■警察回り <本田靖春> 新潮文庫 20100611
「バアさんが死んだ」という書き出しではじまる。バァさんというのは、警察回りの若い記者たちがたむろった、上野にあったトリスバーのママである。当時は30歳代だったが「ばあさん」と記者たちは呼んだ。
そこには筆者や朝日の深代淳郎らがいた。当時の新聞記者は人気職業できわめて高収入だ。毎晩のようにバーやキャバレーなどをはしごし、朝まで飲み、女の子と遊び、ストリップ劇場では踊り子たちと一緒に風呂に入り……バァさんのアパートに女の子たちとなだれこむ。
警察もあげっぴろげだ。宿直室にいっしょに泊まり込み、留置場にも出入りする。ちなみに1990年前後にはごくたまに取調室に入れてくれることはあったが、今は刑事部屋にも入れないという。
人と人が近くて、遠慮がなくて、貧しいけどあたたかくて。そんな戦後の記者の時代を「人生の放牧期」と筆者は呼ぶ。
バーには100人以上の記者たちが出入りした。高度経済成長がはじまるころ、立ち退きにあってバーは消えるが、バァさんは、かつての常連記者の家や職場を訪ねる。遠慮もなにもない。身内みたいなものだ。
バーの常連のなかで、ずば抜けて頭が切れたのが深代淳郎だった。実はばあさんの部屋で女の子といっしょのふとんにもぐりこむ本田らがうらやましかったのだが、それを口にせず、クールを装い一歩引いていた。天声人語の筆者になり、社長候補と目される。ばあさんの最大の誇りだったが、白血病で夭逝する。
バァさんもがんで死ぬ。後には5冊の大学ノートが残された。生前、深代から「バーの歴史を書け」と言われてつづっていたメモだった。そのメモを元に筆者らの青春を再現したのがこの本である。
青春へのレクイエム。個人の青春ではなく、「戦後」という若い時代への弔鐘である。バァさんの死は、貧しいけれど自由と希望にあふれていた「戦後」の終わりを象徴していた。
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▽16 晩年のばあさんは、夜中に電話をよこす。3時間半に及ぶことも。
▽18 15年ほど前に最初の妻と離婚して、子どもを引き取った。そのときはフリーになりたててで……。
▽39 ある有名女子大のアンケートで「理想の恋人」のトップに新聞記者があげられた。記者は花形の職業だった。私たちは一種の特権的地位に甘えていた。……戦後民主主義の昂揚期に指導的役割をつとめた余熱をまだ保っていた。言論の担い手である自信と、それに裏打ちされたゆとりがあった。旧制高校を「人生の放牧期」といった人がいるが、さつまわりも似ていた。
▽48 右翼とのやりとり
▽76 昭和30年、保守合同。ここに始まる自民党一党支配の長期化と軌をいつにして、社内における政治部の比重が高まっていく。高度経済成長につれて、地味な存在だった経済部が活気を見せてくる。……昭和30年代前半はまだ社会部の時代だった。素朴過ぎるにしても、反権力の気風がみなぎっており、社会部こそ無告の人々を代表しているのだという自負に支えられていた。
▽99 ハッタリと恥と
▽102 がんくびとり カメラのない家庭は珍しくなく、……亡くなった本人の親を訪ねるしかない。……香典袋を買って、焼香して。借りた写真を引き伸ばしてもっていった。霊前用の写真がまだ用意されていなかったからだ。
▽114 昭和30年代後半から40年代にかけて、警察署が次々に建て替えられると、記者クラブは独立した部屋を与えられるかわりに、奥まった場所へと追いやられ、発表制度が徹底する。……朝、警察へ顔を出すと、留置場の中に入って、留置人名簿で新入りを確認し、刑事課へまわって逮捕簿をひろげ、該当する被疑者が取り調べを受けている調室に入り込むなどして確認をとるくらいのことは普通にしていた。警察回りは、署内のどこでも、大手をふってまかりとおっていた。
▽123 エレキへのバッシングが盛んだったとき、猿にエレキを聴かせる。
▽150 「東京の素顔」 加藤デスクの添削。……高級クラブの代金は取材費として精算。
▽162 特殊浴場角海老のチェーンの鈴木正雄 ボクシングジムも開く。
▽181 上野のクラブで唯一の妻帯者が深代淳郎だった。娘の名を「麻矢」とつけた。「麻はいいよ。矢が問題だ」私が名前が書かれた原稿用紙を横にした。「これじゃまるで、腕枕して大股ひろげてる感じだろう。女になったとたんにやられちゃうよ」
▽190 ポンちゃんは、つきあっている女性がしつこくなるとつれてくる。そしてバアさんの色男のような振りをして、まず私を「素子」と呼び捨てにし、「しばらく寄りつかないでごめんな。元気だったかい」と如何にも優しそうにやり出す。……そのうち女性は「私帰るわ」と出て行く。そこでポンちゃんはニヤリとして「一丁上がり」と言う。
(……悪い奴)
あのころの本田氏は飛行記者だったかも知らん? 深代氏は生真面目で彼と対照的だった。……
▽208 山谷 収入に限るなら、浮浪者どころかサラリーマンでは望めないほどの稼ぎをしている人たちも少なくない。そういう人たちが集まるところだけを歩いていたのでは、山谷の奥深い部分は見えてこない。表通りから一歩裏へ入ると、そこに廃人同様の常習売血者がうようよいた。
▽215 黄色い血キャンペーン 7月中旬までの2ヶ月間に朝・夕刊合わせて72本の原稿を書きまくった。
▽219 大蔵主計局次長に予算を出すよう直談判。「私はこれまで、厚生省に向かって72本の原稿を書いてきました。これから社に帰って、大蔵省は献血の敵だという原稿を72本書きます」
▽224 私は「黄色い血追放」キャンペーンを進めながら、「献血100%」のゴールが見えてきたところで社を辞めようと決心していた。社と訣別するにあたって、何か1つ社会部記者であった確かな証が欲しい、というあがきの産物だった。(〓大橋川?)
▽233 バアさんの家に泊まる。「いったいポンちゃんと何人の女性が私の処に泊まったか、17人まで思い出しましたが……」……実は深代も泊まりたかった。「僕の心残りはバアさんが泊めてくれなかった事だ」……今思えば、彼も女性達と雑魚寝したかったのだ。(京都乱脈)
▽266 ソガの立ち退き問題も、戦後が終わりに近づき、次なる高度経済成長の時代へと移行しようとするはざまに起きた典型的な例といえるだろう。
▽281
▽284
▽302 深代淳郎の死 白血病。奥方のM子さんと別れてY子夫人と再婚していたことなど知らせてくれた。離婚も再婚もまわりの人たちは皆初耳だったのです。
▽375 死後、バアさんは台湾人だった……と。
▽385 通夜の日、……並べて敷いた布団は人数に足りない。私は高木夫人に声をかけた。「節ちゃん、久しぶりに一緒に寝ないか」「そうね」菊屋橋のアパートでの夜が、20数年ぶりに再現されたのである。「ババァ、目をつぶってるんだぞ」 私は遺影を見上げながら、みんなに聞こえるようにいった。
▽394 ……確かなこと、それは、バァさんとともに、私たちの「戦後」は完全に過去のものになったということだけであった。
▽解説は黒田清
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