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魂を撮ろう ユージン・スミスとアイリーンの水俣<石井妙子>

■文藝春秋20220918

 アイリーンはアメリカ人の父とお嬢さん育ちの母のあいだで生まれたが両親とも離婚し再婚した。居場所を失って米国の祖父母の家で育った。
 ユージンは幼いころに母にカメラをあたえられ、絵画をたしなんで写真を「絵」としてつくりこむことをおぼえる。必要とおもう女性がいると「いっしょにいて」と懇願する。生来の人たらしで次々に恋人をつくる。写真では圧倒的な実力があり、人なつこくてだれにも好かれるけれど人間としてはどこかが欠落し、ひとりでは生きていけない人だった。
 サイパンをへて沖縄戦へ。そこで重傷を負う。その後は固形物を食べられなくなる。
 1970年、50歳のユージンは、日本企業の通訳でおとずれた20歳の大学生アイリーンと出会う。
 ユージンは写真展の作業の手伝いをもとめ、欠落をかかえた若いアイリーンをからめとり、「一緒に水俣に行き、結婚して、一緒に写真を撮ろう」となった。
 水俣の撮影は3カ月の予定だったが3年になる。
 ユージンは、固形物を食べられず、牛乳やジュースだけ。毎日ウイスキー1瓶をあけ、薬物に依存していた。締め切りを守ることも、アイリーンの助けなしにはできなかった。
 ユージンは日本語はできないのに、患者さんの家でも自然に溶け込んだ。胎児性患者の田中実子さんの写真をたくさん撮ったが、「少しも撮れてない。そこには実子ちゃんの苦悩が少しも写ってないじゃないか」と泣きながら苦悶した。被写体に対して徹底的に誠実だった。上村智子さんの入浴そんなユージンだから撮影できた、ということがよくわかる。

 ユージンは治療のためアメリカに帰国して新たな恋人をつくった。アイリーンは、写真集「MINAMATA」ができるまでは「妻」として協力したが、その後わかれた。
 水俣の写真はユージンの撮ったものをふくめてアイリーンが共同で著作権をもつこととして1978年い離婚し、その年の10月15日に59歳でユージンは死去した。

 水俣病を象徴する「入浴する智子と母」の写真は、1990年代後半、被写体の上村夫妻から「写真の公開を控えて欲しい」ともとめられた。
 著作権をもつアイリーンは、上村夫妻に、新たな展示、出版をおこないと約束した。アイリーンがユージンの傑作を封じたと、国内外で非難の嵐がおきた。
 ところが、ジョニー・デップのハリウッド映画「MINAMATA」(2021)の作中でアイリーンはこの写真の使用を許可した。上村家に事前の相談はなかった。

 製塩業が中心だったムラがチッソの城下町になり、水俣病を生みだし、それを隠蔽する。「見舞金」という名のはした金でまずしい患者や漁民をごまかし、「今後、排水が原因とわかってもそれ以上の補償はもとめない」という念書にサインさせる。証拠があきらかになると、国と結託して補償をたたく。抵抗するグループを接待で切り崩していく……
 チッソの幹部でも、嶋田社長は患者に共感していた。会議室に数十時間もとじこめられたが、、彼の子どもが「あの川本という男はひどすぎるっ」というと「川本さん、と言いなさい」とたしなめた。「自然人としての嶋田が、心情的に考える金額は、会社の支払い能力をはなれたものにならざるを得ない。支払われる金額は国民の血税から支払われることになるので、私企業の責任者である自分が決めうる権限があるのか、逡巡している」と告白していた。
 賠償をえることによって、水俣ではにわかに建築ブームがおきた。症状があるのを頑強に否定してきた漁師たちが「権利」の前についに申請する。それをみてユージンたちは「悲しくなる。私たちはうろたえる」と記した。
 この本の筆者は、そうした水俣の表も裏も丁寧に記録していく。

 写真の腕は抜群だけど、人間的には欠落していて、女性を遍歴したユージンの姿や、差別やいじめをふくめた水俣の等身大の姿を丁寧にえがいている。ユージンスミスの人生だけでなく、水俣の歴史を知るにもぴったりだった。
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▽64「彼は多くの人を自分の人生に巻き込んでいった。私もその一人だった。20歳で彼に出会い、翌年には結婚して水俣で暮らしていた」
▽74 第二次大戦がはじまると、名のある写真家は欧州大陸に向かった。そのため国内の話題を撮る写真家が手薄になりユージンは「ライフ」の専属カメラマンになるという幸運をつかむ。
……戦争で、……「ライフ」は週刊で400万部という世界最大のニュース雑誌になる。
▽76 21歳のカルメンとであう。が、母に逆らえない。写真は母との共同作業。……
▽83 サイパンへ。敵である日本人を自分の家族だと思っていた。
▽86 写真家は戦場で厚遇された。メディアの論調ははっきりしていた。この正義のたたかいをたたえ、アメリカの正義を力強く主張することにつきた。
▽87 「東京を爆撃し、民間人の家を焼き払う」という作戦が発表されたとき、米軍のパイロットたちは皆、驚いていた。ユージンはさらに激しく憤慨した。東京にむかう戦闘機に同乗したが、あまり撮れなかった。後に人生最悪の経験だ、と語っている。
▽90 沖縄戦 砲弾が目の前で炸裂。構えていたカメラが爆風で粉々に。砲弾の破片はユージンの口の中を抜けて背中や首に刺さってとまった。眼鏡の破片は目に刺さり、口の中の上顎も吹き飛んだ。左手の人差し指はちぎれて、皮一枚でぶらさがっていた……
 口の中を負傷して入れ歯になり固形物は食べられず、発話もできなかった……
▽97 黒人の助産婦の日常……無名の黒人女性を被写体にすることが、(差別で)考えられないことだった。「人間としてどこにちがいがあるというのか、この尊い生命の誕生を見よ。ちっぽけの偏見なんか、ふっとばしてやる」というユージンの強い思いがあったと思う。……アイリーンはいう。
▽98 若い女性写真家マージェリー・ルイスに家庭の悩みを打ち明けているうちに恋人関係に。
▽100 ユージンの才能のひとつは、人が何者であるかを正確に見ぬいて、その人を自分の目的のために使うことにあった。ユージンは私のヒーローだったけれど、同時に人を利用するろくでなしでもあったわけです(キャロルの証言)
▽106 キャロルに去られてユージンは重いうつ病に。手紙をもらっただけの女子大生に、いきなり電話で自分との結婚を提案したりした。……ロフトにやってくる若い女性に次々と交際を申し込んだ。
▽111 1970年。電通の関係者とアイリーンはユージンを訪問。
▽118 展覧会の準備を手伝ってくれないか。→ロフトに泊まる。「君がいなくなったら死ぬ」とユージンから言われた。…
▽132 「一緒に水俣に行き、結婚して、一緒に写真を撮ろう」。
 水俣の話が出て来なかったら、私とユージンは写真展のあとに別れていたと思う。……水俣の話は、ユージンのアシスタントではなくて、私も一緒にやる仕事だと言われたことが大きかった。
▽142 石川武志。寝台列車に見送りにきたらユージンに羽交い締めにされ、そのまま水俣へ。3人で暮らす
▽146 【水俣史】明治以降の移住者は「なぐれ」、流れてきたものとよばれた。とりわけ天草からのなぐれがおおかった。水俣の唯一の産業は製塩。だが日露戦争による財政赤字を補填するため1905年に政府は塩の専売制を施行。水俣の製塩事業にも終止符がうたれる。34町2反(10万3000坪)を超える塩田跡地がのこされた。塩分のしみこんだ土地は耕地にはできない。これもチッソをまねく一因に。
 もうひとつの主要産業は運搬業。水俣の港に陸揚げされた石炭を荷馬車で鹿児島県下の金山にはこんでいく。ところが、曽木発電所という水力発電がつくられ、石炭がいらなくなる。運搬労働者は仕事を失った。
 曾木発電所を設立したのが野口遵。のちのチッソの操業者。電力を活用する工場をつくりたいと考え、水俣に工場がきた。工場が大きくなると、漁民たちも移住してきた。
▽150 陸の孤島だった水俣に1926年、鹿児島本線が開通。水俣駅は工場の前にできた。
▽152 工場廃水による被害 漁民たちは1926年補償を要求。日窒ははしがたがねの1500円を「見舞金」として漁協に払い、「この問題に対して、永久に苦情を申し出ざることとして多年の物議解決したり」と書いた証書にサインするよう漁協にせまった。
▽153 1936年、日窒は創立30周年。水俣市は県下で熊本市につづく2番めの市に。
▽155 朝鮮進出と敗戦。会社の資産としてのこされたのは水俣工場と延岡工場のみ、その後、延岡工場は分社化され、旭化成に。
 食糧難の解決のため、GHQの指導で硫安の生産が水俣工場ですすめられた。1949年からは化学肥料にかわって塩化ビニール、アセトアルデヒド、オクタノールが主力製品に。朝鮮戦争がはじまると、ふたたびトップクラスの化学工場となっていった。65年に日窒からチッソに社名変更。
▽163 百間口から南の、海に近い集落、月浦、出月、坪谷、湯堂、茂道といった集落に患者が多発。水俣病発見のきっかけとなった田中姉妹(しず子、実子)の家も坪谷。
▽169 熊大「工場排水が原因の可能性」と1956年に発表。
▽171 プラスチックや塩化ビニールの加工には、可塑剤として、アセトアルデヒドが不可欠で、それを一手に引き受けていたのがチッソ水俣工場。国内シェアの4分の1から3分の1。さらにチッソはオクタノール製造に成功。1959年には国内生産の85%を水俣工場が独占した。
石油化学工業化を推進する通産省の指導でチッソは丸善石油とくみ、千葉県の五井に石油コンビナートをつくることがきまっていた。その資金を得るため、水俣工場は最後までフル稼働でうごかされた。
▽172 1957年には熊大研究班は「水俣湾の漁獲を禁じる必要がある」と提言。県と国は「食品衛生法は原因がはっきりとしないかぎり適用できない」と拒否。
 県が厚生省に照会すると「特定地域の魚介類のすべてが有毒化しているという明らかな根拠が認められない限り、食品衛生法は適用できない」と厚生省公衆衛生局長が回答。
▽176 排水口をひっそりと百間口から水俣川河口に。百間口にもどし、サイクレーターを設置するよう通産省通達。
▽178 1959年、猫「400号」実験。会社は実験中止を命じて、結果を隠蔽。……権威ある学者たちは熊大の有機水銀説を糾弾。「水俣病の原因は旧日本海軍が湾内に捨てた爆薬」
▽183 患者家庭互助会 補償を求めた。チッソは「自分たちとは無関係だが、気の毒なので『隣人愛』として、医療機関に水俣病と認定された人に対しては見舞金をだす」。額は死者弔慰金30万円と葬祭料2万円、成人患者年金10万円……あまりに安い。成人と未成人の格差も。……追い詰められた患者は「見舞金」を受け入れた。この契約書には「将来、水俣病が工場排水に起因すると決定した場合においても、新たな補償金の要求は一切行わないものとする」という条項があった。
▽186 さまざまな工作や隠蔽によって1959年をもって、原因が究明が尽くされないまま地元では「解決したこと」になってしまった。以後は病人が出ても、本人や周囲が隠そうとし……
▽188 熊大は研究をつづけるが、厚生省は熊大医学部への研究費を減額。
……多発地帯の子どもに小児麻痺が異常に多いことに早い段階で気づいていた。……1955年ごろから、流産や小児麻痺が増えている。
……当時は常識として「胎盤は毒を通さない」と固く信じられていた。強い毒なら、母体に先に症状が出ていなければおかしい、と。
……亡くなった子どもの脳から水銀が検出され……1962年に胎児性患者が認定。
▽192 チッソの労働争議後、第一組合は患者組織と結束。……漁民採用された佐藤武春や川本輝夫も。
▽197 新潟水俣病訴訟。
……熊大医学部がチッソの有機水銀が原因であると発表しながら、国はなにもせず、チッソも排水を流しつづけた。1956年の公式確認から12年をへて、水俣病の原因がようやく国に認められた。
▽200 厚生省は白紙委任状が調停の条件だと患者をゆさぶる。
 「一任派」と「訴訟派」のふたつに患者家庭互助会は分裂。一任派の患者家族にはチッソと市役所が応援についた。
▽1969年6月、訴訟に。支援市民団体「水俣病を告発する会」が熊本市で結成。
 ……一任派の補償額は死者で最高400万円。国を信頼した結果、足もとを見られた。
▽206 1970年、元付属病院長の細川一への尋問。がんの末期だった。工場の過失を証言した。尋問から3カ月後、細川は亡くなる。
▽208 株主になって株主総会へ。
▽223 川本 自分のように申請を申し込んではねられた人たちが大勢いるのではないか。仕事が終わると毎晩のように……否定された人を探し出し、家を訪ねて「もう一度、いっしょに再申請しよう」と呼びかけてまわった。……どう見ても水俣病としか思えない人がたくさんいる。「水俣病だろうから、申請してみんね」と声をかけた。川本にいわれて気づく人が大半だった。……
 1969年、訴訟派が提訴した日、川本たち6人は「認定促進の会」をたちあげた。……新たに認定された患者たちは、被害者自身が加害者であるチッソと直接交渉するべきだと考えた。「この世の常識にしたがって、まず話し合いをつづけ、どうしても合意しないときに、はじめて裁判を起こすなり、第3者機関に調停でも斡旋でも依頼するのが常道というものではないか」……自主交渉の道をえらぶ。
(久我正一常務、の名がこのときにでてくる。87年に何度も見た)
▽228 ユージン ウイスキー、リタリン、牛乳、それなかったら生きていけなかった。
……私たちが住みついた1971年当時は魚は大丈夫と言われていたので、もらった魚を食べた。ところが73年に第3次水俣病の騒ぎがおきると、水俣湾の一部では漁獲が禁止されて、魚は食べられなくなった。
▽231 ユージンは大きな身体で患者さんの部屋にはいっていく。でも「入ってきました」という感じがない。彼は日本語をひとことも覚えなかった。……でも彼には、アメリカ人独特のエゴがなかった。だから溶け込めたし、受け入れられたんだと思う。
▽235 嶋田社長は、これまでの社長たちとちがって逃げずに対応した。誠意があり……
▽246 上村智子さんと母の入浴写真 「水俣のピエタ」といわれ、ミケランジェロのピエタ像と比較されることになる。
▽252 五井工場でユージンが襲われ重傷。チッソは「ユージン・スミス氏は勝手に転んだのであり・・」といって「カメラは賠償します。治療代も出しましょう。そのかわり告訴はしないでください」。
 千葉県警は労働者数人を書類送検したが不起訴に。
……退院しても回復せず、痛みに転げ回っていた。
▽255 チッソは、自主交渉派の人たちを温泉旅行に連れ出す。料理屋に連れ出す。酒とごちそうをふるまう。……
▽256 実子の写真をたくさん撮ったが、納得できない。「少しも撮れてない。そこには実子ちゃんの苦悩が少しも写ってないじゃないか」……床に転がって床を拳でたたき、泣き出した。「ジツコちゃーん、ジツコちゃーん、私の写真にはあなたの苦悩が少しも写っていない」
▽275 自主交渉派の人々を温泉や料理屋で接待し、次々と寝返らせていた。ついに自主交渉派は12人となり、新認定患者の大半を占める130人が……調停派に入ってしまった。
……川本自身にたいする誹謗中傷も増し、心身の限界を迎えつつあった。唯一の希望は翌年春にだされる訴訟派の判決……
……ところが委任状が偽造されていたことに川本は気づく。
……文書偽造スキャンダルが致命的に。判決前に低額の補償額を明示して、調停は患者と契約をむすんでしまうという流れは完全に潰えた。
▽279 判決の日 傍聴券をめぐって、告発する会と共産党組織、民青が対立して争うという一幕も。
▽289 嶋田社長の葛藤。会議室に数十時間もとじこめられ、夜もほとんど眠らせてもらえずにいる
……連日にわたって患者たちにこづかれる父の姿をテレビで見た彼の子どもたちは憔悴しきった父親に駆けより叫んだ。「あの川本という男はひどすぎるっ」すると嶋田は子どもたちをたしなめた。「川本さん、と言いなさい」
「自然人としての嶋田が、心情的に考える金額は、会社の支払い能力をはなれたものにならざるを得ない。支払われる金額は国民の血税から支払われることになるので、私企業の責任者である自分が決めうる権限があるのか、逡巡している」。「自然人」として、患者たちに深く同情していると告白したのである。
▽303 水俣の村々は、にわかに建築ブームに……アイリーンとユージンはこうした変化もしっかりと見ていた。「1800万円の声はどこの部落にも響きわたる。強情にも症状があるのを否定してきた多くのものが、その金の約束の前には、ついに折れる野田。頑固な漁師が水俣の魚の評判を気にして自分は水俣病ではないと協力にいいはるのより、折れて権利をとるのを見るほうが、悲しくなる。私たちはうろたえる」(写真集 水俣)
▽307 治療のため帰国。あたらしい女性 写真家志望
▽314 写真集MINAMATA 過去の人だったユージンはふたたび脚光をあびた。だが最後のスポットライトだった。写真集のキャンペーンがおわると、ユージンとアイリーンは別の途を歩むことに。
▽318 プリント250枚の所有権、水俣の写真はユージンの撮ったものをふくめてアイリーンが共同で著作権をもつかたちに。1978年離婚。最後にユージンを見舞った。 
1978年10月15日死去。59歳。
▽323 アイリーンはその後2度結婚して子どももできたが、いずれも短く終わった。「ユージンとの結婚生活が一番、私は自由で、やりたい放題だった。私には普通の主婦がどういうものか、普通の親子がどういうものか見る機会がなくて、よくわからなかった」
▽326 トモコさんの写真。「入浴する智子と母」 上村夫妻から1990年代後半、「写真の公開を控えて欲しい」と要望。
……「あれだけ報道されるとお金がだいぶもうかるでしょうね」などという話が私たちの耳に入ってきました。……私は亡き智子にゆっくりやすませてやりたい。そんな気持ちがつのってまいりました」
▽330 1996年9月から10月「水俣・東京展」
▽331 アイリーンは、写真に関する決定権は夫妻に帰属するとし、上村との間で「誓約書」を交わした。「1998年6月7日、私は上村さんのご両親と会い、この写真の新たな展示、出版をおこないことを約束しました」と書かれている。
……アイリーンがユージンの傑作を封じてしまったというニュースがつたわると、非難の嵐がおきる。……
▽335 ところが、ジョニー・デップのハリウッド映画「MINAMATA」(2021)の作中でこの写真の使用を許可した。上村家に事前の相談はなくアイリーンの独断だった。
▽340 現在、水俣工場の正門にはチッソという文字はなく「JNC]と刻まれている。……会社自ら社名の変更を強く望んできたものの、被害者から、強い反対を受け、長く果たせずに来た。だが2011年に、彼らは念願の分社化とともに、社名を変更する許可を国から得るのである。
……一方では、水俣病の病名変更をもとめる声も、くすぶりつづけている。……批判の矛先は、今でも加害者ではなく、補償金を受け取った被害者に向けられがちだ。

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