯船」などt呼ばれている。
▽386 家船は陸地に水・薪・船木を求めたが、より重要だったのは捕った魚を農家に持っていき穀物と交換する仕事で、女性が担った。麦・栗・サツマイモ・カンコロ、時には味噌・醬油、酒・タバコなども。(交換比率はどう決めたのだろう〓)
…物資の交換だけでなく、風呂や井戸を提供したりしていた。このような関係は家船の人々のあいだでほぼ固定化し、母から娘に受けつがれ…異なる家船集団の間でも、お互いの領域を侵さないことがしきたりになっていた。
…女性の大きな悩みは洗濯。世話になる民家を見つけると、その後も長いつきあいを維持する。
▽390 彼らは陸地に根拠を求めているとはいうものの、彼らは常に陸地とある程度の距離を保ちながら独自の世界を築いてきた。優勢な陸地権力に対するつかず離れず的な(交換)関係は世界の家船民に一般的に見られる。

□栽培作物の基層と上層ーササゲの民俗をめぐって<岸本誠司>
▽392 縄文時代から、栽培種に近いアズキがあったことがわかってきた。
▽394 ササゲは、サハラ南部のサバンナ地帯で生まれた。乾燥や日陰に強く栄養分が少ない貧弱な土地でも窒素同化をおこなう能力がある。サバンナ農耕文化起源で日本に伝播したものには、ササゲのほか、シコクビエ、モロコシ(タカキビ)がある。
…ササゲはソバよりもさらに栽培期間が短い。「ソバは75日の晩飯に間に合い、ササゲは65日の昼飯に間に合う作物だ」
▽396 アズキとササゲは区別がつかないほどよく似ている。コンビニの赤飯に使われる豆は、アズキではなくササゲがほとんど〓。

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