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日本の農村 農村社会学に見る東西南北<細谷昂>

■ちくま新書202403
 南北朝時代以来つづいてきたとされる「村」が今、消えようとしている。能登半島地震は「村の終わりのはじまり」ではないかと思える。
 「村」はそもそもどうやって生まれ、存続してきたのか? そんな疑問をもって本書を手にした。学者の本だから細かすぎて読みにくい面もあるが、いくつか発見もあった。
 「自然村」とは一般に「部落」あるいは「大字」をさす。江戸の村が町村制によって合併され、身近な農家集団を村と呼べなくなったため「部落」と呼ぶようになった。ただ江戸時代の村も完全な「自然村」ではない。農民たち自身のまとまりを利用しながら、支配・行政の単位として村を置いた。
 開拓時代が終わるなか、幕藩体制は、既墾の水田を基礎に、農民に安定的に年貢を納めさせるため、一子相続によって農家を安定させようとした。
 庄内地方?では、元禄前後の時期に、近世初期的な、従属民の労働力による粗放な大規模経営から、家族労働力を中心とするようになった。庄内では、17世紀半ばから18世紀半ばまでに、日本的意味での「家」がはじまったのだ。
 「小作労働者」から「百姓」へ、「家族農業」は先端の生産様式だったのだ。明治以降大規模化が志向されたが、今ふたたび環境と共生できる農業のあり方として「小農」に焦点があてられている。
 一般に村にかかわるのは神社で、寺は「家」にかかわる。寺は集落を越える檀家によって構成され、神社はその土地の「氏神」だからだ。
 明治以降、自然村の閉鎖性をくずすうえでもっとも力を発揮したのは小学校だった。自然村のなかで育った子どもを相互に交流させ、より広い世界に目を開かせる役割を果たした。
 地域別では、「同族結合的部落」は「東北型」、「講組結合的部落」が「西南型」とされ、西日本は、「東北型」とちがって一部の有力家が支配しているのではないことが多い。 氏神の祭礼を主催する「宮座」が近畿の村落を特徴づけてきたという。
 一方沖縄は、「地割制度」という「土地の私有が許されない小農制」で、「共産的地割」だった。だから本土のように土地の不平等によって成員間に格差が生じることはなかった。土地の私有権を認められなかったから、財産の相続は二の次で、位牌の相続が重視された。1609年の薩摩藩の侵入によって、貿易国家体制から日本近世的な農業国家体制に移行し、村落・農民支配の強化が村落社会形成の原因になった。
 鹿児島地方も沖縄に近い。土地財産を均分に分割するため、世帯分離した兄弟間での格差がなく、「家」が成立せず、屋号が存在しない。鹿児島の家族・親族構造は系譜的関係が弱い東南アジア社会との共通性があるという。
 「大家族」は東北だけでなく、岐阜県白川村の合掌造りの萩町地区などにも存在している。
 だがこの地域の大家族は、江戸以前ではなく、明治30年代にピークに達した。なぜ大家族が生まれたのか。
 「硝石=焔硝」火薬につかう硝酸カリウム(焔硝)生産は、原料となる野草の採取に大量の労力を必要で、家屋の床下で生産するため、規模の大きな家屋を必要としていた。
 さらに、生糸が輸出産業の花型になり養蚕が盛んになると、女性の労働力が必要とされ、明治30年代の後半には「ツマドイ婚」の母子をはじめとする傍系成員を大量に抱えこみ、家の膨脹がピークに達した。
 高知県仁淀村の戸立集落では、田畑への植林によって「田畑と家屋がスギに食いつぶされる」と危機感をいだき、田畑への植林を集落で禁じたという。熊野地方では、田畑がやぶになるのを防ぐため、あえて植林した。そのちがいがどこから生まれるのか、調べてみたいと思った。

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▽29 石神 昭和15年、大屋の漆器業の廃業、大家族も解体され・・・
▽28 江戸の村が町村制によって合併されて、これまで慣れ親しんでいた農家集団を村と呼べなくなってしまったので、それにかわる呼称として部落というコトバ。
▽41 江戸時代の村は、農民たち自身のまとまりを利用しながら、その上から支配・行政の単位としての村を置いた。
▽43 柳田は、農村社会・文化への肯定的理解の上に立っていた。かつての経済学の一部などには、戦前・戦中の農村を「半封建制」の支配下にあるものとして否定的に見る立場があった。
▽47 行政村を単位としながら、「自然村の封鎖性、対外的・敵対的性質をもっとも融解させしめたもの」は、「おそらく小学校」であったろう。
▽63 一般に村にかかわるのは神社である。寺は、むしろ家にかかわる。
▽78 戦国大名領の在郷武士は、有力はものは武士として村落を離れ、そうでないものは「武」を捨てて「村」にとどまり、百姓身分になっていく。城下町に集住した武士は「農」と「村」から離れて、百姓の貢租に依存する生活に移る。
▽89 福武直は、「同族結合的部落」は「東北型」、「講組結合的部落」が「西南型」とした。
▽112 松本は、近畿の村落を特徴づける第1の要因は、「いままで宮座であるといわれてきた」。宮座とは、大字にある「氏神」の祭礼を主催する組織。
▽127 仁淀村・戸立集落 田畑への植林によって「田畑と家屋がスギに食いつぶされる」と、田畑への植林を集落で禁じた。
▽131 沖縄 「地割制度」という「土地の私有が許されない小農制」。「共産的地割」の原則。本土の家のように、家産としての土地はないので、その不平等によって村の成員間に格差が生じることはない。
▽133 長い地割時代を通じて、土地が、私有権を認められてなかったから……財産の相続は二の次。位牌の相続のほうが重視された。
▽154 北海道雨竜村 住民組合と小作人組合、用水組合、三重に組織。
▽169 「大家族」は東北だけでなく、岐阜県白川村も。合掌造りの萩町地区。
 大家族は、明治30年代にピークに達している。大正中期以降に急速に縮小する。
「硝石=焔硝」火薬につかう硝酸カリウム 焔硝生産は、原料となる野草の採取に大量の労力を必要する。家屋の床下で生産するため、ある程度以上に規模の大きな家屋を必要としていた。
 養蚕 城端は、五箇山などから繭を買い集める絹織業の先進地。白川村もこれとつながっていた。
▽184 生糸が輸出産業の花型になると、……女性の労力に対する期待も強まり、明治30年代の後半には「ツマドイ婚」の母子をはじめとする傍系成員を大量に抱えこみ、準複合の家の膨脹がピークに達する。その典型が、……
▽195 鹿児島地方の親族組織の特徴は「家」の不成立。土地財産を均分に分割するため、世帯分離した各世帯間での上限関係がなく、……屋号が存在しない、……分割相続のため兄弟の出征純のステイタスに優劣が存在せず……「鹿児島の家族・親族構造は、……系譜的関係の弱い東南アジア社会との共通性があり……」
▽218 庄内の村 17世紀半ばから18世紀半ばまでに、日本的意味での家が始まったと見られる。……既墾の水田を基礎に、農民に安定的に年貢を納入させるべく、一子相続によって農民の家の安定を追究する政策。
▽221 元禄前後の時期に、近世初期的な、従属民の労働力による粗放な大規模経営から、家族労働力を中心とする家の経営として営まれるようになって以降、その労働力の再生産は、少なくとも基本的には、その家の自己責任として営まれるようになっていた。
▽230 家の、同族団の先祖の霊にかかわるのが寺であり、地縁組織としての村にかかわるのが神社なのである。
▽232 近世の村は、一面では支配の側から設定された「行政村」であるとともに、村人の生産と生活のなかで形成された「自然村」でもあった。
▽235 乾田化以前の湿田とは、用水路のみがあり排水路がない。1年を通じて水をたたえている田。乾田馬耕の導入によって、狭小な畦畔はとりのぞかれ、……水田は長方形に改められた。
▽261 「庄内米の流通は、旧藩士団が経営する山居倉庫が大きな力をもち、それに対抗すべく各地につくられた農業倉庫も山居との競争に破れて……」
▽264 「自作農創設は、戦時下の国策であるとともに、時代の趨勢でもあった……」
国策に乗る形で、産業組合運動に転身し、戦後の農業協同組合を準備した。(庄内)
▽271 戦後すぐの青年たちには、公民館などに開設された青年学級が大きな役割を果たした。……「新生活運動」の名のもとに、まず嫁の小遣いの問題をとりあげ、嫁たちの生活時間や小遣い額、使い道などを調査して……発表。……しかし「村の恥をさらす」と大人たちの抵抗が強く……。そこから「自分たちで実践して成果をみせることだ」と、自分たちの結婚式の虚礼廃止をめざす。会費制による公民館結婚式に踏み切る。(庄内)
▽275 櫛引町の直売所 農協は持っていくだけでいい。売る喜びはない。値段はあちらまかせ。直売所は自由に自分で値をつけられる。……かつての「振り売り」が「直売所」に形変えて,複合経営の新たな展開をはかっているのだった。

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