■評伝今西錦司 <本田靖春> 講談社文庫 20101003
今西の最晩年に京都で同じ空気を吸っていた。講演会の立て看も見たことがあるような気がする。懐かしい空気のその源流を解き明かされたようだ。本田氏が病気だったこともあり、「不当逮捕」や「誘拐報道」ほどの躍動感はないが、知っているようで知らない今西錦司の生き様を立体的に浮き上がらせている。
西陣織の有数の織元でおぼっちゃんとして育った。中学から三高の同級生や後輩に桑原武夫や西堀栄三郎や四手井綱英がいて、後輩には中尾佐助や梅棹忠夫、伊谷純一郎、河合雅雄らがいる。京都の狭いコミュニティからきら星のような人材が輩出された。
中学時代に登山を覚え、本格的に登山をはじめ、処女峰がなくなるなか、バリエーションルートの初登頂を目的とする登山界のあり方を批判し、「パイオニアワーク」を掲げて「探検」に力を入れる。大興安嶺の縦断は世界的に見ても、地理的空白を埋めるという意味で、最後の古典的探検だった。
戦後はマナスル登頂の音頭をとり、弟子の伊谷らとともにサル学をつくる。人間以外に「社会」や「文化」を認めようとしない西洋の動物学への強烈な反証となった。
ダーウィンの進化論を批判し、自然界の調和と棲み分けによって進化を説明する今西進化論を唱え、最終的には分析的・要素還元的な自然科学そのものを否定して「自然学」を唱える。「おれの自然学はおれを見てくれというてね。…(口では説明できん)…ぼくの自然学は宗教に近いな」となっていく。
この歩みは自然農法家の福岡正信とそっくりだ。福岡は、要素還元型の農業を徹底して研究したうえで、そういう分析的な専門知は無意味だと断じ、全体を見て感じて、自然と一体となるというある種宗教的なものを大切にした。今西も福岡もこうして「科学」を否定したことで、主流派から異端児扱いされるようになった。今西や福岡のような思想は、構造主義以降に少しずつ見直されつつあるという。
分別知の蛸壺化によって文明の危機が訪れた今の時代こそ、今西的な「自然学」が求められるのではないかと思った。
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▽11 1500山1985年に成就。
▽23 天保の改革で絹織物が禁止されると、絹と木綿の交織品をつくる。品質低下を補うため、染色を鮮やかにする。それも禁じられると、木綿と麻の交織品をつくりだす。禁止絹令は西陣織の技術の向上を促した。
明治の遷都で失意。フランスに織工を派遣して、最新式の機の購入と技術習得にあたらせ、ジャガードを導入する。
▽65 西堀栄三郎 雪山賛歌は1番だけが西堀。 四手井、桑原武夫も同級生
▽ 梅棹、川喜多は後輩
▽130 大興安嶺の探検時40歳。今西美学 自分がきにいらないとテントも何度もはりなおさせる。説明はしない。「あかん」のひとこと。
▽163 西北研究所 探検や山登りのためなら、軍とでも手を結ぶ、と桑原に言う。桑原は反軍思想だったが。
▽169 中尾佐助 「町人精神」を共有。「町人にいちばん求められているのは自活する精神なんです。自分の働きで家族を食わせ、親戚にほどほどの援助をし、……それができたら、あとは余った金を何に使って遊んでもいい」「ところが武士道では、殿様が禄を与えて食わせてくれるのは当然だ、と。人民の税金の分け前をもらって暮らしながら、人民を助けてやるのが自分たちの義務だ、と。」
▽179 新しい「遊牧論」。従来説は、農耕生活者が家畜化した羊や馬を連れ出したところから遊牧が始まったとしているのに対し、羊や馬は野生状態のときから一定地域内を遊動しており、そこへ入りこんだ人間がそれらの動物と共生するために遊動するようになったのが遊牧のはじまり、と考えた。
▽187 敗戦。日本人だけがあわてふためき、逃げてゆく。ついこのあいだまで指導民族をもって任じていた日本人であるだけに、この態度は、いかにも見苦しいものであった。▽206 もしこのままの籠の鳥で暮らしていたら、もう一度海外へ出られるときがきても、飛ぶ力が衰えてもはやはねの用をしなくなるのではないか。だから国内にいても毎年一度や二度はできるだけ遠いところへ出かけるくせをつけておいて、いざというとき億劫がらずにすぐ飛び出せる用意をしておこうと考えた。
▽213 西欧では、社会とか文化といった現象は人間特有とだれもが信じて疑わなかった。……今西の動物社会学。馬から鹿、その後、伊谷がサルへ。
▽222 欧米ではキリスト教の影響もあって動物を人間と同列に扱いたがらない。したがって、野生動物に人間並の個性を認めるという発想を持ち得なかった。日本のサル学の発展は、ニホンザルの餌付けの成功と、個体識別採用を抜きにして語ることはできない。
▽265 本多勝一の今西像 腹黒さと冷酷さが今西氏の特徴。だが今西のことは「好きですね」「彼の親分としての偉さの一つは、差別的でないということだろうね。桑原武夫なんて、ひどい差別的なんだよ。信州の田舎から出て行った奴なんて、はじめから馬鹿にしているわけなんだよ。今西は、無能な奴はまったく相手にしないし、田舎者でも、有能だと思ったら引き立てようとする」
探検部創設。しかし今西の横やりで団結力がなくなった。
▽281 今西は類人猿の研究を通じて人類社会の起源を解き明かす手がかりが得られるのではないか、という期待を抱いていた。だが類人猿と人類の距離はあまりにも遠かった。その過程で、今西の関心はサル学から進化論に移っていった。
▽315 1970年ごろから、山行から帰るたびに20万分の1の地図に自分の通った跡を赤線で入れるようになった。それが、登山という行為そのものより、地図に赤線で描きだされる模様の「美的価値」の方が、今西にとっては大切になっていく(やればおもろいかも)
▽327 北部大興安嶺縦断は、世界的に見ても、地理的空白地帯を埋める大きな仕事だった。パイオニアワークを、古典的探検の時代の最末期に果たすことができた。
敗戦後、マナスルがあり、カラコルム・ヒンズークシがあってアフリカが最後の学術調査となった。その軌跡は、探検家の志を薄めていく道程でもあった。探検家をやめた今西にはもはや陰謀も冷酷さも必要ない。毒素の抜けた今西は、くだけた人柄という好印象でマスコミに迎えられた。
▽354 「自然学」 今西進化論は一時否定されたが、「構造主義生物学」の池田清彦氏らによって復権する。
……88年2月に倒れ、4年4カ月入院し92年に死去。
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