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農山村は消滅しない<小田切徳美>

■岩波新書240731

 「限界集落」という言葉や、「増田レポート」が「消滅自治体」をリストアップしたことに違和感を感じてきた。一方、そう簡単にムラはつぶれないと、山下氏や徳野貞夫氏は論じる。筆者は基本的に後者の立場である。
 農山村の空洞化は「人・土地・むら」の順でおきてきた。
 高度経済成長期に一気に「人」が流出したが、1970年代の低成長期には沈静化した。だが、出生数よりも死亡者数が多い人口自然減社会が1988年ごろはじまる。
 土地の空洞化は80年代後半以降だ。そのころから「受け手」が見つからない農地が耕作放棄されはじめた。
 最後が「むら」だ。農業集落数は、「ひと」「土地」とことなり1990年までは不変だったが、90年からの10年間でわずかだが減少局面に入った。
 農山村には、世帯数や人口が減っても柔軟に集落機能を維持する復元力がある。だから、高齢化率50%を「限界」と評価するのはまちがいだ。農業集落数は、1970年は14.3万、2010年は13.9万で、3%減にすぎない。
 高齢化率100%ちかくになると「限界化」するが、100%という集落は、過疎地全体の中でも575だけで、過疎地域の総集落数の0.9%だ(2010年)。
 都会にすむ子ども世代でも、バトンタッチして、さらに次世代につなぐことを意識している。そういう強い意志が、集落の強靭性の基礎にある。
 ただ、地震や水害などの災害によって「臨界点」をこえると、急激に脆弱化し、あきらめが蔓延し。わずかな高齢者のみが残る状態となって寄合や共同活動が消滅する。

 能登の具体的集落を思い浮かべ、あそこは臨界点かも……と考えながら読んだ。「いずれはポツンと一軒家やわぁ」と話しているときは、田んぼは「担い手」が耕していた。消滅は「まだ先」のことだった。地震で無人の里になり、農道の崩壊で田植えができなかった。「もう無理かもしれん」となってきた。
 
 過疎対策は、バブル時代の1980年代後半から90年代前半はリゾート開発や民間活力導入といった「地域活性化」だった。
 その失敗から、「内発性」、「総合性・多様性」、「革新性」という特長をもつ「地域づくり」が1990年代後半からうまれた。
 「地域づくり」は、「集落点検」「宝探し」……による地域の価値への「誇り」の回復からはじまる。そのとりくみの範囲は集落の枠を超え、かつての小学校区、「旧村」といわれる明治期の村の範囲であることが多い。
 集落は、すべての家の代表が集まる寄合で意思決定する。参加者は中高年の男性だ。各「家」がむら仕事をになうための「守り」の機能を果たす。新しい広域コミュニティ(手作り自治区)は、個人単位の参加やNPOもうけいれるような「革新性」が求められる。「攻め」の機能をもつ。
 中国地方はいちはやく過疎が進行した。たたら製鉄で、最先端産業地帯だったが、その産業が消滅することで、一気に周辺産業が消えて脆弱な農業しか残らず、人も消えていった。中国地方の脆弱さは「最先端」だったことが起因しているようだ。輪島や中居などの弱さと似ているのかもしれない。一方、空洞化のトップランナーだったが故に「地域づくり」のトップランナーになっている。

 地域づくりを支える制度も急速に整備され、「補助金から交付金へ」「補助金から補助人へ」の流れが生まれている。「地域サポート人材」を導入する画期的制度が08年以降、整備された。集落支援員は地元の地域精通者を想定した。地域おこし協力隊は都市部の若者が多い。
 「地域サポート人材」には、「協力隊」のような非専門家も重要な役割をはたす。中越地震(2004年)の復興過程で導入された「地域復興支援員」がきっかけだった。
 地域への支援には「足し算の支援」と「掛け算の支援」がある。前者はコツコツとした積み重ね。復興支援はまず被災者に寄り添うような地道な支援が重要だ。それをせずにいきなり事業をしかけて(掛け算の支援)しまうと地域は混乱してしまう。そして「足し算」においては実は非専門家が適任ということがわかったという。
 被災集落でまず行われるべきは、人々の復興へ向けた心の準備であり、「諦めてはいけない」ことを共有化することだ。
 臨界点を越え、諦めが支配してしまうのを防止するためには寄り添い型の支援が必要なのだ。
 地域おこしをめぐっては、「地域担当制」を導入する自治体が増えている。三次市の「三次市地域応援隊」制度は、地域内出身職員、地域内外の志願職員、市長により選出された職員をミックスした5人が「応援隊」として地域を担当する。
 田園回帰・移住はひとつのトレンドになりつつある。中国地方の過疎地域の4町が2012年に人口の社会増を実現した。定年退職者のUターンだけでなく、若者や家族連れも増えている。
 95年以降の10年間で非正規雇用が50%も増えていることが背景にあるが、協力隊などの仕組みが移住のハードルを下げる役割を果たしている。

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▽2 「増田レポート」が「地方消滅」を言い、世間に衝撃。2040年の人口を推計し、現状から半分以下になる市町村を「今後、消滅する可能性が高い」とした。2040年推計人口が1万人以下の523市町村がリストアップされ「消滅する市町村」と論断されている。
▽7 「消滅市町村」「消滅可能性都市」の公表を媒介として、特定の地域への撤退のすすめとして、機能しはじめている。
▽17 農山村での3つの空洞化。「人・土地・むら」
人:高度経済成長期一気に流出。1970年代の低成長期に入り、雪崩のような人口流出は沈静化。
 だが、出生数よりも死亡者数が多い人口自然減社会がはじまる。1988年のこと。
土地:1980年代後半以降。受け手が見つからない農地が耕作放棄地化。
むら:1990年代初頭から。集落機能の著しい停滞。
 むら(農業集落数)は、先行する「ひろと」「土地」にもかかわらず、1990年まではほぼ不変数だったのが、1990年からの10年間でわずかながらも、ついに減少局面に入っている。
▽24 過疎という造語が生まれたのは1960年代前半の島根県石見地方。
▽27 農山村には、状況に柔軟に対応して、(世帯数や人口が減って)低下した集落機能を元に戻す復元力が存在している。「高齢化率50%」を「限界」と評価してしまうこと自体が誤りである。日本の農山村集落の強靭性という最も基本的な特質を見逃している。集落は「どっこい生きている」のである。
▽29 集落機能は、あるときから急激かつ全面的に脆弱化しはじめる。……集落の真の「限界化」はここから始まる。それを「臨界点」と称している。……この段階になると、住民の諦観が地域の中に急速に広がっていく。……この臨界点は、水害や地震などの自然災害をうけて生じることが多い。「収穫の喜び」を無にする鳥獣被害もその契機となり得る。
 さらに進むと、集落内にはわずかな高齢者のみが残る状態となる。寄合はなくなり、すべての共同活動が消滅する。
……集落空洞化のプロセスの中で強調したいのは、むしろ集落の強靭性である。
……高齢化率100%ちかくまで……進むことにより集落には「限界化」がもたらされることは確かである。しかし実は100%という集落は、過疎地全体の中でも575集落しかない。過疎地域の総集落数の0.9%にすぎないのである(2010年調査)
▽36 今はこの集落に住まない後継者でさえも、地域をバトンタッチして、さらに次の世代につなぐことを意識している。集落の強靭性はこのようにして維持されている。
……集落の持続性を具体的に担保するのが、他出した後継ぎ層の存在である。
▽41 農山村主上悪は基本的には強靭で、強い持続性をもっている。……その基礎には、地域を次世代につなげようという農山村家族の強い意志がある。
……他方で、集落には「臨界点」もある。……その直接の引き金は、しばしば水害や地震などの自然災害。次世代に地域をつなげようという農山村家族の強い意志が、その強いインパクトにより「諦め」に変わることにより起こる現象であるように思われる。
▽43 集落対策には、厳しい現実の中で「どっこい生きている」という実態と、しかしそれがいつ変化するかわからないという強い警戒心、そしてそれを前提とした速やかな対応が必要とされている。「希望の光はある。しかし時間の余裕は多くない」のである。〓(水田さえ持続できたら。シイタケさえ。生業を守る)
▽50 バブル時代の1980年代後半から90年代前半は「地域活性化」。リゾート開発、民間活力導入といった地域開発の目標として登場した言葉。
 上記の反省のなかで論じられたのが「地域づくり」。地域振興の「内発性」、「総合性・多様性」、「革新性」
 2000年代に入ると、「地域再生」という言葉も急増する。「聖域なき構造改革」が吹きあれ、「地域切り捨て」が進められた時期。
▽59 智頭町の「ゼロ分のイチ村おこし運動」 集落ごとに。
 ……合併しない道を選択した。「ゼロイチ」の過程で育った人材が活動をになう。
▽72 最近では、突出したリーダーに依存する地域づくりは、世代交代がうまくできず、持続性の点で難があると言われている。
…… 「誇りの空洞化」をのりこえるため、地域の歴史や文化、自然にたいする価値観が「暮らしのものさし」。これをつくるには、公民館活動の再評価が重要。
「地域づくりワークショップ」とは……「集落点検」「宝探し運動」……。地域点検とその地図による「見える化」→課題の整理と共有化→地域の将来像の確立→地域内での中間報告会の開催……
▽78 「地域づくり」という言葉が盛んに使われるようになった1990年代後半から、取り組みの範囲は集落の枠を超えることが多くなってきた。その単位は、農協や役場の支所があったかつての小学校区であり、しばしば「旧村」と言われる明治期の村である。
……集落は「守り」、広域コミュニティは「攻め」の機能を果たし……
 集落の意思決定は、すべてのいえの代表者が集まる寄合で決められることが普通。寄合参加者は、大多数が中高年の男性。集落のもつ「一戸一票制」の弊害である。他方で、むら仕事の運営には、それぞれが責任をもって、ほぼ全戸による出役が可能となっている。
 新しい広域コミュニティには、個人単位で参加できる仕組みや、かかわろうとするNPOなどもうけいれられる仕組みをもつような「革新性」が求められる。
 暮らしの仕組みを維持・発展させるソフト条件として、既存の集落組織に加えて、積極的な取り組みを行う新しい組織(手作り自治区)が求められ、そこに地域住民が性別や世代を超えて参画することが期待される。
▽84 地域資源の発掘→保全→磨き→利活用 というプロセスがひとつの物語になって商品に埋めこまれた時には、消費行動につながる可能性が高まる。
▽86 旧十和村の地域づくり会社「株式会社四万十ドラマ」……「小さな経済」が、若者の就業を実現する「中ぐらいの経済」をつくりあげるというプロセスが生まれている。
▽90 農家民泊のさきがけとなった旧安心院町(宇佐市)では、ゲストのリピーター率は高い。「行きつけの農家を作ろう」
▽ 山口市仁保地域
▽99 道路開発のため、地域内部で用地交渉をすることで迅速化。
 ……最奥の山間部の路線からの整備。「条件が不利な集落から整備する」
▽104 広島県三次市青河地区
 三次市では、1市4町3村が合併。その際、19の住民自治組織が設置された。青河自治振興会は、なかでも人口483人であり、市内の振興会でもっとも小規模だった。
……輸送サポート 週3回、それぞれの目的地と青河地区の間を3往復。デマンド交通。
……住民出資会社による住宅整備 小学校を守るため。
……空き家 も貸し出ししやすいように……墓参りにくるときはコミュニティセンターの宿泊を提案。仏壇などは会社が保管。修繕費も会社が負担。会社経由で移住者に貸し出す。
▽113 岡山県津山市阿波地区 阿波村は岡山で一番小さな村だった。
 合併後、阿波小学校が閉校。農協の営業所も撤退。スタンドも閉鎖。市役所支所は出張所に格下げ。→住民が立ちあがる。
▽121 木の駅プロジェクト 間伐材を「駅」にあつめ、1トンあたり5000円相当の地域通貨と交換。チップに粉砕し、「あば温泉」のボイラー用に販売。
▽123 中国山地は空洞化のトップランナー
①都市との近接性 ②集落の小規模・分散性 ③農業の零細性
①のために工業地帯にむけて次々に離村。
②「たたら製鉄」により、関連産業が中国山地に立地し、山襞の最奥まで集落を形成した。たたら製鉄は大正末期には消滅。
横田町では、1915年の町全体の農外収益は、鉄→そろばん→繭→清酒→板材→生糸の順で、そろばんは農業収益の倍であった。
 戦後、燃料革命や木材輸入自由化……によって多様な地域産業が一気に衰退した結果、本来大きな割合を示していなかった農業セクターだけが裸で残されることになった。これでは食っていけない。そのときに高度経済成長がおこえい、臨海工業地帯を中心に旺盛な労働力需要が生まれた。離農と離村は雪崩のようにはじまった。
▽132 市町村合併も大規模。それにともなって、住民自治組織・地域自治組織の設立もすすむ。
▽145 「内発性」「総合性・多様性」「革新性」という地域づくりの本質的要素の充実を促進するころに役立つ鳥取県や智頭町の支援制度。
▽149 「地域サポート人材」を導入する画期的制度が08年以降、急速に整備された。 集落支援員は地元の地域精通者を想定して構想。地域おこし協力隊は、多くが都市部の若者。
▽149 自治体職員は、「地域マネジャー」として地域の組織・団体や個人に対して、「カネ」「モノ」のみならず、「情報」「人」を直接提供したり、それらのネットワークへの接続機会を提供したりすることが要請される。
「地域マネジメント型行政」の代表として、「地域担当制」。導入する自治体が増えている。三次市は2014年に19の市内住民自治組織を応援する「三次市地域応援隊」制度をスタートさせた。地域内出身職員、地域内外の志願職員、市長により選出された職員をミックスした5人が「応援隊」として地域支援に対応。
▽155 村上市のNPO「時岐沙羅パートナーズセンター」……起業や活動支援。……助成を受けた団体の活動の活発化にとどまらず、審査会や報告会を通じたネットワークによより、新しい起業活動のスタートにもつながっている。……「支援事業の最大の成果は民間側の「地域づくりの担い手」を地域内各地に生み出したこと。
▽160 「地域サポート人材」には、専門家と、非専門家の双方が必要。非専門家の必要性を問題提起したんおは、中越地震(2004年)の復興過程で導入された「地域復興支援員」の仕組み。……地域おこし協力隊の制度設計時にひとつのモデルに。
……地域への支援には「足し算の支援」と「掛け算の支援」がある。……前者はコツコツとした積み重ね。……「それでもこの地域で頑張りたい」という思いを掘り起こすようなプロセス。掛け算の支援は十分な「足し算の支援」の後にはじめて実施するべきもの。
 ……復興支援とは、まずは被災した人々に対して、寄り添うような地道な支援が重要。それをせずに有力者だけの意見を聞き、いきなり事業をしかけてしまうとむしろ地域は混乱し、衰退がより加速されてしまう可能性がある。……「足し算」では、実は非専門家が適任者。
▽164 被災した集落でまず行われるべきは、地域の人々の復興へ向けた心の準備であり、「諦めてはいけない」ことを集落レベルで共有化することである。
……臨界点を越え、諦めが集落を支配してしまうというとき、それを防止するために必要なのは寄り添い型の支援である。
▽166 十日町市池谷集落 奇跡の集落。被災から3年後、共有する目標がうまれ、今までは寂れたとしか思えなかったのが、「小さくてまとまりやすい」と感じるようになっていた。
……第一段階は、外部サポート人材が寄り添う段階。それによって、あきらめるのではなく「何とかなる」と支えられた。第2に「集落を残そう」という地域住民の共通目標をつくり出す瞬間。こういう瞬間が「足し算」から「掛け算」への転換タイミングだった。
▽181 田園回帰 中国地方の過疎地域に、2012年に人口の社会増を実現した自治体が4町。=周防大島、飯南、美郷、海士。
「定年退職者のUターンに加え、近年は若者や家族連れが都市部からI,Uターンする動きが目立つ」
……島根県の中山間地域の基礎的な218の生活圏単位のうち73エリアで、2008から2013の6年間に、4歳以下の子どもの数が増えた。
▽184 鳥取県内で、移住者の人口対比での発生割合が一番大きい日南町。「まちは大きなホスピタル」「まちの道路は病院の廊下」町立病院を中心とする医療・福祉サポートの充実。町独自の農林業研修生制度。
▽187 36歳の十日町市への移住者。なにかを教えようと思っていたが、むしろ田舎のおやじやおばあちゃんは知恵をいっぱいもっていることに気づく。いろいろ手伝っているつもりだったが、実際には、力になれるようなことは1%もないと思いはじめた。……ここの人たちの暮らしの技術の高さに驚嘆した。……古民家の改修もお世話になった。「地域おこし協力隊」だけど、お世話され続けた。
▽192 移住相談 20−30歳代がめだつ。……移住後の職業も、従来は専業的農業就業をめざす者が多かったが、……農業を含めた、いわゆる「半農半X」が多数をしめる。
……協力隊という仕組みが、移住のハードルを下げる役割を果たしている。
▽195 孫ターン=「1世代飛び越し型Uターン」 祖父母の居住地域に「戻る」
……2005年現在、移住者が圧倒的に32歳前後が多い。……派遣・パートが大幅に増加し、95年以降の10年で、非正規雇用は50%も増え……正規雇用は10%減少。若者たちは、農山村へ。
▽200 積極的に移住者をうけいれる邑南町。
……協力隊に役割をあたえる。「耕すシェフ」「耕すあきんど」(観光案内所の運営)、「アグリ女子隊」(香木の森の研修をリニューアル)
……「定住支援コーディネーター」
「日本1の子育て村づくり」……社会動態がプラスに。児童数を増やす学校も出てきた。
▽208 那智勝浦町色川地区の原和男さん 1977年に5家族が移住、彼らが、その後の移住者の世話役として機能……地区の396人中177人が移住者に。
▽216 2010年現在の農業集落数は約13.9万集落であり、1970年の14.3万集落と比較して、3%の減少にすぎない(農林業センサス〓)
……農山村集落は著しい強靭性をもつと言えよう。
他方で、強靭性が急速に「諦め」に転化する集落の変動過程も明らかに。「臨界点」があり、自然災害などがその引き金となっていた。集落とは「強くて弱い」存在。
「地域づくり」で重要なのは、「内発性」「総合性・多様性」「革新性」。この動きを意識的に試みた挑戦が、鳥取県智頭町の「日本ゼロ分のイチ村おこし運動」各集落がそれぞれ特色をひとつだけ掘り起こし、外の社会に開くことによって、村の誇りづくりをおこなう。
……中国山地に活発な取り組みがみられる。「過疎」という言葉が生まれたように、空洞化が先発的に進んだ。それに抗する地域づくりも先発した。「解体と再生のフロンティア」
 地域づくりを支える制度も急速に整備。「補助金から交付金へ」「補助金から補助人へ」
 ……都市からの人口移動が「流れ」として認識された最初は1990年代であり、……地域おこし協力隊などの政策支援により弾みがつき、東日本大震災の衝撃をうけて大きく飛躍した。
▽224 増田レポートを契機とした「農村たたみ」の議論。「コンパクトシティ」の議論が援用される……しかし、欧州では「コンパクトシティ」の概念には農村からの撤退という要素は含まれていない。
……日本では、国の財政負担の軽減による効率化を目的とする議論であることが少なくない。そこでは「規制緩和」が提言される。欧州では、社会全体としての「脱成長」や「成熟社会化」とセットで議論されることが多い。
……「財政が厳しいなかでそんなところで住むことはわがままだ」と、財政窮乏化を論拠とする。人々の居住範囲を財政の関数として捉えるという発想であり……歯止めをかける論理は存在しない。東京圏以外のどの地域に人が住むことも不合理とされてしまうこともあり得る。この発想の根源には「国民は国家のためにある」という本末転倒の価値観がある。
▽227 集落にすみつづけ、地域に深い愛着を感じ、そこを「終の棲家」として生きぬこうとする人々。農山村の強靭性は、彼らの意志と努力によって維持されてきた。

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