■新聞記者の詩<本田靖春>潮文庫 20100930
大新聞はマンモスだ。大きくなりすぎてあちこちに配慮する結果、無難な記事しかなくなり、読者からどんどん離れる。マンモスが滅亡したように、大新聞は滅亡するしかないのではないか、と著者は考える。そんななか、黒田清の率いる大阪読売だけは異彩を放っていた。
大型連載に記者個人が登場し、反響を記事内に折り込む。
「窓」は単なる投稿欄ではなく、投稿内容を織り込みながら、記者の思いも伝え、記者と読者、読者同士のキャッチボールの場になっている。載せきれない投稿は「総集編」という別刷りにする。読者から花の種が送られてくれば育てる人を募り、募金が寄せられると福祉施設や困っている人に配分する。
まさに「マスコミのなかのミニコミ」だった。そういうあり方でマンモス病を克服していた。
「戦争展」も社会部記者の手作りだった。
だが、この本ができて何年もせずに大阪読売の黒田軍団は東京の権力によって崩壊させられる。
黒田清という異才がいたからこそなりたっていた。戦後民主主義の最後の徒花だったともいえるかもしれない。でも彼の取り組みは、新たなメディアのあり方を考えるうえで貴重な示唆を与えてくれるはずだ。
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▽25 連載「民主主義」オッパイ教育論 初乳を飲むか否かは一生の問題……おっぱいを飲ませるコーナーを万博会場につくれと山内博士が提唱したが、実現せず。海洋博でも……主婦の団体が「オッパイコーナーを」と国鉄に働きかけている……
▽30 記者のやりとりも、舞台裏も、読者からの投稿もおりまぜて、平易な語り口で関西弁で書く連載。
▽33 客観報道が無気力な新聞記者の恰好の口実となって、読者の知る権利をせばめている現実を見ておかなければならない。
▽34 新聞記者主導型のニュースというのが必要だと思うんですよね。(官庁主導型の反対)
▽37 大型連載中止→ふつうの投稿欄は読者からの一方通行。それと異なる、記者と読者の双方から風が吹き通る「窓」に。千字。日曜だけは2千字の「大窓」
▽43 「窓」は、「豊かな社会」に取り残された社会的弱者に向かって、心の「駆け込み寺」の役割も果たしている。「地の塩基金」から10万円を贈ろう。
▽45 窓総集編の別刷りを投稿者に配る。3千部。出した手紙はかならず活字になって返ってくる。……〓社会部は読者への通信に往復はがきを用いている。「ご感想をどしどしお寄せ下さい」と。
▽48 千円とかボールペンとかの謝礼は意味がないと思う。だから、身障児の親にはねむの木学園の本をあげるとか……
▽55
▽63 交通事故で子を失った読者からの手紙。便せん6枚。すべて紹介しよう!
▽72 窓が素晴らしいのは、コラムの中に読者の手紙と、それに対する記者さんの合いの手……反応がすごくあたたくって……
▽85 亡くなった松子ばあちゃん……
▽105 江口さんの「地の塩の箱」 わずかなカネを入れに行くと、浮浪者が待ち受けており、さっと取る。独り占めする。それでもカネを入れ続けた。そして2年目、その浮浪社はかつての研ぎ師の仕事に戻り立ち直った。
▽120 「小さくっても幸せな家庭を守るため」新聞をつくる。……部落問題
▽129 いわれない仕打ちなんてくそくらえ、吹っ飛ばしてやる、と白い息をはずませながら……。がんばれよ、負けるなよ。
黒田の語りかけが、読者の心の扉を開いて、無告の民の紙面参加を促し……
▽142 引き込まれるように読んでいるうちに、自分にも書けそうな気がしてきて、気軽にペンをとってしまう。「窓」独特の持ち味。
▽144 (部落問題)誕生会に来てくれない息子の友人「お母さんが行ったらあかんという」と。1人の母親の悲しみと苦しみを吸い上げ、公憤に広げた。
▽150 「体験的新聞学」昭和51年 巨大新聞は部数の増大につれて、記者と個々の読者の距離が開いていき、民衆の中にあるべき新聞が遠い存在になってしまった。
▽152 大新聞は、マンモスが滅亡に向かったように、不可逆的に衰弱への道をたどるのではないか。
大阪読売は、例外的に、草の根メディアへの志向性を強め、そこに生き残りの可能性をうかがわせる。
▽173 正力松太郎によって読売復権。
▽174 昭和17年、新聞の整理統合。昭和12年までは全国で1200の日刊紙が発行されていた。
▽181 台風の最中、交換台が社会部から情報を仕入れて、読者に伝えた。大新聞の医者は、大部数をマスでとらえ、個々の読者を忘れがちである。「自前」の読者1人1人を大切にする気風。
▽191 変わり者が多かった玉石混淆の大阪読売。基礎が固まるにつれて、だめになっていく。次に要求されるのは組織化されたチームワーク。
▽212
▽218 記者が私的な犠牲を自身に強いれば強いるほど、国民は安寧を約束されるという基本原理は動かない。若狭氏「ぼくは、遊軍連中をかたきにしてたんですよね。軟弱なやっこさん連中をね。夜回りも朝駆けもせんと、一つのネタを何日もかけて書きよると」
今や遊軍の半数以上は府警ボックスの出身者で占められている。大事件は府警と遊軍の連携でされるようになった。「とばくゲーム機汚職」
▽225 「戦争」企画を考える飲み屋の情景から書き始める。……都市圏版ではじめた。社内の記事審査の対象からはずされているから実験的なことができる、と考えた。(〓地方版のよさ)
▽224 「戦争」記者が自ら体験した戦争を書き継ぐ。やがて読者も参加して、記者が語る部分とからみあいながら連載はすすむ。58年6月現在2213回。
▽235 戦争展 「帰りは、年寄りが立ってはったら、かならず席を譲るだろうと思うんですわ。ものすごうやさしくなって帰って行きはる。それから、家へ帰って、子供たちや家族に戦争展の話をしたという手紙は、ものすごく多いんですよ」
▽237 少女の写真。その人が戦争展に来る。それを特報する。
▽241 旧日本兵の捜索。他者は公式発表を待つだけ。大阪読売は、奥地に前線基地を設け、ジャングルに分け入って捜索。現地人の捜索チームを独自に編成した。黒田氏は「いわゆる事件に強い記者たちを集中的に特派した」
▽249 ねむの木学園の展覧会を支援。……戦後の革新運動の低迷の原因は……とかく理屈に走って、人びとを感性の面でひきつけられなかったところに大きな弱点があったように思われる。黒田氏は……
▽筑紫哲也の解説 黒田軍団の崩壊を予見しているかのように「ひとつだけ疑問がある。本田さんが見切りをつけた読売とこの黒田さんたちの読売との関係、さらにいえば大状況と小状況との関係である。……矛盾を感じるのは、朝日にいる私の「意地悪な視線」のせいだろうか」
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