■本田靖春 戦後を追い続けたジャーナリスト 河出書房 20100924
佐野眞一や魚住昭、五木寛之、黒田清らのジャーナリストや作家らが本田氏を振り返る。また、生前の対談や遺稿などをまとめている。
ノンフィクションライターという分野をつくった先駆者である。と同時に最後まで社会部記者の誇りを持ち続けた人だった。戦争と高度成長の狭間にあった「戦後」という時代にこだわり、その原点を忘れてはならない、と問い続けた。
ギャンブル好きで女好きで、思ったことはすぐ口にする「ガキっぽい性格」で。「社会に対して何をやってきたかっていうことが、まず第一義的に問われなきゃいけませんね。どういう熱いものが内側にあるのか、何をしようとしているのか。一人一人がまずそいつを問うてもらいたい」と現役新聞記者たちに突きつける。
--ジャーナリズムはまず精神的なやせ細りがきて、その後に土台の経済的なやせ細りがきた。……この二重のやせ細りの中、自分たち自身が難民化しているからこそ、見えてくるものがあると思う。安穏とした立場からは見えないものを書いていく。そこから自分たちの活動する場を作り直していかなければいけない--というのは本のなかにでてきただれかの発言だが、「お仲間たちは、痛い目に遭わないとわからない」と不況が深まることをむしろ歓迎した本田氏の思いと重なる。
危機だからこそ、見えてくるものがある。絶望の闇が深まるほど「次」が見えてくる可能性もでてくる。でもそれを見るためには、鋭敏な感性と独立心を研ぎ澄ませておかなくてはならない。厳しい遺言だなあと思う。
黒田清や斎藤茂男、本多勝一、鎌田慧……そういう人の本を読んだ感想を横に並べたらなにか見えてこないかなあと思う。
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□ 佐野眞一×吉見俊哉
▽2 第一世代が大宅壮一や草柳大蔵。次が本田靖春、柳田邦男、立花隆、澤地久枝。4人に共通しているのは新聞や雑誌から独立したこと。……一昨年から雑誌がバタバタと潰れて、骨太の作品を書ける雑誌がなくなってしまった。今の雑誌の目次を見ても、散々テレビで言われていたことの出しがらで、評論誌になっている。足を使った調査報道がなくなった。
▽5 吉見さんの「親米と反米」のなかで、戦後と言うけれども高度経済成長までは戦時体制だったとありましたが、まったくそう思う。戦時体制と60年代の高度成長はつながっている。満州のグランドデザインを描いた岸信介が、高度成長の要となる安保を推進した立役者ですから。
1945から50年代半ばまでは、戦時の総力戦体制にも、高度成長にも、どちらにも帰属させられてしまうものではなかった。そこに本田さんは戦後の可能性を見ている。あの時代の一瞬の青空感を見事にすくい取っている。
▽6 震災で宙づりになったバスの運転手がその写真を撮る。「人間というのは奇妙なことをする動物だよね」「それから人間は記録する動物だよね」
▽10 現代の犯罪は、点はあるけれど線が結べない。ましてや面が展開できない。……かつての犯人達は、内面の軌跡、内面と社会の間の葛藤があった。80年代で失われるのは、この内面。内面が空洞化してしまう。
▽12 本田さん 自分の体験を他者たちにつながるものとしてとらえている。……宮崎勤事件もオウムも、物語ではなく、物語の残骸だと思う。麻原のような五流の詐欺師になぜ最高学府を出た連中がだまされたのか。歴史観の欠如ということが決定的に大きいのでは。
……北一輝などは麻原などと比べ物にならない一流の詐欺師だった。世界最終戦争論の石原〓爾もそうだった。そういう人間のことを学んでいれば、麻原ごときにだまされなかった。
歴史意識が変わるのは70年代後半ぐらい。日本が豊かになる一方で、町にはまだ傷痍軍人がいた時代。
メディアが、本田さんがやろうとした路線と決裂してくるのが70年代。社会の「窓」ではなくむしろ「壁」になっていった。
▽14 新聞の言葉は完璧に大文字言葉になった。かすかな社会の窓として、本田さんや黒田清軍団の取り組みがあったが、窒息する以外なかった。
▽15 彼が描いた「戦後」は、高度成長ともちがうし、戦中ともちがう。そこにあった人々の経験には、その前の時代と後の時代を共に相対化させるだけの何ものかがあったのではないか。
▽16 新聞にもテレビにも雑誌にも怒りがないんです。異議申し立てがない。……記者というのは言葉にできない現場を歩かなければならない。悲惨な水俣の現場を見たら、誰も活字にできない。でも活字にしなければ悲惨な状態は伝わらない。その苦しい自問自答が記者を鍛えるんです。
▽19 歴史的な軸を奪還する技術としてデジタル技術はかなり有効なはず。
〓「私戦」(キンキロウ事件)「村が消えた」「親米と反米」(吉見俊哉)
□野村進
▽23 「調べる技術・書く技術」……「単行本がマイルストーン」と本田さんは言った。「書くものはすべて単行本に結びつけたいよね。……どこかで単行本につなげていきたい。だから、仕事を選ばないとね」(フリーでなくても〓)
□筑紫哲也
▽
「体験的新聞紙学」
□渡瀬昌彦
▽40 落合博光との対談。
落合 「これからはいろんな配慮をしながら生きて行かなきゃいけないかなっていう反省もあるしね」。
本田 「いまさら常識人になってどうする! 悪役をやり続けるのがしんどいのはよくわかる。しかし、正論を吐き続ける落合だからこそ、人はあなたを支持するのだ。甘えてはいけない。あなたには凡人にはない、得難い資質をもっているのだから」。それに対して落合は、絶句し、うっすらと涙をにじませて1分以上絶句し、本田さんに対する物言いと態度がそこから一変した。
□本田早智
▽44 惨憺たる病気だが、明るく過ごしてくれた。今日で駄目かもしれないというタイミングが何度もあった。その度に「どうもありがとう。お世話になりました」ってお礼を言い始める。「……嫌なこといっぱいされたけど最後にありがとうって言われたら、良かったかなって思うじゃない。だから、言わないより言ったほうがいいんだよ」
▽48 「戦後」という時代を忘れてもらいたくない、その原点を忘れると色々な面が崩れてくる。……作品を残して、若い方に読みつづけていってもらいたい、という思いが強くあったようですね。
▽51 片足を失ったときも、まず言ったのは、「頭が残された、ありがたい」でした。要するに本田は、書くことしか考えてなかったんですよ。
□山谷ルポ
▽59
□政治的「政治記者」の体質
▽72 世の中にウソはつきものである。だからこそ、一人一人が新聞記者であると思いこむためには、ある種の精神主義に傾かざるを得ない。企業体としての新聞社はそんなものだと認めた上で、記者である自分は、いささか違うのだという、ちょっと世間一般には通用しかねる思いこみがそれである。
□大谷昭宏
▽79 「あばら家にびっくりしただろ。ジャーナリストやノンフィクション作家にはこれで十分なんだ」
□鎌田慧
▽83 「村が消えた」満州に弥栄村を建設。敗戦後、青森の山林に入植。その彼らを「国内侵略戦争」とでもいうべき、高度成長経済政策としての開発だった。
▽84 ……反対闘争に立ち上がるべいはずの開拓農民自身が、かつての「満人」の土地を収奪したと同じ形で、いま独占大企業に土地を収奪されようとしているとは……
□松本大介 さわや書店(岩手) 書店ジャーナリズム
▽91 2005年に「誘拐」を平台の山の中央に展開し、「これほど魂を揺さぶられる本には今まで出会ったことがない」などとPOPを書いた。ベストセラーに戦いを挑み、己が惚れた作品を1人でも多くの読者へと届けようとした当時の私の姿は、書店ジャーナリズムであったと言えないだろうか。
□武田徹
▽99 「評伝 今西錦司」 新聞社の科学部は社会部から枝分かれして生まれたが、そのへそのを切って社会的文脈を無視して科学的情報を扱いがちだ。そんな状況のなかで本田は泥臭く科学者の人間性に迫る。新聞報道のあるべき姿を目ざす本田の格闘があった。
「警察回り」 腕自慢の記者たちがそろいもそろってバアさんの嘘にだまされていた事実を書く。報道の「無謬神話」を脱構築しようとする意図を感じる。
□魚住昭×元木昌彦
▽105 「誘拐」では、被害者側からも犯人側からも見る。今のノンフィクションはどちらか一方の側からしか書かれていない。両面から書く、それが本田さんの持つ豊かさ。
「戦後の巨星 二十四の物語」
▽108 「みんなで正力コーナーを拒否しよう、辞表を揃えて徹底抗戦しよう。みんなで記者会見をして読売は間違っていると世間に訴えれば、きっと他誌も取り上げてくれる」って言ったら、他の記者たちに、生活がかかっているのに辞表を揃えるなんてと窘められた。
相手の取材先に行ったときも、紅茶はいただくが、コーヒーはいただきませんというルールを自分に課していた。
▽110 自分が取材をし記事を書くことで世の中を良くしていくんだという新聞記者の気概を、今の記者はほとんど感じていない。固定化された視点から離れて、自分一人で身の危険を冒し、世の中の仕組みを少しでも良くしようという仕事が本来の記者の仕事だったはず。……本田さんの「黄色い血」キャンペーンのような熱意なんてわいてこない。
ジャーナリズムはまず精神的なやせ細りがきて、その後に土台の経済的なやせ細りがきた。……この二重のやせ細りの中、自分たち自身が難民化しているからこそ、見えてくるものがあると思う。安穏とした立場からは見えないものを書いていく。そこから自分たちの活動する場を作り直していかなければいけない。
「お仲間たちは、痛い目に遭わないとわからない。……」
▽112 「私のなかの朝鮮人」では、朝鮮学校の話が出てくる。高校授業料無償化の対象から朝鮮学校が排除されたことを、本田さんなら怒り狂ったと思いますよ。……新聞記事の中から「これはおかしい!」という声は出てこない。
本田さん「差別構造は日本人の手によってつくられた。『在日朝鮮人問題』は疑いもなく『在日日本人』の問題なのである」
□黒田清と本田対談
▽120 高校で生徒会長とかやって、民主主義をもっと進めたいと。それにはどういう職業があるかといったら、新聞記者だと思った。私はよくもわるくも戦後民主主義教育の申し子なんです
▽122 新聞記者の名刺を出せば会ってくださるとか。これは何かやってくれよという期待。一個の人間に戻れば、怠惰だし意気地もないしスケベだしね。だけど生身のレベルで自分を許したら新聞記者という職業は成立しないですよ。
新聞記者をやったという証が自分も欲しかった。このまま辞めたんじゃむなしいだけだけど。ぶつかったのが「売血問題」ですよ。
▽124 社会に対して何をやってきたかっていうことが、まず第一義的にとわれなきゃ行けませんね。大阪社会部に残ったお仲間たちに問いたいですね。どういう熱いものが内側にあるのか、何をしようとしているのか。一人一人がまずそいつを問うてもらいたい。〓〓
記者という仕事。体も命も張らなきゃいけないと思いますよ。それにはまず社内的に張ることじゃないですか。だって社内では命取られないんですもん。命も取られないところで闘わないのが、命取るっていう勢力とどうして闘えますか。
▽126 戦いは、正面からぶつかって果てるだけじゃない。たとえば新聞で書けないんであれば、ほかのメディアに渡すとかね。
一番怖いのは、朝日がテレビに出る場合朝日系列だけで、雑誌なんかは上に報告してというふうな規約みたいな内規を作って回している。あれやられると絶対ダメなんですよ。みんな後ろ向いて仕事するからね。どうせできないんだというような新聞記者がいっぱい出てきよる。〓〓
▽130 黒田 書くのは楽しいいうか怖かったし、書くとあくる日新聞見るの怖かったし、ものすごう臆病ですからね、これでええのかな、これで本当なのかなとかね。
▽133 だけど社会部記者は胸張って生きてほしいですね。ほかから全部「あいつはなんだ。何を心得違いしてんだ」って言われたって、ある種の殺気をはらんで自分のテーマをやるとかね。
□辻井南青紀
□和多田進と対談
▽143 ノンフィクションで書き下ろしと取り組みますと、家庭の経済状態は惨憺たるものにならざるを得ない。
▽144 書き手がいかに熱心な取材をしたかという面で評価される傾向があるが、書き手がそれだけに満足していると、その延長線上に立ち現れる人間はいつもやせ細ってひからびているということになりかねない。
▽人間が描かれていない作品は読者に訴えかける力がない。
▽146 ……私には自分の考えている道筋で書くことがいくらでもある。年配者が集まるいくつかの店でかろうじて声がかかる流しみたいなものです。精々昭和35年くらいまでの歌しか知らないわけですから。
▽147 今の若い人達は人間に対してやさしいですね。それは社会全体の進歩なんだが、人によりやさしくあるためには、自分がより強くあらねばならない。弱い者同士のやさしさでは、時代状況にからめとられてしまうという心配がある。
▽150 本多勝一さんが、田舎でイモを作っている。どういう状態になっても自分はイモと野菜をつくっていけば食えてしまう。まず俺はそれをやると。言いたいことを言い、書きたいことを書くには、最悪の状態を用意してでなければだめだという状況になっている。
▽151 いま新聞に問われているのは社内民主主義です。でも、新聞記者もしょせんサラリーマンで弱いなあという、よくある話になってしまって……
読売が悪い方向に進んでいると思うなら、ひそかに私のところにひりひりした情報を持ち寄って「お前書け」と言えば私は書きますね。でもこれまでだれも現れない。
▽152 人間に即して歴史の流れの中で人間を捉えるというのは、自分に課しているところで、……幅はこれでいいのか、方向は間違っていないのか、といつも不安にさらされていなければならない。
□五木寛之と対談
▽160 俺はこれだけ頑張って取材したということに力点が置かれすぎると、描かれた人間がみな痩せこけていたりいびつになったり、精気がなくなってしまうんですね。
□虫眼鏡でのぞいた大東京
細かな取材。銭湯の風景。……
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